夕ごはんになにをつくったのか、日記につけようとして、
モヤシとピーマンをごま油であえたのを、
どうよぶのかわからなくなった。
ナムルとナルム、どっちだったかな。
いつもはためらいなくかいているのに、
きのうはなんとなくひっかかり、
そうなると、どちらもほんとうらしくおもえる。
日本語ではないのだから、
おぼえようとしてもひっかかりがない。
ネットをみると、どっちでもいい、とある。
ずいぶんやわらかいナルムだかナムルだかのあつかいに
わたしはいいかんじをうける。
ものごと、これぐらいおおきくかまえなければ、
たいした仕事はできないのだ。
でも、よくかんがえてみると、
だれが「どっちでもいい」ときめたのだろう。
そうした判断を、だれが、どんなしくみで
くだしていくのかが気になってくる。
どっちでもいいけど。
原理主義的なひとからみれば、
モヤシとピーマンをゆでても、
それはナルム(あるいはナムル)ではなく、
ただの温野菜かもしれない。
あるいは、野菜をゆでて、ごま油をかければ、
ぜんぶナルムかもしれない。
ものごとの定義や名前は、
どのていどかちっとしていたほうがいいのか
むつかしいところだ。
断固ナルム(ナムル)派と、
どちらかというとナルム(ナムル)派と、
どっちでもいい派。
3つの派閥のうち、つきあいやすいのは、どのひとか。
ことばのみだれについて、批判する記事をときどき目にする。
それぞれの批判には、それなりの根拠があるのだろう。
ひとつの立場として、どこまでもゆるいとらえかたがあり
わたしはそっちのほうがすきだ。
「的を射る」でも「的を得る」でも
あと何年かたてば、両方OKになるかもしれない。
アボカドはアボガドではないと、
いまはきびしくとりしまわれているけど、
そのうち、「どっちでもいい」にかわるだろう。
「どうでもいい」「どっちでもいい」が、
わたしの基本的な方針となっている。