無作為にえらばれた場所をたずねている
マックス=ホーキンスさんが紹介されていた。
タイトルは、「ソフトまかせの出会い重ねて」。
コンピューターが選ばなければ、おそらく行くことのない場所、会うことのない人たちだ。
「こうして町を歩くと、自分の知らないところで、たくさんの人の営みがあることを感じられるんです」(中略)
「自分の趣味や嗜好から離れたら、どんな世界を見ることができるのか」。そんな興味で始めた生活はまもなく3年になる。
はじめは、記事をよんでも、なんのことかよくわからない。
そんなことをして、なにがおもしろいのだろう。
日本にも、いきあたりばったり、という言葉や、
ダーツでいきさきをきめるあそびもある。
しかし、ふつうそれらは期間をかぎりおこなわれ、
ホーキンスさんのように3年もつづけたりしない。
わたしたちは、自分とはべつの人生をのぞいてみるのに、
本をよんだり映画をみたりする。
小説や映画、お芝居などがたのしいのは、
自分のしらない世界にふれられるからだ。
人生はいちどかぎりだけど、
本をよめば、まったくちがう生きかたを「体験」できる。
ありえたかもしれない自分は、どんな人間だろう。
しかし、ホーキンスさんの無作為は、
こうした可能性への関心とは またべつの次元にみえる。
アプリのつかい方についてたずねられると、
主に二つを使い分けています。ひとつは、フェイスブック上で公開されている集会を無作為に選び出すもの。(中略)もう一つは「オフボット」で、公開済みです。位置情報から「公園」「レストラン」「完全に無作為」などを選ぶと、どこに行って何をするのかも示してくれます。「◯◯公園に行き、ベンチに座って周りを眺めよう」といった具合です。
一般的に、人生には目標が必要だとおもわれているなかで、
ホーキンスさんの「無作為」は、ものすごく徹底されている。
自分の意思と関係ない場所に行くことに意味があると思っています。
なぜそれに意味があるとおもうのか、
こればっかりは、体験してみないとわからない。
アプリが無作為にえらぶ人生をたのしむとは、
ものすごい価値観があらわれたものだ。