2018年04月30日

「刑事ジョン・ブック 目撃者」納屋でのダンスが印象にのこる

「刑事ジョン・ブック 目撃者」
(ピーター=ウィアー:監督・1985年・アメリカ)

(以下ネタバレあり)
アーミッシュの少年が殺人現場を目撃する。
刑事のジョン=ブック(ハリソン=フォード)が
少年の記憶を手がかりに、捜査にのりだす。
やがて少年が犯人としめした写真は現職の警官だった。

上司に報告したジョン=ブックは、
その直後に犯人にまちぶせされ、銃撃をうける。
あろうことか、ジョンブックが報告した上司もまた
犯行にかかわっていた。

警察をたよれなくなったジョン=ブックは、
銃撃によりケガをしながらも、
少年とその母親(ケリー=マクギリス)を彼らの村におくりとどける。
彼らはアーミッシュで、ふるくからのくらしをまもってくらしていた。

わたしがはじめてこの作品をみたとき、
映画の筋よりも、アーミッシュのくらしを
はじめてしっておどろいた。
黒い服をきて、自動車や電話をつかわず、
暴力を否定して、銃ももたない。
家をたてるときも、村にすむアーミッシュが全員あつまって、
共同で仕事をすすめる。

もうひとつ印象にのこっているのは、
映画史にのこるであろうチャーミングな場面だ。
ジョン=ブックがこわれた車をなおそうと、
ランプのあかりをたよりに部品をいじっている。
いっしょにいるのは、犯罪を目撃した少年の母親で、
彼女の看病のおかげでジョン=ブックは命をとりとめた。
車のエンジンはかからないものの、ラジオがとつぜんきこえはじめる。
サム=クックの「ワンダフル・ワールド」だった。
「この曲は最高だ!」と、ジョン=ブックは、女性をダンスにさそう。
うすぐらい納屋のなか、コールマンのランプにてらされながら、
たのしそうにおどるふたり。
しょぼいポンコツ車が、かぼそくテールランプをひからせ、
納屋のわらにつつまれて、気もちよさそうにうずくまっている。
おとぎばなしをみているみたいだ。
この車は、ジョン=ブックが村をたちさるときにも
ヨタヨタとはしっていい味をだしている。
アーミッシュの村にぴったりの車だった。

犯罪にかかわわったわるい警官たちは、
ジョン=ブックとアーミッシュたちの手によって
さいごにやっつけられて めでたしめでたし。
まったく、権力を乱用できる汚職警官ほど
たちのわるい悪役はいない。
とりとめのないおもいでばなしになったけど、
こまかなストーリーよりも、アーミッシュの存在が、
作品全体の雰囲気を決定的にした。
ハリソン=フォードがわかく、
ケリー=マクギリスがうつくしい。
アーミッシュのくらしとともに、
サム=クックの「ワンダフル・ワールド」をときどきおもいだす。

posted by カルピス at 09:28 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月29日

横浜マリノスの戦術がおもしろくなさそうな解説の木村和司さん

J1第11節、横浜マリノス対鹿島アントラーズ戦をみる。
今シーズンのマリノスは、
ラインをたかくあげる戦術が注目されている。
攻撃のときは、キーパーがセンターサークルちかくまででてくる。
両センターバックがひろくひらき、
キーパーと3バックみたいなかたちだ。
サイドバックはたかくあがって攻撃にあつみをくわえる。
うまくいくと、ぶあつい攻撃となるけど、
うまくいかないときは、キーパーのうしろにある
ひろいスペースをねらわれる。
かなりリスクのある戦術であり、みているほうはおもしろい。

解説の木村和司さんは、この戦術が気にいらないようで、
実況のアナウンサーが感想をたずねると、
あのラインだったらいつでも点がとれる、と
いまいましそうに なんどもおなじ意見をくりかえす。
木村さんはいぜんマリノスの監督だったこともあり、
こんなサッカーをされるのは我慢ならないみたいだ。
そのマリノスが、昨夜は調子よく得点をきめ、
前半だけで2−0のリードをたもった。
おもしろくない木村さんは、
アナウンサーの発言にたいし、
「アナウンサーたるものが◯◯なんて いっちゃいけない」
みたいなことをいうので、耳をうたがった。
木村さんの声がちいさいので、よくききとれなかったけど、
あきらかにアナウンサーをたしなめる内容だった。
実況を担当していたアナウンサーは、
もちろんなにごともなかったようにスルーしたけど、
きいているわたしはおどろいてしまった。
解説者がアナウンサーにたいし、あきらかなうえから目線で
たしなめるなんて ふつうありえない。

ネットをみると、木村さんは2015年に脳梗塞でたおれ、
たいへんなリハビリを体験されている。
しかし、それはそれ、これはこれ、だ。
わたしはこれまで木村さんの解説をたのしくきいていたけど、
この発言はいただけない。
また、マリノスのたかいラインについても、
あたまから否定してかかるのでは解説として役をはたしていない。
なぜよくないのかを、わかりやすく説明せずにおいて、
ただひろいスペースがあるから、ではわたしでも「解説」できる。

試合はけっきょく3−0でマリノスが勝利をおさめた。
ようやく監督の戦術がかみあってきたのかもしれない。
これからマリノスは波にのれるだろうか。
リスクをおかしたマリノスの攻撃を たのしみにしたい。

posted by カルピス at 20:32 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月28日

南北首脳会談よりもハリルホジッチ氏の反論会見をとりあげた天声人語

けさの天声人語(朝日新聞)は、
ハリルホジッチ元代表監督の会見をとりあげていた。
きのうは韓国と北朝鮮の代表による、南北首脳会談がおこなわれ、
朝日新聞でも第一面はもちろん、ほかにもおおくの紙面をさいて
くわしくつたえている。
わたしはハリルホジッチ氏の会見に関心があったけど、
それにしてもまさか南北首脳会談をさしおいて、
反論会見をあつかうとはおもわなかった。
朝日新聞に、どんな政治的判断があったのだろうか。
マクラとして ハリルホジッチ氏のはなしをもってきたのではなく、
はじめからおわりまでハリルホジッチ氏の更迭が話題だ。
これは、冒険といっていい紙面編成ではないか。

1時間半にわたる会見で、ハリルホジッチ氏は
これまでに自分たちのチームがなしとげてきた実績をあげ、
選手とのコミュニケーションに問題はなかったとはなしている。
いまさらハリルホジッチ氏が代表監督にもどれるはずもなく、
みのりのある会見にはならないとおもっていたけど、
ハリルホジッチ氏としては、こうした場をもうけて
それまでのながれをはっきりつたえておきたかったのだろう。
ハリルホジッチ氏は、日本サッカー協会への失望といかりをおさえ、
批判ばかりではなく、フェアに状況説明をしようとした印象をうける。
これからも日本のサッカーを応援しつづけるとエールをおくり、
比較的きれいなおわかれとなった。

会見では、2人の選手に問題があった、
とハリルホジッチ氏はにおわせている。
具体的には本田と香川であり、
もしこの2人が西野新体制のもとで「復活」すれば
じょうずにごねてよかったね、という形だ。
すごくあと味にわるい監督交代にうつる。
ほかの選手たちとハリルホジッチ氏がうまくいっているのなら、
2人をはずせばすむはなしであり、
監督をささえるよりも
一部の選手の機嫌を優先させた日本サッカー協会の判断が残念だ。

posted by カルピス at 10:01 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月27日

日本人はなぜすぐには約束しないで、2週間さきの予定にしたがるのか(「クールジャパン」)

「クールジャパン」で「日本人あるある」を特集していた。
外国人からみて不思議におもえる日本人の行動を、
スタジオにあつまったゲストをまじえてはなしあう。
女性のふるまいが子どもっぽい、とか、
血液型にとらわれている、とかはわたしも気になっている。
女性がおとならしくふるまうのではなく、
かわいくみえるようにはなすのは、
わたしのこのみではない。
まあ、わたしだって、外国人からみれば、
おとなとしてのふるまいに問題がありそうだけど。

はじめての指摘でおどろいたのが、
予定をまえもってたてる、という日本人の特徴だ。
ほかの国のひとは、たとえばいっしょにのむときに、
「いまからどう?」が基本なのにくらべ、
日本人は2週間くらいさきの のみ会として予定にいれないと、
いきなりのさそいにはのらないのがふつうだ。
新宿のバーでききとり調査をしたら、
外国人客のほとんどは、その日にあう約束をしている。
たとえば2時間ぐらいまえにきめたのみ会なのにひきかえ、
日本人客は2週間まえとこたえたひとがおおかった。
また、日本人は月にいちどくらいしか、友だちと食事しないのに、
自分は週に2回はいく、というゲストがいた。
夜は、あそびのためにいつもあけてあるかんじだ。
いちいち予定をたてないで、なりゆきにまかせているから
週になんども友だちとあえるのだろう。
2週間もさきのことはわからないので、
うごけるときにあそんでおこう、という意識がある。

司会の鴻上さんが、
高校生のときまでは、自分もそうだった、といわれる。
なんでおとなになったら予定をたてるようになったんだろう?
と自問すると、
外国人のゲストが、「日本人は仕事がいそがしいから」
とおもいつきをはなしていた。
たしかに、いそがしいひとは、
きゅうに今夜あいましょう、とさそわれてもうごきにくい。
わたしはとくにいそがしい人間ではないので、
たのしいおさそいだったら、たとえ「今夜」といわれてもうごける。
でも、基本的に自分の生活リズムをまもりたいので、
週になんどもあそびにでるのはめんどくさい。
直前のおさそいでペースをみだされたくないというおもいがある。
わたしもやはり日本人的な予定文化がしみついているのだろう。

夏目漱石の小説をよんでいると、
約束もなしに、ふらりと家をたずねあっているので、
むかしの日本人社会は、いまほど予定をたてなかったのかもしれない。
このまえしりあいの女性を食事にさそったとき、
「来月になったらうごけそう」といわれ しらけてしまった。
もちろん「今夜は?」ともちかけたわけではなく、
たしか来週は?みたいなおさそいだったけど、
さそわれたほうからすれば、あまりかんたんにオッケーすると、
やすっぽくみられる、という意識がはたらくのだろうか。
まあ、わたしとあいたくなかっただけかもしれないので、
日本人の予定ずきとはすこし話題がずれる。

外国人ゲストのはなしをきいていると、
予定にしばられる日本人がおかしくおもえてくる。
でもまあ、どっちがただしい、という問題ではないので、
そういう特徴が日本人にはある、と認識していればいい。
外国人からみたら、わたしの人間関係など、
へんにおもえることがたくさんあるだろう。
なぜ夫婦でいるのか、とか、
そんな家族関係はおかしい、とか、
仕事へのかんがえ方がゆがんでいる、とか、
ありえない人間におもえるのではないか。
それでもちゃっかり生きているのだから、
外国人がすこしくらいへんにおもうような習慣でも、
反省なんかしないで、それはそれでいいんだ、とひらきなおっている。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月26日

しつこく ハリルホジッチ監督の交代が残念なこと

わたしが信用するサッカーライターの西部謙司さんは、
ときどきネットに記事をよせていて、
ひろい目くばりのもと、注目したい外国の選手をおしえてくれる。
最近ネットにあがった記事では、
セルヒオ=ラモス選手(レアル=マドリー)の
闘争心についてかかれていた。
https://www.footballchannel.jp/2018/04/24/post266605/

ハリルホジッチ日本代表監督が更迭され、
サッカー界はこの事件でもちきりなのに、
西部さんはいちどそれに関する記事をかいたきり、
あとは淡々といつものように世界のサッカー事情を紹介する。
サッカーの時計はとまらない。
どんな大事件がおきても、いちどそれにふれたら
あとはすぐに頭をきりかえるのが西部さんだ。
ひとつの試合、ひとつの大会に執着しない。
どんなにすばらしい試合があっても、
いちど分析すれば、そのあとまたふりかえって
余韻をたのしんだりしない。
もちろん、むかしの選手や戦術をひっぱりだして、
解説したりはするけど、
それは、いまのサッカーに必要な情報だからだ。
こんかいの、代表監督更迭については、
どれだけぐちったところで、決定がくつがえされたりしない。
いつまで残念がっても ものごとはまえにすすまないので、
そんなことに時間をつかうのは無駄だ、
という姿勢を西部さんの記事からかんじる。

とはいえ、せっかくこれまで3年をかけてつみあげてきたのに、
Wカップ本番まえにちゃぶ台がえしをするなんて、
ものすごく残念だ。
かわりにわたしがしつこく文句をいってみる。

なにしろ、本番まであと2ヶ月しかない。
この時期にきて、わけのわからない判断をする日本サッカー協会に、
わたしはつくずくいやけがさした。
なにかを期待するのは、それこそエネルギーの無駄におもえてくる。
あたらしく代表監督となって西野さんが、
どんな23人をえらぶかにしても、いまさら公平な選択などありえない。
これまでハリルホジッチ監督のサッカーを
実行しようとしてきた選手たちは、
いきなりハシゴをはずされた気がしないだろうか。
もし、ハリルホジッチ監督の戦術とあわなかった選手がえらばれたら、
ゴネどくみたいで すごくあと味がわるい。
サッカー協会がなにをいっても、もう信頼する気にならない。
日本代表の試合も、素直に応援できないので、
さみしいWカップになりそうだ。

西部謙司さんなら、もっと客観的に状況をとらえ、
できること・これから目ざすことを整理するのだろうけど、
ひとりのサポーターにすぎないわたしには、
ぐちめいた批判をくりかえすしかない。
わたしのサッカーの時計は、いまもとまったままだ。

posted by カルピス at 21:54 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月25日

気分はもう老人

鷹の爪卓上カレンダーの4月にかかれた自虐ギャグは、
高齢化率、日本一、
日本の将来がいま見れます

となっている。
もちろん島根についての応援メッセージだ。
わたしのまわりの状況は、
日本をさきどりしているらしい。
もっとも、いまや島根だけでなく、
日本じゅうで高齢化問題が切実になっている。
日本の将来というよりも、もはや現実におこりつつある変化だ。

団塊の世代が老人となりつつあるせいか、
新聞をひらくと、血圧やコレステロール値を
おどかす広告が目にはいる。
老人の健康は、いまやビジネスチャンスだ。
たいていのひとが、なんらかの不具合をかかえているので、
健康を話題にされると ひとごとではいられない。

いまわたしは56歳で、
けっこう生きてきたつもりなのに、
客観的にいえば、まだ中年でしかない。
実情は、からだじゅうにガタがきて、
肩がいたかったり、目はしょぼしょぼで、
ヨレヨレな状態でなんとか生きている。
しょっちゅうわすれものをするし、
会話のなかでひとの名前がすんなりでてこない。
いつ脳梗塞をおこすか、認知症があきらかになりはしないかと、
日常の健康だけでなく、突然の発病におびえている。

はじめてむかえる老いが、
こんなにやっかいだとはおもわなかった。
いつまでも労働力とみなさないで、
はやいとこ、老人わくにいれてほしい。
名実ともに老人になってしまいたい。
中年のうちから、気分はもう老人になっている。

平均寿命が50歳のころ、ひとはあんがいしあわせだったのでは。
50歳で死ぬのがあたりまえの社会だったら、
老後のお金や健康を心配する必要はない。
自分におとずれる老いを、あたりまえのこととしてうけいれて、
しずかに死んでいけたのでは。
自分でおもうようにならないからだをかかえ、
病院や老人ホームでただ生きているよりも、
自分の意思できめられるうちに一生をおえたい。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月24日

自然界での泥棒は、弱肉強食にみえる

チリのアタカマ砂漠にある湖での映像をみた。
動物たちをとおして、自然のいとなみをうつしだす。
ツノオオバンが子そだてをしていると、
巣をのっとりにカモメがやってきた。
自分で巣をつくるより、
ツノオオバンがつくった巣のほうが上等なのだ。
そのうえ、あろうことか、ツノオオバンがそだてている
3羽のヒナをもねらっている。
ツノオオバンの親がカモメをおいはらおうとしても、
巣のちかくをうろついたままスキをうかがっている。
カモメは水にもぐれないので、
ツノオオバンがあつめた水草をずうずうしくよこどりしたりもする。
ツノオオバンにとったら、やっかいで、ありがたくない隣人だ。
カモメがやっていることは、
人間の価値観にてらしあわせると、完全な泥棒なのだけど、
それが自然界でおこなわれていると、弱肉強食のいち場面であり、
ツノオオバンにはかわいそうだけど、
しかたないのかも、とおもえてくる。
つよいものが、よわいものをエサにするのは
自然界ではあたりまえにすぎず、
巣をのっとられたり、ヒナをたべられたからといって
ツノオオバンが大声で抗議しても、神さまはきいてくださらない。

人間の社会でこれをやったらどうなるだろう。
お金をかせぐのが苦手なひとが、金持ちからお金やものをぬすむのは、
自分の不得意を、なんとかカバーしようとしただけなのに、
一方的にわるくいわれるのは、なんだか理不尽におもえてきた。
先進国ではぜったいにみとめられないけど、
どこかの国には、それもまたしかたない、
というルールの社会もあるのではないか。
ものをとらなければ、泥棒は生きていけない状況なのかもしれない。
「盗人にも三分の理」があるようにおもえる。

けさの朝日新聞に松村圭一郎さんが
エチオピアで調査をしていたときのはなしを紹介している。
農家の庭にあるアボカドの木がみのるころ、
サルのむれがやってきてたべてしまうのだという。
松村さんはサルをおいはらおうとしたけど、
農家のひとは、あきらめてサルがするにまかせている。
なんで私はアボカドを食べられるのがそんなに口惜しいのか、疑問がわいてくる。アボカドは自然に実をつける。それをなぜ人間だけが独り占めするべきだと思うのかと。(松村圭一郎「アボカドを食べるサルを見て」より)

日本でも、サルやイノシシによる農作物の被害がほうじらる。
農家の方々にすれば、はらだたしい野生動物たちなのだろうけど、
自然のなかでそだてているものを、たべようとするのは
動物の側からみれば あたりまえのことをしているにすぎない。

ツノオオバンにたいするカモメ、
エチオピアでのサル、
日本のサルやイノシシによる被害。
共通点をみつけようとするのは無理があるかもしれないけど、
カモメを一方的にわるくいえないのとおなじように、
日本のサルやイノシシにも三分の理があるのではないか。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月23日

翻訳ミステリーの棚に魅力がない本屋さん

『本の雑誌 5月号』の書評でとりあげられていた
『サイレント・スクリーム』と『そしてミランダを殺す』
をかいに近所の本屋さんへ。
町でいちばんおおきな本屋さんなのに、
2冊ともおいてなかった。
『そしてミランダを殺す』は、朝日新聞の書評でも
名前があがっていたので、
そこそこ話題になっている本だとおもっていた。
両方ともおいてないなんて、ひどい。
ミステリーの棚にはアガサ・クリスティーの本が
特集みたいにたくさんならべてあるのに、
あたらしい本はすくない。
評判のいい『ダ・フォース』(ドン=ウィンズロウ)はあったので、
新作をすべて無視しているわけではなさそうだ。
家にかえってから、アマゾンで注文する。

わたしがほしい本をあつかってないからといって、
その本屋さんすべてを否定するわけではないけど、
書評にのった本はそろえておくぐらいの
気くばりがあったほうがいいのでは。
気くばりというより、それが本屋の仕事ではないか。
おもしろそうな本をあつかわないでおいて、
本がうれないなんていえないだろう。
ミステリーの棚を担当するひとが、
個人的なこのみでつよくすすめてくれる本があれば、
たとえば気をひかれるポップがあれば、
わたしはきっとかいたくなるだろう。
このお店にはふるいミステリーが中心で、
ただならべられているだけの印象をうける。
たいしてうれない新作の翻訳ミステリーにエネルギーをそそぐよりも、
アガサ=クリスティーをおいておけば はずれがすくないのだろうか。

『本の雑誌』を忠実にフォローしろとはいわないけど、
店員さんの熱意がつたわってくる本棚を わたしはもとめている。
ついこのまえ、辻村深月さんの
『かがみの孤城』が本屋大賞にきまり 話題となった。
そうやって、書店員さんがぜひお客さんによんでほしいという
本がうれるようになるのは すばらしいとりくみだ。
本屋大賞以外にも、おもしろい本をもっとお客にすすめてほしい。
ふるいミステリーが中心の、
アリバイづくりみたいな本棚には魅力がない。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月22日

糸井重里さんによる発見「犬というかたちをした愛」

糸井重里さんが
「犬というものの正体は、犬というかたちをした愛」
と発見している(4月18日の「今日のダーリン」)。
たしかに、「愛」といわれると、すごくよくわかる。
わたしがいっしょにくらしていたピピは、「これはなにか?」
とたずねられたら「ネコです」
というしかないのだけど、
それではこぼれおちるものがたくさんある。
「ネコ」だけではいいあらわせないなにかだ。
「ネコというかたちをした愛」ならよくわかる。
愛なので、具体的な形はない。
ネコのすがたをかりて、ひとの目にみえるようにしてくれている。
ピピもきっと自分のことを
ネコだとおもってはいなかっただろう。
わたしのことを、どう位置づけていたのかがすこし気になる。

せんじつは、しりあいからおくやみとして、
ネコの絵がかかれたワインをいただいた。
ピピの写真をみながらありがたくのませてもらう。
これもまた、ピピがふくらませてくれた愛のひとつだ。
写真をふりかえってみると、亡くなるまえのピピは、
すでにむこうの世界のひとみたいだ。
生きてるのが無理とおもえるほど、やせて毛がぱさついている。
ほんとははやく楽になりたいのに、
わたしのために、ずいぶん我慢して
この世にのこっていてくれたのかもしれない。
亡くなるまえの1年は、ピピというよりも、
ピピのかたちをした仏さまだった。

そんなピピに、もっといっしょにいたかった、
というのはわたしのわがままであり、
ピピにとっては残酷でしかない要求だ。
そんなことをいうのなら、
ふだんからていねいにくらしていけばいい。
テキトーにむきあっておいて、
死ぬときだけかなしむのはたちがわるい。
わかいころのピピの写真をながめ、
げんきなピピを、あたりまえのものとして
くらしていたころを なつかしんでいる。

posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月21日

自然農法による4年目の米づくり

1年目20キロ、2年目ゼロ、
3年目は950グラム(キロではない、グラムだ)と、
自然農法による米づくりが さっぱりうまくいかない。
きょねんはかなりていねいに泥団子をつくり、
ひとつひとつ間隔をはかって田んぼにおとしていったのに、
たいして改善はみられなかった。
いちばんうまくいった1年目は、花さかじいさんみたいに、
泥だんごをバラリとまいたら あんがいうまくいった。
ていねいにやってもうまくいかないのだったら、
楽なほうがいいので、ことしは花さかじいさん方式にもどした。
泥団子もつくらない。
種もみを田んぼの土とまぜ、
団子というほどのかたまりになってない状態で、
そのまま田んぼにまいていった。

泥団子づくりは、けっこうめんどくさい。
種もみを土とまぜたのち、
まずウンコみたいなヒモ状の団子をつくっていく。
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それをかわかしてから、こまかくくだき、
ウサギのえさみたいなペレットにする。
田うえにくらべたら はるかに楽なものの、
できるだけかんたんなほうがいいわたしとしては、
団子づくりの手間もはぶきたかったので、
ただ土とまぜるだけにとどめてみた。
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種もみと土をまぜてブルーシートにひろげ、
すこしかわかしてからバケツにいれてまく。
あわせて1時間あればすべておわる。
ふつうの米づくりでは、田うえと稲かりの時期がいそがしい。
どうしても春と秋に仕事のピークがふたつできる。
春は、田うえの準備として、トラクターで土をあらくおこしたのち、
田んぼに水をはって、またトラクターのロータリーで
土をこまかくしてから、ようやく田うえができる。
自然農法による直まき栽培は、それをぜんぶ省略する。
土をたがやさないし、田うえもせず、
田んぼにちょくせつ種もみをまく。
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【種もみをまいたあとの田んぼ】

ただ、もみのまままくと、鳥にたべられてしまうので、
土とからめた団子にしてまくのが特徴だ。
その、唯一の「仕事」である泥だんごづくりさえ、
こんかいはかんたんにすませたので、種まきが1時間でおわった。
まわりの田んぼをみると、この時期は
トラクターで田うえの準備をすすめている。
わたしは きょうだけで、田うえに該当する すべての仕事をおえた。
ものすごく楽だったけど、はじめにかいたとおり、
なかなかおもうように稲がそだたない。
かといって、ふつうの米つくりには興味がわかないので、
自然農法をことしもまたためしている。
ことしは何キロの収穫があるだろうか。

posted by カルピス at 20:54 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月20日

そういえば、ためいきをつかなくなっていた

ピピがいなくなったさみしさから、
このごろふかいためいきをつくようになった。
ためいきしつつ、そういえば、
ためいきをつくのが ひさしぶりなのに気づいた。
何年かまえのわたしは、やたらとためいきしては、
まわりのひとにいやなおもいをさせていた。
ただでさえ、ためいきはネガティブな印象をあたえる。
わたしのためいきは、自分ではそんなつもりはなくても、
もう生きるのがいやでいやでしょうがない、
という意思表明としてうけとめられるほど、
たちのよくないためいきだった。

そうしたためいきを、なぜわたしはつかなくなっていたのだろう。
仕事や私生活が順調だった、というのはあたらない。
わたしは、人生をほとんどおりた人間としてすごしており、
なにかを工夫したり、改善したりというのをなげだしている。
なるべくかんがえずに生きようと、にげまくっている人間がわたしだ。
家では、家族との会話はほとんどなく、
私生活の充実には こころあたりがない。

あるいは、そういうなげやりな方針が
ストレスをとおざけ、ためいきをつかなくても
すごせるようになっていたのかもしれない。
まえは、職場での立場じょう、
やる気のなさを露骨には あらわさなかったけど、
嘱託になってからは、職員会や勉強会には参加せず、
残業もまったくしないで、きっちりと勤務時間だけ職場にいる。
50代なかばということもあり、
よくいえば、すべてわかい職員にバトンをわたしたつもりで、
自分にできるのは、サポートていどだとわりきっている。
まわりもわたしを そんな人間だと認識してくれ、
じゃまものあつかいせず、丁重にあつかってくれる。
わたしが気らくにすごしている分、
だれかがその荷物をせおっているのかもしれないけど、
いつまでもふるいおじさんが幅をきかせるより、
組織全体のことをおもえば、わかい職員が活躍したほうがいい。
さっさと半隠居の立場を確保するのが
年長者のやくわりかもしれない。

なにかをしなければならない、という義務的な仕事がなくなり、
純粋に歯車としてのやくわりにじゅんずる。
そんな仕事にやりがいがあるのか、
というひとにはむかないかもしれないけど、
やりがいとか目標を否定しているわたしにとって、
いつのまにか いごこちのいいポジションをえて、
ぬくぬくとくらしていたようだ。
こんな仕事ぶりなのだから、ためいきをつく必要などない。
あんがいはたらき方改革をさきどりしていたのかも。
ピピがいなくなり、さみしさからためいきをつくことはあっても、
仕事を重荷にかんじてのためいきは、いまでもついてない。
はたらき方改革がうまくすすめば、
仕事にはげんでも、ためいきなしですごせるのだろうか。

posted by カルピス at 20:29 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月19日

すぐれた曲のおおくは、あんがいだれがうたってもヒットしたのでは

運転しながらラジオをきいていると、
ときどきものすごく有名で、こころをとらえる曲がかかる。
あんまりいい曲なので、これぐらい圧倒的にとびぬけていたら、
もしかりに たいへん歌がにがてなわたしがうたったとしても、
それなりにヒットしたんじゃないか、なんておもえてくる。
たとえば
ボブ=マーリーの「ワンラブ」、
ベッド=ミドラーの「ローズ」、
ルイ=アームストロング「この素晴らしき世界」。

もちろんこれ以外にも、すばらしい曲はたくさんある。
しかし、ほんとうに胸にひびいてくる曲は、
あんがいすくないもので、
それ以外のほとんどは人畜無害な曲だ。

おおざっぱにいってしまえば、
世の中には3種類の曲しかない。
ものすごくいい曲か、
そこそこな曲か、
どうでもいい曲。

ものすごくいい曲は、
乱暴ないいかたをあえてすれば、
だれがうたっても きくひとの胸に
なにがしかのメッセージをとどけられる曲。
さきにあげた「ワンラブ」などがこれにあたる。

そこそこな曲は、
すでに名がしられているひとがうたっているから、
なんとなくヒット曲あつかいされているけど、
どうしてもその曲でないと、
というほどの存在感はない。
ある意味で、親の七光り的な曲といえる。
とはいえ、ちゃんと歌で勝負しようとしている態度は評価できる。
自民党の世襲議員みたいに、
本人はなんのとりえもないのに、
親の地盤をそっくりゆずりうけるほど悪質ではない。

そして、それ以外の圧倒的多数は、
どうでもいい曲だ。
ほとんどの曲は、このカテゴリーにはいる。

がんばってヒットさせようとおもった時点で、
その曲はすでにまちがっている。
いい曲は、もっとまえの段階できまっており、
努力してどうこうなるものではない。
どうこうなるような曲は、そもそも名曲ではない。

小説などは、たとえー作しかうれなかったとしても、
だれでもかける本ではない。
その作家らしいなにかがあったからヒットしたり、
名のしれた賞をもらえたりする。
それにひきかえ、歌の場合は、
だれがうたっても あるていどはうれたのでは、
という曲があんがいおおくはないか。

だれがうたってもヒットする曲かどうかは、
だれかがわたしにすぐれた曲をプレゼントしてくれて、
その曲が楽々と大ヒットを記録すれば、
この仮説がただしいかどうかわかる。
でも、それほどすぐれた曲だったら、
無名のわたしにプレゼントするよりも、
つくったひとがさっさとうたってしまうだろうから、
永遠にこの仮説のただしさは証明されない。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月18日

「お店のようなもの」のお店は、「となりのお店」にきまりました

かとうちあきさんがやっている
「お店のようなもの」みたいなお店をやろうとしている。
カチッと形がととのったお店ではないので、
ぼんやりしながらすこしずつ形がととのってきた。
ならべる品は、わたしたちがつくっているクッキーと、
しりあいからもらってきた雑貨、というかふるい食器と、
わたしの家にあるいらなくなった本。
お店のなまえは、クッキー工房のとなりにあるので
「となりのお店」にきまった。
「となりのトトロ」みたいだし、
「お店のようなもの」にすこし似ているし、
どんなお店なのかよくわからないところが気にいっている。
まえの記事にかいたとおり、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/458610795.html?1524053603
お店のコンセプトとは、かとうちあきさんの
「お店のようなもの」をそのままいただく。

きのうは、わたしの職場が、あたらしくカフェをひらいた。
介護事業所なので、ふつうなら障害をもったひとたちが
はたらく場としてのカフェになるけれど、
こんどできたカフェは、職員だけがお客さんの対応をしている。
そんなので、どうやって採算がとれるのかわからないけど、
なかなか社会に居場所がないひとたちを視野にいれ、
気やすくあつまれるお店になれば、というねらいがあるという。
まったくソロバンを度外視してのカフェを
あたりまえのようにひらくところがすばらしい。

「となりのお店」も、障害をもったひとたちが、
ストレートに利用しなくても、
わけのわからないへんてこな場所として
クッキー工房のとなり近所に定着したらうれしい。
世のなかは、お金だけでまわっているわけではないと、
わたしが人生相談にのってもいいよ。
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きょうは、2どめのこころみとして、
駐車場のスペースに机をもちだして
クッキーをうってみた。
すこし雨がふりだしてきたので、
クッキーの袋がぬれないようにタオルをかける。
いつもはもうすこし活気のあるとおりなのに、
こういうときにかぎって ひとがとおらない。
ときどきの自転車と、あとは自動車だけだ。
20分ほどすわっていたけど、
声をかけられるタイミングでとおるひとはいなかった。
前回はそれでも3人に声をかけたので、それよりわるい。
なんだか自主制作映画のいち場面みたいだ。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

人生におけるクライマックスは?

web本の雑誌で松井ゆかりさんが、
『マザリング・サンデー』(グレアム=スウィフト・新潮社)
という本を紹介している。
http://www.webdoku.jp/newshz/matsui/2018/04/11/155023.html
 自分が90歳まで生きたとして、人生のどの日のことをいちばんはっきり思い出すだろう? 結婚した日? 息子たちが生まれた日? ジェーンにとっては、 それが1942年のマザリング・サンデーだった。

本の内容はともかくとして、
「人生のどの日のことをいちばんはっきり思い出すだろう?」
というといかけに興味がわいた。
わたしにおける人生のクライマックスはいつだったのか。

『キッズ・リターン』のふたりなら
「まだはじまってもいない」とうそぶくかもしれないけど、
50をはるかにすぎたわたしがいうには
さすがにずうずうしすぎる。
しかし、あんがいこれからクライマックスをむかえるかも、
というねがいをたしかにもっている。
具体的には、ちかい将来に予定している
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼は、
強烈なおもいでをのこしてくれだろうと期待している。
歳をとり、おもうようにならないからだをかかえての巡礼は、
必然的にわたしの全力をもとめるような気がするからだ。

あるいは、人生にクライマックスなんていらない、
というかんがえ方もある。
わたしは、どちらかというと そんなスタンスで生きてきた。
人生に目標はなく、なんとなくおわりをむかえる、
というながれに価値をおいている。

とはいえ、そんな人生をおくったひとでも、
死をむかえたときに ふとおもいうかべる日がきっとある。
ジェーンにとってそれがマザリングサンデーだったように、
わたしの過去に、恋愛がらみで そんな日があっただろうか。
あるいは水泳の大会で、
目標にしていた1位がとれたときだろうか。
いまのわたしは、はっきりと
あれがクライマックスだった、とおもいうかべられない。
だとしたら、きっと、わたしのクライマックスは
これからおとずれるのだろう。
なにもないまま、ぼんやり死ぬのもわるくないけど、
さいごにもうひとやまあるとおもえば なんだかたのしい。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月16日

本をかいたくなるとき

『本の雑誌 5月号』の「新刊めったくたガイド」で、
akira 氏が『サイレント・スクリーム』
(アンジェラ=マーソンズ)を紹介している。
また魅力的な女警部が登場した。(中略)第二、第三の事件が続く中、キムは件の施設の記録を掘り起こし、怒りを募らせる。それは彼女の凄惨な過去を思い出させるものなのだ。キムの推理とチームの努力で驚くべき真相が発覚し、追い詰められた犯人が牙をむく。

すごくおもしろそう。
まだよんだことのない作家で、文庫ながら1200円はたかいけど、
これぐらい熱をいれて紹介されるとよみたくなる。
きっとわたしはこの本をかう。

おなじakira 氏がべつのミステリーもとりあげている。
発行されるやいなやネット上で絶賛の嵐に迎えられたサスペンス、ピーター・スワンソン『そしてミランダを殺す』(務台夏子訳/創元推理文庫1100円)は、これから読む人の期待をぜったいに裏切らないはずだ。

これもまたおもしろそう。

本をかうときには、どんな本であれ、
それなりに背中をおされる理由がある。

・すきなひと(小説家など)がすすめていた
・すきなひとがかいた本だから
・書評をよんで興味をもった
・評判をきいて(ラジオなど)
・しりあいからすすめられて
・関心のある分野だったので
・本屋さんや図書館でみかけてピンときた

わたしが信頼する書評家、というか読書家は、
斎藤美奈子さん・目黒考二(北上次郎)さん・
大森望さん・杉江由次(「本の雑誌社」)さん。

すきなひとがかいたものや、そのひとの本のなかで
とりあげられたものは、どうしてもよみたくなるし、
杉江さんみたいに、この本のために今年はあった、
みたいな熱のいれようで紹介されると、
それだけいうのなら、と手にとりたくなる。

こんかいとりあげたakira 氏がすすめる本を
わたしはまだよんだことがない。
こんなふうにあつくかたられると、
しらないひとの推薦でも、よんでたくなるみたいだ。
ネットのレビューには、
いまひとつ気もちをうごかされないのは、
あまりこなれた文章にであわないせいなのだろう。
こんげつの「新刊めったくたガイド」は、
いつになく収穫がおおかった。
『本の雑誌』のおかげで、
よみたい本にこまったことがない。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月15日

朝日新聞の土曜日版beに、佐藤正午さんがとりあげられた

朝日新聞の土曜日版beに、佐藤正午さんがとりあげられた。
記事によると、佐藤さんは、
佐世保からでないことでしられる小説家らしい。
本人が日本の首都を最後に訪れたのは、四半世紀以前だと公言している。

とはいえ、『鳩の撃退法』には、リアルな中野が登場する。
なんだかんだいって、東京にくわしいんじゃないか、
とおもっていたら、あのいかにもありそうな中野ふれあいロードは、
編集者が情報をあつめ、
パソコンのイメージ編集ソフトからつくったという。
津田伸一がはたらくスナック「オリビア」は、
編集者がいきつけとする実在の店なのだそうだ。
佐藤さんが中野にくわしいのではなく、
編集者のアシストがあっての『ハトの撃退法』だった。
編集者は、そんなことまでしなくてはならないのかとおどろく。

佐世保といえば村上龍さんの『69』の舞台だ。
高校生がはしりまわる佐世保と、
中年の津田伸一がグダグダ生きている佐世保は
まるでちがう町にみえる。
わたしは津田伸一みたいなダメ男が気になる。
津田伸一は、まったくはたらかないわけではないけど、
どこかふかいところがまともではないようで、
まわりのひとをだんだんとうんざりさせてしまう。
佐世保(とおもわれる町)にすめなくなっても、
東京の中野にあるスナックでちゃんと仕事をするのだから
そんなにわるくいわれる筋ではないのに、
ぜんたいとしてはやる気のないダメ男の烙印をおされている。
ドーナツやハンバーガーのチェーン店にいりびたり、
生産的なことはかんがえず、店員をからかったりして
ダラダラとヒマをつぶしている津田伸一がわたしはすきだ。

朝日新聞の記事によると、『鳩の撃退法』は
1月に文庫化されてからよくうれているそうだ。
わたしは、この小説で佐藤正午をはじめてしった。
これまでポツポツと本をよんできたものの、
そんなに熱心な本よみではない。
そんなわたしにも『ハトの撃退法』のおもしろさは格別だった。 
この小説のよさがわかってよかったとおもった。
おもしろいとしか、いいようがない。
文学的にどうこうという評論よりも、
今回の記事のように、作品の舞台裏みたいなはなしに興味がわく。

それにしても、「四半世紀以上」
東京へいかない小説家というのもすごい。
直木賞の贈呈式にも、なんだかんだと理由をつけて欠席している。
それでいて、編集者にたすけてもらいながら、
小説では東京を舞台にするのだからよくわからない。
「佐世保を出ない小説家」は、
佐藤さん流のあそびみたいなものだろうか。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月14日

いまなおハリルホジッチ代表監督の解任が 残念でならない

ハリルホジッチ代表監督の解任が、
どうかんがえてもふにおちず、残念でならない。
田嶋幸三会長は、
「信頼関係が逆転した」のを解任の理由にあげている。
ハリルホジッチ監督の方針に、反対する選手もいただろうけど、
なぜ協会側が、監督をたすけず、選手のいいぶんに耳をかたむけ、
それをもって解任の理由にまでまつりあげたのか。

サッカー協会への不信感ばかりがつのる。
内容はまったく関連がないけれど、森友学園問題で、
テキトーな理由をたてに、ごまかしつづけようとする
一連の政治家たちへの不信感とおなじだ。
日本の組織は、理屈がとおらないことを
こんなふうに 平気でごりおししようとする。
めちゃくちゃな論理で解任を正当化し、
それによってWカップでかつ可能性がたかまった、などとのたまう。
あらたに代表監督となった西野さんは、
ガンバでの攻撃サッカーの印象がつよく、
けしてきらいな監督ではなかったけど、
こんな無理を平気でとおそうとする
ねじれた感覚のもちぬしだったのかと がっかりした。

2007年に、オシムさんがたおれたときも残念だった。
このときは、オシムさんが目ざしていた日本のサッカーが、
どんな完成形をみせるのかをたのしみにしていたのに、
脳梗塞によって監督をつづけられなくなってしまった。
ハリルホジッチ監督には、
Wカップブラジル大会でさっぱりだった日本のサッカーを、
どう軌道修正して世界にいどむのかに期待していた。
Wカップへの出場をきめ、東アジア杯や、親善試合で、
戦術と選手のくみあわせをためしている最中に、
いまのサッカーでは、Wカップ本番でかてないと結論づけられたのは、
非情に不本意で、ありえない通達だったろう。

西野さんに監督がかわり、日本代表は、どんな戦術のもとに、
どんな23人をえらぶのだろう。
西野さんは、ハリルホジッチ監督のサッカーを反面教師としてとらえ、
それ以前の日本的なパスサッカーを意識しているようだ。
監督の交代について、選手たちは、協会の判断なので、と、
おちついた反応がつたえられているけど、
代表への競争が、またいちからやりなおしなのはたまらない。
のこり60日しかないWカップ本番にむけ、すべてをチャラにして、
また4年前のサッカーにもどるのは、あまりにももったいない。
これまで代表にえらばれなかった選手により、
あたらしいチームがつくられるのなら、
いったいこれまでつみあげてきた3年間はなんだったのかとおもう。

Wカップにむけ、ギリギリまで選手をえらんできた
ハリルホジッチ氏の采配をたのしみにしていたのに、
いまとなっては もとにもどらない夢だ。
お盆をひっくりかえしたのが日本サッカー協会なのだから、
もうこれからの日本代表に、なにも期待できなくなった。

posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月13日

MacBookProを、iiyama製 23インチのモニターにつなぐ

いまおもにつかっているパソコンは2011年にかったiMacで、
安定してうごくのだけど、OS10.6.8と、さすがにふるく、
ドロップボックスとはてなブックマークがつかえなくなった。
いいかげんシステム環境をととのえておくかと、iMacを注文した。

そのすぐあとに、いま手もとにある
MacBookProをメインにつかえばいいと気づいた。
2012年にかったもので、つい最近、
システムを最新のOS10.13.3にあげたばかりだ。
MacBookProへのあこがれから、たいして必要でないのにかったら、
みごとにつかわないままほったらかしてきた。
パソコンは、ほしいからかうのではなく、
必要なときにかうようにしないと、もったいないかいものになる。
ふるいけど、メモリーを8ギガつんでいるので、
しばらくは役にたってくれるだろう。

MacBookProは15インチなので、そのままでもいいけど、
モニターにつなげば、iMacとおなじ、
あるいはそれ以上のおおきな画面で快適につかえる。
いそいでiMacの注文をキャンセルし、よさそうなモニターをさがした。
23インチの非光沢で検索すると、iiyamaのモニターがひっかかる。
中古品しかなく、1万800で手にはいる。
iMacをかえば、税こみ13万円のところだったので、
ずいぶん安あがりな環境整備となった。
これからパソコンをかうときは、マックブックエアーか、
マックブックにすれば、今回かったモニターでしばらく対応できる。
iMacのキャンセルが間にあって、ほんとうによかった。
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モニターにつないだMacBookProを、
すぐにメインのパソコンとしてつかえばいいけど、
これまでお世話になってきたiMacとおなじ状態にするには、
いくつかファイルをひっこしする必要がある。
しばらくは、MacBookProとiMacをふたつならべ、
MacBookProを快適につかえるようにしてから
完全にきりかえようとおもう。
机に2つのモニターがあるとさすがにじゃまだし、
断捨離の時代に いかにも頭がわるそうだ。

iiyamaのモニターは、中古品にもかかわらず、とてもきれいな画面だ。
23インチにしたのは、それ以上おおきなモニターでは
目がつかれそうだから。
ネットをみたり、ブログをかくていどしか
わたしはパソコンをつかわないので、23インチあればじゅうぶんだ。
iMacとならべてみると、iMacのくろいふちにごまかされ、
23インチのモニターが、iMacの21.5インチよりちいさくみえるけど、
当然ながら、iiyamaのモニターのほうが、
わずかながらiMacよりおおきい。
23インチの非光沢は、われながらしぶい選択だったと、
今回のかいものが気にいっている。

posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月12日

ピピがいない生活は、楽だけど スカスカ

ピピがいなくなると、なにもしなくていいのですごく楽だ。
朝おきたとき、トイレのあとしまつや、
トイレシートのかたづけの必要がない。
なによりも、ふとんをベッドにそのままのこせる。
ピピがいたころは、ふとんのうえでおしっこをされないよう、
かけ布団と毛布をかたづけたうえで、
ベッドにトイレシートをしきつめていた。
ピピはとくに枕のうえでおしっこをするのがすきだったので、
枕もおしいれにしまう。
せっかくベッドでねているのに、
毎朝ふとんをかたづけるのは ずいぶんめんどうだ。

すこしまえまでは、ねていても、2時間ごとにおこされた。
パジャマにおしっこしたり、ごはんをもとめたり。
冬の夜中におきて、カンヅメをあけるのはたいへんだった。
夜、わたしがこれからねようとするときに
トイレでうんこをして、ズルズルとペッドにはいるのをじゃまされた。
うんこのにおいをかぎながらねたくはないので、
すぐにトイレをかたづけたのち、
マッチをすってにおいをけす儀式が必要なのだ。

いちにちがシンプルで、楽になったけれど、
その楽は、生活をたのしくしてくれるわけではない。
生活全体がスカスカになったかんじで、
これまでピピの、お世話をさせてもらっていたのがわかる。
自分ひとりでは なにもできないピピは、
当然のようにまわりの人間をうごかして用をたす。
お世話してくれてありがとう、なんて、
ピピはぜったいにいわないし、態度でもしめさない。
わたしはブツブツ文句をいいながらも
ピピのしもべとなってお世話をつとめる。

いや、わたしはそんなによくできた人間ではないので、
しらんぷりしてふとんをかぶって ねたふりもよくした。
ピピは「ふとんのうえでおしっこ」という技をもつので、
ねむけと、おしっこされるリスクを天秤にかけながら
ピピがむこうへいってくれるのをまった。
そんなグダグダの生活さえ なつかしいおもいでだ。

糸井重里さんが「今日のダーリン」に、
ブイヨンがいなくなったいま、できること、
たとえば海外旅行などをかんがえたとき、
でも、行きたいという意欲がそれほどでもなくて、
逆に犬がいるから海外は無理、という暮らしのほうが、
ほしいような気になっています。

とかいている。
ピピのお世話を、もうすこしさせてほしかった。

posted by カルピス at 21:33 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

柴犬のももちゃんが、専門雑誌から取材をうける

デイリーポータルZにときどき登場する
柴犬のももちゃんが、犬の雑誌から取材をうけた。
http://portal.nifty.com/kiji/180405202522_1.htm
ももちゃんは、ライターのヨシダプロ氏がかっている
(ほんとうは、氏の実家が本拠地)犬で、
ヨシダプロ氏はこれまでに
もちゃんがたべものにみえるとこじつけ、コロッケや食パンなど、
ももちゃんに似せた料理をつくってきた。
ヨシダプロ氏による、そうした地道な活動が実をむすんだのか、
有名な柴犬専門雑誌「shi-ba」から
ももちゃんへの取材をもうしこむメールがとどいた。

取材の当日は、雑誌社から3名の取材班がおとずれた。
チームで協力しあい、熱心に撮影するようすが
デイリーポータルZの記事に紹介されている。
家でのももちゃんだけでなく、野外ロケにもでかけ、
ももちゃんをできるかぎり かわいく撮影している。
ヨシダプロ氏も、あらかじめももちゃんをお風呂にいれたり、
お得意のももちゃんになぞった新作料理
(今回はやきおにぎり)をつくり、撮影に協力したそうだ。

いまさらながら、わたしも動物雑誌から取材されたくなった。
プロのチームが、全力でピピの魅力をひきだしたら、
さぞかしかわいいピピの写真ができあがっていたはずだ。
もったいないことをした。
犬やネコの場合、取材してもらうのは、
かなり競争がはげしそうなので、
反対に、こちらからおねがいして
記念写真をとってもらう手もある。
そんな会社があり、カメラのうでさえたしかなら、
たくさんの依頼がくるのではないか。
家族とともに、リラックスしてすごすときが、
いちばんいい表情をみせるのかもしれないけど、
それとはまたべつに、プロの写真家が、
全力をつくして犬やネコをかわいくとったら、
しろうとがスマホでとる写真よりも、
ずっといい写真をのこせるのではないか。
撮影じたいも、いいおもいでになる。

とはいえ、ネコを写真にとるのは すごくむつかしい。
それをじょうずにこなせるから、
岩合光昭さんは人気があるのだろう。
犬のももちゃんでさえ、取材班がおとずれたときは、
いつもとちがう雰囲気に警戒して、
部屋にはいらなくなっている。
複数の取材班が家にくれば、
ネコにとってはそれだけで日常でなくなり、
きっとどこかへいって 姿をみせなくなる。
ネコとのおもいでは、きわめて個人的な関係にかぎられ、
第三者に理解してもらえないのが残念だ。
わたしがピピのかわいさを まわりのひとに たたえても、
家族以外には なかなかつたわらない。
だからこそ、ドコノコをおおくのひとが必要としていたのだろう。
自分のネコの魅力を、ほかのひとにもつたえたいという
あついエネルギーが、ドコノコをささえている。
わたしがネコずきだからいうわけではなく、
ドコノコにのる写真は、圧倒的にネコのほうがいい写真だ。

posted by カルピス at 22:44 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする