善戦したというべきだろう、ブラジルをあいてに1-3。
ブラジルは、これまでだと、ゆっくり試合をはじめ、
ここというときだけギアをあげるプレーがおおかったけど、
チッチ監督にかわってからは、守備と攻撃に、
全員が連動してうごきまわるようになった。
ボールをうばうと、すぐにトップスピードでのカウンター。
ますますスキのないチームになった印象だ。
ブラジルは、もちろんうまかったし、
とくに前半はスピードがはやく、
ファールでしかとめられなかった。
とはいえ、日本の3失点のうち2点はPKがらみで、
完全にくずされたのは1点だけだ
(あいてのミスにもたすけられたけど)。
この試合では、ビデオアシスタントレフリーが導入され、
あやしげなプレーについて主審がビデオをみて確認する。
1本目のPKは、このビデオアシスタントレフリーによるもので、
もったいない失点だった。
後半は、日本のプレッシャーがよくきいて、
攻撃のかたちをつくれていた。
それだけに、前半だけで3点をうばわれたのは くいがのこる。
槙野のヘディングで1点をかえしたあとも、
追加点をねらってせめつづけたし、あわやというプレーもあった。
もうすこし運が日本に味方してくれていたら、
あんがいいい試合になっていたのでは。
でもまあ、そんなグチをいってもしかたない。
日本はこれまでにブラジルとなんども試合をしてるので、
リスペクトしすぎることなく、普段着のプレーができていた。
10回やって1回かてるかどうかのあいてなのだから、
今回は、その1回ではなかった、ということなのだろう。
後半から乾がはいったけど、あまりボールにさわれず、
攻撃にからめなかった。
試合のはいりかた、乾のいかしかたが、つぎのベルギー戦の課題だ。
ネイマールには、PKとはいえ、
この試合でも点をいれられてしまったし、
気もちよくうごきまわられた。
ブラジルはネイマールがゲームをくみたてており、
ネイマールにボールがわたると対応がむつかしい。
でも、自分がイエローカードをもらうと、
その直後の井手口のプレーにたいし、
おおげさにいたがって、ピッチをのたうちまわっていた。
ネイマールは以前から役者ぶりがめだつ選手で、
あまりの熱演にうんざりさせられる。
つぎにブラジルと対戦するときは、
なんとかネイマール対策を工夫して、
おおげさにいたがる演技にクギをさしてほしい。
2017年11月10日
2017年11月09日
貯蔵がなかった時代のシンプルなくらし
トランプ大統領の韓国訪問にあわせ、
3隻の原子力空母が朝鮮半島ちかくに展開したという。
わたしの関心は、これらの空母が、
北朝鮮への圧力となったかどうかではなく、
それぞれの空母にどれくらいの兵士がのり、
彼らが生活するのに必要な資材を
どう調達したらいいのかという、具体的な対応方法にある。
職場の同僚にはなしたら、空母だからヘリコプターや飛行機で、
どーんと補給できるでしょう、といわれた。
たしかに。
でも、膨大な水や燃料はどうするのか。
運行しながら補給できる 給水船やタンカーがあるとはいえ、
しっかりした港が必要な場合もでてくるだろう。
船にのりっぱなしでは精神的にながくつづかないので、
ときには娯楽施設のある港にたちより、うさばらしもしたい。
じっさいの戦闘よりも、そうした補給についてかんがえただけでも、
あまりのややこしさに頭をかかえてしまう。
ちなみに、おなじ原子力空母であるジョージ=ワシントは、
士官・兵員3200名、航空要員2480名と、ウィキペディアにあった。
合計5700名ちかくの人間が、安定した精神状態をたもつためには、
どれくらいの資材が必要なのだろう。
きっと、献立には工夫がこらされており、
栄養にみちて、あきのこない食事が提供されているはずだ。
ジョージ=ワシント号の調理場と貯蔵庫をみてみたい。
なんにんのコックさんがいて、
どれくらいのビール、何キロの牛肉がつみこまれているのか。
必要なニンジンはどこに発注するのだろう。
ものすごくかんがえられたシステムがなければ、軍隊を維持できない。
原子力空母とは、なんの関係もないけど、
何万年ものむかし、人類の祖先が巨大なマンモスをたおしたとき、
大量の肉をどうやって保存したのだろう。
うまく獲物をたおせたとしても、そのあとの解体や保存は
そうとうたいへんだったのでは。
梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』(朝日選書)には、
アフリカのサバンナにくらすティンディガのひとたちが、
カバをしとめたときのようすが紹介されている。
5家族が現場に「ひっこし」をしてきて、
たべつくすまで 腰をすえてたべつづけたという。
たべて、ねむり、目がさめるとまたたべて、
3日後にはおおきな骨以外の すべてがなくなったという。
1965年におこなわれた調査のときでさえ、
保存を工夫するより、たべつくす方法が観察されているのだから、
マンモスをしとめたときの古代人も、
きっとおなじように一族があつまってきて、
たべつくしたのではないか。
食糧を手にいれたときのこうした分配方法が、
たすけあい、わけあって生きていく形で定着したのだろう。
いまさら補給や貯蔵が悪の根源だとまではいわないけれど、
貯蔵技術がなかったころのシンプルなくらしなら、
おおきな戦争など できっこなかった。
貯蔵への工夫は、耳をかしてはならない 悪魔のささやきだった。
3隻の原子力空母が朝鮮半島ちかくに展開したという。
わたしの関心は、これらの空母が、
北朝鮮への圧力となったかどうかではなく、
それぞれの空母にどれくらいの兵士がのり、
彼らが生活するのに必要な資材を
どう調達したらいいのかという、具体的な対応方法にある。
職場の同僚にはなしたら、空母だからヘリコプターや飛行機で、
どーんと補給できるでしょう、といわれた。
たしかに。
でも、膨大な水や燃料はどうするのか。
運行しながら補給できる 給水船やタンカーがあるとはいえ、
しっかりした港が必要な場合もでてくるだろう。
船にのりっぱなしでは精神的にながくつづかないので、
ときには娯楽施設のある港にたちより、うさばらしもしたい。
じっさいの戦闘よりも、そうした補給についてかんがえただけでも、
あまりのややこしさに頭をかかえてしまう。
ちなみに、おなじ原子力空母であるジョージ=ワシントは、
士官・兵員3200名、航空要員2480名と、ウィキペディアにあった。
合計5700名ちかくの人間が、安定した精神状態をたもつためには、
どれくらいの資材が必要なのだろう。
きっと、献立には工夫がこらされており、
栄養にみちて、あきのこない食事が提供されているはずだ。
ジョージ=ワシント号の調理場と貯蔵庫をみてみたい。
なんにんのコックさんがいて、
どれくらいのビール、何キロの牛肉がつみこまれているのか。
必要なニンジンはどこに発注するのだろう。
ものすごくかんがえられたシステムがなければ、軍隊を維持できない。
原子力空母とは、なんの関係もないけど、
何万年ものむかし、人類の祖先が巨大なマンモスをたおしたとき、
大量の肉をどうやって保存したのだろう。
うまく獲物をたおせたとしても、そのあとの解体や保存は
そうとうたいへんだったのでは。
梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』(朝日選書)には、
アフリカのサバンナにくらすティンディガのひとたちが、
カバをしとめたときのようすが紹介されている。
5家族が現場に「ひっこし」をしてきて、
たべつくすまで 腰をすえてたべつづけたという。
たべて、ねむり、目がさめるとまたたべて、
3日後にはおおきな骨以外の すべてがなくなったという。
1965年におこなわれた調査のときでさえ、
保存を工夫するより、たべつくす方法が観察されているのだから、
マンモスをしとめたときの古代人も、
きっとおなじように一族があつまってきて、
たべつくしたのではないか。
食糧を手にいれたときのこうした分配方法が、
たすけあい、わけあって生きていく形で定着したのだろう。
いまさら補給や貯蔵が悪の根源だとまではいわないけれど、
貯蔵技術がなかったころのシンプルなくらしなら、
おおきな戦争など できっこなかった。
貯蔵への工夫は、耳をかしてはならない 悪魔のささやきだった。
2017年11月08日
コンフィをつくる
デイリーポータルZに刺激され、コンフィをつくってみた。
コンフィは、肉を低温のあぶらでゆっくり加熱する料理だ。
http://portal.nifty.com/2008/07/07/a/
このまえからとりいれているMEC食では、
いちにちに200グラムの肉をたべたいので、
つい鳥の胸肉にたよりがちとなる。
胸肉は、やすいけど、脂肪分がすくなく、
うまみをひきだすのがむつかしい。
コンフィなら、あぶらで煮こむのだし、
もともとが保存のための調理法なので、
いちどつくれば何日もたべられるはずだ。
デイリーポータルZの記事では、
耐熱皿とオーブンをつかっている。
クックパッドをみると、炊飯器による
かんたんなつくり方がのっていたので、
そちらをためしてみた。
・肉に塩とスパイス(ローズマリー・タイム)をまぶす
・ジップロックにいれ、冷蔵庫でひとばんねかせる
・ラードをチューブ1本ほど ジップロックにくわえる
・ジップロックを炊飯器にいれ、沸騰したお湯を
袋がしっかりつかるようにくわえる
・「保温」にしたまま3時間おく
・ジップロックを炊飯器からとりだし 常温でさます
・容器にうつしかえ、冷蔵庫で保存する
工程をぜんぶあげると ややこしそうだけど、
じっさいの作業はきわめてかんたんだ。

できあがったコンフィを、てきとうなあつさにきり、
デイリーポータルZの記事ですすめているように、
フライパンでかるくやいてみる。
ラードをたっぷりすいこんで、
しっとりと、ふかい味わいを期待していたけど、
おどろくほどのおいしさとはいえない。
たしかにやわらかくはなったものの、
胸肉特有のパサつきはあいかわらずだ。
フライパンでやく効果を あまりかんじなかったので、
冷蔵庫からだしたコンフィに、そのままマヨネーズをつけた。
これが意外とおいしい。
あぶらまみれのコンフィに、
さらにマヨネーズのあぶらをくわえたほうが
おいしくなるとは どういうことだろう。
ラードにマヨネーズというと、動脈硬化へ一直線、みたいだ。
ゆっくりと自殺してるような強力なコンビ。
でも、たべものでコレステロール値はあがらない、
というのがこのごろの定説なので、おそれずに摂取している。
たべた食品は関係ないのだったら、
ではどうしてコレステロール値があがってしまうのか、
不思議におもえてくる。
卵にはコレステロールがおおくふくまれているので、
卵は1日1個にとどめましょう、なんていわれていたのに、
いったいあれはなんだったのか。
とにかく、MEC食のおしえにしたがい、
コレステロール値なんて気にせずに、
どんどん動物性脂質とたんぱく質をとりいれている。
ラードをたっぷりつかうので、ジップロックはあぶらまみれになる。
いくらあらってもヌルヌルがとれず、
どうしようもないので、けっきょくすててしまった。
そのたびにすてるのは もったいないので、
次回は鍋をつかって、新聞紙にくるむ保温料理法をためしてみたい。
なによりも、もっとおいしくならなければ
わざわざラードで煮る意味がない。
胸肉が脂分をたっぷりすいこんで、
濃厚なハムみたいにならないものか。
コンフィは、肉を低温のあぶらでゆっくり加熱する料理だ。
http://portal.nifty.com/2008/07/07/a/
このまえからとりいれているMEC食では、
いちにちに200グラムの肉をたべたいので、
つい鳥の胸肉にたよりがちとなる。
胸肉は、やすいけど、脂肪分がすくなく、
うまみをひきだすのがむつかしい。
コンフィなら、あぶらで煮こむのだし、
もともとが保存のための調理法なので、
いちどつくれば何日もたべられるはずだ。
デイリーポータルZの記事では、
耐熱皿とオーブンをつかっている。
クックパッドをみると、炊飯器による
かんたんなつくり方がのっていたので、
そちらをためしてみた。
・肉に塩とスパイス(ローズマリー・タイム)をまぶす
・ジップロックにいれ、冷蔵庫でひとばんねかせる
・ラードをチューブ1本ほど ジップロックにくわえる
・ジップロックを炊飯器にいれ、沸騰したお湯を
袋がしっかりつかるようにくわえる
・「保温」にしたまま3時間おく
・ジップロックを炊飯器からとりだし 常温でさます
・容器にうつしかえ、冷蔵庫で保存する
工程をぜんぶあげると ややこしそうだけど、
じっさいの作業はきわめてかんたんだ。

できあがったコンフィを、てきとうなあつさにきり、
デイリーポータルZの記事ですすめているように、
フライパンでかるくやいてみる。
ラードをたっぷりすいこんで、
しっとりと、ふかい味わいを期待していたけど、
おどろくほどのおいしさとはいえない。
たしかにやわらかくはなったものの、
胸肉特有のパサつきはあいかわらずだ。
フライパンでやく効果を あまりかんじなかったので、
冷蔵庫からだしたコンフィに、そのままマヨネーズをつけた。
これが意外とおいしい。
あぶらまみれのコンフィに、
さらにマヨネーズのあぶらをくわえたほうが
おいしくなるとは どういうことだろう。
ラードにマヨネーズというと、動脈硬化へ一直線、みたいだ。
ゆっくりと自殺してるような強力なコンビ。
でも、たべものでコレステロール値はあがらない、
というのがこのごろの定説なので、おそれずに摂取している。
たべた食品は関係ないのだったら、
ではどうしてコレステロール値があがってしまうのか、
不思議におもえてくる。
卵にはコレステロールがおおくふくまれているので、
卵は1日1個にとどめましょう、なんていわれていたのに、
いったいあれはなんだったのか。
とにかく、MEC食のおしえにしたがい、
コレステロール値なんて気にせずに、
どんどん動物性脂質とたんぱく質をとりいれている。
ラードをたっぷりつかうので、ジップロックはあぶらまみれになる。
いくらあらってもヌルヌルがとれず、
どうしようもないので、けっきょくすててしまった。
そのたびにすてるのは もったいないので、
次回は鍋をつかって、新聞紙にくるむ保温料理法をためしてみたい。
なによりも、もっとおいしくならなければ
わざわざラードで煮る意味がない。
胸肉が脂分をたっぷりすいこんで、
濃厚なハムみたいにならないものか。
2017年11月07日
「人的資本」にたよるしかない わたしの老後
月曜日の朝日新聞では、お金の運用に関する
「なるほどマネー」が連載されている。
投資や、老後にそなえた貯蓄のアドバイスは、
きっとそのとおりなのだろうけど、
コツコツ堅実な生活をいとなんできた
りっぱなサラリーマンにしか 参考にならないプランがおおい。
わたしは、貧乏人と劣等生のひがみから、
なにが投資だと、やさぐれながら ときどき目をとおしている。
11月6日には、投資の新「常識」2として、
「人的資本」がとりあげられた。
人的資本とは、ききなれないことばなので、
はじめはこれまでの人生でつちかってきた
「人脈」のことなのかとおもった。
しかし、この記事でいう「人的資本」とは
「健康で働くことができる力」なのだという。
精神的にも、肉体的にも、健康でなければ 仕事はできない。
歳をとってもすこやかにくらせる状況が「人的資本」であり、
わかいころから投資してこのちからをはぐくんでいかないと、
歳をとってから きゅうになんとかできる能力ではない。
歳をとっても、健康ではたらけるのなら、
すこしでもお金をかせげるし、医療・介護への支出もすくない。
「人的資本」ということばはしらなかったけど、
わたしは、わかいころから げんきなからだ だけをたよりにしていた。
公的年金だけでくらせるとは とてもおもえないので、
年金5万、はたらいて5万の、10万円あれば
なんとかなるのでは、というのがわたしの計画だ。
そのためには、65歳をすぎてもはたらかなくてはならないけど、
いちにちに数時間ていどの仕事なら
そんなに負担ではなく、社会とのつながりをたもてるぶん、
健全な精神状態のためにも いいようにおもう。
お金はもちろん大切だけど、健康はそれ以上に生活の質を左右する。
10代のころからトレーニングをかかさなかったのも、
本や映画ですこやかな精神状態をたもってきたのも(ほんとうか?)、
56歳のいまとなっては、ぜんぶ「人的資本」への投資だったといえる。
そうかんがえると、「人的資本」は便利なことばだ。
わかいころのあそびは、歳をとってからの趣味にもいきる。
ひとりでの旅行がすきだったので、
お金をかけない旅行のスキルを身につけられた。
歳をとってから、さあ旅行にでかけよう、としても、
あるていどの経験がなければ、自由で気ままな旅行は
なかなか実行できないだろう。
水泳やジョギングの習慣は、
老後のコンディションづくりに直接むすびつく。
すべては老後の準備としてとらえられる。
人的資本は、からだの健康だけでなく、
ゆたかな精神活動も だいじな資本だ。
体力とおなじように、きゅうには手にはいらない。
人生はトータルだと元日本代表監督のオシムさんがいっていた。
たしかに、わかいころからどう生きてきたかが
老後になってトータルとして とわれてくる。
人的資本とは、どれだけのちからが
トータルとして蓄積されているかであり、
お金にたよれないわたしは、
それ以外のちからで老後を準備するしかない。
さいわい、からだをうごかすのは苦にならない。
人的資本の蓄積をめざして
いまのうちから たくさんあそんでおこう。
「なるほどマネー」が連載されている。
投資や、老後にそなえた貯蓄のアドバイスは、
きっとそのとおりなのだろうけど、
コツコツ堅実な生活をいとなんできた
りっぱなサラリーマンにしか 参考にならないプランがおおい。
わたしは、貧乏人と劣等生のひがみから、
なにが投資だと、やさぐれながら ときどき目をとおしている。
11月6日には、投資の新「常識」2として、
「人的資本」がとりあげられた。
人的資本とは、ききなれないことばなので、
はじめはこれまでの人生でつちかってきた
「人脈」のことなのかとおもった。
しかし、この記事でいう「人的資本」とは
「健康で働くことができる力」なのだという。
精神的にも、肉体的にも、健康でなければ 仕事はできない。
歳をとってもすこやかにくらせる状況が「人的資本」であり、
わかいころから投資してこのちからをはぐくんでいかないと、
歳をとってから きゅうになんとかできる能力ではない。
歳をとっても、健康ではたらけるのなら、
すこしでもお金をかせげるし、医療・介護への支出もすくない。
「人的資本」ということばはしらなかったけど、
わたしは、わかいころから げんきなからだ だけをたよりにしていた。
公的年金だけでくらせるとは とてもおもえないので、
年金5万、はたらいて5万の、10万円あれば
なんとかなるのでは、というのがわたしの計画だ。
そのためには、65歳をすぎてもはたらかなくてはならないけど、
いちにちに数時間ていどの仕事なら
そんなに負担ではなく、社会とのつながりをたもてるぶん、
健全な精神状態のためにも いいようにおもう。
お金はもちろん大切だけど、健康はそれ以上に生活の質を左右する。
10代のころからトレーニングをかかさなかったのも、
本や映画ですこやかな精神状態をたもってきたのも(ほんとうか?)、
56歳のいまとなっては、ぜんぶ「人的資本」への投資だったといえる。
そうかんがえると、「人的資本」は便利なことばだ。
わかいころのあそびは、歳をとってからの趣味にもいきる。
ひとりでの旅行がすきだったので、
お金をかけない旅行のスキルを身につけられた。
歳をとってから、さあ旅行にでかけよう、としても、
あるていどの経験がなければ、自由で気ままな旅行は
なかなか実行できないだろう。
水泳やジョギングの習慣は、
老後のコンディションづくりに直接むすびつく。
すべては老後の準備としてとらえられる。
人的資本は、からだの健康だけでなく、
ゆたかな精神活動も だいじな資本だ。
体力とおなじように、きゅうには手にはいらない。
人生はトータルだと元日本代表監督のオシムさんがいっていた。
たしかに、わかいころからどう生きてきたかが
老後になってトータルとして とわれてくる。
人的資本とは、どれだけのちからが
トータルとして蓄積されているかであり、
お金にたよれないわたしは、
それ以外のちからで老後を準備するしかない。
さいわい、からだをうごかすのは苦にならない。
人的資本の蓄積をめざして
いまのうちから たくさんあそんでおこう。
2017年11月06日
ピピのおねしょにまけて、ベッドをあけわたす
きゅうにさむくなってきたけど、
ふとんのうえでピピ(16歳のネコ)に
おしっこをされたらひどいので、
寝袋をひっぱりだして 夜のさむさをしのいでいる。
化繊の寝袋なら、もしおしっこでぬれても、
あらったり ふいたりがかんたんだ。
と、おもっていたけど、
いざ寝袋のうえでおしっこをされるとたいへんだった。
ピピはあったかさをもとめてわたしにくっついてくる。
くっついたまま、おしっこもする。
ぬれたパジャマと寝袋をまえに ぼうぜんとなっていると、
ピピは無邪気な目でわたしをみながら
「わー」とあまえた声をあげた。
かわいいけど、夜中のおねしょにつかれてきた。
寝袋のぬれたところにアイロンをあて、パジャマのうわぎをかえる。
糸井重里さんが すこしまえの「今日のダーリン」で、
モネというわがままなネコを紹介している。
そうやって、わがままにふるまわれるのを、
いっしょにくらしている中年夫婦はよろこんでいるのだけど、
ピピのおしっこを、ただいとしくおもえるほど
わたしは成熟したおとなではない。
そこらじゅうでおしっこをするピピにむかい
「そこにすわりなさい」とお説教をする。
まえに、枕のうえでおしっこをされる気もちは、
枕のうえでおしっこをされたひとでないとわからない、
とかいたことがあるけど、
寝袋でも、問題はおなじだ。
寝袋でおしっこをされた気もちは、
寝袋でおしっこをされたものにしかわからない。
夜中になんどもおこされるので、じゅうぶんねた気がしない。
さすがにつかれ、ピピのいない部屋でねむりたくなってきた。
書斎とよぶにはあまりにもしょぼいスペースと、
そのとなりのかくれがみたいな寝室をピピにあけわたし
(まさに、ひさしをかして母屋をとられる、だ)、
なんちゃって書庫に座布団と寝袋で
短期間限定のねぐらをつくったらどうだろうか。
自分のベッドをはなれれば、
多少なりとも野宿の気分だってあじわえるかもしれない。
でも、おそらくピピはわたしのうらぎりをかぎつけて、
ひっこしさきのねぐらにやってくるだろう。
ネコとのつきあいは、年をとり、
介護状態になってからが、最大のやまばとなる。
そこらじゅうでおしっこをする問題を どうしのぐか。
モネのかいぬしみたいに、わがままをいわれても
ニコニコうけいれられるひとばかりではないだろう。
介護づかれにショートステイの利用が有効なように、
かくれがへの逃避もまた、
いちじしのぎとしてゆるされるのではないか。
ふとんのうえでピピ(16歳のネコ)に
おしっこをされたらひどいので、
寝袋をひっぱりだして 夜のさむさをしのいでいる。
化繊の寝袋なら、もしおしっこでぬれても、
あらったり ふいたりがかんたんだ。
と、おもっていたけど、
いざ寝袋のうえでおしっこをされるとたいへんだった。
ピピはあったかさをもとめてわたしにくっついてくる。
くっついたまま、おしっこもする。
ぬれたパジャマと寝袋をまえに ぼうぜんとなっていると、
ピピは無邪気な目でわたしをみながら
「わー」とあまえた声をあげた。
かわいいけど、夜中のおねしょにつかれてきた。
寝袋のぬれたところにアイロンをあて、パジャマのうわぎをかえる。
糸井重里さんが すこしまえの「今日のダーリン」で、
モネというわがままなネコを紹介している。
「お母さん、なんか食べたい」
「あと、ミルク。冷たいのイヤ、あっためて」
「熱すぎる」「甘くして。砂糖イヤ。はちみつ」
おとうさんがテレビの相撲を真剣に見ているところで、
いっしょにお風呂に入りたがったり、
「熱いのイヤ。水はイヤ」「ひのきの香りがいい」
「あ、そこそこもっと。耳はイヤ」と、言い放題。
(深谷かほる『夜廻り猫』)
そうやって、わがままにふるまわれるのを、
いっしょにくらしている中年夫婦はよろこんでいるのだけど、
ピピのおしっこを、ただいとしくおもえるほど
わたしは成熟したおとなではない。
そこらじゅうでおしっこをするピピにむかい
「そこにすわりなさい」とお説教をする。
まえに、枕のうえでおしっこをされる気もちは、
枕のうえでおしっこをされたひとでないとわからない、
とかいたことがあるけど、
寝袋でも、問題はおなじだ。
寝袋でおしっこをされた気もちは、
寝袋でおしっこをされたものにしかわからない。
夜中になんどもおこされるので、じゅうぶんねた気がしない。
さすがにつかれ、ピピのいない部屋でねむりたくなってきた。
書斎とよぶにはあまりにもしょぼいスペースと、
そのとなりのかくれがみたいな寝室をピピにあけわたし
(まさに、ひさしをかして母屋をとられる、だ)、
なんちゃって書庫に座布団と寝袋で
短期間限定のねぐらをつくったらどうだろうか。
自分のベッドをはなれれば、
多少なりとも野宿の気分だってあじわえるかもしれない。
でも、おそらくピピはわたしのうらぎりをかぎつけて、
ひっこしさきのねぐらにやってくるだろう。
ネコとのつきあいは、年をとり、
介護状態になってからが、最大のやまばとなる。
そこらじゅうでおしっこをする問題を どうしのぐか。
モネのかいぬしみたいに、わがままをいわれても
ニコニコうけいれられるひとばかりではないだろう。
介護づかれにショートステイの利用が有効なように、
かくれがへの逃避もまた、
いちじしのぎとしてゆるされるのではないか。
2017年11月05日
『アイ・アム・ニューマン 新しい人生の見つけ方』
『アイ・アム・ニューマン 新しい人生の見つけ方』
(ダンテ=アリオラ監督・2012年・アメリカ)
「新しい人生」や「もうひとつの人生」って、
おおくのひとがいちどくらい夢みるのではないか。
やたらとおなじようなタイトルを目にする。
「見つけ方」と「はじめかた」も よくにていてまぎらわしい。
どっちにしても いまさら新鮮味がないので、
ほかの作品とまちがわないために、
「アイ・アム・ニューマン」をあたまにつけたのかも。
主人公の男性は、それまでの生活をチャラにして
再スタートをこころみる。
べつの人間としてうまれかわるために、
偽造した身分証明を用意した。
自分は海辺で行方不明になったようにみせかける。
この作品は、とりわけ男の夢かもしれない。
ベンツのオープンカーでの旅だち。
となりには偶然しりあったきれいな女の子。
トランクには札束のつまったカバンがおさまっている。
再スタートする町をめざしてのロードムービーだ。
内容は、たいしたできだとおもわないけど、
これだけの小道具を配置して、
過去と現在をそこそこからめていけば、
おもしろい作品にならないわけがない。
チャラといえば、きょうの「ラジオマンジャック」
(NHK-FM)は、リセットがテーマだった。
チャラもリセットもおなじようなものだ。
赤坂さんが、スマホを水につけてしまい、
あたらしいスマホにかいかえなければならなかったという。
バックアップがどれだけ大切かを強調されていた。
人生に、バックアップって、あるだろうか。
IT時代においても、人間はデジタルにかわれない。
うわがき保存がきかないからこそ、人生はスリリングだ。
映画にはなしをもどすと、
そうかんたんに人生はリセットできないようで、
けっきょく ふたりとも それまでの生活をすてきれない。
自分がもとめていたものは、以前のくらしのなかにあった、
という よくありがちなはなしにとどまっている。
すっかりリセットするまでもなく、
仕事をやめたりひっこしすれば、
かなりのていど あたらしい生活となる。
離婚だって、そうとうリセット感がたかいだろう。
そこそこ・ちょぼちょぼなリセットだからといって、
それがかんたんとはかぎらない。
「新しい人生」や「もうひとつの人生」は、
あんがい手にしにくい永遠のテーマなのかも。
(ダンテ=アリオラ監督・2012年・アメリカ)
「新しい人生」や「もうひとつの人生」って、
おおくのひとがいちどくらい夢みるのではないか。
やたらとおなじようなタイトルを目にする。
「見つけ方」と「はじめかた」も よくにていてまぎらわしい。
どっちにしても いまさら新鮮味がないので、
ほかの作品とまちがわないために、
「アイ・アム・ニューマン」をあたまにつけたのかも。
主人公の男性は、それまでの生活をチャラにして
再スタートをこころみる。
べつの人間としてうまれかわるために、
偽造した身分証明を用意した。
自分は海辺で行方不明になったようにみせかける。
この作品は、とりわけ男の夢かもしれない。
ベンツのオープンカーでの旅だち。
となりには偶然しりあったきれいな女の子。
トランクには札束のつまったカバンがおさまっている。
再スタートする町をめざしてのロードムービーだ。
内容は、たいしたできだとおもわないけど、
これだけの小道具を配置して、
過去と現在をそこそこからめていけば、
おもしろい作品にならないわけがない。
チャラといえば、きょうの「ラジオマンジャック」
(NHK-FM)は、リセットがテーマだった。
チャラもリセットもおなじようなものだ。
赤坂さんが、スマホを水につけてしまい、
あたらしいスマホにかいかえなければならなかったという。
バックアップがどれだけ大切かを強調されていた。
人生に、バックアップって、あるだろうか。
IT時代においても、人間はデジタルにかわれない。
うわがき保存がきかないからこそ、人生はスリリングだ。
映画にはなしをもどすと、
そうかんたんに人生はリセットできないようで、
けっきょく ふたりとも それまでの生活をすてきれない。
自分がもとめていたものは、以前のくらしのなかにあった、
という よくありがちなはなしにとどまっている。
すっかりリセットするまでもなく、
仕事をやめたりひっこしすれば、
かなりのていど あたらしい生活となる。
離婚だって、そうとうリセット感がたかいだろう。
そこそこ・ちょぼちょぼなリセットだからといって、
それがかんたんとはかぎらない。
「新しい人生」や「もうひとつの人生」は、
あんがい手にしにくい永遠のテーマなのかも。
2017年11月04日
『ひとり上手な結婚』(山本文緒:文・伊藤理佐:漫画・講談社文庫)
『ひとり上手な結婚』(山本文緒:文・伊藤理佐:漫画・講談社文庫)
山本文緒さんと伊藤理佐さんが、
結婚をまえになやむ わかい男女からの相談にこたえていく。
おふたりとも、わたしがすきな表現者だ。
たまたまこの企画でいっしょになったのではなく、
まえからなかがよかったみたい。
わたしがすきなひとどうしが、
おたがいにみとめあう関係だというのがうれしい。
「トイレの跳ねが耐えられない!」など、
よせられる相談はさまざまだ。
回答する側は、ふたりで相談してからこたえるのではなく、
質問によっては、ちがう方針のアドバイスとなるときもある。
おふたりとも、しっかりした生活者であり、
地獄をみてきたひとなので、ぬるいアドバイスなどおくらない。
まっとうに生きていくうえで必要な、
きびしい(ときにはつめたい)意見をきかせてくれる。
「猫を飼いたい」という 女性からの質問があった。
ネコをかいたいけど、結婚するかもしれない あいての男性は、
「世話ができない」
「動物と一緒に住むなんて信じられない」など、
まるでその気がない、というなやみだ。
伊藤さんは現実にネコとくらしているので、
当然ネコ側にたったアドバイスをおくるかとおもっていたら、
原理原則をおさえた きびしいかんがえをのべている。
ネコや犬はペットであり、家族ではない、
というのが伊藤さんの基本方針だ。
そのあと、
「猫問題」じゃなくて「彼氏問題」では?
と喝破しているのがさすがだ。
ネコは動物であり、人間の命のほうがとうといにきまっている。
どちらか一方しかたすけられない場合、
人間をえらぶのが当然だ。
と、知識としては理解しているつもりでも、
じっさいに そんな場面にでくわしたら、
おそらくわたしは とっさにうごけない。
「ちょっとまってね」と、時間をかせいで
ネコがたすかる道を、なんとかして さがそうとするだろう。
伊藤さんを「しっかりした生活者」というのはこういう点だ。
やっていいことと わるいことが はっきりしている。
ネコとくらせないような男と いっしょになる必要はない、と
わたしならこたえるだろう。
ネコが万事であり、相性がわるいのだから、
いまのうちにわかれたほうがおたがいのためだ。
人間なんだから、なんとか自分で崖からはいあがりなさい。
「猫問題」ではなくて「彼氏問題」、
という伊藤さんのみたてが、きっとただしい。
山本文緒さんと伊藤理佐さんが、
結婚をまえになやむ わかい男女からの相談にこたえていく。
おふたりとも、わたしがすきな表現者だ。
たまたまこの企画でいっしょになったのではなく、
まえからなかがよかったみたい。
わたしがすきなひとどうしが、
おたがいにみとめあう関係だというのがうれしい。
「トイレの跳ねが耐えられない!」など、
よせられる相談はさまざまだ。
回答する側は、ふたりで相談してからこたえるのではなく、
質問によっては、ちがう方針のアドバイスとなるときもある。
おふたりとも、しっかりした生活者であり、
地獄をみてきたひとなので、ぬるいアドバイスなどおくらない。
まっとうに生きていくうえで必要な、
きびしい(ときにはつめたい)意見をきかせてくれる。
「猫を飼いたい」という 女性からの質問があった。
ネコをかいたいけど、結婚するかもしれない あいての男性は、
「世話ができない」
「動物と一緒に住むなんて信じられない」など、
まるでその気がない、というなやみだ。
伊藤さんは現実にネコとくらしているので、
当然ネコ側にたったアドバイスをおくるかとおもっていたら、
原理原則をおさえた きびしいかんがえをのべている。
ネコや犬はペットであり、家族ではない、
というのが伊藤さんの基本方針だ。
よくある「崖話」では
知らない人間とうちの猫だったら
そのひとが「うちの親 殺した」とかじゃないかぎり
人間の方 助けます
猫・・・しかも「まだいない猫」が
人間・・・しかも「今の彼氏」より
大事なはずが ありましぇん
そのあと、
「猫問題」じゃなくて「彼氏問題」では?
と喝破しているのがさすがだ。
ネコは動物であり、人間の命のほうがとうといにきまっている。
どちらか一方しかたすけられない場合、
人間をえらぶのが当然だ。
と、知識としては理解しているつもりでも、
じっさいに そんな場面にでくわしたら、
おそらくわたしは とっさにうごけない。
「ちょっとまってね」と、時間をかせいで
ネコがたすかる道を、なんとかして さがそうとするだろう。
伊藤さんを「しっかりした生活者」というのはこういう点だ。
やっていいことと わるいことが はっきりしている。
ネコとくらせないような男と いっしょになる必要はない、と
わたしならこたえるだろう。
ネコが万事であり、相性がわるいのだから、
いまのうちにわかれたほうがおたがいのためだ。
人間なんだから、なんとか自分で崖からはいあがりなさい。
「猫問題」ではなくて「彼氏問題」、
という伊藤さんのみたてが、きっとただしい。
2017年11月03日
伊藤理佐さんの「わたしまできたら売れっ子」に共感する
ひいきにしている伊藤理佐さんの連載
「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)。
今回はハロウィーンがテーマだ。
オバケがお菓子をとどけてくれる、でも、
かぼちゃをたべる、でもない。
しってるようで、よくわからないハロウィーンって、なんだ。
伊藤さんによると、
この心理は、わたしにもおもいあたる。
ただし、「ここまで来い」とまで、つよ気にはなれない。
どちらかといえば、わたしがかってにすりよっている。
すでに人気がでているものについて、
わたしは「いいなー」とおもうようだ。
すこしまえの例では、ラグビーの日本代表だったり、
「あまちゃん」だったりする。
ようするに、ミーハーなのだろう。
伊藤さんの関係者では、
長野にすむご両親まで ハロウィーンがきたというのだから、
文句なしに社会現象といえるだろう。
わたしの母は、伊藤さんのご両親よりも高齢なせいか、
なにかあたらしいうごきにたいしては、ほとんど関心をしめさない。
携帯電話(ガラケー)を、つかう気はぜんぜんないし、
ファッションも完全にあきらめている。
たのしみは日曜日の大河ドラマと、朝の連続テレビ小説だ。
ただ、健康法については
もういつ死んでもいい、といいながら、
たべものや運動をいろいろためしている。
よみかけの本を、わたしが机にのせていたら、
低炭水化物食やMEC食の本には すかさず関心をしめした。
母になにかあれば、介護がたいへんなので、
わたしとしても、げんきでいてくれるほうがありがたい。
納豆とヨーグルトをかかさないし、
まえはごぼう茶を自分でつくっていた。
老人も魚より肉を、ときいてからは、
肉食の老女となっている。
なが生きと健康は、すべてのひとがのぞむぼんのうなので、
はやりとはべつにとらえたほうがいいみたいだ。
わたしの母までハロウィーンがきたら、
もはや流行のレベルではなく、革命というべきだろう。
世のなかが平和であるためにも、
母にはハロウィーンからとおい存在であってほしい。
「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)。
今回はハロウィーンがテーマだ。
オバケがお菓子をとどけてくれる、でも、
かぼちゃをたべる、でもない。
しってるようで、よくわからないハロウィーンって、なんだ。
伊藤さんによると、
「わたしまできたら売れっ子」
フッ。えらそうだが。わたしが耳にするくらいになったら、その芸人さんはもう売れっ子だ。ここまで来い。
この心理は、わたしにもおもいあたる。
ただし、「ここまで来い」とまで、つよ気にはなれない。
どちらかといえば、わたしがかってにすりよっている。
すでに人気がでているものについて、
わたしは「いいなー」とおもうようだ。
すこしまえの例では、ラグビーの日本代表だったり、
「あまちゃん」だったりする。
ようするに、ミーハーなのだろう。
伊藤さんの関係者では、
長野にすむご両親まで ハロウィーンがきたというのだから、
文句なしに社会現象といえるだろう。
わたしの母は、伊藤さんのご両親よりも高齢なせいか、
なにかあたらしいうごきにたいしては、ほとんど関心をしめさない。
携帯電話(ガラケー)を、つかう気はぜんぜんないし、
ファッションも完全にあきらめている。
たのしみは日曜日の大河ドラマと、朝の連続テレビ小説だ。
ただ、健康法については
もういつ死んでもいい、といいながら、
たべものや運動をいろいろためしている。
よみかけの本を、わたしが机にのせていたら、
低炭水化物食やMEC食の本には すかさず関心をしめした。
母になにかあれば、介護がたいへんなので、
わたしとしても、げんきでいてくれるほうがありがたい。
納豆とヨーグルトをかかさないし、
まえはごぼう茶を自分でつくっていた。
老人も魚より肉を、ときいてからは、
肉食の老女となっている。
なが生きと健康は、すべてのひとがのぞむぼんのうなので、
はやりとはべつにとらえたほうがいいみたいだ。
わたしの母までハロウィーンがきたら、
もはや流行のレベルではなく、革命というべきだろう。
世のなかが平和であるためにも、
母にはハロウィーンからとおい存在であってほしい。
2017年11月02日
『インドへの道』気らくにたのしめる超大作
『インドへの道』
(デヴィッド=リーン:監督・1984年・アメリカ)
超大作らしいので、なんとなく敬遠してたけど、
夕ごはんのときにみる、適当な録画がなかった、という
かなり消極的な理由でえらんだ。
これくらい最低な態度でも、
いい作品は それなりにひきこむちからをもっている。
大作らしいいやらしさをちらつかせるのではなく、
みかたによってはB級作品におもえるぐらい、
ベタな作品となっている。
ありがちな展開のせいか、かえって気らくにたのしめた。
(以下、ネタバレあり)
映画の舞台は第一次世界大戦後のインド。
イギリスから上流階級の女性2人が
豪華客船にのってインドをおとずれる。
わかい女性のアデラは、
治安判事をしている婚約者(ロニー)をたずねるためで、
ムーア婦人はロニーの母親だ。
ふたりは、植民地でのはなやかなくらしをたのしむのではなく、
ほんとうのインドをしりたいとおもっている。
帝国主義的な世界観をもつおおくのヨーロッパ人とちがい、
ふたりはインド人にたいして偏見がない。
インドのひとから、インドについておそわろうとする
柔軟な精神をもっている。
しかし、インド社会全体としては、
イギリス人を頂点とする階級社会ができあがっており、
それをゆるがすようなうごきはみとめられない。
アデラは、インド人の医師アジズと洞窟をめぐるうちに、
不安定な精神状態におちいり、パニックをおこす。
あろうことか、アデラは混乱から、
アジズ医師におそわれたとうったえる。
まさか法廷ものになるとはおもわなかった。
アジズ医師が無実の罪をかぶったままでは
気のどくすぎる。
さいわいアデラは、事件当時の記憶がはっきりしないとみとめ、
告訴をとりさげたため、アジズ医師は解放される。
アジズは裁判のあと、ひとがかわってしまった。
自分に有利な証言をしたアデラにたいし、わだかまりがきえない。
不自然におもえたけど、無実な自分に罪をかぶせそうになり、
理不尽なおもいをさせたわかいむすめにたいし、
にくしみをおぼえるのは当然なのだろう。
イギリス人と、イギリスにたいする感情も、
かつてのあこがれではなく、ほかのインド人とおなじように、
批判的なみかたへとかわっていく。
植民地でのくらしぶりをみていると、
『愛と哀しみの果て』をおもいだす。
提督を頂点に、絶対的な階級制が支配する社会で、
現地のひとびとは、決定的にひくくみられる存在でしかない。
ムーア婦人が、「ほんとうのインドをしりたい」というのは、
非情にめずらしい例だろうし、ほかのイギリス人には
当然ながら まったくうけいれられない。
『愛と哀しみの果て』と『インドへの道』は、
おなじような時代を舞台としながらも、
映画のおわりかたにおいて、
ずいぶんちがうところへおとしこんでいる。
(デヴィッド=リーン:監督・1984年・アメリカ)
超大作らしいので、なんとなく敬遠してたけど、
夕ごはんのときにみる、適当な録画がなかった、という
かなり消極的な理由でえらんだ。
これくらい最低な態度でも、
いい作品は それなりにひきこむちからをもっている。
大作らしいいやらしさをちらつかせるのではなく、
みかたによってはB級作品におもえるぐらい、
ベタな作品となっている。
ありがちな展開のせいか、かえって気らくにたのしめた。
(以下、ネタバレあり)
映画の舞台は第一次世界大戦後のインド。
イギリスから上流階級の女性2人が
豪華客船にのってインドをおとずれる。
わかい女性のアデラは、
治安判事をしている婚約者(ロニー)をたずねるためで、
ムーア婦人はロニーの母親だ。
ふたりは、植民地でのはなやかなくらしをたのしむのではなく、
ほんとうのインドをしりたいとおもっている。
帝国主義的な世界観をもつおおくのヨーロッパ人とちがい、
ふたりはインド人にたいして偏見がない。
インドのひとから、インドについておそわろうとする
柔軟な精神をもっている。
しかし、インド社会全体としては、
イギリス人を頂点とする階級社会ができあがっており、
それをゆるがすようなうごきはみとめられない。
アデラは、インド人の医師アジズと洞窟をめぐるうちに、
不安定な精神状態におちいり、パニックをおこす。
あろうことか、アデラは混乱から、
アジズ医師におそわれたとうったえる。
まさか法廷ものになるとはおもわなかった。
アジズ医師が無実の罪をかぶったままでは
気のどくすぎる。
さいわいアデラは、事件当時の記憶がはっきりしないとみとめ、
告訴をとりさげたため、アジズ医師は解放される。
アジズは裁判のあと、ひとがかわってしまった。
自分に有利な証言をしたアデラにたいし、わだかまりがきえない。
不自然におもえたけど、無実な自分に罪をかぶせそうになり、
理不尽なおもいをさせたわかいむすめにたいし、
にくしみをおぼえるのは当然なのだろう。
イギリス人と、イギリスにたいする感情も、
かつてのあこがれではなく、ほかのインド人とおなじように、
批判的なみかたへとかわっていく。
植民地でのくらしぶりをみていると、
『愛と哀しみの果て』をおもいだす。
提督を頂点に、絶対的な階級制が支配する社会で、
現地のひとびとは、決定的にひくくみられる存在でしかない。
ムーア婦人が、「ほんとうのインドをしりたい」というのは、
非情にめずらしい例だろうし、ほかのイギリス人には
当然ながら まったくうけいれられない。
『愛と哀しみの果て』と『インドへの道』は、
おなじような時代を舞台としながらも、
映画のおわりかたにおいて、
ずいぶんちがうところへおとしこんでいる。
2017年11月01日
災害時だけでなく、いつも「やさしい日本語」を
10月29日の朝日新聞に、
外国人を避難誘導するさいの、
わかりやすい日本語がとりあげられていた。
災害のときに、外国人にむけて
避難をよびかけることばを、
消防局がみなおしているという。
2020年に東京オリンピックがひらかれるので、
はやく具体的な方針をうちだす必要があるのだろう。
英語や中国語などの、特定のことばに訳してつたえるのではなく、
あくまでも日本語で、というのが基本となるかんがえ方だ。
これまでのよびかけ例と、
それを「やさしい日本語」にするとどうなるかが
いくつか紹介されている。
自然と、むつかしい熟語ではなく、
耳できいたときにわかりやすいことばがえらばれる。
「余震に注意して下さい」は、
「後からくる地震に気をつけて下さい」に、
「消火しているので迂回して下さい」は、
「火を消しているので違う道を行って下さい」となる。
そもそも外国人にむけて
「余震に注意して下さい」なんて、いうほうがどうかしている。
災害のときは、いのちにかかわることなので、
ことばについて、本質的なといかけがなされている。
でも、災害だけでなく、あらゆる場面で
「やさしい日本語」は おたがいの理解をふかめ、
コミュニケーションをたすけてくれるはずだ。
司法でつかわれる日本語が、あまりにも日常でつかうことばから
かけはなれていると、よく指摘される。
司法だって、いのちにかかわるわけで、
だれもがきいてわかることばのほうが、いいにきまっている。
その点、わたしのブログは、
できるだけわかりやすいことばをえらんでいるつもりなのに、
いまだに評価されず、残念な日々をすごしている。
日本語を、いきた文章としてまなべる場なので、
おおくの外国人によんでもらえたらうれしい。
わたしのブログをよみなれていたら、
災害のときのよびかけが、じゅうぶん理解できるだろう。
いのちをすくう日本語力養成ブログとして、
外国人のかたにつよくおすすめしたい。
外国人を避難誘導するさいの、
わかりやすい日本語がとりあげられていた。
災害のときに、外国人にむけて
避難をよびかけることばを、
消防局がみなおしているという。
2020年に東京オリンピックがひらかれるので、
はやく具体的な方針をうちだす必要があるのだろう。
英語や中国語などの、特定のことばに訳してつたえるのではなく、
あくまでも日本語で、というのが基本となるかんがえ方だ。
これまでのよびかけ例と、
それを「やさしい日本語」にするとどうなるかが
いくつか紹介されている。
自然と、むつかしい熟語ではなく、
耳できいたときにわかりやすいことばがえらばれる。
「余震に注意して下さい」は、
「後からくる地震に気をつけて下さい」に、
「消火しているので迂回して下さい」は、
「火を消しているので違う道を行って下さい」となる。
そもそも外国人にむけて
「余震に注意して下さい」なんて、いうほうがどうかしている。
災害のときは、いのちにかかわることなので、
ことばについて、本質的なといかけがなされている。
でも、災害だけでなく、あらゆる場面で
「やさしい日本語」は おたがいの理解をふかめ、
コミュニケーションをたすけてくれるはずだ。
司法でつかわれる日本語が、あまりにも日常でつかうことばから
かけはなれていると、よく指摘される。
司法だって、いのちにかかわるわけで、
だれもがきいてわかることばのほうが、いいにきまっている。
その点、わたしのブログは、
できるだけわかりやすいことばをえらんでいるつもりなのに、
いまだに評価されず、残念な日々をすごしている。
日本語を、いきた文章としてまなべる場なので、
おおくの外国人によんでもらえたらうれしい。
わたしのブログをよみなれていたら、
災害のときのよびかけが、じゅうぶん理解できるだろう。
いのちをすくう日本語力養成ブログとして、
外国人のかたにつよくおすすめしたい。