あたらしくノートをつくったときは、
いったん inbox におさめておいて、
定期的にそれらをノートブックにふりわけるのが、
エバーノートのつかい方としてすすめられている。
わたしの場合、ノートをノートブックにうつすと
それで安心してしまい、本格的な活用にまでたどりつけない。
分類するのがエバーノートをつかう目的ではないと、
混沌となった inbox 内のノートを気にしないでいたら、
いまや980のノートがinboxにおさまっている。
全体のほぼ1割だ。
分類が目的ではないとはいえ、
異質なものをくみあわせようにも、
inboxがお蔵のようになっており、
ふるいノートがなかなか陽の目をみない。
もうめんどくさいから、このままいこうとおもう。
そうなると、いったんふるいノートにうもれてしまうと、
記憶をたよりにはひっぱりだせないので、
検索にたよる必要がある。
タグはどうもうまくつかいこなせないのがわかった。
なにかのひょうしに、まえのノートをみなおすと、
すっかり内容をわすれているものもあり、
はじめてよむみたいにたのしめる。
『パルプ・フィクション』とかいたノートには、
有名なセリフがペーストされていた。
俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てたか?
出てないよな?
何で俺の家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てなかったと思う?
俺の家じゃ、ニガーの死体は預からねえからだ!!
ノートにとっておこうとおもったぐらいだから、
ノートにとったことはわすれているのに、
いまのわたしがよんでも 新鮮にわらえる。
なんどよんでもおかしい。
ノートの存在をわすれていたので、
「なんどよんでも」はただしくない表現か。
はじめてよむようなものだ。
うえにあげたセリフは、ジミー役のタランティーノ監督が、
ギャングふたりをしかりつけている場面だ。
ジミーはかたぎの一般市民なのに、ふるい友だちとはいえ、
殺人をなんともおもっていないギャングにむかい、
一般常識をふりかざしながら まじめにおこっている。
それもこれも、彼は奥さんの機嫌をそこねたくないからだ。
気がつよいのかよわいのか、わかりにくいところがおかしい。
このノートを、なにかほかのノートと
くみあわせる日がおとずれるだろうか。