2018年03月31日

アプリがえらぶ無作為なであいをかさねるホーキンスさんにおどろく

朝日新聞の土曜日版beで、
無作為にえらばれた場所をたずねている
マックス=ホーキンスさんが紹介されていた。
タイトルは、「ソフトまかせの出会い重ねて」。
コンピューターが選ばなければ、おそらく行くことのない場所、会うことのない人たちだ。
 「こうして町を歩くと、自分の知らないところで、たくさんの人の営みがあることを感じられるんです」(中略)
「自分の趣味や嗜好から離れたら、どんな世界を見ることができるのか」。そんな興味で始めた生活はまもなく3年になる。

はじめは、記事をよんでも、なんのことかよくわからない。
そんなことをして、なにがおもしろいのだろう。
日本にも、いきあたりばったり、という言葉や、
ダーツでいきさきをきめるあそびもある。
しかし、ふつうそれらは期間をかぎりおこなわれ、
ホーキンスさんのように3年もつづけたりしない。

わたしたちは、自分とはべつの人生をのぞいてみるのに、
本をよんだり映画をみたりする。
小説や映画、お芝居などがたのしいのは、
自分のしらない世界にふれられるからだ。
人生はいちどかぎりだけど、
本をよめば、まったくちがう生きかたを「体験」できる。
ありえたかもしれない自分は、どんな人間だろう。
しかし、ホーキンスさんの無作為は、
こうした可能性への関心とは またべつの次元にみえる。

アプリのつかい方についてたずねられると、
 主に二つを使い分けています。ひとつは、フェイスブック上で公開されている集会を無作為に選び出すもの。(中略)もう一つは「オフボット」で、公開済みです。位置情報から「公園」「レストラン」「完全に無作為」などを選ぶと、どこに行って何をするのかも示してくれます。「◯◯公園に行き、ベンチに座って周りを眺めよう」といった具合です。

一般的に、人生には目標が必要だとおもわれているなかで、
ホーキンスさんの「無作為」は、ものすごく徹底されている。
自分の意思と関係ない場所に行くことに意味があると思っています。

なぜそれに意味があるとおもうのか、
こればっかりは、体験してみないとわからない。
アプリが無作為にえらぶ人生をたのしむとは、
ものすごい価値観があらわれたものだ。

posted by カルピス at 09:19 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

なぜ感情の記憶はながつづきしないのか

発達障害のひとを支援しているとき、
一時的につよい興奮がおとずれたとしても、
5秒以上はつづかないことがわかってきた。
たとえわーっとおおさわぎをはじめても、
なんとか5秒しのげば、おちつきをとりもどせる。
もちろん、5秒なのか、あるいはもうすこし時間がかかるのかは、
ひとによってちがってくるわけで、
なかなか興奮がおさまらないひともいれば、
ほんの5秒、瞬間的に逆上するだけのひともいる。
とはいえ、ほんとうにつよい衝動は、
そんなにながくはつづかない。

なんとか5秒をやりすごせば、
瞬間的にたかくなったにすぎない感情の起伏が、
またすぐにもとの状態にもどる。
大切なのは、どうやって安全に、その5秒をやりすごすかだ。
ちからずくでおさえこもうと つかみあいになるのはよくない。
本人や、まわりに危険がおよばないよう、5秒をきりぬける。

興奮が一時的なものであるように、
こころの記憶もまた、そんなにながくはつづかない。
デイリーポータルZの林雄司さんが、
ブログにカメラがなくなったときの体験をかいている。
取材でつかったカメラをわすれてしまい、すごくがっかりしていたら、
タクシー会社から、みつかったとの連絡がはいった。
こころの底から、ほんとうによかったと林さんはおもい、
「人に優しく素直に生きよう」とFBにかいたのだそうだ。
でも、その決心はながくつつかず、3日もたつと、
あの気持ちはすっかり薄れてなんでそう思ったのか分からなくなっている。

まるで別人だ。

発達障害のひとでなくても、
感情についてのひとの記憶は、かなりふたしかだ。
わたしだって、つよくこころをうごかされ、
毎日の勉強を決心しても、ながくつづいたためしがない。
感激したり、反省したりという感情のゆれは、
なにもしなければ すぐにうすれていき、
「なんでそう思ったのか分からなくな」る。
よかったこと、わるかったことも、
たいていは時間とともにうすれていく。

なぜ感情の記憶は、こんなにながつづきしないのだろう。
おそらく、すぐにわすれたほうが、
人類の進化に都合がよかったのではないか。
いつまでもゆたかな感情にみたされていては、
危険をさけたり、生きのびるのにさしさわりがあった。
わすれるということは、きっと人類にとって、大切な機能だ。

posted by カルピス at 21:05 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

「福島に残り、動物たちを世話し続ける男」松村さん

「福島に残り、動物たちを世話し続ける男」
として、村松直登さんが紹介されていた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180317-00010000-sippo-life
(大地震のゆれにつづき、原発で水素爆発がおきたとき)
さすがに避難しようとしたが、親戚の家や避難所に居場所は見つからず、やむなく自宅に戻った。数日後、近所を歩いていると、顔見知りの犬の鳴き声を聞い た。飼い主が避難する中、取り残されて、腹をすかせていた。餌をやると、またその先にも空腹の犬……。繰り返すうちに、動物たちを放っておけなくなった。

 松村は動物愛護者ではない。放射性物質で体がどうなるかも分からない。それでも動物を世話するのは、自分も動物も「同じ生命、同じ境遇」だからだ。

自分が確実に被ばくしつつあるというリスクをおかして
村松さんは福島県富岡町にとどまり、
動物たちの世話をつづけている。
膨大なエサ代が必要なので、寄付をつのったり、
募金活動もされているという。

震災をつたえる写真で、たべものや水がなくなり、
餓死していった牛たちの骨をみた。
たべられないものを口にして、
くるしんだすえに亡くなった牛もいる。
かいぬしのかえりをまつ犬やネコたちもおおいときく。
そんな動物たちに、じっさいの手をさしのべているのは
松村さんのような活動をしているひとたちだ。

別の記事によると、
犬に何日か分のエサをのこしていったら、
たべすぎてふとったとか、
野生動物にエサをとられないように工夫するとか、
福島ならではのむつかしさがあるらしい。
のこされたペットはマルで、
野生動物はペケ、というのも、なんだかへんなかんじだし。
のこされたペットや牛たちの健康が気になる。
ノミだらけで生きていくのはつらいだろう。
犬のフィラリア対策はどうなっているのか。
かといって 定期的に獣医さんが訪問するわけにはいかない。
すべてをめちゃくちゃにしたのは、
それまでの日常をうばった原発事故が原因だ。
それなのに、日本の原発情勢は、
震災から基本的にかわっていない。

posted by カルピス at 22:29 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月28日

国際親善試合、日本対ウクライナ あいかわらずさえない日本代表

国際親善試合、日本対ウクライナ。1-2でやぶれる。
にわかサッカーファンのわたしには、
なぜ日本がすっきりとかてないのか、よくわからない。
分析するちからがないので、印象をかたっておく。

ウクライナは、チームとして連携がとれていた。
日本のパスコースをよみ、連動してプレッシャーをかける。
パスをうける日本の選手には、
すでにウクライナの選手がついており、
かんたんにボールをうぼわれた。
それ以外にも、日本にはパスミスがおおく、
それなのに攻撃をいそぎすぎて、
せっかく手(足?)にしたボールを相手にプレゼントしてしまう。
シュートをうてないのも気になった。
前半6分に、なんどもシュートチャンスがあった場面で、
こわがっているのか、だれもうたず、まわりにわたしてしまう。
これでは、まもっているウクライナ側は、ぜんぜんこわくないだろう。
格上のウクライナが、順当に日本をくだした試合だ。

よかったのは、まえの試合とおなじで 中島だけ。
1トップをつとめた杉本は、とちゅうまで
その存在に気づかないほどみごとにきえていた。
先発した本田も、ほかの選手とのちがいをみせられない。
ミスがおおく、キープ力も期待できなかった。
小林のよさをひきだすには、パスのだし手が必要で、
せっかくボールをまっていても、いいパスがでてこない。

そして、日本の選手たちは、いかにもかよわかった。
相手からよせられると、ハデにいたがって
試合をとめるのが目についたし、
ファールをもらおうと、ちょっと足がかかっただけでも、
すぐピッチにたおれこんでしまう。
せめてるときには、ファールをアピールするよりも、
シュートまでもちこんでほしかった。

なぜこんな試合になってしまったのだろう。
まだWカップむけの選手がきまったわけではなく、
あくまでもえらぶためのテスト期間とはいえ、
試合をすればするほど わるいところがみえてくるのは、
8年まえの南アフリカ大会を目前にした日本代表をおもいだす。
Wカップ本番まであと3ヶ月をきった。
いまの状態でグループリーグをかちのこるのは、
そうとう難易度のたかいミッションにみえる。

posted by カルピス at 21:14 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

糸井重里さんちのブイヨンが亡くなった

糸井重里さんちのブイヨンが、3月21日に亡くなった。
ほぼ日の「今日のダーリン」では、
ここ数日、ブイヨンへのおもいを糸井さんがつづっている。
いま糸井さんがむきあっているかなしみ・さみしさ・つらさを、
家の動物をうしなったとき、おおくのひとが体験してきた。
糸井さんが「今日のダーリン」にかいている気もちのゆれは、
ペットレスにくるしむひとに、
ひとつのモデルをしめしているのではないか。
のりきるマニュアルなんて、あるわけないけど、
糸井さんがブイヨンをおもってかいた「今日のダーリン」は
かなしみにうなだれる 家族の胸にとどくだろう。

糸井さんが「今日のダーリン」にかいた内容は、
ブイヨンが亡くなってからの日にちがたつにつれ、
すこしずつかわってきている。
もちろん、かなしさになれたわけではないけど、
はじめはブイヨンについてだけだったのが、
だんだんまわりのひとたちへの感謝や、
何日か、ブイヨンがいない日をすごして
ますますつのってくるかなしみを、
糸井さんはとても正直にすくいあげている。

いまわたしも、16歳になるピピ(ネコ)といっしょにくらしており、
4年まえに口内炎をわずらったときに、
のこりわずかな命でしかないと覚悟した。
さいわい、そのあとも細々とごはんをたべつづけ、
やせほそりながら4年も生きている。
もうじゅうぶんに看病と介護をした気になったので、
たとえ食欲がなくなっても、病院へはつれていかず、
家でしずかに最後をみとろうとおもっている。
その程度の愛でしかないのか、
といわれたら そのとおりというしかない。
病院で数日だけ寿命がのびるとしても、
さいごは家でのんびりすごさせてやりたい。

糸井さんは、医師と納得のいくまで相談をして、
ブイヨンがなおる可能性がすこしでもあれば、
あらゆる治療をほどこしている。
それでも容態はいいほうにむかわず、
糸井さんはすこしずつ覚悟をきめたようだ。
だれにでもできる治療ではない。
さいごまで「いいこだった」ブイヨンの
冥福をいのりたい。
わたしもピピにいつも「かわいいね」とはなしかけている。
ピピはかわいいね。すてきなネコだね。
いっしょにいてくれるだけで、どれだけありがたいか。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月26日

「世界ふれあい街歩き」でチェンマイがとりあげられる

NHK-BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」で、
タイのチェンマイをとりあげていた。
これまでにわたしはなんどもチェンマイおとずれ、
なんでもしってるような気になっていたけど、
番組でスタッフがあるいたのは、なんていうことのない
ふつうのとおりだったり路地だったり、つまり名所旧跡ではない。
わたしがしるチェンマイは、道路をわたるだけでも神経をつかうほど、
車がたくさんはしっているザワザワした町なのに、
番組にうつるチェンマイは、
よくいわれるような しずかでおちついた町だ。
チェンマイへは、10回以上いったことがあるのに、
ゴミゴミしてきらいだ、とまでおもっていたのに、
またたずねたくなった。

この番組のよさは、観光名所をあえてとりあげないところで、
地図を片手にしらない町をぶらついて、
なにか興味ぶかいものが目につくと、
それがなにかを土地のひとに質問する。
チェンマイでは、旧市街をあるき、工房や公園を紹介していた。

旅行のおもしろさには、

・バスや列車で移動するたのしさ
・めずらしい観光名所をたずねる
・土地のひとの日常にふれる
・土地の料理をたべる

などがあるなかで、
「世界ふれあい街歩き」は、かなり意識して
土地のひとのくらしぶりを紹介している。
それまでしらなかった町なみが、
ひとびとの生活とともにうつされるので、
チェンマイのような観光地をとりあげても めずらしい場所となる。

わたしがこの番組をすきなのは、
ふかいところで「もういいや」の精神をかんじるからだ。
いろいろと有名な観光地はたくさんあるけど、
そういうところはまあいいから、
そこらへんをテキトーにあるいてみよう、という気らくさがいい。
けっきょく、旅行なんてキリがないわけで、
世界には、いってみたいところがたくさんあるし、
本や番組で紹介されると、またその町へも興味がわいてくる。
リストアップして、計画的にまわるのもいいけど、
なんとなくバスにのったりあるいてみたりの旅行もすてきだ。
あんがい、日本をでなくても、いきさきはたくさんあるのかも。

朝日新聞に連載ちゅうの
『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子)に、
もういい。何も後悔のない人生などない。それでも満足のいく一瞬がどこかにあればいい。

とかいてあった。
わたしはよく、後悔せずに死にたい、なんてかんたんにいうけど、
それはよくばりすぎというものだろう。
それなりにやりたいことはやった。
たいした内容ではないにしても、おおむね自分の人生に満足している。
やりのこしたことをくやむより、
やりおえたいいおもいでを大切にしながらむこうの世界にいこう。
どうせみんな死んじゃうんだから。
旅行番組をみて、なにもそこまで連想しなくてもいいけど、
わたしにとっての「世界ふれあい街歩き」は、
「もういいや」の精神を気づかせてくれる あなどりがたい番組だ。

posted by カルピス at 21:36 | Comment(1) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

自治会の任期(2年)をおえ、なんとか役をぬける

地区の役員会がある。
2年の任期がおわり、来年度はすべての役をはずれた。
わたしは、副会長(3人)のひとりとして自治会にかかわっていた。
自動的に事業部長もひきうけなければならず、
運動会とバス旅行がもれなくセットでついてきた。
1年に、ほんの2、3回だけ行事に参加すればいいから、
といわれた副会長、そして事業部長なのに、
けっきょくわたしの有給を5日も消化した。

下ばなしとして、来年度の会長は、
わたしの組の副会長からだすことになっている、といわた。
そんなはなしはきいてないので わたしはもちろんことわる。
わたしに会長なんて つとまるわけがない。
いくらきまりだからといって、
きいてないことまでおしつけられるのはいやなので、
もしどうしてもといわれたら、町内会をやめるつもりだった。

なんとか組の世話人さんがうごいてくれ、
ほかの方が副会長をひきうけてくれることになる。
会長も、なり手がいなかったので、
いまの会長がそのままつづけられるそうだ。
なにもしなくていいなんて、ねがってもない状況だ。
役員会で、わたしがほんとうに、
すべての役からはずれたのがはっきりして、
ものすごい開放感を味わう。

2年まえの総会で、副会長になることが
正式にきまったときに、
なにかの縁で役員をすることになった。
ななめにばかりみてないで、
こまっているひとのたすけになるよう
自分なりにとりくんでいこう。

なんてもっともらしい記事をかいて、
すでになえてしまった自分の気もちをかきたてたものだ。
あれから2年。
典型的なおかざりの副会長で、
まえからやっていたことを、おなじようにつづけたにすぎない。
いちど役につけば、それがさいご、
よほどの理由がないかぎり、
ぬけだせないおそろしい組織かとおもっていたけど、
あんがいすんなりやめられた。
おそらく、何年かしたら、また役員をもちかけられるだろうけど、
この2年をよい経験に、もうぜったいにひきうけないぞと
いまからこころをつよくきめている。

posted by カルピス at 18:14 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月24日

サッカー国際親善試合、日本対マリ。ハトがとびかう凡戦

マリは、Wカップ本番で日本とおなじグループにはいった
セネガルに似たタイプのチームとして、対戦相手にえらんだという。
アフリカの選手特有のつよいからだと、よくのびてくる足のうごきに、
けっきょく最後まで日本代表はとまどった。

はじめの15分は、日本もよくうごいていたけど、
それ以降はボーツをまえにはこべなくなる。
とくに、大島が負傷して山口にかわってからは、
しずかでおとなしい「攻撃」となってしまった。
センターバックの槙野と、ゴールキーパーの中村が、
ふたりで つづけて5回パスをくりかえした場面があり、
なんでまえにボールをおくらないのかイライラさせられる。
全体にみても横へのパスがおおく、
さほどかたいまもりともおもえないマリのブロックを
なかなかくずせない。
マリの攻撃は、個人技としての迫力はあっても、
精度がとぼしく、決定的なシーンはつくられない。
とおもって安心していたら、宇賀神がPKをあたえてリードをゆるす。
日本は、得点の予感がほとんどないまま、0-1で前半をおえる。

後半にはいり、本田や小林がはいっても、
試合のながれはかわらない。
印象にのこったのは途中からはいった中島で、
プレーもよかったけど、なによりも笑顔がすばらしい。
たのしくてしょうがない、という存在感が、
これまでの代表選手にはないものだ。
ほかの選手たちは、代表にえらばれたいという意識のためか、
サッカーをやらされているかんじ。
その意味では、マリの選手たちのほうが、
ずっとのびのびとたのしそうなサッカーだった。
4分のアディショナルタイムがおわろうとするころ、
三竿からのパスを中島がきめて、なんとか1-1の同点に。
収穫は、まけなくてよかった、につきる凡戦だ。

会場では、やたらとハトのむれがとんでいた。
ピッチにおりてエサをついばんだり、
いっせいにとびたってカメラの前をよこぎったり。
試合がおもしろくないせいか、ハトにばかり意識がいってしまう。
『ハトの撃退法』(佐藤正午)をよんでいなかったら、
あの本は、まさしくこういう場面をみて
タイトルをきめたとおもうにちがいない。
「ハトの撃退法」をしりたくなる試合内容だった。

posted by カルピス at 11:05 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

カゼがすっきりなおらず弱気になる

カゼをひいてから、もう2週間ちかくたつのに、
なかなかすっきりなおらない。
すぐよくなるだろうと、夜おそくまでグズグズしてたら、
朝おきると、いつもノドのかゆさとセキになやまされる。
わたしはバファリンがとてもよくきくので、
朝・夕と食後にのむと、関節のいたみがひき、スッと楽になる。
それをいいことに、カゼをあまくみて夜ふかしをつづけていたら
いよいよくるしくなってきた。
わたしのからだは、ほんとうはかなり
ひどい状況にいたっているのではないか。
ただのカゼなどではなく、たとえば肝臓や腎臓が
ちゃんとはたらかなくなっているから、
からだのあちこちがいよいよ悲鳴をあげはじめたのだ。
すこしまえにみた『真夜中のカウボーイ』をおもいだす。
ダスティン=ホフマンがえんじる男性が
バスでフロリダにいこうとしていたとき、
だんだん自分のからだがコントロールできなくなり、
ついにはフロリダにつくまえに死んでしまう。
あの男性くらい、わたしのからだはヤバイ状態なのでは。
心配なら病院へいけばいいけど、
もし最終通告をつきつけられたら、わたしにはたえられそうにない。

もしかしたら、ただの花粉症の症状に、
おおさわぎをしているだけかもしれない。
ノドがかゆく、セキがとまらないのは、
花粉症といわれれば、納得できる症状だ。

あるいは、そのいずれでもなく、
ほんとうは、からだはなんともないのに、
脳がブレーキをかけているのかもしれない。
だから、ときどきからだをうごかしてみると、
ちゃんといつものようにはしれたり およげたりする。

この2週間は、やすみの日にもほとんどトレーニングをせず、
家にこもるときがおおかった。
天気がわるかったのもある。
3月としてはさむすぎたし、雨がおおすぎた2週間だ。
きょうは方針をかえ、いつもかよっているジムで、
45分ほどウエイトトレーニングをしたあと、
ランニングマシンで5キロはしった。逆療法だ。
ウエイトトレーニングでは、まえよりもあげる回数がへったし、
はしるのも、スピートをおとさないと5キロつづけられなかった。
でも、とにかくいつものメニューができたし、
ここちよいつかれとともに
からだと頭がリセットされたかんじをあじわう。
逆療法がどうでるか、あすの目ざめに期待したい。

posted by カルピス at 18:07 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

西部謙司さんがみるイニエスタ選手の特徴は普通であること

サッカーライターの西部謙司さんが、
イニエスタ選手(バルセロナ)の特徴を説明している。
https://www.footballchannel.jp/2018/03/20/post261435/
西部さんによると、
「あえて言うならイニエスタはフットボールそのものである」
というのだからすごい選手だ。
 リオネル・メッシが天才ならイニエスタは達人だと思う。過剰なものがなく足りないものもない。相手のタックルをぎりぎりでかわし、ピンポイントのパスを出し、バックパスすべきときは何の躊躇もなくボールを下げる。
 無理もなければ無駄もない。思うがままにプレーして、それが全部チームのためになる。素晴らしい選手でも、自分の特徴を出そう として自滅してしまうことがあるが、イニエスタにそれはほとんどない。かといって、とくに自重している感じもない。その判断や一挙手一投がサッカーと矛盾 しないのだ。

 イニエスタの凄さは、その「普通さ」にあるのかもしれない。自分本位ではなく、サッカーには自分と味方と敵とボールが存在すること、その関係性を見失ってはならないこと、そんな普通さが徹底されているように感じる。
 14〜16歳までイニエスタのチームメートだった人のコメントに「イニエスタが一番優れていたわけではなかったが、彼が良かっ たのは普通だったこと」というものがある。(中略)何かが特別だったというより「普通」に過ごせたことが大きかった のだという。

達人にそだつためには、普通の環境ですごせること、
というのだから、禅問答みたいだ。
もちろん、特別の才能をもったうえで、という条件がつくわけだけど、
それにしても、サッカーをおしえたり、
いいチームにいれようなどとまわりがうごかなくても、
イニエスタレベルの超一流プレーヤーは
ほっておいてもかってにそだっていく。
わたしにとって イニエスタ選手の特徴が
「普通」さにあるという指摘は、とても興味ぶかい。

そうはいっても、「普通にそだつ」・「普通に過ごす」ことが
どれだけ「普通」でないかは、おおくのひとがご存知だろう。
特別な才能があればあるほど、
普通にそだつのはむつかしくなる。
日本はとくにスター選手を特別あつかいしてしまいがちだ。

普通の家族とか、普通の夫婦など、
「普通」はいくらでもありそうだけど、
じつはありえない存在なのを、いまはだれでもしっている。
「普通」こそ、いちばんむつかしい状態であり、
だからわたしもその事実にあまえて
わたしの家が、問題のある家族におもえても、
これくらいのおかしさはあたりまえと、ひらきなおれる。

どんなスポーツであれ、これからわが子を
一流の選手にそだてようとのぞむのなら、
「普通」にそだてるのが いちばんてっとりばやそうだ。
つい、3歳からの英才教育なんかをほどこしがちだけど、
イニエスタのような、世界一のプレーヤーをめざすのなら、
なにもおしえずに、バランスのとれた常識人となるよう
できるだけほっておき、まちがっても、
自分はうまいなどと、かんちがいしないよう気をつける必要がある。
「普通」にそだてるのは、てっとりばやそうだけど、
いうほどかんたんではない かかわり方なのだろう。
だからこそ、ふたり目のイニエスタ選手はなかなか生まれない。

野球やサッカーで、おおくをもとめられがちな
保護者の応援や協力をみていると、わたしにはとてもできそうにない。
その点、普通であればいい イニエスタ流は、かんがえ方として健全だ。
子どもにせっするときの態度も 一定の方針でのぞみやすい。
そういえば、わたしの家ぐらい「普通」な環境はないわけで、
わたしのむすこは いまになにかのジャンルで
イニエスタ選手レベルの達人になる可能性をのこしているのかも。

posted by カルピス at 21:21 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月21日

かんちがいして1時間はやく出勤したら、おちついて「パッヘルベルのカノン」がきけた

web「本の雑誌」に連載されている「作家の読書道」に、
ことし直木賞を受賞した門井慶喜さんがとりあげられた。
いちにちのサイクルをたずねられた門井さんが、
ほぼ決まっていますね。朝4時に起きて4時半に仕事部屋に行きます。自宅があって、道を挟んで反対側に仕事部屋を借りているんです。7時に1回仕事を終わらせて家に戻り、子どもたちと朝ごはんを食べ、彼らを送り出してから、7時50分くらいから昼寝をします。ちょっと寝てから起きて、後はずっと仕事部屋です。

とこたえている。
小説家では、村上春樹さんのはやおきが有名だけど、
こうやって、とびきりはやくおきだして、
仕事にかかるひとが いまではめずらしくないようだ。

わたしも4時におきてうごきはじめたいけど、
なかなかきっかけがつかめない。
いまは、6時半におきて ゆっくり朝ごはんをたべ、
8時にあるいて職場へむかう毎日だ。

せんじつ、イレギュラーの仕事が2日、つづけてはいり、
1時間ちかく家をはやくでなければならなかった。
せわしないおもいで朝ごはんをたべるより、
1時間はやくおきて、いつものように
新聞をよみながらの、ゆっくした食事にしようとおもった。
5時半におき、お弁当をつめてから、
新聞をながめつつ朝ごはんをたべる。
ひとりでたべる朝ごはんもいいものだ。
おもった以上に有意義な朝となったので、
そのつぎの日も、おなじように1時間はやくおきる。
つつがなく朝の準備をおえ、余裕をもって職場にいくと、
なんだかようすがすこしへんだ。
なにをかんちがいしたのか、わたしは1時間はやく出勤していた。
なれないことをして、せっかくのはやおきが無駄になってしまった。

職場には、その時間にもすでに2人の職員がいて、
すこしたつと、また3人が出勤してきて、と、
中心メンバーである職員たちは、
わたしがかんちがいした1時間はやくの出勤を、
日常としていたのに感心する。
こういう職員たちのおかげで、
仕事がなんとかまわっているのだろう。

1時間をもてあましたわたしは、すこしパソコンをいじってから
送迎車にはやばやとのりこみ、NHK-FMできらクラをきいた。
ジョージ=ウィンストンの
「パッヘルベルのカノンによる変奏曲」がながれてきた。
運転しながらではなく、音楽だけに耳をかたむける。
1時間のはやおきは、無駄にならなかった。

posted by カルピス at 20:54 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

「夜廻り猫」379話 遠藤さんに「頑張ったなあ」とねぎらってもらいたい

「夜廻り猫」379で、
病室でねている女性のそばに遠藤さんと重郎がたち、
にっこりわらいかける。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/387
目をさました女性に
「ああ頑張ったなあ おまいさん おつかれさま」
と遠藤さんがねぎらっている。
病院の、しかも集中治療室らしい部屋に、
遠藤さんたちが どうやってはいりこんだのかは、
今回のはなしに関係ない。

遠藤さんは、たいていの場合、
「頑張ったなあ」とほめてくれる。
そばについれくれ、そういってくれるだけで、
どれだけすくわえるかを わたしはしっている。
日ごろつよがりをいうひとでも、
病気や手術でこころぼそいおもいをしているとき、
ほんとうにこころのささえになるのは、
そばにいてくれるひと、理由など関係なく、
ねぎらってくれるひとだ。

「夜廻り猫」みたいに、ひとでなくて猫でもかまわない。
わたしは以前、歯がひどくいたんだとき、
いっしょにねてくれたネコのピピに
どれだけすくわれたかをおぼえている。
わたしがねがう「最後」は、
病院や家でなくてもいいから、
だれかがそばについてくれ、
「頑張ったなあ」といってくれるどこかだ。

じっさい、この379話は、わたしのように
デリケートな神経をもっていないものには、
なぜ「ありがとう」をいいあっているのか
すこし不思議なはなしだ。
にもかかわらず、意識をとりもどしたときに
みしらぬ猫が2匹いて、「頑張ったなあ」と声をかけられたら、
にっこり「ありがとう」をつたえる女性の気もちがよくわかる。
ほんとうに大切なことは、世のなかにそうたくさんはない。
世界をささえている おもいやりのこころはとてもシンプルだ。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

今シーズンのおたのしみ対決、フロンターレ対グランパス

Jリーグ第4節、名古屋グランパス対川崎フロンターレをみる。
5年間風間監督が指揮をとり、
風間流サッカーがしみこんだフロンターレと、
その風間氏を監督にむかえ、1年でJ1にもどってきたグランパス。
いったいどんな試合になるのだろう。
今シーズンのJリーグは、
新監督の采配がたのしみなチームがいくつもある。
このフロンターレ対グランパスという同門対決は、
そのなかでも特に注目しているくみあわせだ。
それが、第4節ではやばやと実現した。

両チームとも、こまかくパスをつなぎながら
せまいスペースをおそれずに、せめあがっていく。
おおくのパスがワンタッチでこまかくつながり、
小気味いいリズムがうまれ、ゾクゾクする。
にわかファンのわたしには、バルセロナの試合みたいにおもえる。
とくにフロンターレは、連動したプレッシャーが身についており、
相手にわたったボールを数人によるプレッシャーで
かんたんにうばいかえしてしまう。

前半のフロンターレは、いいところまでせめこむものの、
もうすこしのところでゴールをわれない。
グランパスは、必死にまもっているうちにリズムがでてきて、
しだいに得点のにおいをかんじさせるようになる。
前半を0-0でおえ、フロンターレにつかれがみえるようになった後半は、
グランパスのほうが試合をうごかしていた。
しかし、後半20分、家長にかわってはいった大久保が、
中村憲剛からのフリーキックをヘディングでゴールにおしこむ。

試合は結局そのまま1-0でフロンターレがかち点3をあげる。
おしくもやぶれたものの、
試合終了間際にグランパスがくりだした猛攻は迫力があった。
また、グランパスは17歳の選手がふたり出場しており、
わかい世代の活躍が印象にのこる。
2年ぶりにみた佐藤寿人は、広島にいたときにくらべ、
うでや胸の筋肉がおちたのではないか。ほっそりしてみえた。
フロンターレでは、大島選手の正確なプレーがひかる。
大島選手の大胆なスルーパスは、
中村憲剛の直系にふさわしいセンスをかんじさせた。

解説者が、この試合の影の主役は風間八宏、といっていた。
両チームとも、相手の風間流サッカーをつよく意識し、
自分たちのよさをだそうとしていた。
フロンターレとしては、
風間サッカーをしりつくしているチームとして、
J1にあがったばかりのグランパスに
まけるわけにはいかない意地があっただろう。
グランパスは、もう一歩およばなかっただけで、
けしてフロンターレにみおとりする内容ではなかった。
つぎにおこなわれる両チームの対決をたのしみにしたい。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月18日

第39回松江レディースマラソンを応援する

松江レディースマラソンがひらかれる。
わたしがつとめる事業所からも、
11名の利用者がジョギングコース(3キロ)に参加している。
きょねん・おととしは、いっしょにはしって
わたしもお手つだいしたけど、
ことしは応援団として、ランナーに声援をおくった。
選手たちは、ハーフマラソン(女性だけ)をかわきりに、
参加する距離にわかれて つぎつぎとスタートする。
ハーフマラソンの先頭集団は、さすがにスピートがはやく、
いかにもマラソンレース、というかんじだったけど、
つぎにやってくたグループからは、
ファッションはきめているものの、
ランナーらしいフォームやスタイルからはずれてくる。
どうやら、松江レディースマラソンという大会は、
ランナー歴のながいひとはほんのひとにぎりで、
のこるほとんどの参加者は初級者レベルのランナーみたいだ。
それがわるいといっているのではなく、
ぶっつけ本番みたいな形であろうと、とにかく参加しようとした
女性たちのあついおもいが、沿道までつたわってきた。

マラソンレースというと、沿道をぎっしりひとがうめつくし、
さかんに声援をおくる姿をおもいうかべるけど、
きょうのレースは きわめてまばらな観客数だった。
どれくらいすくないかというと、
わたしは、はしっているランナーふたりから、
名前をよばれ、手をふってもらえた。
わたしが気づくよりさきに、むこうがわたしをみつけるぐらい、
応援よりもランナーのほうがおおいのが、松江レディースマラソンだ。

わたしたちが応援するのは、
いっしょに仕事をしている11名の利用者だ。
この日をめざして、できるだけの準備をしている。
1年をかけて、あつい日や、さむい日でも、
練習スケジュールにそって、
3キロをイメージしながらはしってきた。
きょうのレースでは、本番の緊張から
表情がかたかったひともいたけど、全員が完走をはたした。
足がとまりがちな選手も、われわれが応援している場所にくると、
てきめんにちからをとりもどし、はしりが復活している。
応援の効果はめざましく、はやおきをして
選手たちをまちうけた甲斐が たしかにあった。

わたしもランナーのはしくれとして、ひとのレースをみていると、
自分もはしりだしたくなってくる。
きょう参加されていた初心者ランナーのあついおもいが、
松江レディースマラソン大会からうけとったおみやげだ。

posted by カルピス at 18:33 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月17日

パソコンのシステムを10.8からHigh Sierraに

つかっているパソコンのシステムがふるくなり、
はてなブックマークがだいぶまえに、
最近になってドロップボックスがつかえなくなった。
わたしがもっているパソコンは、
おもにつかっているiMac(10.6.8)と、
そのほかに11インチのMacBookAirと、
15インチのMacBookProがある。
ノートパソコンは、どちらもシステム10.8で、
ぐずぐずしていたら いろんな機能がつかえなくなりそうなので、
いまさらながら、システムをあたらしくしてみた。

MacBookAirとMacBookProは、
無料のアップデートでOS13.3のHigh Sierraにする。
iMacは、ふるすぎて、いちどではHigh Sierraをいれられず、
「プラカンブログ」を参考に、まずOS X El Capitan(10.11)まで
アップグレードする。
https://www.plusdesign.co.jp/blog/?p=7914
2段回にわけてHigh Sierraにもっていくやり方だ。
でも、そのとちゅうで、「インストールできません」と表示された。
そうか、だめならまあしょうがない、と
もとのOS10.6.8でたちあげようとするけど、
iMacはいつまでもOS X El Capitanをインストールしようとする。
そして、なんどやってみても、とちゅうでうけつけなくなる。
OS10.6.8がはいっていたハードディスクは、
インストールの失敗によって、つかえなくなったようだ。
ここにきて、わたしは事態の深刻さに気づく。
なれしたしんだ、10.6.8のあの画面に、
もうおめにかかれないなんて。
なにをするにもiMacをつかってきたし、
ドロップボックスが機能しなくなってからは、
データーもぜんぶiMacにはいっている。
それがきえてしまうと ダメージは はかりしれない。

さいわい、べつのハードディスクにバックアップをとっていたので、
神さまにおねがいしながらタイムマシンで復元をはかる。
またとちゅうでとまったりしたらどうしようと、
心配しながら おそるおそるクリックした。
まさしくいのるしかない。
2時間ほどかけて、なんとか復元はぶじに成功し、
いつもの画面がわたしのまえにあらわれた。
ものすごくホッとした。

High Sierraになった2つのノートパソコンは、
すこしデスクトップがあかぬけたけど、
わたしには ありがたい機能がくわまったわけではない。
反対に、プリンターがつかえなくなったし、
ファイルメーカープロもひらけなくなった。
わたしにとっては、つかいにくくなっただけだ。
パソコンのシステムをたもつめんどくささを
ひさしぶりに味わった。
パソコンをつかいつづけるために、必要なリスクとはいえ、
わたしのようなパソコンオンチには、
こまめのバージョンアップに気をくばるのはたいへんだ。
もっとシンプルなしくみでないと、
更新のときにおおきなダメージをうける。
なんとか これまでとおなじ環境でiMacがつかえるようになり、
しみじみとよろこぶ。
うしなわれたとおもったデーターが、
すくわれたときのありがたさは、
なにごとにもかえがたい。

posted by カルピス at 16:06 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

島根にもあった協力隊事務所

朝日新聞の島根版で、
「協力隊事務所で列車待ち客 接待も」
という小みだしとともに、
もうすぐ廃線になる三江線の浜原駅(美郷町)と、
美郷町で活動する協力隊員がとりあげられていた。
協力隊というと、つい外国で活動する
青年海外協力隊をおもいうかべるけど、
地域づくりを手だすけするという意味では、
途上国でも日本の僻地でも、
必要とされる役割が共通しそうだ。
記事では、大阪市出身の女性が、
協力隊員として活動するようすが紹介されている。
協力隊員が派遣されなければならないほど、
地域の活性化が切実にのぞまれているのだろう。

美郷町も浜原も、島根県でありながら、
わたしはきいたことがない。
ほかの町から協力隊員にきてもらっているのに、
おなじ県にすむわたしがなにもしらないのは、
なんだかもうしわけないような気がしてきた。
たとえば、車やバイクで旅行したいといいつつ、
その目的地は島根以外の場所ばかりだ。
金沢の友だちをたずねに、スーパーカブでいったら
たのしいだろうなとおもうくせに、
地元のしらない地域をまわる「旅行」を、
かんがえたことがなかった。
もちろんどこへ旅行にいこうと、そのひとの勝手なわけだけど、
とおくまでいかなくても、おなじ県に、
まったくしらない地域があるのだから、
そこをたずねないのはもったいない。
みじかい日数で、おてがるに旅行できる。
お金もそんなにかからないし、有給を何日もとらなくていい。
自分がすむ島根県に、協力隊員が派遣されている町があるとしり、
どんなに田舎なのかいってみたくなった。
外国でなくても、名のしれた日本の観光地でなくても、
そんな田舎こそ これからの旅行さきにピッタリではないか。
野宿をしながらディープな島根の田舎をまわる自分を想像する。

三江線が、今年度いっぱいで廃止になることから、
このごろは関連した記事をよく目にするようになった。
廃止になるときまってから、きゅうにおしまれるのは、
よくあるはなしとはいえ、
そうでもなければ三江線は話題にならなかった。
電車がはしらなくなったあとは、バスが路線をむすぶらしい。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月15日

「お店のようなもの」型店舗がひらけそう

わたしがつとめる職場は、だんだんおおきくなったとはいえ、
職員が30人程度の小規模事業所なので、
年度がかわるからといって、とくにおおきな変動はない。

と、いままではおもっていたけど、
今年度にかぎり、かなりおおきな移動があり、
年度末にふさわしいざわざわした雰囲気になってきた。
わたしはこれまでとおなじクッキー班担当だけど、
その内容がずいぶんちがってきそうだ。
クッキーをつくるだけでは、うごきがたりないので、
ほかになにか、利用するひとの仕事が必要となる。

わたしは、「お店のようなもの」をひらく
いい機会なのでは、とおもった。
「お店のようなもの」は、かとうちあきさん
(「野宿野郎」編集長)がひらいている お店のようなもので、
「お店のようなもの」は、「会社のようなもの」とおなじで、
「お店のようなもの」だけど、ちゃんとしたお店ではない。
そこらへんのゆるさは、運営する側のセンスにかかっており、
こぎれいなお店をやっていく能力はわたしにないけど、
フワフワと実態のはっきりしないお店は、
おそらくわたしの得意分野だ。

つくったクッキーをうるだけでなく、
雑多な商品(というかガラクタ)がならんでいたら、
とおりがかりのひとが関心をしめすのではないか。
クッキー工房のまえをとおる道路は、
もよりの駅にちかいため、高校生がたくさんあるいている。
そんなおにーちゃん・おねーちゃんがきてくれたり、
近所のおばさんが関心をしめしてくれたら、
なかなかおもしろい空間になるのではないか。

1年ほどまえの記事に、「お店のようなもの」をひらけたら、
とかいたことが、なんだかほんとうに実現しそうだ。
ひらいているほうがめずらしいお店になるかもしれないけど、
コンセプトとしては、あくまでも「お店のようなもの」として
仕事のにおいいを排除する方針でやっていきたい。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

ジーンズをはきかえたら、しんじられないぐらい、気もちがよかった。

あまりおおきな声ではいえないけど、
わたしは冬に ジーンズをほとんど洗濯しないではきつづけている。
きれいずきというか、潔癖症のひとのなかには、
いちど手や足をとおしたものは、
いちにちで洗濯しないと気がすまないひとがいるらしい。
わたしは、よごれを実感しないかぎり、
そのままはきつづけるほうだ。
ネコのおしっこがついたり、
ショーユのシミができたりしたらあらうけど、
そうでないかぎり、1、2ヶ月は平気ではいている。

3月中旬になってあたたかい日がつづき、
ときにはあついとかんじる日もでてきた。
このまえひどく汗をかいたので、
すこしまよってからジーンズを洗濯機にいれ、
シャワーをあびてから しまってあったジーンズにきがえた。
ジーンズが足にピタッとおさまり、肌ざわりというか、
足にまとわりつくデニムのかんじがすごく気もちがいい。
生理的な快感をおぼえる。
まるで生まれかわったように新鮮なこころもちだ。
夏には毎日ズボンをかえるけど、
こんな気もちのよさはかんじたことがない。
はきなれたジーンズであり、サイズがわたしの足にピッタリなのも
快感にひとやくかっていそうだ。
洗濯によりすこしちぢみ、ブカブカではなく、ピッチリでもない。
ベルトをつけなくても、すんなりおさまるのが
洗濯しおえたジーンズのここちよさだ。

先日のデイリーポータルZに、
「洗濯洗剤は、必要ないって、ホント?!」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/180309202279_1.htm
テレビのコマーシャルでは、その会社の洗剤が
ひどいよごれをおとすようなことをいうけど、
実験してみると、水だけであらった場合とくらべ、
たいして差がでなかった。
企業はよごれおちがすぐれていると強調し、
消費者は効果がないものにお金をはらう。
その結果、川や海がよごされていく。
なんておかしなことがまかりとおっている世の中だろう。

わたしが洗濯したジーンズにかんじる快感は、
洗剤であらったから よごれがおちて、
気もちよくかんじるのではなく、
洗剤をつかわず、水だけでざっとあらった場合にも、
おなじようなここちよさをおぼえるとおもう。

人間のからだも、おふろにはいったとき、
せっけんでおゴシゴシあわらなくても、
ただお湯につかるだけで、じゅうぶんにきれいになると
きいたことがある。
わたしもなんにちかためしてみたけど、
夏だったためか、からだのアブラがおちなくて、
気もちよくないので、すぐにやめた。
ただ、洗濯に洗剤をつかわなくても、
からだとちがい、ジーンズは不満をいったりしない。
実用になるほどきれいにあらえるのなら、
洗剤をいれない洗濯でじゅうぶんだ。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

23歳のオイに、ワインのたのしみ方をおそわる

東京でくらす23歳のオイがあそびにきた。
就職がきまり、さいごの春やすみをたのしんでいる最中で、
あいさつをかねて、わざわざ島根まできてくれた。
4月から海運業の会社につとめるそうで、
何年かさきには外国にある支社ではたらきたいという。

わたしはまえからおおきな客船やタンカーなどに、
どんなシステムで燃料や水をつみこむのか、
計算や発注のだんどりがどうなっているのか、気になっていた。
豪華客船に、いったいどれだけの水や食糧を準備したらいいのか。
おびただしい量の日用品を、どこに発注し、
どうやってつみこみ作業をすすめるか、などが、
なぜかとても気になる。
オイにそんなはなしをすると、
まさにその仕事をぼくがするんです、といっていた。
彼が仕事になれ、海運事業の全体を把握したら、
わたしにわかりやすく説明してくれるだろう。

オイは、つい最近まで、東京駅にある
高級フランス料理店でアルバイトをしていた。
ソムリエがいて、いちばんやすいワインでも、8000円という店だ。
自然とオイもワインに興味をもつようになり、
わたしにカベルネ・ソーヴィニヨンと
ピノ・ノワールのちがいをおしえてくれた。
わたしは、おいしいか、おいしくないかで
ワインを評価することしかできないワインオンチなので、
オイがいう品種による特徴のはなしがおもしろかった。

夕ごはんをたべにいったあとでイオンへより、
わたしがいつものんでいる680円の安ワインを
オイにのんでもらって感想をきいた。
彼は、カベルネ・ソーヴィニヨンがいちばんすきだといい、
ピノ・ノワールもかるくておいしいとおしえてくれる。
せっかくの機会なので、両方をかって、のみくらべてみた。
わたしには、品種がちがうことはわかっても、
その特徴をうまくひきだしたできかどうかまではわからない。
ピノ・ノワールはかるいワインといわれているけど、
わたしには野性味のつよい、クセのある味におもえる。
個性的で、おいしいピノ・ノワールは、
カベルネよりもワインらしくておいしい。
けっきょくわたしの頭のなかは、
なにがなんだかわからなくなってきた。
おしいいワインはおいしいし、
おいしくないワインはおいしくない。

オイによると、ワインをたのしむコツとして、
品種のちがいによるワインの特徴をおぼえるといいそうだ。
1000円以下のやすいワインでいいから、
たくさんのワインをのみ、品種による特徴がわかるようになれば、
そのつぎのステップとして、地域や国によるちがいをたのしんでいく。
23歳のオイに、ワインとのつきあい方をおそわるとはおもわなかった。

島根にはわりとおおきなワイナリーがあるけれど、
ぜんぜんおいしいとおもわないので、
わたしはことあるごとにわるぐちをいっていた。
でもオイは、「まずいワインなんてのんだことがない」といい、
どんなワインにも、それなりのよさをみいだしてたのしんでいる。
わたしより、ずっとおとなの態度だ。

わたしが仕事にでかけているあいだに
オイはワイナリーへでかけ、
メルローをおみやげにのこしてくれていた。
ワイナリーのなかでもたかいワインだ。
さっそくのんでみると、不覚にもおいしい。
地元にすみながら、さんざんワイナリーのわるぐちをいうわたしに、
ちゃんとしっかりしたワインもつくっていると、
実物をもってオイはわたしにおしえてくれた。
なかなかよくできた23歳だ。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月12日

『異邦人』(カミュ)「太陽のせい」がひとりあるきしてしまった

『異邦人』(アルベール=カミュ・新潮文庫)

朝日新聞の書評コラム「古典百名山」で、
桜庭一樹さんが『異邦人』をとりあげていた。
「きょう、ママンが死んだ」という不穏な一行目に、一気に引きこまれてしまう。誰にとっても、母の死は、おおごとに決まっているからだ。ところがところが、主人公のムルソーは、悲しくないと嘯いて、ジリジリと焼けるような日光の下で女と遊び回ったあげく、衝動的に殺人まで犯してしまう。法廷で「人を殺したのは太陽のせいさ」と不敵にのたまうムルソーに、ついに死刑が言い渡されて・・・?

桜庭一樹さんが『異邦人』からうける印象は、
わたしとずいぶんちがう。
もっとも、いろんなよみ方ができるのは、
この作品の感想は、読む人によって、かなりバラバラだ。

と、桜庭さんもみとめている。
わたしが『異邦人』に「一気に引きこまれ」たのは、
不穏だからというよりも、
簡潔なリズムが新鮮だったからだ。
みじかくきられた独特の文体が小気味よかった。
「女と遊び回ったあげく」とあるのも、
本文をよんでいると、ごく自然な休日なすごし方におもえた。
マリイとの関係にしても、わたしには
おとなの男女として、理想的なつきあいにみえる。
「太陽のせい」は、けして「不敵にのたま」ったわけではない。
アルジェの海岸ならではの、
殺人的に強力な光がてらしつけていたのであり、
テキトーないいわけとして太陽をもってきたのとはちがう。
「太陽のせい」がよく理解されないまま
ひとりあるきしてしまった小説だ。

母の年齢さえしらなかったことを
ムルソーはつよく非難された。
それが、そんなにとがめられることだろうか。
母親が亡くなった数日後に、女性と海であそぶのが、
そんなに不謹慎なことなのか。
ムルソーのひととなりをよく理解している人物、
たとえばムルソーがよくいくレストランの主人・セレストは、
法廷でムルソーを弁護しながら、
なぜムルソーがひどい人間として
まわりから非難されるのかをもどかしくおもう。
ムルソーへの悪意が前提としてあり、
裁判はそれを固定するためにひらかれたようだ。
ボタンがどこかでかけちがわれたのに、
だれもそれを理解しないまま
一方的に裁判がすすんでいくことへのはがゆさ。

わたしは、同居している母(85歳)を、
どうみおくるか このごろよくかんがえる。
母さえ納得するのであれば、
できるだけ質素な葬儀がわたしのねがいだ。
お墓をもちたくないので、
遺灰はそこらへんにまいてすませたい。
そんなわたしだけど、なにか罪をおかしたときに、
母親をかろんじたからといって、
とがめをうけるのはたまらない。
殺人はもちろんゆるされないけれど、
事件とはなれた倫理観から、
無慈悲にさばかれたムルソーを気のどくにおもった。
こうしたわたしのよみとりも、
一般的にいえば かなりかたよっていそうだ。
ムルソーをどうとらえるかは、かんたんではない。

posted by カルピス at 23:07 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする