『ライオン〜25年目のただいま〜』
(ガース=デイヴィス:監督・2016年・オーストラリア他)
インドのいなか町でくらす5歳のサルー。
スラムよりもちょっとまし程度のまずしい集落だけど、
兄と母親からたっぷりの愛情をそそがれ、しあわせにくらしている。
といっても、母親は石はこびのきびしい仕事につき、
兄とサルーにしても、はしっている汽車にとびのって
石炭をちょろまかして小銭をかせがなければ、
くらせないような最低限のくらしだ。
(以下、ネタバレあり)
兄が仕事にでかけるというので、サルーもついていきたくなった。
自分は子どもではなく、ちゃんと仕事ができるとダダをこねるので、
兄のグドゥはしかたなくつれていく。
ねむくなったサルーは、駅のホームのベンチでよこになり、
グドゥひとりが仕事をさがしにいく。
目をさましたサルーは、
だれもいないホームにひとりだけになっていた。
さみしさと混乱から、兄をさがしまわるうちに、
のっていた列車がうごきだしてしまう。
まっくらな駅のぶきみさとこころぼそさ。
あとにしてきた町でさえ、さきのみえない最低なくらしにみえるのに、
兄とわかれたサルーは 完全なひとりぼっちとなる。
回送列車だったので、駅でののりおりがないまま2.3日はしりつづけ、
サルーがすんでいた町から
1600キロもはなれた カルカッタについた。
大都会、カルカッタのものすごいひとごみと、よるべのない絶望感。
駅でくらす孤児たちのちかくですごしていると、
ひとさらいが子どもたちをつかまえにくる。
ホームレスとして町をさまよい、数ヶ月をすごすうちに、
孤児院へとながれついた。
ここまでが前半部分。
そこからの第2部は、場面をオーストラリアにうつす。
孤児たちにそだての親を斡旋する慈善事業で、
サルーはオーストリアにわたり、
養子としてそだてられることになる。
サルーのあたらしい人生が、インドからはるかとおく、
オーストラリアのタスマニアではじまる。
時計の針は一気に20年すすみ、サルーは大学生となった。
オーストラリア人の両親としあわせにくらしながらも、
おさないころをすごしたインドをわすれられない。
兄や母親との生活が、しきりにサルーの脳裏をかすめる。
仲間とはなしているときに、グーグルアースをつかえば、
かすかな記憶から、自分がすんでいた町を
かなりのていど推測できるのでは、とおもいつく。
兄と母に、愛情ぶかくそだてられた記憶から、
自分が家族のことを気にとめるとおなじように、
ふたりもまた 自分のことを心配しているとサルーは確信している。
パソコンにむかううちに、インドにのこしてきた家族を
自分がどれだけふかくもとめているかに気づく。
仕事をやめ、部屋にこもり、ルーツさがしにのめりこんでいく。
生みの親と、そだての親。
パソコンでの検索は、そだての母親であるスーを、
うらぎりっているようにおもえ、サルーはなやむ。
あるときスーがサルーに、
「子どもはもてた」とうちあける。
子どもはもてた。でも、いまの時代に
自分の子どもをうむことに、なにか意味があるだろうか。
それよりも、そだてる親をうしなった子どもたちに
あたらしい愛をあたえるほうが、
自分には意味があるとスーはかんがえた。
スーのふかい愛をしったサルーは、
感謝しつつも、インドへの旅だちをきめる。
いまをしあわせにくらしていても、
自分がどこからきたのか はっきりしらないことが、
こんなにもひとを不安定な気もちにさせるものなのか。
サルーのねがいどおり、
母親はいまもおなじ町にすみ、
サルーを気にとめながら生きていた。
25年目の、奇跡的な再会だ。
タイトルのライオンがなにを意味するかは、
じっさいに映画をみていただきたい。
インドのスラムで、5歳の子が みよりをうしなったときの絶望感。
自分の子をもてたのに、養母となる道をえらんだスー。
このふたつがあまりにも圧倒的で、強烈な印象をのこす。
「ライオン」をみたあとでは、謙虚な気もちになる。
夕ごはんのしたくをしながら、
ここにはすべてがある、天国みたいだと、ふとおもった。
きっと、これもライオン効果だ。