2017年11月30日

野宿映画としての『愛と哀しみの果て』

野宿伝道師であるかとうちあきさんが、
『イージーライダー』や『スタンド・バイ・ミー』を
「野宿映画」としてとらえていると、
すこしまえのブログで紹介した。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/453471813.html?1512051499
録画で『愛と哀しみの果て』をみていたら、
この作品もまた、「野宿映画」の王道をいっているのに気づいた。

かんたんにおさらいしておくと、
『愛と哀しみの果て』は、
第一次世界大戦前後のケニアが舞台で、
アフリカの自然のうつくしさだとか、
ヨーロッパ列強の植民地施策の具体的な例とか、
いろんなみかたができる。
わたしがすきなのは、レッドフォードとメリル=ストリープが、
サファリをしながら野宿をする場面だ。
野宿というよりも、ここは野営とよびたい。
車に山のようなキャンプ用品をつみ、
野営地につくと、イスとテーブルをならべ、
食事はもちろん同行するコックがつくってくれるし、
テーブルのうえにはワインやデザートのくだものがならぶ。
アフリカといえども、ケニアの高地はすずしいようで、
ひんやりと、かわいた空気のなかでするたき火は、
ひえはじめたからだを、ここちよくあたためてくれる。
こうしたゴージャスな野宿風景を、
かとうちあきさんが野宿とのであいとしていたら、
彼女の野宿観に、どんな影響をあたえただろう。
おそらく日本の野宿史は、おおきくぬりかえらるのではないか。

野宿というと、必要最低限の物資で、
禁欲的な一夜をすごす行為を想像しがちだけど、
『愛と哀しみの果て』での野宿風景は、
なんの気おいもかんじられない。
精神的にも金銭的にも貧乏なわたしは、
はげしいカルチャーショックをうけた。
なにしろ、100年まえのアフリカに、
母国でのスタイルそのままの夕ごはんをもちこんで、
食後のデザートには、優雅にオレンジの皮をむきながら
ゆたかな会話をたのしむのだ。
蓄音機まではこびだし、モーツァルトだってながす。
彼らにとってそれが野営であり、
疑問の余地のない、あたりまえな一夜のすごし方だ。

かとうさんが提唱する
できるだけものにたよらない野宿は、
これはこれでうつくしいけれど、
その対極にあるレッドフォードたちの野営もまた、
いちどは体験してみたい。
コンビニでかったつまみや発泡酒ではなく、
バケツ(ワインクーラー)でワインをひやし、
手をぬかないフルコースをサファリで味わう。
家ですごす夜を、そのままサファリにもちこむ。

最近の傾向として、広々としたテントや、
家にあるような電気製品にたよった
快適なキャンプが人気をあつめているけど、
『愛と哀しみの果て』の野営は それとは微妙にちがう。
レッドフォードたちは、自然をいじくろうとはせず、
アフリカのきびしい環境を、そのままうけいれていた。
日本ではやりつつあるキャンプは、
自分の部屋でねていないだけで、
精神は、家でのくらしをそのままひきずっている。
ゴージャスにすごそうとするところが
かえって貧乏にうつる。

posted by カルピス at 23:10 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする