『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
ふるい商店街にある「ル・ジュール」は、
朝・昼・夜と、時間帯により 3つのお店にかわる。
店主は三人姉妹の朝日・まひる・夜月。
朝はモーニングをだす喫茶店、
昼はとびきりおいしいさぬきうどん店で、
夜は しめのごはんがうりもののスナックだ。
三姉妹とも美人で、それぞれの店に
熱心な常連客がついている。
web本の雑誌にのった原田ひ香さんの「作家の読書道」をよむと、
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi191_harada/index.html
原田さんはたくさんの本をよんできただけでなく、
シナリオの勉強もされてきたそうだ。
そういわれると、原田さんの作品は、
いれものが あらかじめしっかりと設定されているようにおもえる。
三姉妹による形態のちがう3つの店や、
ふるい商店街の歴史やさびれ方など、
ものがたりをおもしろくするしかけがあちこちにおかれ、
そのなかで 登場人物が状況をいかしてうごきまわる。
ただ、うまいなーとはおもうものの、
でてくる人物が、自分たちでかってにうごきまわるほどの
のびやかさはかんじなかった。
はじめの設定をはみだすぐらい、
登場人物は自由にあばれてほしい。
5話からなる連作短編で、最終話で大団円におちついた。
すこしひねったなぞが伏線として配置されており、
そんなにうまくきまった、とまではおもわないけど、
さいごまでおもしろくよませてくれた。
ただ、原田ひ香さんの実力をもってすれば、
もうひとひねり期待したくなる。
夜月がいなくなったあと、
彼女のスナックをまひるがひきつぐのだけど、
夜月が客にだしていたようなぬけづけが
どうしてもつくれない。
いろいろ工夫してもだめなので、まひるはおちこんでいた。
夜月がもどってきたときに、
つけもののつくり方をたずねたら、
こたえはなんと「味の素をかける」だった。
おいしさの謎なんて、そんなものかもしれない。
2018年02月28日
2018年02月27日
なんちゃって主夫による日記みたいなグチ
職場からのかえりにスーパーでかいものをすませる。
夕ごはん3人分の材料代として、1740円つかった。
きのうしりあいからフキノトウをもらったので、
その天ぷらと、ついでにごぼうとニンジンの
かきあげをつくるつもり。
ほかにも、
・八宝菜(のような野菜いため)
・カブの煮物
・ツバス(ハマチのちいさいの)と大根のアラだき、
・ササミのピカタ
・しめじとモヤシのいためもの
をつくる。
それらがだいたいできあがったところで、
メインとなるフキノトウの天ぷらと、
かきあげにとりかかる。
天ぷらをうまくつくれないので、天ぷら粉にたよる。
うすくしすぎたようで、ほとんどコロモがつかない。
かきかげのほうは、あんがいまともなのができた。
天ぷらのほかに、きょうは納豆づくりをこころみた。
3ついりのおかめ納豆(90円ていど)を、
ほぼ毎日かっているので、納豆を自分でつくれたら、
ずいぶん節約になるとおもった。
きょねんできた大豆が4キロあるので、
納豆の材料としては1年くらいもつだろう(テキトーな計算です)。
ひとばん水につけた大豆をなべにいれて
やわらかくなるまで煮る。
お湯をすて、40℃くらいにさめてから、
おかめ納豆の半パックぶんを、煮こんだ大豆にまぜた。
そのあとタッパーにうつし、こたつにいれて できあがるまでまつ。
うまくいけば、あすの夜には
納豆(のようなもの)になっているはずだ。
ほんとはもっと消毒に気をつかってしこむみたいだけど、
おおざっぱなわたしはレシピどおりにつくれない。
面倒な工程は、自分の解釈で、簡素化している。
家についてから たべはじめるのに1時間半かかり、
テレビをみながらダラダラたべて、
かたづけると9時になっている。
夕ごはんのために、3時間もつかうなんて、
ぜいたくというよりも、ただのムダづかいにおもえてきた。
今夜は天ぷらと納豆をつくったので、なおさらだけど、
ほかの日だって、だいたいにたようなもので、
いちにちのおわりをたのしむはずの夜が、すぐにふかまってしまう。
一汁一菜でぱぱぱっと夕ごはんをすませたほうがよくないか。
つかれると、とたんにやる気をうしない、グチっぽくなる。
グチをいうくらいなら、もっと手をぬいた生活のほうがいい。
夕ごはん3人分の材料代として、1740円つかった。
きのうしりあいからフキノトウをもらったので、
その天ぷらと、ついでにごぼうとニンジンの
かきあげをつくるつもり。
ほかにも、
・八宝菜(のような野菜いため)
・カブの煮物
・ツバス(ハマチのちいさいの)と大根のアラだき、
・ササミのピカタ
・しめじとモヤシのいためもの
をつくる。
それらがだいたいできあがったところで、
メインとなるフキノトウの天ぷらと、
かきあげにとりかかる。
天ぷらをうまくつくれないので、天ぷら粉にたよる。
うすくしすぎたようで、ほとんどコロモがつかない。
かきかげのほうは、あんがいまともなのができた。
天ぷらのほかに、きょうは納豆づくりをこころみた。
3ついりのおかめ納豆(90円ていど)を、
ほぼ毎日かっているので、納豆を自分でつくれたら、
ずいぶん節約になるとおもった。
きょねんできた大豆が4キロあるので、
納豆の材料としては1年くらいもつだろう(テキトーな計算です)。
ひとばん水につけた大豆をなべにいれて
やわらかくなるまで煮る。
お湯をすて、40℃くらいにさめてから、
おかめ納豆の半パックぶんを、煮こんだ大豆にまぜた。
そのあとタッパーにうつし、こたつにいれて できあがるまでまつ。
うまくいけば、あすの夜には
納豆(のようなもの)になっているはずだ。
ほんとはもっと消毒に気をつかってしこむみたいだけど、
おおざっぱなわたしはレシピどおりにつくれない。
面倒な工程は、自分の解釈で、簡素化している。
家についてから たべはじめるのに1時間半かかり、
テレビをみながらダラダラたべて、
かたづけると9時になっている。
夕ごはんのために、3時間もつかうなんて、
ぜいたくというよりも、ただのムダづかいにおもえてきた。
今夜は天ぷらと納豆をつくったので、なおさらだけど、
ほかの日だって、だいたいにたようなもので、
いちにちのおわりをたのしむはずの夜が、すぐにふかまってしまう。
一汁一菜でぱぱぱっと夕ごはんをすませたほうがよくないか。
つかれると、とたんにやる気をうしない、グチっぽくなる。
グチをいうくらいなら、もっと手をぬいた生活のほうがいい。
2018年02月26日
図書館でかりた本すべてに目をとおす方法
本棚には、まだよんでない本がたくさんありながら、
そのうえにブックオフで100円本を気ままにかったり、
さらに図書館へも定期的に足をはこび、
目についたおもしろそうな本を、
おそらくよめないとおもいつつ、かりてきたりする。
で、それらを本棚にならべておいても、
あっというまに貸出期間の2週間がたって、
本をいちどもひらかずに かえすことがたびたびあった。
最近になって、図書館でかりた本とのつきあい方を発見した。
ぜんぶよもうとするからダメなのであって、
ゼロよりもましな程度、ほんのすこしだけよんでみようと、
ページをひらいてみれば、これがあんがいよむきっかけになる。
大切なのは、とにかく手にとり、よみはじめてみること。
すこしでもよめば、そのさきへとつづいたりする。
自分にあわないとおもったら、途中でやめてもいいし、
おもしろければ、そのさきどんな時間配分で、
この本とつきあっていけばいいのか、みとおしがもてる。
机のよこに、「つんどく」してある本は、
ながめているだけでは絶対によめないけど、
手にとって、ほんの数ページよんでみると、
その本が、どんな本なのか多少でも見当がつく。
全部よまないうちに、自分にあうかあわないかの結論をだすのは、
なんだかバーナード嬢みたいだけど、
まったくよまないうちに、図書館へかえすよりはずっとましだ。
仕事をおわらせるには、とにかくとりかかることだとよくいわれる。
身もふたもないようなアドバイスだけど、
たしかに、いったん ほんのすこしでも手をつけると、
もっとそのさきまで つづけたくなる。
これは、仕事をすすめるうえでのコツかとおもっていたら、
読書についてもおなじ威力を発揮するし、
さらにはとりためた録画もおなじだった。
「ちょっとだけ」みるつもりで、すこしでも再生すれば
おおくの作品にひきこまれだろう。
なんであれ、とにかく手をつけてみる。
そのあとはおのずと道がひらかれる。
そのうえにブックオフで100円本を気ままにかったり、
さらに図書館へも定期的に足をはこび、
目についたおもしろそうな本を、
おそらくよめないとおもいつつ、かりてきたりする。
で、それらを本棚にならべておいても、
あっというまに貸出期間の2週間がたって、
本をいちどもひらかずに かえすことがたびたびあった。
最近になって、図書館でかりた本とのつきあい方を発見した。
ぜんぶよもうとするからダメなのであって、
ゼロよりもましな程度、ほんのすこしだけよんでみようと、
ページをひらいてみれば、これがあんがいよむきっかけになる。
大切なのは、とにかく手にとり、よみはじめてみること。
すこしでもよめば、そのさきへとつづいたりする。
自分にあわないとおもったら、途中でやめてもいいし、
おもしろければ、そのさきどんな時間配分で、
この本とつきあっていけばいいのか、みとおしがもてる。
机のよこに、「つんどく」してある本は、
ながめているだけでは絶対によめないけど、
手にとって、ほんの数ページよんでみると、
その本が、どんな本なのか多少でも見当がつく。
全部よまないうちに、自分にあうかあわないかの結論をだすのは、
なんだかバーナード嬢みたいだけど、
まったくよまないうちに、図書館へかえすよりはずっとましだ。
仕事をおわらせるには、とにかくとりかかることだとよくいわれる。
身もふたもないようなアドバイスだけど、
たしかに、いったん ほんのすこしでも手をつけると、
もっとそのさきまで つづけたくなる。
これは、仕事をすすめるうえでのコツかとおもっていたら、
読書についてもおなじ威力を発揮するし、
さらにはとりためた録画もおなじだった。
「ちょっとだけ」みるつもりで、すこしでも再生すれば
おおくの作品にひきこまれだろう。
なんであれ、とにかく手をつけてみる。
そのあとはおのずと道がひらかれる。
2018年02月25日
『HANA-BI』たけし、かっこいー! につきる作品
『HANA-BI』(北野たけし:監督・1998年・日本)
大杉蓮さんがなくなった。
録画してあった『HANA-BI』をみる。
たけしがかっこいい。
独特の表情・姿勢・あるき方、
たたずまいのすべてが絵になる。
ちょっとくずしたスーツのきこなし、ちいさなサングラス。
口のはしっこを うえにもちあげるわらい方。
なにをやってもさまになる。
これだけ存在感のある俳優は そういない。
たけし主演でなければ なりたたない作品だ。
説明がなく、ストーリーがわかりにくいのに、
映画がはじまると、つよいちからでひきこまれる。
警察署で尋問する場面をみて、
やっとこのひとたちは刑事だったのかと理解した。
ヤクザと警察って、服装や話し方をふくめ、
けっこうにたような性格のひとがおおいのでは。
銃にふなれな日本社会において、
たけしみたいにためらいなく銃をぶっぱなしたり
ハシやら石やらを即興の武器になぐりつけたら、
先制攻撃になれてない相手はたいへんだ。
全編にちりばめられた暴力シーンが残酷なのに、
全体として、とてもしずかな印象をのこす。
へんないいかただけど、こころがきよめられた気がする。
わたしがかかえている問題なんて
とるにたらないことばかりだ。
たけしと岸本加世子のしずかな関係がよかった。
たけしはひたすら妻にやさしい。
妻は、ほとんどしゃべらないけど、
夫がそばにいてくれることに感謝している。
わたしも、死ぬまえは、こんな関係を
配偶者ときずきたいとおもった。
彼女はめったに口をきかないので、
しずけさについては いまでも準備オッケーだ。
愛する妻とふたりで、さいごの時間をひっそりとすごす。
最高だ。
大杉蓮さんがなくなった。
録画してあった『HANA-BI』をみる。
たけしがかっこいい。
独特の表情・姿勢・あるき方、
たたずまいのすべてが絵になる。
ちょっとくずしたスーツのきこなし、ちいさなサングラス。
口のはしっこを うえにもちあげるわらい方。
なにをやってもさまになる。
これだけ存在感のある俳優は そういない。
たけし主演でなければ なりたたない作品だ。
説明がなく、ストーリーがわかりにくいのに、
映画がはじまると、つよいちからでひきこまれる。
警察署で尋問する場面をみて、
やっとこのひとたちは刑事だったのかと理解した。
ヤクザと警察って、服装や話し方をふくめ、
けっこうにたような性格のひとがおおいのでは。
銃にふなれな日本社会において、
たけしみたいにためらいなく銃をぶっぱなしたり
ハシやら石やらを即興の武器になぐりつけたら、
先制攻撃になれてない相手はたいへんだ。
全編にちりばめられた暴力シーンが残酷なのに、
全体として、とてもしずかな印象をのこす。
へんないいかただけど、こころがきよめられた気がする。
わたしがかかえている問題なんて
とるにたらないことばかりだ。
たけしと岸本加世子のしずかな関係がよかった。
たけしはひたすら妻にやさしい。
妻は、ほとんどしゃべらないけど、
夫がそばにいてくれることに感謝している。
わたしも、死ぬまえは、こんな関係を
配偶者ときずきたいとおもった。
彼女はめったに口をきかないので、
しずけさについては いまでも準備オッケーだ。
愛する妻とふたりで、さいごの時間をひっそりとすごす。
最高だ。
2018年02月24日
糸井さんによる新発見「うっすらと悲しいことがあるとき、人は・・・」
せんじつの「今日のダーリン」(ほぼ日)に、
と糸井さんがかいている。
「うっすら悲しい」がうまい。
たしかに、それほど深刻ではないけれど、
なんとなくかなしい・さみしいというときの気分は、
「うっすら」ということばがぴったりくる。
「なんとなく」とおなじ意味だけど、
もうすこしあやふやな気もちがうまくあらわれている。
「うっすら悲しい」気分はよくわかるけど、
それで大食に走るというのが
ほんとうのところ わたしにはピンとこない。
ただ、「うっすら悲しい」と、大食がむすびつくと、
いかにもかくされていた真理のような気がして感心した。
発見には、こうしたいきおいというか、
もっともらしさがあると説得力がます。
「うっすら」でおもいだすのが、
椎名誠さんがときどきつかう「うすらバカ」だ。
椎名さんの友人である 沢野ひとしさんのことをいうみたいで、
きっぱりとした「バカ」よりも、
うすらバカのほうが もっと本質的なおろかさをかんじる。
「うすらバカ」。
すごくものかなしいし、へなへなとちからがぬける。
「うっすら」より「うすら」は、
さらに悪意がつよまるのではないか。
「うっすら」には、相手へのリスペクトがあるけど、
「うすら」は問答無用にきりすてている。
「うっすら悲しい」はマルだけど、
うすらバカとよばれるのは おことわりしたい。
うっすらと悲しいことがあるとき、
人はうれしくもない大食に走る。
と糸井さんがかいている。
「うっすら悲しい」がうまい。
たしかに、それほど深刻ではないけれど、
なんとなくかなしい・さみしいというときの気分は、
「うっすら」ということばがぴったりくる。
「なんとなく」とおなじ意味だけど、
もうすこしあやふやな気もちがうまくあらわれている。
「うっすら悲しい」気分はよくわかるけど、
それで大食に走るというのが
ほんとうのところ わたしにはピンとこない。
ただ、「うっすら悲しい」と、大食がむすびつくと、
いかにもかくされていた真理のような気がして感心した。
発見には、こうしたいきおいというか、
もっともらしさがあると説得力がます。
「うっすら」でおもいだすのが、
椎名誠さんがときどきつかう「うすらバカ」だ。
椎名さんの友人である 沢野ひとしさんのことをいうみたいで、
きっぱりとした「バカ」よりも、
うすらバカのほうが もっと本質的なおろかさをかんじる。
「うすらバカ」。
すごくものかなしいし、へなへなとちからがぬける。
「うっすら」より「うすら」は、
さらに悪意がつよまるのではないか。
「うっすら」には、相手へのリスペクトがあるけど、
「うすら」は問答無用にきりすてている。
「うっすら悲しい」はマルだけど、
うすらバカとよばれるのは おことわりしたい。
2018年02月23日
「作家の読者道」に登場した原田ひ香さん
「web本の雑誌」の作家の読者道に、原田ひ香さんが登場した。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi191_harada/index.html
いまちょうど原田さんの『三人屋』をよんでいるところで、
すきな作家だけに、これまでの「読者道」が気になる。
瀧井朝世さんによるインタビューをよみ、
これは、とおもうヶ所を つぎつぎとエバーノートにコピべする。
むかし京大型カードをつかいはじめたころは、
自分の気づきやアイデアではなく、
よんでいる本の大切なところをかきうつしていた。
もちろんすごくたいへんだし、そのあと
カードどうしをくみあわせようもなく、
ほとんど意味がなかったけど、
パソコンでよみながら、
エバーノートにコピべするのはすごくらくだ。
そのためにエバーノートはあるような気がしてくる。
できあがるノートを、どうつかうかは わからないけど。
村上春樹さんの作品、しかもわたしとこのみがにており、
『羊をめぐる冒険』と『ハードボイルド・ワンダーランド』がすきで、
本多勝一さんの『極限の民族』をよくおもいだすという。
わたしとおなじような「読者道」(もちろん質はちがうけど)を
あゆんでこられているのをしり うれしくなる。
「私が読みたいし書きたいのはこういう話だよ」
という発見もすばらしい。
いまのいちにちのすごし方をたずねられると、
カフェですごす時間がながいようで、
毎日となれば それなりにお金がかかりそうだ。
原田さんの作品には、経済的にきちっとしたひとがよくでてくるので、
お金がなくてたいへん、という生活を、
よくしっているひとだとおみうけする。
いまどんな生活をしていようと、お金を節約して本をかった時代が
基本になっている気がする。
節約とか贅沢とかではなく、いまもっているお金の価値と、
じょうずにつきあっていけるひとなのだろう。
原田さんの本には、いくぶんかわった女性がでてくるけど、
原田さん自身は結婚されており、
主婦として配偶者の食事やお弁当を用意したりする。
そこらへんのギャップと、どうおりあいをつけているのか不思議だ。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi191_harada/index.html
いまちょうど原田さんの『三人屋』をよんでいるところで、
すきな作家だけに、これまでの「読者道」が気になる。
瀧井朝世さんによるインタビューをよみ、
これは、とおもうヶ所を つぎつぎとエバーノートにコピべする。
むかし京大型カードをつかいはじめたころは、
自分の気づきやアイデアではなく、
よんでいる本の大切なところをかきうつしていた。
もちろんすごくたいへんだし、そのあと
カードどうしをくみあわせようもなく、
ほとんど意味がなかったけど、
パソコンでよみながら、
エバーノートにコピべするのはすごくらくだ。
そのためにエバーノートはあるような気がしてくる。
できあがるノートを、どうつかうかは わからないけど。
私は『羊をめぐる冒険』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のあたりが一番好きで繰り返し読みました。実は自分の作品に一番影響を受けているのは村上春樹さんだなって自分では思っているんですけれど、誰も言ってくれないんです(笑)。
その時に持っていった本が、保坂和志さんの『カンバセーション・ピース』でした。 久し振りに読む純文学でした。それまで(いそがしすぎて)村上春樹さんの新刊も時間がなくて読めないような状態だったんです。『カンバセーション・ピース』はずっと会話が続 いていて、ドラマになるような話じゃなかった。それで「もうドラマになるような話はもう読みたくないな」「私が読みたいし書きたいのはこういう話だよ」っ てすごく思って。
――ノンフィクションもたくさん読む、と前にうかがいましたが、好きな本はありますか。
原田:一番古い記憶は、本多勝一さんの『極限の民族』という本になりますね。
村上春樹さんの作品、しかもわたしとこのみがにており、
『羊をめぐる冒険』と『ハードボイルド・ワンダーランド』がすきで、
本多勝一さんの『極限の民族』をよくおもいだすという。
わたしとおなじような「読者道」(もちろん質はちがうけど)を
あゆんでこられているのをしり うれしくなる。
「私が読みたいし書きたいのはこういう話だよ」
という発見もすばらしい。
いまのいちにちのすごし方をたずねられると、
カフェですごす時間がながいようで、
毎日となれば それなりにお金がかかりそうだ。
原田さんの作品には、経済的にきちっとしたひとがよくでてくるので、
お金がなくてたいへん、という生活を、
よくしっているひとだとおみうけする。
いまどんな生活をしていようと、お金を節約して本をかった時代が
基本になっている気がする。
節約とか贅沢とかではなく、いまもっているお金の価値と、
じょうずにつきあっていけるひとなのだろう。
原田さんの本には、いくぶんかわった女性がでてくるけど、
原田さん自身は結婚されており、
主婦として配偶者の食事やお弁当を用意したりする。
そこらへんのギャップと、どうおりあいをつけているのか不思議だ。
2018年02月22日
椎名誠さんの「(死への)憧れと怖さ」に共感する
すこしまえの朝日新聞で、
椎名誠さんのひととなりが連載されていた。
14回目の最終回では、老いについてかたっている。
わたしはまだ50代で、椎名さんとは17歳はなれているけど、
「目が覚めなくてもいい」気もちはよくわかる。
胃がいたかったり、ひどいふつかよいだったり、
なんだかんだと体調がすぐれないときなど、
いや、そんなたいそうな症状でなくても、
たべすぎてくるしい、肩のいたみがわずらわしいとき、
もうこのまま死んでもいいか、とおもうことがある。
歯周病や前立腺癌、脳梗塞に高血圧など、
歳をとると病気にかかるリスクがたかくなる。
それらにおびえながら生きるより、
はっきり「余命半年」といわれたら、
がっかりするだけでなく、まえむきにうけとめる気もちが
すこしまざるような気がする。
もちろんいつもそんな気分なわけではないけど、
ときどき、たしかになにもかもがめんどくさい。
きっと、こころがよわいのだろう。
はやく死にたいわけではないけど、
かといって ながいきをそれほどねがってはいない。
死ぬことがきまったら、まだうごけるうちに、
お金をかきあつめて、気ままに旅行するのが
わたしの「死ぬまでにやっておきたい10のこと」の
トップバッターにひかえている。
町内会の仕事や、母親の世話など、
いくつかのしがらみがあるけれど、
余命がはっきりしている病人となれば、
たいていの要求はかなえてもらえるだろう。
死がちかづいてくるときは、
からだぜんたいが しだいにおとろえるとしたら、
いたみやくるしみさえなければ、
おだやかなさいごにならないだろうか。
土地の名物料理をまえに、たべられなくてくやしい、
とかはあんがいなくて、
もうなにもごちそうはいりません、
という枯れた心境にたどりついているのでは。
やりたいことを たとえやりつくしていなくても、
それはそれで、いい人生だったとうけとめられる気がする。
◯◯しておけばよかった、とおもうだけのげんきが
死ぬまえは すでにないので、きっとおだやかにむこうへいける。
椎名誠さんのひととなりが連載されていた。
14回目の最終回では、老いについてかたっている。
体は昔から健康優良児で頑健、それだけに肉体の衰えはつらい。わびしいですね。階段を上がるときも「よいしょ」とか言っちゃう。
死は怖いか?正直いいますが憧れと怖さが半分ずつですね。面倒くさいことがある日の前夜は目が覚めなくてもいいと思いますしね。
わたしはまだ50代で、椎名さんとは17歳はなれているけど、
「目が覚めなくてもいい」気もちはよくわかる。
胃がいたかったり、ひどいふつかよいだったり、
なんだかんだと体調がすぐれないときなど、
いや、そんなたいそうな症状でなくても、
たべすぎてくるしい、肩のいたみがわずらわしいとき、
もうこのまま死んでもいいか、とおもうことがある。
歯周病や前立腺癌、脳梗塞に高血圧など、
歳をとると病気にかかるリスクがたかくなる。
それらにおびえながら生きるより、
はっきり「余命半年」といわれたら、
がっかりするだけでなく、まえむきにうけとめる気もちが
すこしまざるような気がする。
もちろんいつもそんな気分なわけではないけど、
ときどき、たしかになにもかもがめんどくさい。
きっと、こころがよわいのだろう。
はやく死にたいわけではないけど、
かといって ながいきをそれほどねがってはいない。
死ぬことがきまったら、まだうごけるうちに、
お金をかきあつめて、気ままに旅行するのが
わたしの「死ぬまでにやっておきたい10のこと」の
トップバッターにひかえている。
町内会の仕事や、母親の世話など、
いくつかのしがらみがあるけれど、
余命がはっきりしている病人となれば、
たいていの要求はかなえてもらえるだろう。
死がちかづいてくるときは、
からだぜんたいが しだいにおとろえるとしたら、
いたみやくるしみさえなければ、
おだやかなさいごにならないだろうか。
土地の名物料理をまえに、たべられなくてくやしい、
とかはあんがいなくて、
もうなにもごちそうはいりません、
という枯れた心境にたどりついているのでは。
やりたいことを たとえやりつくしていなくても、
それはそれで、いい人生だったとうけとめられる気がする。
◯◯しておけばよかった、とおもうだけのげんきが
死ぬまえは すでにないので、きっとおだやかにむこうへいける。
2018年02月21日
もっといい加減に巡礼をきめてもいいのでは
せんじつの記事に、しりあいの女性が
サンチャゴ=デ=コンポステーラ巡礼にでかける、とかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/456796096.html?1519217268
あれからときどき、なぜわたしは
彼女といっしょにいこうとしないのかをかんがえる。
わたしはほんとうにサンチャゴ巡礼をする気があるのか。
このはなしがでたあつまりに、わたしの職場の理事長もいて、
わたしがむすこへのしおくりを理由に
「いまはまだいけない」というと
「お金なら法人からかしますよ」と
わたしをたきつけた。
従業員があそびで巡礼へいくお金をかしてくれるなんて、
ありえないほど すばらしい職場であり理事長だ。
わたしが巡礼であるいている2ヶ月のあいだ、
職場はひとのやりくりにこまるだろうに、
ためらいなくそんな提案をしてくれる。
理事長は冗談でいっているのではなく、
わたしが「じゃあお金をかしてください」といえば、
すんなりとおるのはわかっていた。
100マイルマラソンに出場するとか
北極点をめざそうという場合は、
長期計画が必要だろうけど、
巡礼の旅ぐらいなら、いきおいでやったほうがいいのでは。
友人がいくといったら、「じゃ、おれも」、
というのりのほうが ただしいこころがまえであり、
かんがえないぶん 実行にうつしやすい。
何年も準備をして、お金をためて、装備をそろえて、
なんてやっていると、どうでもいい欲がいろいろくっついてきて
じっさいのうごきがにぶくなる。
すこしまえの今日のダーリンに、糸井さんが
とかいている。
なんだかんだと いきにくい理由をかんがえていると、
からだはどんどん歳をとっていくし、
親の介護が必要となり、2ヶ月も家をあけられなくなるかもしれない。
いちばんうごきやすいのは「いま」なのだ。
機が熟すのをまつ、というかんがえ方もあるわけだけど、
「仕事だとか用事だとかの境目が、もっといい加減」
でもいいわけで、
この意味を、職場の理事長は ただしく理解している。
とはいえ、やっぱりおれ、いきます、とは
いまさらいいにくいなー。
サンチャゴ=デ=コンポステーラ巡礼にでかける、とかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/456796096.html?1519217268
あれからときどき、なぜわたしは
彼女といっしょにいこうとしないのかをかんがえる。
わたしはほんとうにサンチャゴ巡礼をする気があるのか。
このはなしがでたあつまりに、わたしの職場の理事長もいて、
わたしがむすこへのしおくりを理由に
「いまはまだいけない」というと
「お金なら法人からかしますよ」と
わたしをたきつけた。
従業員があそびで巡礼へいくお金をかしてくれるなんて、
ありえないほど すばらしい職場であり理事長だ。
わたしが巡礼であるいている2ヶ月のあいだ、
職場はひとのやりくりにこまるだろうに、
ためらいなくそんな提案をしてくれる。
理事長は冗談でいっているのではなく、
わたしが「じゃあお金をかしてください」といえば、
すんなりとおるのはわかっていた。
100マイルマラソンに出場するとか
北極点をめざそうという場合は、
長期計画が必要だろうけど、
巡礼の旅ぐらいなら、いきおいでやったほうがいいのでは。
友人がいくといったら、「じゃ、おれも」、
というのりのほうが ただしいこころがまえであり、
かんがえないぶん 実行にうつしやすい。
何年も準備をして、お金をためて、装備をそろえて、
なんてやっていると、どうでもいい欲がいろいろくっついてきて
じっさいのうごきがにぶくなる。
すこしまえの今日のダーリンに、糸井さんが
(まえは)なんかの関係だとか仕事だとか用事だとかの境目が、
もっといい加減だったなぁとつくづく思います。
とかいている。
ここは由布院です。
(中略)なにかのときに「じゃ、ぼくも行きます」と言って、
それが本当になってしまったのです。
昔はよくこういうことがあったなぁと思い出します。
中国に行ったのも、北極圏に行ったのも、こんな感じ。
なんだかんだと いきにくい理由をかんがえていると、
からだはどんどん歳をとっていくし、
親の介護が必要となり、2ヶ月も家をあけられなくなるかもしれない。
いちばんうごきやすいのは「いま」なのだ。
機が熟すのをまつ、というかんがえ方もあるわけだけど、
「仕事だとか用事だとかの境目が、もっといい加減」
でもいいわけで、
この意味を、職場の理事長は ただしく理解している。
とはいえ、やっぱりおれ、いきます、とは
いまさらいいにくいなー。
2018年02月20日
「観たぞ、平昌オリンピック」への報告「歯ブラシを持ってきてくれる旦那」
ほぼ日のサイト、「観たぞ、平昌オリンピック」が
いつもながらもりあがっている。
http://www.1101.com/pyeongchang2018/2018-02-19.html
にわかにファンとなり、あついおもいで応援をおくるひとたちが、
気づいたこと・おどろいとことを「観たぞ」におくってくる。
2004年のアテネオリンピックからという、ながい歴史のなかで、
「観たぞ」ならではの価値観が共有されるようになった。
「歯ブラシを持ってきてくれる旦那」もそのひとつで、
そんな旦那がいたらなー、というねがいや、
自分の家ではこうだという報告がときどきよせられる。
この投稿にたいしての永田さんのコメントが、
だったのでおかしかった。
たしかに。
たのしそうなだけに、
そのしあわせがどれだけもろいかを
永田さんはしっている。
「永く続きますように」と、
ねがわずにおれないのだ。
いや、つづかないのをしっているからこそ
「続きますように」と永田さんはねがうのであり、
このしあわせは、もうじきおわるけど、
だからといってなにかをうらんだりしたらダメだよ、
という 永田さんからのメッセージがこめられている。
しあわせとはなにか。
歯ブラシをもってきてくれるのがしあわせなら、
ほかにもささやかな あれやこれやに
マッケンローさんはしあわせをかんじられるひとなのだろう。
グチをいうひとは、なんにでも文句をつける。
しあわせなひとは、しあわせをみつけるのがじょうずだ。
いつもながらもりあがっている。
http://www.1101.com/pyeongchang2018/2018-02-19.html
オリンピックをテレビでたのしみながら、
細かい発見や豆情報やただの思いつきや
ほとばしる熱い思いなどを即座に投稿し、
みんなでわいわい共有しよう、
というほぼ日の名物コンテンツ
にわかにファンとなり、あついおもいで応援をおくるひとたちが、
気づいたこと・おどろいとことを「観たぞ」におくってくる。
2004年のアテネオリンピックからという、ながい歴史のなかで、
「観たぞ」ならではの価値観が共有されるようになった。
「歯ブラシを持ってきてくれる旦那」もそのひとつで、
そんな旦那がいたらなー、というねがいや、
自分の家ではこうだという報告がときどきよせられる。
永田さん聞いてください!
二回前の夏オリンピックあたりからの
観たぞファンですが、ずっと
「歯ブラシを持ってきてくれる旦那」
に憧れていました。
半年前に結婚し、旦那さんと暮らし始めました。
そしたら旦那さんが、
「歯みがきする人〜?」と聞いて
持ってきてくれるじゃありませんか歯ブラシを!
しかもほぼ毎日ですよ毎日!!
幸せです。えへへ。
結婚して初めてのオリンピック、楽しみます!
(マッケンロー)
この投稿にたいしての永田さんのコメントが、
たのしそうだなー。
ああ、このときが永く続きますように。
だったのでおかしかった。
たしかに。
たのしそうなだけに、
そのしあわせがどれだけもろいかを
永田さんはしっている。
「永く続きますように」と、
ねがわずにおれないのだ。
いや、つづかないのをしっているからこそ
「続きますように」と永田さんはねがうのであり、
このしあわせは、もうじきおわるけど、
だからといってなにかをうらんだりしたらダメだよ、
という 永田さんからのメッセージがこめられている。
しあわせとはなにか。
歯ブラシをもってきてくれるのがしあわせなら、
ほかにもささやかな あれやこれやに
マッケンローさんはしあわせをかんじられるひとなのだろう。
グチをいうひとは、なんにでも文句をつける。
しあわせなひとは、しあわせをみつけるのがじょうずだ。
2018年02月19日
『本の雑誌 3月号』の特集「本屋さんになろう!」
『本の雑誌 3月号』の特集は、「本屋さんになろう!」。
たしかにそうだけど、いうまでもなく、
実行にうつすのは、なかなかたいへんそうだ。
特集には、これから本屋さんになりたいひとにむけて、
じっさいに本屋さんをはじめたひとのはなしがいくつかのっている。
もっとも、マニュアルではないので、
実例をいくつか紹介するだけにとどめてある。
那須ブックセンターをひらいた谷さんは、
といわれている。
このお店は、元コンビニだったたてものを、
本屋さんとしてつかっている。
コンビニくらいのひろさが、
あんがいてごろなのかもしれない。
けっこうな数を本をならべられるし、
ひろすぎてたいへんでもなさそうだ。
いなかのコンビニには、
駐車スペースがじゅうぶんに確保されているので、
本屋さんにぴったりにおもえてきた。
もうひとつの例として、奈良県の大和郡山市に
8坪ほどの本屋さんをひらいた砂川さんが とりあげられている。
「とほん」という名の、このお店のちかくには、
カフェや料理教室があり、
ぜんたいとして おもしろそうな一画となっている。
「普通の本屋をやろう」という那須ブックセンターと、
「気になる本をみつけてもら」いたい、という とほん。
まったくちがうかんがえ方だけど、
お店の姿勢がはっきりしていれば、
その特徴をこのむお客さんが常連になってくれるのだろう。
わたしがすむ町に、本屋さんは たった4軒しかない。
このほかに、ブックオフが3店舗。
いごこちのいい居酒屋が 町には必要なように、
すきな本にであえる本屋さんが、身ぢかにあったほうがいい。
もっとたくさんの ふつうの本屋さんと、
もっとたくさんの 特徴のある本屋さん。
「本屋さんになろう!」は、
「本の雑誌」ならではの ストレートな特集であり、
おおくの反響があるようねがっている。
本屋さんが消えていくと嘆くのならば、自分が本屋さんになればいいのだ!
たしかにそうだけど、いうまでもなく、
実行にうつすのは、なかなかたいへんそうだ。
特集には、これから本屋さんになりたいひとにむけて、
じっさいに本屋さんをはじめたひとのはなしがいくつかのっている。
もっとも、マニュアルではないので、
実例をいくつか紹介するだけにとどめてある。
那須ブックセンターをひらいた谷さんは、
とにかく普通の本屋をやろうと。特殊な店を作っても、一時的には流行っても結局あきられちゃうだろうしね。
といわれている。
このお店は、元コンビニだったたてものを、
本屋さんとしてつかっている。
コンビニくらいのひろさが、
あんがいてごろなのかもしれない。
けっこうな数を本をならべられるし、
ひろすぎてたいへんでもなさそうだ。
いなかのコンビニには、
駐車スペースがじゅうぶんに確保されているので、
本屋さんにぴったりにおもえてきた。
もうひとつの例として、奈良県の大和郡山市に
8坪ほどの本屋さんをひらいた砂川さんが とりあげられている。
「とほん」という名の、このお店のちかくには、
カフェや料理教室があり、
ぜんたいとして おもしろそうな一画となっている。
(とほんは)ゆったりとした陳列で、売場の3分の1程度は雑貨を並べています。在庫数は少ないので、目的の本を探すというよりは、並んでいる本の中から気になる本を見つけてもらえるよう心がけて選書しています。(中略)5年、10年かけても売りたいと思えるものを厳選することで、どの本も自信を持ってお客さまにお薦めできます。
「普通の本屋をやろう」という那須ブックセンターと、
「気になる本をみつけてもら」いたい、という とほん。
まったくちがうかんがえ方だけど、
お店の姿勢がはっきりしていれば、
その特徴をこのむお客さんが常連になってくれるのだろう。
わたしがすむ町に、本屋さんは たった4軒しかない。
このほかに、ブックオフが3店舗。
いごこちのいい居酒屋が 町には必要なように、
すきな本にであえる本屋さんが、身ぢかにあったほうがいい。
もっとたくさんの ふつうの本屋さんと、
もっとたくさんの 特徴のある本屋さん。
「本屋さんになろう!」は、
「本の雑誌」ならではの ストレートな特集であり、
おおくの反響があるようねがっている。
2018年02月18日
『未来少年コナン』の影響で「おじい」「おとう」とよぶようになったむすこ
『鳩の撃退法』(佐藤正午)のはじまりは印象にのこる。
わたしのむすこは、わたしのことを「おとう」とよぶ。
母親は「おかあ」で、おじいさんは「おじい」。
保育園でほかの子どもたちが 親をどうよんでいるのか
そんなに注意してきいていたわけではないけど、
「おとう」「おかあ」はめずらしいのではないか。
「お父さん・お母さん」、あるいは
「パパ・ママ」がおおかったようにおもう。
これは、わたしがむすこに『未来少年コナン』をみせた影響だ。
コナンはおじいさんのことを「おじい」とよぶ。
コナンは ものごころがついたとき すでに両親がいなかったので、
「おとう」「おかあ」とくちにする場面はなかったけど、
おじいさんが「おじい」なら、そのながれで
お父さんは「おとう」、お母さんは「おかあ」になるだろう。
だれかがおしえたわけではないけど、おさなかったむすこは
コナンにならって わたしを「おとう」とよぶようになった。
親のよびかたは、いちどはじめると
あとからかえにくいもので、
二十歳になったむすこは いまでも「おとう」という。
「おとう」は わるくないよび方だ。
保育園児から大学生まで、はばひろくつかえるし、
第三者がいても、「おとう」と口にするのは はずかしくない。
保育園のときに「パパ」とかいってた子は、
おおきくなってから むりに「おやじ」なんて
なれないいいかたに かえなければならず、
苦労するのではないか。
親をどうよんだかが、その子の人生に、
どんな影響をあたえるのか しりたいところだ。
うまくいってる家族には、
よび方に 一定の法則があるのかもしれない。
ものすごく むりやりなはなしだけど、
ひごろの観察により、病院の名前は
「しみず」がいちばん ふさわしいという結論にいたった。
もちろん漢字で清水とかいてもいい。
小児科でも脳外科でも、動物病院でも産婦人科でも、
あらゆる病院に「しみず」はすんなりおさまる。
これが「よしだ」ではぜんぜんだめで、
ひらがなで3文字、漢字で2文字なのはおなじなのに、
耳できいたとき、目でとらえたときの説得力に おおきな差がある。
わたしがむかし「しみず医院」にお世話になったわけではないのに、
なぜこういうちがいがうまれるのか なぞにつつまれている。
幸地家の幼い娘は父親のことをヒデヨシと呼んでいた。パパとかお父さんとかのかわりにヒデヨシ、漢字に書けば秀吉という父親の名前を呼び捨てにしたのである。
わたしのむすこは、わたしのことを「おとう」とよぶ。
母親は「おかあ」で、おじいさんは「おじい」。
保育園でほかの子どもたちが 親をどうよんでいるのか
そんなに注意してきいていたわけではないけど、
「おとう」「おかあ」はめずらしいのではないか。
「お父さん・お母さん」、あるいは
「パパ・ママ」がおおかったようにおもう。
これは、わたしがむすこに『未来少年コナン』をみせた影響だ。
コナンはおじいさんのことを「おじい」とよぶ。
コナンは ものごころがついたとき すでに両親がいなかったので、
「おとう」「おかあ」とくちにする場面はなかったけど、
おじいさんが「おじい」なら、そのながれで
お父さんは「おとう」、お母さんは「おかあ」になるだろう。
だれかがおしえたわけではないけど、おさなかったむすこは
コナンにならって わたしを「おとう」とよぶようになった。
親のよびかたは、いちどはじめると
あとからかえにくいもので、
二十歳になったむすこは いまでも「おとう」という。
「おとう」は わるくないよび方だ。
保育園児から大学生まで、はばひろくつかえるし、
第三者がいても、「おとう」と口にするのは はずかしくない。
保育園のときに「パパ」とかいってた子は、
おおきくなってから むりに「おやじ」なんて
なれないいいかたに かえなければならず、
苦労するのではないか。
親をどうよんだかが、その子の人生に、
どんな影響をあたえるのか しりたいところだ。
うまくいってる家族には、
よび方に 一定の法則があるのかもしれない。
ものすごく むりやりなはなしだけど、
ひごろの観察により、病院の名前は
「しみず」がいちばん ふさわしいという結論にいたった。
もちろん漢字で清水とかいてもいい。
小児科でも脳外科でも、動物病院でも産婦人科でも、
あらゆる病院に「しみず」はすんなりおさまる。
これが「よしだ」ではぜんぜんだめで、
ひらがなで3文字、漢字で2文字なのはおなじなのに、
耳できいたとき、目でとらえたときの説得力に おおきな差がある。
わたしがむかし「しみず医院」にお世話になったわけではないのに、
なぜこういうちがいがうまれるのか なぞにつつまれている。
2018年02月17日
フロッグマン氏の初監督作品『最後の卒業式』
しばらくまえに、鷹の爪団がのっているポスターをみかけた。
島根県飯南町でフロッグマン氏による
トーク&初監督作品の上映がおこなわれるらしい。
飯南町は、わたしがすむ松江市から80キロ南にある。
広島県との県境の町で、おなじ島根県とはいえ、かなりとおい。
上映会の日がすぎてからおもいだし、
あーわすれてた、というのが わたしとしてはいちばんたすかるけど、
あいにくきのうおもいだしてしまった。
2月17日、つまり、上映会はきょうの午後おこなわれる。
12時から17時(ぐらい)の会なので、10時すぎに家を出発する。
鷹の爪の ファンでありつづけるのも なかなかたいへんだ。
きょうの企画は、フロッグマン氏ひとりをまねいての講演会ではなく、
飯南町文化協会設立10周年をいわう、
記念行事のひとつとしておこなわれている。
旧頓原小学校の校舎が、新築するにあたり とりこわしがきまった。
お世話になった学校を、歴史のある校舎だけでなく、
そこでまなんだ子どもたちとともに、生きた姿でのこしたいと
町のひとたちのあいだで 記録映画づくりのはなしがもちあがる。
そのときに、監督をたのまれたのがフロッグマン(小野りょう)氏だ。
フロッグマン氏は、映画『白い船』の製作担当だった縁で、
島根の女性と結婚し、奥さんの実家がある平田市でくらしていた。
まだフラッシュアニメによる「鷹の爪団」がつくられるまえのことで、
もともと映画監督をめざしていたフロッグマン氏は、
はじめての監督作品として、
この記録映画『最後の卒業式』にかかわることとなる。
いまから16年まえ、2002年のはなしだ。
記録映画として、『最後の卒業式』は、いい作品だとおもう。
学校が舞台なだけに、みるものを感動させるのは
わりかしかんたんそうだけど、
フロッグマン氏は、情緒にうったえるのではなく、
校舎の姿や学校の歴史を淡々とえがいており 好感がもてる。
鷹の爪のファンとしては、フロッグマン氏が
吉田くん・フィリップ、そして総統の声を
生できかせてくれたのが唯一の収穫だった。
こんな企画がなければ、
わざわざ飯南町まで車をはしらせたりしない。
先週つもった雪が まだ道路わきにのこっていて、
飯南町につかづくにつれて迫力のある風景になってくる。
まるでスキー場にきたみたいだ。
松江・尾道間の高速道路が無料区間となっているので、
飯南町をとおる国道54号線はすごくすいていた。
飯南町がさびれるのを心配するひともいるけど、
ひとがこないのを逆にアピールすれば、と
フロッグマン氏はあかるいみかたをしていた。
鷹の爪がらみで しらない町にこれたのは
出不精のわたしにとってたのしい体験となった。
島根県飯南町でフロッグマン氏による
トーク&初監督作品の上映がおこなわれるらしい。
飯南町は、わたしがすむ松江市から80キロ南にある。
広島県との県境の町で、おなじ島根県とはいえ、かなりとおい。
上映会の日がすぎてからおもいだし、
あーわすれてた、というのが わたしとしてはいちばんたすかるけど、
あいにくきのうおもいだしてしまった。
2月17日、つまり、上映会はきょうの午後おこなわれる。
12時から17時(ぐらい)の会なので、10時すぎに家を出発する。
鷹の爪の ファンでありつづけるのも なかなかたいへんだ。
きょうの企画は、フロッグマン氏ひとりをまねいての講演会ではなく、
飯南町文化協会設立10周年をいわう、
記念行事のひとつとしておこなわれている。
旧頓原小学校の校舎が、新築するにあたり とりこわしがきまった。
お世話になった学校を、歴史のある校舎だけでなく、
そこでまなんだ子どもたちとともに、生きた姿でのこしたいと
町のひとたちのあいだで 記録映画づくりのはなしがもちあがる。
そのときに、監督をたのまれたのがフロッグマン(小野りょう)氏だ。
フロッグマン氏は、映画『白い船』の製作担当だった縁で、
島根の女性と結婚し、奥さんの実家がある平田市でくらしていた。
まだフラッシュアニメによる「鷹の爪団」がつくられるまえのことで、
もともと映画監督をめざしていたフロッグマン氏は、
はじめての監督作品として、
この記録映画『最後の卒業式』にかかわることとなる。
いまから16年まえ、2002年のはなしだ。
記録映画として、『最後の卒業式』は、いい作品だとおもう。
学校が舞台なだけに、みるものを感動させるのは
わりかしかんたんそうだけど、
フロッグマン氏は、情緒にうったえるのではなく、
校舎の姿や学校の歴史を淡々とえがいており 好感がもてる。
鷹の爪のファンとしては、フロッグマン氏が
吉田くん・フィリップ、そして総統の声を
生できかせてくれたのが唯一の収穫だった。
こんな企画がなければ、
わざわざ飯南町まで車をはしらせたりしない。
先週つもった雪が まだ道路わきにのこっていて、
飯南町につかづくにつれて迫力のある風景になってくる。
まるでスキー場にきたみたいだ。
松江・尾道間の高速道路が無料区間となっているので、
飯南町をとおる国道54号線はすごくすいていた。
飯南町がさびれるのを心配するひともいるけど、
ひとがこないのを逆にアピールすれば、と
フロッグマン氏はあかるいみかたをしていた。
鷹の爪がらみで しらない町にこれたのは
出不精のわたしにとってたのしい体験となった。
2018年02月16日
『監督たちの流儀』(西部謙司) リスクをおかすジェフ千葉のサッカーがみたくなった
『監督たちの流儀』(西部謙司・内外出版社)
この本は、「はじまり」がなく、
いきなり「きえたカレー」のはなしでスタートする。
最高の「つかみ」が みごとにわたしの好奇心をとらえ、
そのさきがすぐにしりたくなる。
いったい、この監督はなにをかんがえているのだろう。
この本は、いくつかのテーマにそって、
典型的な例となる監督が分析されている。
いつもながら西部さんは文章がたくみなので、
すこしよみはじめると、
あとは一気におしまいまでページをめくる。
章だては、以下のとおり。
・信念を貫くということ
・天才選手は天才監督になりえるか
・長期化する創業者
・継承力
・リアリストの見る夢
・長期的戦略と監督えらび
(日本代表監督の場合)
カレーをメニューからけしたのは、
ジェフユナイテッド千葉のファン=エスナイデル監督だ。
西部さんによると、この監督は、
ディフェンスラインをものすごくたかく設定するので、
ゴールキーパーは広大なスペースをカバーする必要があり、
どうしても点をいれられやすくなる。
しかし、「信念を貫く」この監督は、
自分のサッカーをやるかぎりにおいて、
必要なリスクをおかすのにためらいがない。
わたしがすきだった元日本代表監督のオシムさんも、
リスクのはなしをよくしていた。
リスクをおかさないサッカーはうつくしくない、
というかんがえ方で、
ひいてまもってカウンターねらいのサッカーよりも
はるかに魅力がある。
西部さんの豊富なひきだしをもってすれば、
この本をかくのはたやすかったにちがいない。
監督たちの戦術を、ただ紹介するだけでは
ほかの本とおなじになるところを、
西部さんはカレーのはなしからはじめたりする。
なによりも西部さんがすぐれているのは、
大量のデーターを、きれいに整理するちからではないか。
サッカーのながい歴史において、
有名な戦術と選手が、これまでにたくさんうまれている。
それらを本のテーマにそってわかりやすく説明し、
特徴をときあかしてくれるのが西部さんのサッカー本だ。
比喩がうまく、うつくしくたくみな文章に、分析力。
おもしろそうな企画を、これらのちからで料理するのだから、
西部さんの本は、どれもよまずにおれなくなる。
この本もまた、期待をうらぎらなかった。
守備ラインをありえないほとだたかくあげる
ジェフユナイテッド千葉のサッカーをみてみたい。
リアリストであるとともに、ロマンチストでもある監督が、
本書には何人も登場する。
つよいだけがチームの魅力なのではなく、
リスクをおかしてゴールをめざすサッカーがわたしはすきなので、
なおさら本書はわたしのこころをとらえた。
川崎フロンターレのサッカーをつくった風間監督が、
名古屋グランパスの監督としてJ1リーグにかえってくるし、
浦和と広島で独特のスタイルをひろめたペトロビッチ監督も、
コンサドーレ札幌の監督として指揮をとる。
今シーズンのJリーグ、そしてWカップがたのしみになる。
ジェフユナイテッド千葉に初のアルゼンチン人監督がやって来た。そして、まもなく食事のメニューからカレーが消えた。
この本は、「はじまり」がなく、
いきなり「きえたカレー」のはなしでスタートする。
最高の「つかみ」が みごとにわたしの好奇心をとらえ、
そのさきがすぐにしりたくなる。
いったい、この監督はなにをかんがえているのだろう。
この本は、いくつかのテーマにそって、
典型的な例となる監督が分析されている。
いつもながら西部さんは文章がたくみなので、
すこしよみはじめると、
あとは一気におしまいまでページをめくる。
章だては、以下のとおり。
・信念を貫くということ
・天才選手は天才監督になりえるか
・長期化する創業者
・継承力
・リアリストの見る夢
・長期的戦略と監督えらび
(日本代表監督の場合)
カレーをメニューからけしたのは、
ジェフユナイテッド千葉のファン=エスナイデル監督だ。
西部さんによると、この監督は、
ディフェンスラインをものすごくたかく設定するので、
ゴールキーパーは広大なスペースをカバーする必要があり、
どうしても点をいれられやすくなる。
しかし、「信念を貫く」この監督は、
自分のサッカーをやるかぎりにおいて、
必要なリスクをおかすのにためらいがない。
むしろエスナイデルの態度で目立ったのは、”このサッカーをやる限りこのリスクは受け入れなければならない”というものだった。例えば、GK(ゴールキーパー)が前進しているためにガラ空きになっているゴールにロングシュートを決められても、それはコストである。
わたしがすきだった元日本代表監督のオシムさんも、
リスクのはなしをよくしていた。
リスクをおかさないサッカーはうつくしくない、
というかんがえ方で、
ひいてまもってカウンターねらいのサッカーよりも
はるかに魅力がある。
西部さんの豊富なひきだしをもってすれば、
この本をかくのはたやすかったにちがいない。
監督たちの戦術を、ただ紹介するだけでは
ほかの本とおなじになるところを、
西部さんはカレーのはなしからはじめたりする。
なによりも西部さんがすぐれているのは、
大量のデーターを、きれいに整理するちからではないか。
サッカーのながい歴史において、
有名な戦術と選手が、これまでにたくさんうまれている。
それらを本のテーマにそってわかりやすく説明し、
特徴をときあかしてくれるのが西部さんのサッカー本だ。
比喩がうまく、うつくしくたくみな文章に、分析力。
おもしろそうな企画を、これらのちからで料理するのだから、
西部さんの本は、どれもよまずにおれなくなる。
この本もまた、期待をうらぎらなかった。
守備ラインをありえないほとだたかくあげる
ジェフユナイテッド千葉のサッカーをみてみたい。
リアリストであるとともに、ロマンチストでもある監督が、
本書には何人も登場する。
つよいだけがチームの魅力なのではなく、
リスクをおかしてゴールをめざすサッカーがわたしはすきなので、
なおさら本書はわたしのこころをとらえた。
川崎フロンターレのサッカーをつくった風間監督が、
名古屋グランパスの監督としてJ1リーグにかえってくるし、
浦和と広島で独特のスタイルをひろめたペトロビッチ監督も、
コンサドーレ札幌の監督として指揮をとる。
今シーズンのJリーグ、そしてWカップがたのしみになる。
2018年02月15日
プチもようがえでレコードが陽の目をみる
寝室につかっている部屋がごちゃごちゃで、
まるであたまのわるい高校生の部屋みたいだ。
乱雑でおちつかないので、もようがえする。
もともと3畳しかない、かくれがみたいなせまい部屋だ
50代の中年男性がねる部屋にしては、あまりにも不適切とおもう。
本棚をとなりのなんちゃって書斎にうつし、
ベッドのまわりには、できるだけものをおかないようにする。
たいしたもようがえではないけれど、
3時間くらいかかり、つかれはてた。
ひとつの部屋だけでこうなのだから、
ひっこしなんて絶対にしたくない。
3日ほどつかってみて、
もようがえがどうやら成功したのではないか。
部屋がおちついてくると本をよんでいても、
内容が頭にはいりやすい。
寝酒をのみながらレコードをきくのも
むりやり感がなく、自然な音楽鑑賞といえる。
ゆうべはディープ=パープルのベストアルバムをきいた。
王様が直訳ロックとしてうたっている曲が
このアルバムにもいくつかおさめられている。
意味を理解しながら外国のロックをきけるのはたのしい。
おどろおどろしくうたってるけど、
じゃあ内容は?というと、
たいしたことないのをしっているので安心する。
ディープ=パープルをうたったアルバムは深紫伝説。
そのなかの「ハイウェイ・スター」は高速道路の星だ。
https://www.youtube.com/watch?v=AJmnOgin08c
なんねんかまえのこのブログに、王様のライブをみた体験をかいた。
福祉関係のバザーになぜか王様がよばれており
(もう20年くらいまえだ。しかも2年連続)、
「王様」としかいいようのないコスチュームと、
日本語だけの直訳ロックにわらい、
でもギターのうまさと、
たのしくてしょうがないという王様の表情に
わたしはごきげんになった。
なさけない衣装に身をくるみながらも、
このひとはサイコーにたのしく生きている。
かっこいいとは、こういうことなのだ。
いまあらためてユーチューブをみてみると、
めちゃくちゃギターが達者だ(ようにみえる)。
本家よりもうまいのではないか。
ディープ・パープルとは関係ないけど、
「ジャンプ」という曲の直訳が
「ぴょん」というのにわらった。
もようがえになじめなかったのがネコのピピで、
この3日間は、夜になってもわたしのベッドにこない。
おしっこの被害におびえなくてもいいけど、
いざピピがあまえてくれないとさみしい。
まるであたまのわるい高校生の部屋みたいだ。
乱雑でおちつかないので、もようがえする。
もともと3畳しかない、かくれがみたいなせまい部屋だ
50代の中年男性がねる部屋にしては、あまりにも不適切とおもう。
本棚をとなりのなんちゃって書斎にうつし、
ベッドのまわりには、できるだけものをおかないようにする。
たいしたもようがえではないけれど、
3時間くらいかかり、つかれはてた。
ひとつの部屋だけでこうなのだから、
ひっこしなんて絶対にしたくない。
3日ほどつかってみて、
もようがえがどうやら成功したのではないか。
部屋がおちついてくると本をよんでいても、
内容が頭にはいりやすい。
寝酒をのみながらレコードをきくのも
むりやり感がなく、自然な音楽鑑賞といえる。
ゆうべはディープ=パープルのベストアルバムをきいた。
王様が直訳ロックとしてうたっている曲が
このアルバムにもいくつかおさめられている。
意味を理解しながら外国のロックをきけるのはたのしい。
おどろおどろしくうたってるけど、
じゃあ内容は?というと、
たいしたことないのをしっているので安心する。
ディープ=パープルをうたったアルバムは深紫伝説。
そのなかの「ハイウェイ・スター」は高速道路の星だ。
https://www.youtube.com/watch?v=AJmnOgin08c
俺の車にゃ誰も乗れぬ
命がけのレース
俺の車にゃ誰も勝てぬ
凄いスピードを出す
う〜む最高!
言うことなしだぜ
こりゃパワーもあるし
タイヤも太いし全部ある
なんねんかまえのこのブログに、王様のライブをみた体験をかいた。
福祉関係のバザーになぜか王様がよばれており
(もう20年くらいまえだ。しかも2年連続)、
「王様」としかいいようのないコスチュームと、
日本語だけの直訳ロックにわらい、
でもギターのうまさと、
たのしくてしょうがないという王様の表情に
わたしはごきげんになった。
なさけない衣装に身をくるみながらも、
このひとはサイコーにたのしく生きている。
かっこいいとは、こういうことなのだ。
いまあらためてユーチューブをみてみると、
めちゃくちゃギターが達者だ(ようにみえる)。
本家よりもうまいのではないか。
ディープ・パープルとは関係ないけど、
「ジャンプ」という曲の直訳が
「ぴょん」というのにわらった。
もようがえになじめなかったのがネコのピピで、
この3日間は、夜になってもわたしのベッドにこない。
おしっこの被害におびえなくてもいいけど、
いざピピがあまえてくれないとさみしい。
2018年02月14日
エバーノートのinboxがカオスだ
エバーノートの inbox を、1年以上ほったらかしたままだ。
あたらしくノートをつくったときは、
いったん inbox におさめておいて、
定期的にそれらをノートブックにふりわけるのが、
エバーノートのつかい方としてすすめられている。
わたしの場合、ノートをノートブックにうつすと
それで安心してしまい、本格的な活用にまでたどりつけない。
分類するのがエバーノートをつかう目的ではないと、
混沌となった inbox 内のノートを気にしないでいたら、
いまや980のノートがinboxにおさまっている。
全体のほぼ1割だ。
分類が目的ではないとはいえ、
異質なものをくみあわせようにも、
inboxがお蔵のようになっており、
ふるいノートがなかなか陽の目をみない。
もうめんどくさいから、このままいこうとおもう。
そうなると、いったんふるいノートにうもれてしまうと、
記憶をたよりにはひっぱりだせないので、
検索にたよる必要がある。
タグはどうもうまくつかいこなせないのがわかった。
なにかのひょうしに、まえのノートをみなおすと、
すっかり内容をわすれているものもあり、
はじめてよむみたいにたのしめる。
『パルプ・フィクション』とかいたノートには、
有名なセリフがペーストされていた。
ノートにとっておこうとおもったぐらいだから、
ノートにとったことはわすれているのに、
いまのわたしがよんでも 新鮮にわらえる。
なんどよんでもおかしい。
ノートの存在をわすれていたので、
「なんどよんでも」はただしくない表現か。
はじめてよむようなものだ。
うえにあげたセリフは、ジミー役のタランティーノ監督が、
ギャングふたりをしかりつけている場面だ。
ジミーはかたぎの一般市民なのに、ふるい友だちとはいえ、
殺人をなんともおもっていないギャングにむかい、
一般常識をふりかざしながら まじめにおこっている。
それもこれも、彼は奥さんの機嫌をそこねたくないからだ。
気がつよいのかよわいのか、わかりにくいところがおかしい。
このノートを、なにかほかのノートと
くみあわせる日がおとずれるだろうか。
あたらしくノートをつくったときは、
いったん inbox におさめておいて、
定期的にそれらをノートブックにふりわけるのが、
エバーノートのつかい方としてすすめられている。
わたしの場合、ノートをノートブックにうつすと
それで安心してしまい、本格的な活用にまでたどりつけない。
分類するのがエバーノートをつかう目的ではないと、
混沌となった inbox 内のノートを気にしないでいたら、
いまや980のノートがinboxにおさまっている。
全体のほぼ1割だ。
分類が目的ではないとはいえ、
異質なものをくみあわせようにも、
inboxがお蔵のようになっており、
ふるいノートがなかなか陽の目をみない。
もうめんどくさいから、このままいこうとおもう。
そうなると、いったんふるいノートにうもれてしまうと、
記憶をたよりにはひっぱりだせないので、
検索にたよる必要がある。
タグはどうもうまくつかいこなせないのがわかった。
なにかのひょうしに、まえのノートをみなおすと、
すっかり内容をわすれているものもあり、
はじめてよむみたいにたのしめる。
『パルプ・フィクション』とかいたノートには、
有名なセリフがペーストされていた。
俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てたか?
出てないよな?
何で俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てなかったと思う?
俺の家じゃ、ニガーの死体は預からねえからだ!!
ノートにとっておこうとおもったぐらいだから、
ノートにとったことはわすれているのに、
いまのわたしがよんでも 新鮮にわらえる。
なんどよんでもおかしい。
ノートの存在をわすれていたので、
「なんどよんでも」はただしくない表現か。
はじめてよむようなものだ。
うえにあげたセリフは、ジミー役のタランティーノ監督が、
ギャングふたりをしかりつけている場面だ。
ジミーはかたぎの一般市民なのに、ふるい友だちとはいえ、
殺人をなんともおもっていないギャングにむかい、
一般常識をふりかざしながら まじめにおこっている。
それもこれも、彼は奥さんの機嫌をそこねたくないからだ。
気がつよいのかよわいのか、わかりにくいところがおかしい。
このノートを、なにかほかのノートと
くみあわせる日がおとずれるだろうか。
2018年02月13日
「調子にのれるときは 調子にのっておけばいい」三森さんの肯定がここちよい
火曜日から木曜日までのゆうがたパラダイス
(NHK-FM)をたのしみにきいている
(月曜は、さすがについていけなくなった)。
きょうの担当は、声優の三森すずこさん。
みもりん鬼にしかってもらうコーナーで、
「パチンコでたまたまかったり、
女の子としたしくなれたりと、
いいことばかりがつづき、調子にのっています。
こんなふうに調子にのってると、
もうじきいたい目にあいそうなので、
みもりんにいましめの喝をいれてほしい」
とリスナーからメールがとどいた。
三森さんは、
「いーんじゃないですか。
いいことがつづいたとき調子にのったって。
でないと、いつ調子にのるんだっておもうし」
みたいな感想をのべている。
調子にのってもいい、という
三森さんの肯定がわたしを安心させる。
でも、わたしはこのリスナーとは反対に、
このごろ ろくでもないことばかりつづいている。
たとえばアップルから身におぼえのない領収書が
メールでおくられてきたり、
5000円札だとおもって1万円札をだしたら、
すんなり5000円としてうけとられたり、
職場の車にキズをつけてしまったり。
こんなときにがっくりこないで、
いつがっくりするんだ、というぐらいひどい。
あいかわらず左肩がいたくて たのしくはしれないし、
ピピといっしょにねると
たかい確率でパジャマにおしっこをつけられる。
胃の調子がわるく、コーヒーをのむと胃がいたくなる。
いまのうちにしっかりおちこんでおいたら、
もうじき復活のきざしをよびこめるだろうか。
わたしがいまよんでいる『永遠の1/2』(佐藤正午・集英社)は、
「失業したとたんにツキがまわってきた」
というかきだしではじまっている。
この主人公の場合、婚約者に理由もなくわかればなしをきりだされても
と解釈するぐらいだから、
まえむきというよりも、ちがった意味で計算だかい。
こんな暴論に、ふかくうなずいたりするから
わたしのツキがにげてしまったのだろうか。
(NHK-FM)をたのしみにきいている
(月曜は、さすがについていけなくなった)。
きょうの担当は、声優の三森すずこさん。
みもりん鬼にしかってもらうコーナーで、
「パチンコでたまたまかったり、
女の子としたしくなれたりと、
いいことばかりがつづき、調子にのっています。
こんなふうに調子にのってると、
もうじきいたい目にあいそうなので、
みもりんにいましめの喝をいれてほしい」
とリスナーからメールがとどいた。
三森さんは、
「いーんじゃないですか。
いいことがつづいたとき調子にのったって。
でないと、いつ調子にのるんだっておもうし」
みたいな感想をのべている。
調子にのってもいい、という
三森さんの肯定がわたしを安心させる。
でも、わたしはこのリスナーとは反対に、
このごろ ろくでもないことばかりつづいている。
たとえばアップルから身におぼえのない領収書が
メールでおくられてきたり、
5000円札だとおもって1万円札をだしたら、
すんなり5000円としてうけとられたり、
職場の車にキズをつけてしまったり。
こんなときにがっくりこないで、
いつがっくりするんだ、というぐらいひどい。
あいかわらず左肩がいたくて たのしくはしれないし、
ピピといっしょにねると
たかい確率でパジャマにおしっこをつけられる。
胃の調子がわるく、コーヒーをのむと胃がいたくなる。
いまのうちにしっかりおちこんでおいたら、
もうじき復活のきざしをよびこめるだろうか。
わたしがいまよんでいる『永遠の1/2』(佐藤正午・集英社)は、
「失業したとたんにツキがまわってきた」
というかきだしではじまっている。
この主人公の場合、婚約者に理由もなくわかればなしをきりだされても
ぼくは、一年近く続いた女との関係をたったの二時間で精算できたことになる。
と解釈するぐらいだから、
まえむきというよりも、ちがった意味で計算だかい。
「しかし一年つづいたということは」ぼくは考え考え反論した。「少なくとも五十回は寝た勘定になる。それは判るな?」
「わかるさ。すくなくとも五十回のファックだろが」(中略)
「じゃあ訊くけど、五十回ファックした女とそのうえ結婚したいと思うか?」
こんな暴論に、ふかくうなずいたりするから
わたしのツキがにげてしまったのだろうか。
2018年02月12日
『地下室のメロディー』犯罪映画の傑作
『地下室のメロディー』
(アンリ=ヴェルヌイユ:監督・1963年・フランス)
いまさらながらだけど、
はじめて『地下室のメロディー』をみる。
圧倒的におもしろい。
ゴージャスな音楽にのって、
テンポよくストーリーがすすむ。
色気なし。
はでなアクションやカーチェイスもない。
純粋に、ハラハラ・ドキドキだけでひっぱる、
サイコーにいかした作品だ。
以下、ネタバレあり。
5年のつとめをおえ、シャルル(ジャン=ギャバン)は
パリ郊外にある家にもどる。
奥さんは、彼のかえりをまっていて、
これからはホテルの経営でもして、
かたぎにくらしくらそうともちかける。
でも、シャルルはまじめにコツコツ生きようなんて、
すこしもおもってない。
ムショをでたその日から、つぎの仕事をねらっている。
ふつうの映画なら、
ムショからでた銀行やぶりなんかを、
むかしの仲間がもうこれでさいごだからと
いやがってるのにむりやりさそうのが
よくあるパターンだけど、
『地下室のメロディー』はぜんぜんちがう。
ムショからでたその日に、
シャルルはもうつぎの仕事のことをかんがえている。
カンヌのカジノが標的だ。
週末の金庫には、10億フランがねむっている。
でかい仕事なので、仲間が必要になる。
シャルルはムショでしりあった
フランシス(アラン=ドロン)をさそう。
カジノの設計図を手にいれ、
大胆な計画をシャルルはたてていた。
作戦は予定どおりに うまくすすむ。
まんまと金庫にはいりこんだシャルルは、
棚におさまっている札束を、
ひとつのこらずていねいにカバンへおとしていく。
いそいでいるからといって、
ガバーッと雑な仕事をするようでは
りっぱな金庫やぶりにはなれない。
あせらずあわてず、おちつきはらって、
きっちりと札束をカバンにいれる場面にゾクゾクする。
仕事をおえたシャルルとフランシスは、
カバンふたつにおさめた札束を、
いったんべつの場所にかくしておく。
しかし、カジノの経営者に、
ふたつのカバンをしっかりみられていた。
警察はカバンの特徴をききだし、捜査をすすめようとする。
カバンをもちだそうとしていたフランシスは、
この会話をきき、札束のつまったカバンが、
いまや安全でないのをしった。
警察はフランシスのまわりにウジャウジャいて、
いまにもカバンを目にされそうだ。
フランシスは、とりあえず、プールにカバンをしずめて、
さわぎがおさまってから とりにもどろうとする。
あれだけカバンのはなしをされたら
(「カバンをみたらわかりますか?」
「もちろんです」
みたいな)
フランシスでなくても どこかへかくしたくなるだろう。
とりあえず、プールにしずめるのは、
いいアイデアだとおもったけど・・・。
ラストのきりあげかたがうまい。
もうすこしでうまくいったのに。
みおわったあと、血がさわいだ。
まだわかいアラン=ドロンがいい味をだしている。
行儀のわるさ、下品さがうまい。
顔だけでなく、スタイルもいい。
いまのハリウッド俳優は、
筋肉をとくいげにみせびらかすけど、
この作品でのアラン=ドロンは、
ほっそりとひきしまったからだがきれいだ。
この作品の教訓はふたつある。
カジノや銀行にしのびこむなら、
めだたないカバンを用意すること。
もうひとつ。
カバンのチャックはしっかりとめたほうがいい。
(アンリ=ヴェルヌイユ:監督・1963年・フランス)
いまさらながらだけど、
はじめて『地下室のメロディー』をみる。
圧倒的におもしろい。
ゴージャスな音楽にのって、
テンポよくストーリーがすすむ。
色気なし。
はでなアクションやカーチェイスもない。
純粋に、ハラハラ・ドキドキだけでひっぱる、
サイコーにいかした作品だ。
以下、ネタバレあり。
5年のつとめをおえ、シャルル(ジャン=ギャバン)は
パリ郊外にある家にもどる。
奥さんは、彼のかえりをまっていて、
これからはホテルの経営でもして、
かたぎにくらしくらそうともちかける。
でも、シャルルはまじめにコツコツ生きようなんて、
すこしもおもってない。
ムショをでたその日から、つぎの仕事をねらっている。
ふつうの映画なら、
ムショからでた銀行やぶりなんかを、
むかしの仲間がもうこれでさいごだからと
いやがってるのにむりやりさそうのが
よくあるパターンだけど、
『地下室のメロディー』はぜんぜんちがう。
ムショからでたその日に、
シャルルはもうつぎの仕事のことをかんがえている。
カンヌのカジノが標的だ。
週末の金庫には、10億フランがねむっている。
でかい仕事なので、仲間が必要になる。
シャルルはムショでしりあった
フランシス(アラン=ドロン)をさそう。
カジノの設計図を手にいれ、
大胆な計画をシャルルはたてていた。
作戦は予定どおりに うまくすすむ。
まんまと金庫にはいりこんだシャルルは、
棚におさまっている札束を、
ひとつのこらずていねいにカバンへおとしていく。
いそいでいるからといって、
ガバーッと雑な仕事をするようでは
りっぱな金庫やぶりにはなれない。
あせらずあわてず、おちつきはらって、
きっちりと札束をカバンにいれる場面にゾクゾクする。
仕事をおえたシャルルとフランシスは、
カバンふたつにおさめた札束を、
いったんべつの場所にかくしておく。
しかし、カジノの経営者に、
ふたつのカバンをしっかりみられていた。
警察はカバンの特徴をききだし、捜査をすすめようとする。
カバンをもちだそうとしていたフランシスは、
この会話をきき、札束のつまったカバンが、
いまや安全でないのをしった。
警察はフランシスのまわりにウジャウジャいて、
いまにもカバンを目にされそうだ。
フランシスは、とりあえず、プールにカバンをしずめて、
さわぎがおさまってから とりにもどろうとする。
あれだけカバンのはなしをされたら
(「カバンをみたらわかりますか?」
「もちろんです」
みたいな)
フランシスでなくても どこかへかくしたくなるだろう。
とりあえず、プールにしずめるのは、
いいアイデアだとおもったけど・・・。
ラストのきりあげかたがうまい。
もうすこしでうまくいったのに。
みおわったあと、血がさわいだ。
まだわかいアラン=ドロンがいい味をだしている。
行儀のわるさ、下品さがうまい。
顔だけでなく、スタイルもいい。
いまのハリウッド俳優は、
筋肉をとくいげにみせびらかすけど、
この作品でのアラン=ドロンは、
ほっそりとひきしまったからだがきれいだ。
この作品の教訓はふたつある。
カジノや銀行にしのびこむなら、
めだたないカバンを用意すること。
もうひとつ。
カバンのチャックはしっかりとめたほうがいい。
2018年02月11日
そこそこ本ずきの中年男性が、2月11日にどんな本をかったか
仕事からのかえりに本屋さんへいったら、
よみたい本がつぎつぎと目にはいった。
こんな日はめずらしいので、
なにをかったのか かいておきたくなった。
・『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子・新潮文庫)
・『オンブレ』(エルモア=レナード・新潮文庫)
・『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
・『本の雑誌 3月号』(本の雑誌社)
・『不死身の特攻兵』(鴻上尚史・講談社現代新書)
・『文藝春秋 三月特別号』
6冊で5000円弱だった。
だんだん逆上してきて、いくらでもかいたい本がでてくる。
今夜もっていたお金が5000円しかなかったのは、
よかったのか、わるかったのか。
本をながめながら ほしい本をさがすたのしさは、
本屋さん、つまり、紙の本でないと味わえない。
・『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子・新潮文庫)
しりあいがすすめてくれた本で、
まえからさがそうとして、検索にもかけたけど、
みつからなかったのに、きょうは本棚をながめていたら、
本のほうで わたしにアピールしていたかんじ。
『オンブレ』(エルモア=レナード・新潮文庫)
まえにエルモア=レナードの『キルショット』をよんだら、
まずまずおもしろかったので。
それに、なによりも村上春樹さんの訳だ。
村上さんがなんでレナードの本を訳す気になったのだろう。
・『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
原田ひ香さんのうまさには、いちもくおいている。
どの作品でも、あたらしいきりくちでかたる。
はずれがない作家だ。
・『本の雑誌 3月号』(本の雑誌社)
毎月かかさずかっている本(雑誌ではないそうだ)。
「本屋さんになろう!」の特集がおもしろそう。
・『不死身の特攻兵』(鴻上尚史・講談社現代新書)
特攻兵は、出撃すればかならず死ぬとおもっていたけど、
9回も特攻して いきているとはどういうことなのか。
・『文藝春秋 三月特別号』
芥川賞を受賞した二作が全文掲載されているというので。
『百年泥』は、けさの朝日新聞で、
斎藤美奈子さんが書評をかいていた。
『おらおらでひとりいぐも』も、よみたいとおもっていた。
二作ともよめて980円ならお得だし。
もっとも、芥川賞の受賞作をのせる特別号をかったのは
はじめてだ。
1冊もかわずに店をでる日だってあるのに、
ときにはきょうみたいな日もある。
文庫と新書が中心なのは、貧乏性のわたしらしい。
夜はまだたっぷりのこっているし、あすはやすみだ。
本の神さまにみちびかれたようで、
しあわせな2月11日として記憶にのこるだろう。
よみたい本がつぎつぎにみつかったのは、
きびしい冬がもうすぐおわり、
あたたかな春がくるきざしかもしれない。
よみたい本がつぎつぎと目にはいった。
こんな日はめずらしいので、
なにをかったのか かいておきたくなった。
・『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子・新潮文庫)
・『オンブレ』(エルモア=レナード・新潮文庫)
・『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
・『本の雑誌 3月号』(本の雑誌社)
・『不死身の特攻兵』(鴻上尚史・講談社現代新書)
・『文藝春秋 三月特別号』
6冊で5000円弱だった。
だんだん逆上してきて、いくらでもかいたい本がでてくる。
今夜もっていたお金が5000円しかなかったのは、
よかったのか、わるかったのか。
本をながめながら ほしい本をさがすたのしさは、
本屋さん、つまり、紙の本でないと味わえない。
・『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子・新潮文庫)
しりあいがすすめてくれた本で、
まえからさがそうとして、検索にもかけたけど、
みつからなかったのに、きょうは本棚をながめていたら、
本のほうで わたしにアピールしていたかんじ。
『オンブレ』(エルモア=レナード・新潮文庫)
まえにエルモア=レナードの『キルショット』をよんだら、
まずまずおもしろかったので。
それに、なによりも村上春樹さんの訳だ。
村上さんがなんでレナードの本を訳す気になったのだろう。
・『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
原田ひ香さんのうまさには、いちもくおいている。
どの作品でも、あたらしいきりくちでかたる。
はずれがない作家だ。
・『本の雑誌 3月号』(本の雑誌社)
毎月かかさずかっている本(雑誌ではないそうだ)。
「本屋さんになろう!」の特集がおもしろそう。
・『不死身の特攻兵』(鴻上尚史・講談社現代新書)
特攻兵は、出撃すればかならず死ぬとおもっていたけど、
9回も特攻して いきているとはどういうことなのか。
・『文藝春秋 三月特別号』
芥川賞を受賞した二作が全文掲載されているというので。
『百年泥』は、けさの朝日新聞で、
斎藤美奈子さんが書評をかいていた。
『おらおらでひとりいぐも』も、よみたいとおもっていた。
二作ともよめて980円ならお得だし。
もっとも、芥川賞の受賞作をのせる特別号をかったのは
はじめてだ。
1冊もかわずに店をでる日だってあるのに、
ときにはきょうみたいな日もある。
文庫と新書が中心なのは、貧乏性のわたしらしい。
夜はまだたっぷりのこっているし、あすはやすみだ。
本の神さまにみちびかれたようで、
しあわせな2月11日として記憶にのこるだろう。
よみたい本がつぎつぎにみつかったのは、
きびしい冬がもうすぐおわり、
あたたかな春がくるきざしかもしれない。
2018年02月10日
サンチャゴ巡礼にうごきだしたわたしの師匠
わたしがあるくのをすきになったのは、
師匠としてあがめている ある女性の影響だ。
きのうはひさしぶりに彼女とおしゃべりした。
きょねんあったときに、
サンチャゴ=デ=コンポステーラ巡礼を話題にだしたら
彼女はつよい関心をしめし、あとからネットでしらべたという。
で、きのうまたサンチャゴ巡礼についてたずねたら、
こんどの5月にいこうとおもう、というからおどろいた。
すごくうごきがはやい。
2ヶ月で1600キロをあるくという、
サンチャゴ巡礼の魅力はたしかにあるけど、
けしてそれだけではなく、
きょねんの秋に、仕事がちょうどひとくぎりついたと
自分で納得できたのがおおきかったという。
それから職場にやめるはなしをなんどもだして
さいきんやっと了解までこぎつけたそうだ。
わたしは話題としてあちこちで
サンチャゴ巡礼のはなしをするけど、
まだまだ漠然とした予定でしかない。
むすこへのしおくりがあと2年、
そして旅行資金をためるために1年はたらくとして、
はやくても出発は3年さきになるとかんがえている。
そんなノロノロとしたわたしなんかとちがい、
彼女はさっさと行動にうつしていく。
クツやリュックはもうめぼしをつけているという。
雨の日にあるく場面を想像すると、
どんなクツにするのかはすごくだいじだ。
リュックのサイズをたずねたら、
30リットルにおさまる荷物におさめるそうだ。
サンチャゴ巡礼の写真をみると、
もっとおおきなリュックをせおったひとがおおい。
それを30リットルにおさえようとすると、
かなり禁欲的な選択が必要になるだろう。
わたしだったら、パソコンと電子書籍末端、それにスマホと、
ずるずると荷物がふえるだろうけど、
彼女は基本的にそうした器具はつかわないひとなので、
30リットルにおさめるパッキングができるのだろう。
旅行はかんがえたらできないと、宮田珠己さんがかいている。
かんがえていると、ほんとうに いつまでたっても出発できない。
あとのこと、さきのこと、将来のことは とりあえずほっておく。
彼女は老後のことなんて心配していない。
手にするお金の範囲でくらしていけばいいとおもってます、
と彼女はいった。
あるくだけでなく、彼女は人生の師匠でもある。
師匠としてあがめている ある女性の影響だ。
きのうはひさしぶりに彼女とおしゃべりした。
きょねんあったときに、
サンチャゴ=デ=コンポステーラ巡礼を話題にだしたら
彼女はつよい関心をしめし、あとからネットでしらべたという。
で、きのうまたサンチャゴ巡礼についてたずねたら、
こんどの5月にいこうとおもう、というからおどろいた。
すごくうごきがはやい。
2ヶ月で1600キロをあるくという、
サンチャゴ巡礼の魅力はたしかにあるけど、
けしてそれだけではなく、
きょねんの秋に、仕事がちょうどひとくぎりついたと
自分で納得できたのがおおきかったという。
それから職場にやめるはなしをなんどもだして
さいきんやっと了解までこぎつけたそうだ。
わたしは話題としてあちこちで
サンチャゴ巡礼のはなしをするけど、
まだまだ漠然とした予定でしかない。
むすこへのしおくりがあと2年、
そして旅行資金をためるために1年はたらくとして、
はやくても出発は3年さきになるとかんがえている。
そんなノロノロとしたわたしなんかとちがい、
彼女はさっさと行動にうつしていく。
クツやリュックはもうめぼしをつけているという。
雨の日にあるく場面を想像すると、
どんなクツにするのかはすごくだいじだ。
リュックのサイズをたずねたら、
30リットルにおさまる荷物におさめるそうだ。
サンチャゴ巡礼の写真をみると、
もっとおおきなリュックをせおったひとがおおい。
それを30リットルにおさえようとすると、
かなり禁欲的な選択が必要になるだろう。
わたしだったら、パソコンと電子書籍末端、それにスマホと、
ずるずると荷物がふえるだろうけど、
彼女は基本的にそうした器具はつかわないひとなので、
30リットルにおさめるパッキングができるのだろう。
旅行はかんがえたらできないと、宮田珠己さんがかいている。
何のために、なんて考えていると、旅はいつまでたっても始まらない。意味を考える前に計画をたて、結論が出る前に出発してしまう。これが大切である。『だいたい四国八十八ヶ所』(宮田珠己・本の雑誌社)
かんがえていると、ほんとうに いつまでたっても出発できない。
あとのこと、さきのこと、将来のことは とりあえずほっておく。
彼女は老後のことなんて心配していない。
手にするお金の範囲でくらしていけばいいとおもってます、
と彼女はいった。
あるくだけでなく、彼女は人生の師匠でもある。
2018年02月09日
わたしのなかの教養主義な傾向
週に1本は映画をみたいなとか、
月に3冊は本をよまなければとか、
できるだけインプットにつとめようとおもっている。
でも、かんがえてみれば、なんのためだっけ。
つきつめてみれば、ものすごく漠然とした状況設定だけど、
わたしのまえに魅力的なひとがあらわれたとき、
頭からっぽでは、あいてにしてもらえないから、
が動機のかなりの部分をしめている。
そのひとに値するだけの、
内容をともなった人間でありたい。
冗談ではなくて、わりと本気でそうおもいこんでいた。
何歳になっても可能性がゼロになるわけではないけど、
いまとなってはほとんどありえない状況だ。
だったら映画や本はもういいか、とはならないので、
けして魅力的な女性だけのためではなく、
まともな人間として、みたいな教養主義的な傾向が
わたしのなかにあるのかもしれない。
生きているかぎり、最低限こなさなければならない
義務みたいなものだ。
そうやって、どう生きてきたかが、
わたしという人間の総力であるわけで、
あたりまえのことだけど、
一日いちにち 手をぬかずに、おくりつづけるしかない。
「夜廻り猫」をよんでいたら、
歩道橋のうえでさみしそうな顔をしているわかい男に
遠藤さんがはなしかけている。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/370
若者は、「寂しい 誰か欲しい」という。
親友か?友達か?と遠藤さんがたずねると、
と若者はこたえる。
それぐらいの「誰か」は
どこにでもいそうだけど、
遠藤さんは
「もっともだ そういう相手 ほしいよなあ」
と若者のこころによりそっている。
しっかりしろ、それぐらいの相手どこにでもいると、
はげましたり けしかけたりするのではなく、
よりそえるのが遠藤さんのすばらしさだ。
「じゃあ わたしが」
とならないところもいい。
遠藤さんは、これまでに どんな時間をすごしてきたのだろう。
月に3冊は本をよまなければとか、
できるだけインプットにつとめようとおもっている。
でも、かんがえてみれば、なんのためだっけ。
つきつめてみれば、ものすごく漠然とした状況設定だけど、
わたしのまえに魅力的なひとがあらわれたとき、
頭からっぽでは、あいてにしてもらえないから、
が動機のかなりの部分をしめている。
そのひとに値するだけの、
内容をともなった人間でありたい。
冗談ではなくて、わりと本気でそうおもいこんでいた。
何歳になっても可能性がゼロになるわけではないけど、
いまとなってはほとんどありえない状況だ。
だったら映画や本はもういいか、とはならないので、
けして魅力的な女性だけのためではなく、
まともな人間として、みたいな教養主義的な傾向が
わたしのなかにあるのかもしれない。
生きているかぎり、最低限こなさなければならない
義務みたいなものだ。
そうやって、どう生きてきたかが、
わたしという人間の総力であるわけで、
あたりまえのことだけど、
一日いちにち 手をぬかずに、おくりつづけるしかない。
「夜廻り猫」をよんでいたら、
歩道橋のうえでさみしそうな顔をしているわかい男に
遠藤さんがはなしかけている。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/370
もし そこな
飲めない酒を飲んだ感じのおまいさん
泣いておるな? 心で
若者は、「寂しい 誰か欲しい」という。
親友か?友達か?と遠藤さんがたずねると、
そこまで高望みしてないよ
かかわれる人が欲しい
話しかけても良い相手
怖がらなくていい相手
一緒に笑うみたいな
と若者はこたえる。
それぐらいの「誰か」は
どこにでもいそうだけど、
遠藤さんは
「もっともだ そういう相手 ほしいよなあ」
と若者のこころによりそっている。
しっかりしろ、それぐらいの相手どこにでもいると、
はげましたり けしかけたりするのではなく、
よりそえるのが遠藤さんのすばらしさだ。
「じゃあ わたしが」
とならないところもいい。
遠藤さんは、これまでに どんな時間をすごしてきたのだろう。