ひとの文章を引用してばかりいるので、
あまりにもオリジナリティがない内容にいじけがちだ。
でも、かんがえてみると、
朝日新聞の第一面にのっている「折々のことば」にしたって、
ぜんぶひとのアイデアを紹介しているだけともいえる。
えらいひとが、堂々と とりあげれば有名なコラムとなり、
これまであまり陽のあたらなかったことばに再評価をあたえる。
わたしの引用も、それはそれで、意味があるかもしれない。
というわけで、引用についてのひらきなおり。
朝日新聞に連載されている
津村記久子さんのコラム「となりの乗客」に、
わたしがすむ町の循環バスがでてきた。
島根の松江市の循環バスからの眺めは、最近よく動画サイトで視聴しているテキサスの市街地の車道からの風景に似ていたりもする。(「となりの乗客」〜世界の中の点〜より)
まさか、ひごろよくのっている循環バスからのながめが、
テキサスと似ているとはおもわなかった。
わたしは、毎週かならずこの循環バスにのっており、
窓からの景色をかなりよくしっているつもりだ。
地元の人間にとって、かわりばえのしないながめでしかない。
謙遜ではなく、ほんとうに、どこの町でもみかけそうな景色だ。
そんな日常風景を、いきなり津村さんに、
テキサスと松江市の車窓が似ているといわれておどろいた。
テキサスというと、サボテンがまばらにはえている砂漠で、
ところどころにおおきな看板がたっている
だだっぴろい空間を想像するけど、
市街地についていえば、松江市とかわらないらしい。
津村さんのコラムは、
遠く離れたある場所とある場所の類似のことを考えていると、どこにいようと人はおなじなのではないかと思えてくる。結局、それぞれが立っている場所が世界の中心なのだ。
とむすばれている。
似ているからつまらない、ではなく、
似ているのがあたりまえであり、
だからこそ いまたっている場所を
世界の中心と とらえられる。
似ているのだから、旅行なんかにでかけなくても、
自分のいる町で満足すればよさそうなものだけど、
それはまた、べつのはなし。
似ていると確信するには、でかけなければわからない。
そして、いまたっている場所が世界の中心に位置づける。
世界の中心は、ニューヨークでも渋谷でもなく、
自分がすむ町であり、テキサスの市街地なのだ。