職場の生活介護担当のグループが、
節分にむけて鬼をつくっていた。
鬼のお面をつくるのが、年中行事のようになっており、
まいとし、工夫をこらして
おおきく、こわそうな鬼ができあがっている。
でも、ことしの鬼は、車イスがすっぽりはいる大作だ。
ダンボールでつくられており、
このまま車イスにかぶせられるおおきさとなっている。
電動車いすをつかっているひとが、
節分の日に主役となれるよう、
職員たちがかんがえたという。
にげる側だった車イスにのっている利用者を、
発想を転換させ、鬼の役をまかせるというのは、
すばらしいアイデアだとおもった。
鬼の箱をかぶってしまうと、
自分がどんな「鬼」なのかはみえないけど、
まわりの反応から、どれだけすごい鬼なのかわかるはずだ。
できればエアガンの機関銃も発射できたら、
とおもったけど、
そうした武器で「おにわそと」の豆に抵抗するのは
反則かもしれない。
ただでさえ、
「なぜ桃太郎はなにもしていない鬼をいじめるのか」など、
根源的な疑問がなげかけられるご時世であり、
桃太郎は侵略者として人気がなくなっているときく。
節分にやってくる鬼だって、なにもわるさをしていないのに、
一方的に豆をなげつけられるソンな役わりだ。
でも、やられたらやりかえす、では
平和的な世界征服につながらない。
ほんとうの悪役にならないためにも、
豆をぶつけられたからといって、
へんにエアガンなどで
へたに反撃しないほうがいいかもしれない。
わたしは年中行事にかかわる創作活動がにが手で、
まいとしおなじようなものをつくってはこわすのに
むなしさをかんじていた。
でも、こんかいのような車イス対応の鬼だったら、
だれもが鬼になっておどかす側にたてるとおもえば、
たのしんで鬼をつくれる。
あそびゴコロを満足させる巨大な鬼の出現に感心した。