2018年03月01日

もともとすもう界は、その程度の業界なのに期待しすぎ

かえりのバスをまつあいだ、
駅よこのビルにはいり、大画面のテレビをみた。
NHKの福祉大相撲をやっている。
しきたりにきびしいとおもっていたすもう界だけど、
けっこうめちゃくちゃなわるふざけをするものだ。
むりやりわらいをとろうとしており、
わたしのこのみからは だいぶはずれるけど、
はじめてみる ゆるいすもうの世界におどろいた。

いろんな問題がおきて、
わたしたちがすもうにいだいているイメージとずれたとき、
国技なのに、という論調での批判をよく耳にする。
でも、すもう界は、もともとこの程度の業界なのかもしれない。
それなのに、あるはずの姿をみる側がかってにこしらえて、
期待とのギャップに不満をもつ。

朝日新聞の第1面で連載されている「折々のことば」(鷲田清一)に、
山田太一さんの、
私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?

ということばが紹介されていた。
すもうなんて、まさしくそうだ。
期待しすぎなのだ。
福祉大相撲に毛がはえた程度のあそびとおもえば、
目くじらたてて、議論する気などおきなくなる。

「期待しすぎてはいないだろうか」は、
山田さんが編集した『生きるかなしみ』の序文に、
「断念するということ」としてかかれている。
大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか?可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることではないだろうか?

わたしはあきらめのいい人間で、
ちょっとつまづいただけですぐになげだしたくなる。
断念というよりも、根気がないのだろう。
でも、そのおかげで、ものごとにあまり執着せずに生きられ、
「心の平安」を手にできているような気がする。
おそらくこの心境は、50代という年齢からくるのだろう。
わかいころは、可能性にむけて
全力で挑戦する体験をもつのはわるいことではない。
どこで断念するかは、ひとによってさまざまで、
そのひとの美意識があらわれる。
すもうに期待をよせるより、
はやいところでみきりをつけたほうが、
こころの平安を手にしやすい。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする