梅棹忠夫さんたちの学術調査隊が
1957から58年にかけておとずれたコースを
ほんのすこしだけかすめている。
ひさしぶりに『東南アジア紀行』(中公文庫)をひっぱりだしてみた。
タイの最高峰、ドーイ=インタノンをのぼろうと、
調査隊はチェンマイから西へむかう。
とちゅうでおとずれたメー=ホーイの村では、
学校の先生のおうちにひとばんとめてもらう。
「村」といっても、20戸ばかりの農家がちらばる ごくちいさな農村だ。
多少とも近代化され、知識もあるいなかの人には、しばしば鼻もちならぬキザな人物がいるものである。しかし、ここの先生には、みじんもそういうところがなかった。かれは、われわれに対しても、村の人に対しても、礼儀ただしく、ひかえ目で、しかもあいそがよかった。せまってくる近代の波に足をすくわれることなく、タイの農村の伝統の上にしっかりと足をふまえて立って、しかも着実に村の進歩のための一つの中心になっている。
「せまってくる近代の波に足をすくわれることなく」
のことばえらびがうつくしい。
チェンマイの営林局が梅棹さんたちの調査隊に同行させたサイヤン氏について、
メー・ホーイから上の荷物の輸送のために、ウマを集めなければならぬ。この地方の事情としては、それはなかなかむつかしいことだった。その問題が、サイヤンが腕を発揮する最初の機会になった。かれは、小川、葉山とともに先行して、その交渉に当ったのだが、その判断の正しさと、処置の的確さとで、たちまたわたしたちのあいだで信用を得てしまった。
かれは、有能というだけではない。人間としてのかれの誠実が、なによりもわれわれをひきつけるのである。しかも、かれはユーモアを解する。
「人間としてのかれの誠実が、なによりもわれわれをひきつけるのである」
なんと的をいた人物観察だろう。
30年まえに、はじめてこの本をよんだとき、
手に汗にぎる探検でないためか、わたしにはたいくつな記述がおおく、
おもしろそうな項目をもとめて いいかげんにページをめくった。
しかし、すこしおとなになってから ふたたび手にとってみると、
よめばよむほど、味がでてくる本なのがわかった。
よむたびに、あたらしい場面にひかれる。
なんで、これまでみすごしていたのだろう。
東南アジアの歴史をわかりやすく紹介しつつ、
梅棹さんが旅行で目にした事実から、仮説をたてる。
この調査隊がタイをまわったのは、
60年もむかしのはなしなのに、ちっともふるびていない。
梅棹さんほど ふかい教養と行動力をかねそなえていなければ、
これだけの探検記はなかなかかけないのだろう。