2018年03月11日

ネコさえいたら、どうにかなる(「夜廻り猫」をよんでかんじること)

いつものように「夜廻り猫」の連載をのぞく。
例によって、どうということのないはなしだ。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/383
散歩にでかけた宙さんが、迷子になっている子ネコにであい、
しばらくだいてやっていると、その子のお母さんがきて・・・。
こういう、ささやかなはなしをよむと、
ストーリーとは関係なしに、
ネコさえいたら、どうにかなる、とおもえてきた。

宙さんがいて、かいぬしのおじさんがいて、
宙さんが散歩にでて、ケガをしてかえってくると、
おじさんがやさしくうけいれて薬をぬる。
ケンカの理由などたずねない。
宙さんは、うれしそうに薬をぬってもらい、
おじさんは、そんな宙さんを、あるがままにうけいれる。
南海トラフ地震がこようが、
健康診断で重大な病気をいいわたされようが、
ネコさえいたらなんとかなるとおもえる瞬間だ。

ネコといっしょにいたら、なんとかなるのは、
ネコが日常生活を、きっちりおさえてくれるからだろう。
人間側にいろんな事情がおきようと、そんなことは関係なしに、
ネコが人間にたいしてもっている距離感は いつもかわらない。
ペットがいる生活のよさは、
そうした「かわらなさ」にあるという説明を、
どこかでよんだことがある。
ネコは、ペットのなかでもとくに自分中心の動物であり、
いつもかわらない態度でせっしてくれる。
そして、その日常感こそが、生きているうえでのしあわせだ。

何年かまえに、村上春樹さんが読者からのメールにこたえる
「村上さんのところ」という企画があった。
何万ものメールすべてに村上さんが目をとおし、
そのなかの何割かに、返事をくれる。
村上さんは何回も
「ネコをかえば」と回答していた。
人智をこえた次元で、ほんとうに
ネコさえいたらどうにかなるのを
村上さんは経験じょう、よくしっておられるのだろう。
冗談やごまかしではなくて、確信にみちた提案だ。

わたしの家のピピも、いろいろと手をやかせる存在ではあるけれど、
みかたによっては、ピピがわが家のかなめとなっているともいえる。
ピピさえいたらどうにかなるけど、
それだけに、ピピがいなかったら、どうにもならない。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月10日

太陽からの熱がとどかなくなっても、灯油をかっておけば大丈夫

デイリーポータルZに、帰宅難民予行演習の記事がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/180309202274_1.htm
自分の家までかえるのに、あらかじめ体験しておくなんて、
島根という田舎にすんでいるわたしには、ピントこない。
なんでそれぐらいのことが、とおもうけど、
日ごろ都会で長距離を通勤・通学しているひとにとって、
交通機関がとまれば、家までの道さえわからないようだ。
そこらへんの深刻さが、地方と都会ではまったくちがう。

小学生のころ、あと何年かしたら(ずっとさきだろうけど)、
太陽がひえはじめて、地球に熱がとどかなくなる、
というはなしをきいた。
でも、わたしはぜんぜん心配しなかった。
灯油をたくさんかっておけばいいから、
というのがわたしの対応策だ。
くらくなるのだったらロウソクがある、
とおさなかったわたしはのたまった。

災害にそなえたわたしの意識は、それからたいしてかわっていない。
基本的に、かいだめしておけば、なんとかなるとおもっている。
食糧は、お米さえあれば しばらくしのげるはずだ。
水はペットボトルをケースがいしておこう。
でも、ほんとうに都市で大災害がおきたら、
日用品や食糧の確保をかんがえただけでも、おてあげになる。
それにトイレは。
田舎だったら、トイレがつかえなくなっても、
すこし町をはなれたら なんとか用をたせる。
都会では、そこらへんにかくれて、というわけにいかない。

大震災から7年がたとうとしている。
このごろは、南海トラフ地震がおきたばあい、
どれだけのダメージがあるかの試算を新聞でみかける。
被害をかるくみたときと、重大な場合を想定したときでは、
ずいぶん数字にひらきがあるけれど、
あのひろい地域に被害がおよべば
日本全体が、あらゆる面でマヒしてしまいそうだ。
流通も、エネルギーも、すべてがストップする。
といって、いまのわたしになにができるだろう。
けっきょく、最小限の備蓄しか、おもいつかない。
小学生だったころとおなじだ。

posted by カルピス at 10:30 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月09日

イチロー選手が出会えた「泰然とした状態」

メジャーリーグのイチロー選手が、
マリナーズへ6季ぶりに復帰すると
けさの朝日新聞がつたえている。

なかなか契約がきまらなかったが、の質問にたいし、
イチロー選手はこうこたえている。
僕は泰然とした状態だった。泰然という状態は、プレーヤーとしても人間としても、目指すべき状態であったので、そういう自分に出会えたことはとてもうれしかった。

あせりや欲望に気もちを支配されず、
ただ 自分がやるべき準備をおこたらないで
たんたんと開幕をまっていたイチロー選手。
泰然だったからこそ、マリナーズから声がかかり、
契約まではなしがすすんだ。
イチロー選手は、しずかによろこびをかたるけれど、
けしておおはしゃぎしたりしない。
なにしろ、泰然なのだから、あるがままをうけいれる。

「泰然とした状態を目指す」といっても、
じっさいには なにをすればいいのだろう。
きっと、その状態になったときに
自分はいま泰然であると気づくのであり、
具体的なノウハウはおろらくない。
イチロー選手にしても、44歳にして
ようやくたどりついた状態であり、
イチロー選手の有名な試合前のトレーニングや
入念なからだの手いれを、
長年つづけたからこそ おとずれた境地だ。
試合の日にかならずたべるというカレーライスに、
泰然にむけた効果があるのか 気になるけど。

きのうの記事でとりあげた
横尾忠則さんの「すべては未完である」を、
イチロー選手の泰然にてらしあわせると、
泰然だからといって、それがゴールなのではない。
ゴールだと、固定してしまうと、
コロコロかわる状況に 柔軟な対応ができなくなる。
糸井さんが「今日のダーリン」のむすびにかいていた
「おれはおれを直さない。直っていたら、それをも直さない」
が、泰然とのただしいつきあい方だ。
自然と泰然になっていたなら、それをなおす必要はないけど、
泰然になるために なにかをしなくてもいい。
わたしも、いまの状態が泰然のような気がするけど、
おそらくただのかんちがいだろう。
でも、ほんとうの泰然に、なろうがなるまいが、
どうでもいいことだと、わたしはさとってしまった。

posted by カルピス at 20:38 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

横尾忠則さんの「すべては未完である」がもたらす自由

「今日のダーリン」(ほぼ日)にのった
横尾忠則さんの「すべては未完である」は、
ものすごくふかいかんがえなのではないか。
横尾忠則さんの大きなテーマは、
「すべては未完である」ということです。
なにからなにまで、森羅万象の一切が未完である、と。
「達成感」とか「完成」とか「目的」とかを、
 頭から排除しちゃってる‥‥のだと高らかに語ります。
これ、言うのは簡単ですけど、
ほんとうにそう思えるかと言えば、なかなかむつかしい。
でも、その感覚を我がものにすることができたら、
もしかしたら「達成」とは無縁の「万能」と「自由」を
得られるんじゃないかと思うんですよね。

これは、横尾忠則さんとの対談でききだしたはなしを、
凡人にもわかるように、糸井さんが説明してくれたものだ。
よんだだけでも、こころがおだやかにみたされた気がする。
これはもう、思想といっていい。

一般的に、いまの世のなかでは、
達成感をとてもいいことのようにとらえているけど、
それを排除するかんがえがあったのだ。
老子の思想は、勇気を否定しているそうで、
ききかじったわたしは、おかげでずいぶん楽になった。
おなじように、達成感の排除はこころを自由にしてくれる。
弱いことを強くしたり、悪いところを直したりするのも、
なにかやりたいことがあってやるのなら、いいですよね。
でも、ただ「完成」に近づくために直すくらいなら、
それは無理だから(どうせ「未完」なのだから)、
しなくてもいいということでしょうね。
それをやめただけで、どれくらい自由になれることか。

ひらきなおりみたいだけど、なげやりではない。
バカボンのパパのいう、
「これでいいのだ」というかんがえ方につながっている。

ほぼ日にのった糸井さんと横尾さんの対談、
「ヨコオライフ」をよむと、
http://www.1101.com/yokoolife/index.html
もう、あきれるぐらい どうでもよさそうなことを
延々とふたりがはなしている。
たとえば、カレーライスのたべ方。
まず、あついごはんに できたてのあついカレーをかけてたべ、
夜になるとカレーとごはんがひえているので、
つめたいごはんにつめたいカレーをかけ、
ほかにもつめたいごはんにあついカレーという手もあり、
これがあんがいおいしくて、みたいなはなしを横尾さんがつぶやき、
ふむふむと糸井さんがきいて、かんじたことを横尾さんにかえす。
こんなやりとりから、糸井さんはどうやって
「すべては未完である」とまとめられたのだろう。

わたしは横尾さんについてまったくしらない。
糸井さんがこんなふうに ときあかしてくれなかったら、
わたしには横尾さんがなにをいっているのか
さっぱり理解できなかっただろう。
糸井重里というよいきき手のおかげで、
わたしは独創性にすぐれた 達人たちのかんがえにふれられる。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月07日

『ゴッド・ファーザー』の有名な場面をおもいださせる ピピの出血

いっしょにくらしているネコのピピが、
いたるところにオシッコするのでこまると、
このブログになんどもかいてきた。
ネコはふつう いちにち1回のオシッコしかしないのに、
腎臓をわるくしているせいで、
ピピは ほぼ正確に2時間おきのオシッコが
リズムとしてできあがっている。
それをトイレでしてくれたらなんにも問題はないけど、
ベッドや枕のうえだったり、わたしにしがみついたまま
パジャマをぬらしたりするとがっくりくる。
被害をおさえるため、ベッドにずらっとトイレシートをしきつめる。

このまえおきたら、そのトイレシートが
ひろい範囲で血によごれている。
夜はくらくて気づかなかったけど、
朝になり、殺人現場みたいなまっかなシーツ
(ほんとはトイレシート)をみておどろいた。
映画ずきなひとには、『ゴッド・ファーザー』の有名なシーンみたい、
といえばわかってもらえるだろう。
競走馬のオーナーが目ざめると、ベッドに血の海ができている。
おどろおどろしい音楽にあわせ
ゆっくりカメラがひいてベッド全体をうつしだすと、
血の海のみなもとには、切断された馬のクビがよこたわっていた。
コルレオーネ=ファミリーを敵にまわしたものは
どうなるかをしらせる、ショッキングなメッセージだ。

ピピがつくった血のよごれは、『ゴッド・ファーザー』でながれた
10000分の1程度の規模でしかなかったけど、
まっしろなシーツについたあざやかな血の赤い色は、
たとえ量がすくなくても みたものをおどろかす。
ただでさえからだがちいさく、そのうえに
ながく病気をわずらい やせほそっているピピが、
これだけ血をたくさんながせば 命にかかわるのではないか。
ぐったりよこたわっているピピをだきおこすと、
手足が血でよごれ、口からも血をながしている。
口内炎があり、ごはんをたべたときに口のなかをいたがるピピが、
ツメで口をひっかいて、口のなかをきったのだろう。
タオルでからだをふくと、ほかにキズはなかった。

口内炎で食がほそり、腎臓もわるいピピなのに、
そのうえ大量の出血をしたらどれだけダメージをうけるだろう。
わるいなりに安定した状態をたもってきたけど、
いよいよこれでピピともおわかれかと、
わたしは最悪の事態も覚悟した。
むかしかっていた犬が、フィラリアにかかり、
口から血をながしながらくるしんだのをおもいだす。

でも、なんども修羅場をくぐってきたピピは、
今回もまたしぶとかった。
口からの血はやがてとまり、ごはんをたべられるようになる。
ますますワガママになったピピは、
お皿にいれたまま 時間がたったモンプチではなく、
新鮮なモンプチをよこせと、あたらしく缶をあけるよう、
なき声をあげて しぶとくうったえる。
さっき食事をしたことをわすれ、
すぐにつぎの食事をもとめる認知症の老人みたい。
ピピとのおわかれまで、もうしばらく時間をもらえたようだ。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

『きみはいい子』(中脇初枝)おいこまれている日本のお母さんたち

『きみはいい子』(中脇初枝・ポプラ社)

『きみはいい子』は連作短編集で、
2番めにおさめられている「ぺっぴんさん」には、
公園であそぶ母と子どもたちがかかれている。
表面上は笑顔をうかべているお母さんたちも、
いったん自分の家にかえると、
外でつけていた やさしげなほほえみをはずし、
虐待にみえるやり方で子どもたちをはげしくしかる。
ひとりの母親だけではない。全員だ。

ひどいなーとおもいつつ、
お母さんたちをそこまでおいやったのは
お父さんたち、そして日本社会なのが すぐにおもいうかぶ。
母親たちは、夫をあてにできないのに、
その夫から、家族から、まわりから、
ちゃんとした子にそだてるのが
母親として当然の任務だという
目にみえない圧力のなかで 子どもたちとむきあっている。

朝日新聞に連載されている
「たぶん、僕らの問題です」は、
男女格差の国別ランキングで、
日本が114位だったのをうけ、
なぜ男女格差がなくならないかをさぐっている。
連載の8回目に、ホストクラブを経営する
手塚マキさんのコメントがのった。
手塚さんは、「男は全面降伏しかない」という。
#MeTooを告発した女性が批判されたことについて、
女性にも責任があると言うのは、いじめっ子が「あいつにもいじめられる要因があった」と言うのと同じです。「男性を支えるのが私の役目」と考える女性がいるとしたら、そういう気持ちにさせたのは男性優位社会。男は全面降伏するしかない。女性の責任を言うのは、いまある格差をなくしてからの話です。

わかったようなつもりでいるわたしも、
しらないうちに男女差別をして、
女性をキズつけているのだろう。
いらつく母親にそだてられた子どもたちは、
こころにおおきな闇をかかえ、おびえながらくらしている。
子どもたちをしっかりだきしめたり、
だいすきだよ、と無条件でかわいがったり、
じょうずにできたと うんとほめたりと、
シンプルに子どもたちを愛せないものだろうか。
自分が親から愛された実感をもたないひとには
どうやって子どもにせっしたらいいのか
わからないというのをきいたことがある。
問題はいろいろあるにしても、
すべての子どもたちが、
こころをみたされて そだってほしい。
それには、まず男たちが、
職場からはやく家にもどらなくては。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

日本のパクチーブームを タイ人がおどろいているのに、わたしもおどろいた

けさの朝日新聞に、
「驚き 日本のパクチーブーム」という投稿がのっていた。
タイ人の大学生が、日本のパクチーブームを不思議がっている内容だ。
この学生は、バンコクで日本語を勉強しているそうで、
日本のニュースでおどろいたのが パクチーのことだったという。

 日本のパクチーブームを知ったとき、何かの冗談かと思ったが、調べるとパクチーのレシピがたくさんあり真実と分かった。(中略)パクチーはそんなにおいしいのかと考えさせられた。
 タイでは、パクチーはパセリのような料理の飾りで、苦手な人も多い。スパイシーサラダやスープ、ヌードルなどの料理に少しパクチーが入っているだけだ。(中略)
 タイ人は日本人ほどパクチーを食べないと思う。日本でこんなに人気があるのは、不思議で面白い。
(クワンチャノック・プラバーコーンサクン氏)

このひとは、じっさいに日本にいて
日本人とパクチーのつきあい方におどろいたわけではなく、
あくまでも情報として目に、
あるいは耳にしたパクチーブームだ。
日本人がたくさんの料理につかっていると、おどろいているけれど、
パクチーのレシピがたくさんあるからといって、
おおくの日本人がパクチーをたべているわけではないだろう。
たしかに以前とくらべれば、
パクチーはよくしられたハーブになったとはいえ、
いまもパクチーを苦手とする日本人はたくさんいる。
もしこの大学生が日本をおとずれたら、ニュースでいうほど
日本人はパクチーをたべないのをしり 安心するだろうか。
それとも、ニュースは正確に日本の状況をあらわしており、
日本人のパクチーずきは本当にタイ人をうわまわっているのだろうか。

日本では、タイ料理 イコール パクチーという図式があるのに、
本家本元であるタイのひとが

「パクチーはそんなにおいしいのかと考えさせられた」
「タイ人は日本人ほどパクチーを食べないと思う」

というのには、おどろいたし すごくおかしかった。
客観的に日本のことがみえないのとおなじように、
タイのこともあんがい、というか
ぜんぜんしらないのかもしれない。
とはいえ、
「タイ人は日本人ほどパクチーを食べないと思う」
は、とびきり意表をつく「ニュース」だ。
ほんとうだろうか。

わたしはパクチーがすきで、
とくにサッポロ一番塩ラーメンとの相性が
抜群だとおもっている。
タイのひとにも ぜひおしえてあげたい。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月04日

車いすバスケットの京谷和幸さん「あきらめないかぎり、なにも終わっていない」に胸をあつくする

NHKーBSの「ぼくらはマンガで強くなった」で、
車いすバスケットの京谷和幸さんがとりあげられていた。
京谷さんは、サッカー選手として活躍し、
A代表を目前としていたときに 交通事故で下半身不随となる。
そんな目にあったら、わたしはきっと
いじけたまま たちなおれないだろう。
入院して5日めに、京谷さんが婚約していた女性から、
予定どおり結婚しようとうちあけられる。
ふたりとも、どれだけまよったかは
すこしかんがえただけでわかる。
かんたんな判断ではなかったはずだ。
京谷さんは、そんな婚約者にはげまされ
生きるのぞみがめばえてくる。
さらに婚約者は、バスケットボールマンガ
「スラムダンク」をさしいれしてくれた。
このマンガとのであいが、京谷さんの人生を決定的にかえる。

「あきらめたら そこで試合終了だよ」

とスラムダンクのなかで安西先生がいっている。
そのことばから、京谷さんは

「あきらめないかぎり、なにも終わっていない」

と、もういちど生きなおすちからをえる。
下半身不随にも、いろんな程度があるなかで、
京谷さんは最重度の不随であり、
下半身、そして腹筋と背筋がつかえない。
うでのちからだけでボールをなげ、
車いすをあやつらなければならない。
どれだけたいへんなトレーニングをかさねたのか、
京谷さんは口にしなかったけど、
うでの筋肉がつき、サッカー選手時代よりも、
体重が20キロふえたことからも、
車いすバスケットの選手として
からだをつくりかえたのがわかる。
シドニーからロンドンまでのパラリンピックに、
4大会連続で京谷さんは出場し、
いまは日本代表のコーチをつとめられている。

番組のなかで京谷さんが「スラムダンク」をよみかえしたとき、
おもわず涙をこぼしている。
ストーリーにあらためて感動したというよりも、
このマンガにであったのをきっかけに、
自分がどれだけ努力をかさねてきたかをおもいかえし、
不覚にもあふれてきた涙だ。
京谷さんでなければ、やりなおせなかっただろう、
あたらしい人生でのけわしい道のりをおもうと、
最大限のスタンディオベーションをおくりたくなる。

わたしのしりあいで、3年まえからきゅうに視力がおち、
いまではかすかにみえる程度となった男性がいる。
それまでは、個人営業の電気屋さんをしていたけど、
目がみえなければつづけられないので、
仕事をやめ、車も手ばなし、生活をおおきくかえている。
この4月からは、盲学校でのマッサージ科に入学し、
3年間勉強をしたのちに、マッサージ師をめざしている。
視力の低下について、はっきりとした原因がわからず、
これからもさらに進行するかもしれない心配をかかえている。

でも、そのしりあいは、けしてグチをこばさず、
できる範囲で筋トレにはげみ、
車がとおらない道でのジョギングまではじめている。
身のまわりの支度や、食事の準備など、さぞ不自由だとおもうけど、
ヘルパーさんにはいってもらおうなんて おもっていない。
わたしをふくめ、まわりが協力をもうしでても、
自分にできることは自分でするのが彼の流儀だ。
京谷さんにしても、わたしのしりあいにしても、
こころがよわいわたしには、とてもまねできない道をあゆんでいる。
わたしにできるのは、ときどきしりあいとあってお茶をのみ、
どーでもいい気らくなおしゃべりをするぐらいしかない。

posted by カルピス at 20:39 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

「せめてこのぐらいはさせてくれ」globalheadさんの気くばりがすばらしい

globalheadさんのブログにのった
「2ヶ月間主夫をしていた」をよむ。
http://globalhead.hatenadiary.com/entry/2018/03/02/115446
(メモリの藻屑 記憶領域のゴミ)

ある事情から、globalheadさんは
2ヶ月のあいだ主夫をするともうしでる。
夕飯は全てオレが作ろう。そうすれば遅く帰ってきても夕飯をすぐ食べられてすぐ寝られる。洗濯ものも全部任せてもらっていい。洗って取り込 んで畳んでおく。オレの部屋だから掃除をする必要もない。通勤時間が短い分睡眠時間を確保でき、日常の雑事に追われることも無い。今まで何もしてあげられ なかったから、せめてこのぐらいはさせてくれ。

「せめてこのぐらいはさせてくれ」にしびれる。
この生活の後半、睡眠時間が多くとれるようになったせいか、相方が早起きして一人で寛いでいた日が何日かあったことだ。多少なりとも健やかさを取り戻せるようになってくれたのなら、オレのささやかな努力も無駄ではなかったということなのだろう。

自然とわきでてくる 相手への気づかいが、
だれかといっしょにくらしている醍醐味だ。
こうしたこころくばりを愛とよぶのだろう。すばらしい。

わたしもいくらかは家事をするけど、
配偶者への配慮がどれだけあるかというと、
まったく自信がない。
globalheadさんのように、
「せめてこのぐらいはさせてくれ」
なんて、おもったことがない。

先日の夕ごはんでは、
いつものように録画した番組をみていると、
チェンマイのネコたちがでてきた。
岩合さんの「世界ネコ歩き」だ。
旅行ちゅう、わたしが毎日のようにでかけていた市場がうつり、
そこでのネコたちのうごきをカメラがつたえている。
おもわず「この市場は・・・」と配偶者にはなしかけると、
ちらっと画面をみただけで無視されてしまった。
ひとりごとだとおもったのだろう。
神経を逆なでされたわたしは、
ますます相手への気づかいをむつかしくおもう。
わが家の場合、録画でみるネコたちのほうが、
ずっとおしゃべりだ。

posted by カルピス at 10:06 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月02日

パリのカフェで絵はがきをかく林さんに共感する

デイリーポータルZに林雄司さんの
「パリのカフェで絵はがきを書きたかった」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/180301202197_1.htm
タイトルがすべてをあらわしている記事だ。
林さんの気もちが、わたしにはとてもよくわかる。
パリといえばカフェ。
カフェでなにをするかといえば、絵はがきをかくにきまっている。
パリときけば、カフェでかるくなにかをつまみながら
サラサラっとペンをはしらせる自分をイメージする。
エッフェル塔やルーブル美術館をたずねるよりも、
とにかくパリといったらカフェだ。

わたしはなんどかパリにいったことがあり、
すこしぐらいエラソーに自慢してもしょうがないかもしれない。
まず、セーヌ川ぞいをジョギングした。
有名なシテ島とポンヌフもはしった(ようにおもう)。
もうひとつ。セーヌ川ぞいにあるお店で、
「オーティス=レディングのカセットをさがしています」
とたずねたら、一発でつうじた。

でも、残念ながら、「カフェで絵はがき」はやってない。
つれといっしょにカフェへいって、
外においてあるテーブルにつき、
ビールくらいはのんだかもしれないけど、
けしてそれは「カフェで絵はがき」ではなかった。
映画のワンシーンで、うしろのほうにうつっているカフェでは、
地元のひとがエスプレッソをすすり、新聞なんぞをよんでいるけど、
旅行者にはいささかハードルがたかい。
ひとり旅行のときは、観光客であることを堂々と主張し、
カフェでは丸テーブルにおちついて、
エスプレッソをよこに、絵はがきをとりだすのが
いちばんただしいすごし方である。
林さんの記事にのっている写真がそれだ。

それにしても、このSNS時代に、
いまでもちゃんと絵はがきをうっているのは
さすがにパリということなのか。
そういえば、このまえタイを旅行したときも、
おみやげ屋さんには絵はがきがおいてあったような気がする。
旅さきでは絵はがきをかくのが、
いまだに世界共通のおやくそくとしてのこっているのか。
わたしがさいごに絵はがきをかいたのは、
25年まえのタイ旅行までさかのぼる。
おしゃれなカフェではなく、
ゲストハウスの食堂で、やめてきた職場のひとたち
ひとりひとりに、あいさつとお礼をかいた。
絵はがきは、すでに現地の写真がのっているだけに、
はなれてくらすひとへのたよりにつかいやすい。
インスタグラムなんていうのも、
けっきょくは絵はがきみたいなものかもしれない。

posted by カルピス at 20:55 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月01日

もともとすもう界は、その程度の業界なのに期待しすぎ

かえりのバスをまつあいだ、
駅よこのビルにはいり、大画面のテレビをみた。
NHKの福祉大相撲をやっている。
しきたりにきびしいとおもっていたすもう界だけど、
けっこうめちゃくちゃなわるふざけをするものだ。
むりやりわらいをとろうとしており、
わたしのこのみからは だいぶはずれるけど、
はじめてみる ゆるいすもうの世界におどろいた。

いろんな問題がおきて、
わたしたちがすもうにいだいているイメージとずれたとき、
国技なのに、という論調での批判をよく耳にする。
でも、すもう界は、もともとこの程度の業界なのかもしれない。
それなのに、あるはずの姿をみる側がかってにこしらえて、
期待とのギャップに不満をもつ。

朝日新聞の第1面で連載されている「折々のことば」(鷲田清一)に、
山田太一さんの、
私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?

ということばが紹介されていた。
すもうなんて、まさしくそうだ。
期待しすぎなのだ。
福祉大相撲に毛がはえた程度のあそびとおもえば、
目くじらたてて、議論する気などおきなくなる。

「期待しすぎてはいないだろうか」は、
山田さんが編集した『生きるかなしみ』の序文に、
「断念するということ」としてかかれている。
大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか?可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることではないだろうか?

わたしはあきらめのいい人間で、
ちょっとつまづいただけですぐになげだしたくなる。
断念というよりも、根気がないのだろう。
でも、そのおかげで、ものごとにあまり執着せずに生きられ、
「心の平安」を手にできているような気がする。
おそらくこの心境は、50代という年齢からくるのだろう。
わかいころは、可能性にむけて
全力で挑戦する体験をもつのはわるいことではない。
どこで断念するかは、ひとによってさまざまで、
そのひとの美意識があらわれる。
すもうに期待をよせるより、
はやいところでみきりをつけたほうが、
こころの平安を手にしやすい。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする