横尾忠則さんの「すべては未完である」は、
ものすごくふかいかんがえなのではないか。
横尾忠則さんの大きなテーマは、
「すべては未完である」ということです。
なにからなにまで、森羅万象の一切が未完である、と。
「達成感」とか「完成」とか「目的」とかを、
頭から排除しちゃってる‥‥のだと高らかに語ります。
これ、言うのは簡単ですけど、
ほんとうにそう思えるかと言えば、なかなかむつかしい。
でも、その感覚を我がものにすることができたら、
もしかしたら「達成」とは無縁の「万能」と「自由」を
得られるんじゃないかと思うんですよね。
これは、横尾忠則さんとの対談でききだしたはなしを、
凡人にもわかるように、糸井さんが説明してくれたものだ。
よんだだけでも、こころがおだやかにみたされた気がする。
これはもう、思想といっていい。
一般的に、いまの世のなかでは、
達成感をとてもいいことのようにとらえているけど、
それを排除するかんがえがあったのだ。
老子の思想は、勇気を否定しているそうで、
ききかじったわたしは、おかげでずいぶん楽になった。
おなじように、達成感の排除はこころを自由にしてくれる。
弱いことを強くしたり、悪いところを直したりするのも、
なにかやりたいことがあってやるのなら、いいですよね。
でも、ただ「完成」に近づくために直すくらいなら、
それは無理だから(どうせ「未完」なのだから)、
しなくてもいいということでしょうね。
それをやめただけで、どれくらい自由になれることか。
ひらきなおりみたいだけど、なげやりではない。
バカボンのパパのいう、
「これでいいのだ」というかんがえ方につながっている。
ほぼ日にのった糸井さんと横尾さんの対談、
「ヨコオライフ」をよむと、
http://www.1101.com/yokoolife/index.html
もう、あきれるぐらい どうでもよさそうなことを
延々とふたりがはなしている。
たとえば、カレーライスのたべ方。
まず、あついごはんに できたてのあついカレーをかけてたべ、
夜になるとカレーとごはんがひえているので、
つめたいごはんにつめたいカレーをかけ、
ほかにもつめたいごはんにあついカレーという手もあり、
これがあんがいおいしくて、みたいなはなしを横尾さんがつぶやき、
ふむふむと糸井さんがきいて、かんじたことを横尾さんにかえす。
こんなやりとりから、糸井さんはどうやって
「すべては未完である」とまとめられたのだろう。
わたしは横尾さんについてまったくしらない。
糸井さんがこんなふうに ときあかしてくれなかったら、
わたしには横尾さんがなにをいっているのか
さっぱり理解できなかっただろう。
糸井重里というよいきき手のおかげで、
わたしは独創性にすぐれた 達人たちのかんがえにふれられる。