野宿伝道師であるかとうちあきさんが、
『イージーライダー』や『スタンド・バイ・ミー』を
「野宿映画」としてとらえていると、
すこしまえのブログで紹介した。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/453471813.html?1512051499
録画で『愛と哀しみの果て』をみていたら、
この作品もまた、「野宿映画」の王道をいっているのに気づいた。
かんたんにおさらいしておくと、
『愛と哀しみの果て』は、
第一次世界大戦前後のケニアが舞台で、
アフリカの自然のうつくしさだとか、
ヨーロッパ列強の植民地施策の具体的な例とか、
いろんなみかたができる。
わたしがすきなのは、レッドフォードとメリル=ストリープが、
サファリをしながら野宿をする場面だ。
野宿というよりも、ここは野営とよびたい。
車に山のようなキャンプ用品をつみ、
野営地につくと、イスとテーブルをならべ、
食事はもちろん同行するコックがつくってくれるし、
テーブルのうえにはワインやデザートのくだものがならぶ。
アフリカといえども、ケニアの高地はすずしいようで、
ひんやりと、かわいた空気のなかでするたき火は、
ひえはじめたからだを、ここちよくあたためてくれる。
こうしたゴージャスな野宿風景を、
かとうちあきさんが野宿とのであいとしていたら、
彼女の野宿観に、どんな影響をあたえただろう。
おそらく日本の野宿史は、おおきくぬりかえらるのではないか。
野宿というと、必要最低限の物資で、
禁欲的な一夜をすごす行為を想像しがちだけど、
『愛と哀しみの果て』での野宿風景は、
なんの気おいもかんじられない。
精神的にも金銭的にも貧乏なわたしは、
はげしいカルチャーショックをうけた。
なにしろ、100年まえのアフリカに、
母国でのスタイルそのままの夕ごはんをもちこんで、
食後のデザートには、優雅にオレンジの皮をむきながら
ゆたかな会話をたのしむのだ。
蓄音機まではこびだし、モーツァルトだってながす。
彼らにとってそれが野営であり、
疑問の余地のない、あたりまえな一夜のすごし方だ。
かとうさんが提唱する
できるだけものにたよらない野宿は、
これはこれでうつくしいけれど、
その対極にあるレッドフォードたちの野営もまた、
いちどは体験してみたい。
コンビニでかったつまみや発泡酒ではなく、
バケツ(ワインクーラー)でワインをひやし、
手をぬかないフルコースをサファリで味わう。
家ですごす夜を、そのままサファリにもちこむ。
最近の傾向として、広々としたテントや、
家にあるような電気製品にたよった
快適なキャンプが人気をあつめているけど、
『愛と哀しみの果て』の野営は それとは微妙にちがう。
レッドフォードたちは、自然をいじくろうとはせず、
アフリカのきびしい環境を、そのままうけいれていた。
日本ではやりつつあるキャンプは、
自分の部屋でねていないだけで、
精神は、家でのくらしをそのままひきずっている。
ゴージャスにすごそうとするところが
かえって貧乏にうつる。