2018年04月10日

ピピの死を、「ドコノコ」でなぐさめられる

ピピが亡くなったことを、すぐにドコノコへあげた。
すぐにたくさんのラブマークと、
ピピをフォローしてくれていた方からのコメントがとどく。
みなさん、根っからのネコずきなので、
わたしのさみしさときつさをよくわかったうえで、
やさしいことばをかけてくれる。
ドコノコがあって、ほんとうによかった。
これまで ドコノコにアップしてきたピピの写真をみながら
ドコノコができてからの2年ちかくをふりかえる。

ピピがいなくなっても、わたしはあんがいふつうにすごしている。
ごはんをたべられるし、夜もねむれる。
いっぽう、ピピのいない世界で生きるさみしさに、
もう どうだっていいや、という あやうい気もちにもなる。
いまのわたしは、かなりふてぶてしい。
どうだっていいのだから、こわいものもない。

仕事をしていると、ボーっとしてばかりはいられない。
リハビリには、家からでて、うごきまわったほうがいい。
よくいわれることだけど、家にいると、
ピピのおもいでばかりが目にはいる。
ピピがとおれるように、さむくてもあつくても、
フスマはいつもすき間をあけていた。
ピピにおしっこをされないよう、
枕はいつもたてかけている。
ネコ砂のトイレは、まだ部屋においたままだ。
いっぽう、ごはんや水のいれものは、いたんでしまうから、
すでにかたづけられた。
ピピがたべやすいように、お皿を固定するおもしとして、
セロテープの台がおいてあったのに。
テーブルのしたにセロテープがないと へんなかんじだ。

ピピの習慣をおもいだし、
もうわたしの部屋にきてくれないのがさみしい。
夜になると、声をあげてベッドにあがってきた。
わたしの胸によじのぼって、目をあわせながらおはなししてくれる。
ピピとであえたのは、ものすごい幸運だったのだ。
そういえば、ピピがノドをおおきくならすのを、
いつからきかなくなっていただろう。
変調は、しばらくまえからおきていたのに わたしは気づかなかった。

おとついの夜は、ピピとしずかにおわかれしようとおもいながら、
お酒をのみすぎて、すぐにねてしまった。
ゆうべは それでもしっかりピピとむきあってすごす。
配偶者が、ピピにちいさな花束をかってきてくれた。
ピピをベッドによこたえ、そのよこに花束をおく。
いつもとおなじピピをみているようだ。

posted by カルピス at 22:27 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする