2017年11月02日

『インドへの道』気らくにたのしめる超大作

『インドへの道』
(デヴィッド=リーン:監督・1984年・アメリカ)

超大作らしいので、なんとなく敬遠してたけど、
夕ごはんのときにみる、適当な録画がなかった、という
かなり消極的な理由でえらんだ。
これくらい最低な態度でも、
いい作品は それなりにひきこむちからをもっている。
大作らしいいやらしさをちらつかせるのではなく、
みかたによってはB級作品におもえるぐらい、
ベタな作品となっている。
ありがちな展開のせいか、かえって気らくにたのしめた。
(以下、ネタバレあり)

映画の舞台は第一次世界大戦後のインド。
イギリスから上流階級の女性2人が
豪華客船にのってインドをおとずれる。
わかい女性のアデラは、
治安判事をしている婚約者(ロニー)をたずねるためで、
ムーア婦人はロニーの母親だ。
ふたりは、植民地でのはなやかなくらしをたのしむのではなく、
ほんとうのインドをしりたいとおもっている。

帝国主義的な世界観をもつおおくのヨーロッパ人とちがい、
ふたりはインド人にたいして偏見がない。
インドのひとから、インドについておそわろうとする
柔軟な精神をもっている。
しかし、インド社会全体としては、
イギリス人を頂点とする階級社会ができあがっており、
それをゆるがすようなうごきはみとめられない。
アデラは、インド人の医師アジズと洞窟をめぐるうちに、
不安定な精神状態におちいり、パニックをおこす。
あろうことか、アデラは混乱から、
アジズ医師におそわれたとうったえる。

まさか法廷ものになるとはおもわなかった。
アジズ医師が無実の罪をかぶったままでは
気のどくすぎる。
さいわいアデラは、事件当時の記憶がはっきりしないとみとめ、
告訴をとりさげたため、アジズ医師は解放される。

アジズは裁判のあと、ひとがかわってしまった。
自分に有利な証言をしたアデラにたいし、わだかまりがきえない。
不自然におもえたけど、無実な自分に罪をかぶせそうになり、
理不尽なおもいをさせたわかいむすめにたいし、
にくしみをおぼえるのは当然なのだろう。
イギリス人と、イギリスにたいする感情も、
かつてのあこがれではなく、ほかのインド人とおなじように、
批判的なみかたへとかわっていく。

植民地でのくらしぶりをみていると、
『愛と哀しみの果て』をおもいだす。
提督を頂点に、絶対的な階級制が支配する社会で、
現地のひとびとは、決定的にひくくみられる存在でしかない。
ムーア婦人が、「ほんとうのインドをしりたい」というのは、
非情にめずらしい例だろうし、ほかのイギリス人には
当然ながら まったくうけいれられない。
『愛と哀しみの果て』と『インドへの道』は、
おなじような時代を舞台としながらも、
映画のおわりかたにおいて、
ずいぶんちがうところへおとしこんでいる。

posted by カルピス at 23:06 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする