2018年03月22日

西部謙司さんがみるイニエスタ選手の特徴は普通であること

サッカーライターの西部謙司さんが、
イニエスタ選手(バルセロナ)の特徴を説明している。
https://www.footballchannel.jp/2018/03/20/post261435/
西部さんによると、
「あえて言うならイニエスタはフットボールそのものである」
というのだからすごい選手だ。
 リオネル・メッシが天才ならイニエスタは達人だと思う。過剰なものがなく足りないものもない。相手のタックルをぎりぎりでかわし、ピンポイントのパスを出し、バックパスすべきときは何の躊躇もなくボールを下げる。
 無理もなければ無駄もない。思うがままにプレーして、それが全部チームのためになる。素晴らしい選手でも、自分の特徴を出そう として自滅してしまうことがあるが、イニエスタにそれはほとんどない。かといって、とくに自重している感じもない。その判断や一挙手一投がサッカーと矛盾 しないのだ。

 イニエスタの凄さは、その「普通さ」にあるのかもしれない。自分本位ではなく、サッカーには自分と味方と敵とボールが存在すること、その関係性を見失ってはならないこと、そんな普通さが徹底されているように感じる。
 14〜16歳までイニエスタのチームメートだった人のコメントに「イニエスタが一番優れていたわけではなかったが、彼が良かっ たのは普通だったこと」というものがある。(中略)何かが特別だったというより「普通」に過ごせたことが大きかった のだという。

達人にそだつためには、普通の環境ですごせること、
というのだから、禅問答みたいだ。
もちろん、特別の才能をもったうえで、という条件がつくわけだけど、
それにしても、サッカーをおしえたり、
いいチームにいれようなどとまわりがうごかなくても、
イニエスタレベルの超一流プレーヤーは
ほっておいてもかってにそだっていく。
わたしにとって イニエスタ選手の特徴が
「普通」さにあるという指摘は、とても興味ぶかい。

そうはいっても、「普通にそだつ」・「普通に過ごす」ことが
どれだけ「普通」でないかは、おおくのひとがご存知だろう。
特別な才能があればあるほど、
普通にそだつのはむつかしくなる。
日本はとくにスター選手を特別あつかいしてしまいがちだ。

普通の家族とか、普通の夫婦など、
「普通」はいくらでもありそうだけど、
じつはありえない存在なのを、いまはだれでもしっている。
「普通」こそ、いちばんむつかしい状態であり、
だからわたしもその事実にあまえて
わたしの家が、問題のある家族におもえても、
これくらいのおかしさはあたりまえと、ひらきなおれる。

どんなスポーツであれ、これからわが子を
一流の選手にそだてようとのぞむのなら、
「普通」にそだてるのが いちばんてっとりばやそうだ。
つい、3歳からの英才教育なんかをほどこしがちだけど、
イニエスタのような、世界一のプレーヤーをめざすのなら、
なにもおしえずに、バランスのとれた常識人となるよう
できるだけほっておき、まちがっても、
自分はうまいなどと、かんちがいしないよう気をつける必要がある。
「普通」にそだてるのは、てっとりばやそうだけど、
いうほどかんたんではない かかわり方なのだろう。
だからこそ、ふたり目のイニエスタ選手はなかなか生まれない。

野球やサッカーで、おおくをもとめられがちな
保護者の応援や協力をみていると、わたしにはとてもできそうにない。
その点、普通であればいい イニエスタ流は、かんがえ方として健全だ。
子どもにせっするときの態度も 一定の方針でのぞみやすい。
そういえば、わたしの家ぐらい「普通」な環境はないわけで、
わたしのむすこは いまになにかのジャンルで
イニエスタ選手レベルの達人になる可能性をのこしているのかも。

posted by カルピス at 21:21 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする