朝おきたとき、トイレのあとしまつや、
トイレシートのかたづけの必要がない。
なによりも、ふとんをベッドにそのままのこせる。
ピピがいたころは、ふとんのうえでおしっこをされないよう、
かけ布団と毛布をかたづけたうえで、
ベッドにトイレシートをしきつめていた。
ピピはとくに枕のうえでおしっこをするのがすきだったので、
枕もおしいれにしまう。
せっかくベッドでねているのに、
毎朝ふとんをかたづけるのは ずいぶんめんどうだ。
すこしまえまでは、ねていても、2時間ごとにおこされた。
パジャマにおしっこしたり、ごはんをもとめたり。
冬の夜中におきて、カンヅメをあけるのはたいへんだった。
夜、わたしがこれからねようとするときに
トイレでうんこをして、ズルズルとペッドにはいるのをじゃまされた。
うんこのにおいをかぎながらねたくはないので、
すぐにトイレをかたづけたのち、
マッチをすってにおいをけす儀式が必要なのだ。
いちにちがシンプルで、楽になったけれど、
その楽は、生活をたのしくしてくれるわけではない。
生活全体がスカスカになったかんじで、
これまでピピの、お世話をさせてもらっていたのがわかる。
自分ひとりでは なにもできないピピは、
当然のようにまわりの人間をうごかして用をたす。
お世話してくれてありがとう、なんて、
ピピはぜったいにいわないし、態度でもしめさない。
わたしはブツブツ文句をいいながらも
ピピのしもべとなってお世話をつとめる。
いや、わたしはそんなによくできた人間ではないので、
しらんぷりしてふとんをかぶって ねたふりもよくした。
ピピは「ふとんのうえでおしっこ」という技をもつので、
ねむけと、おしっこされるリスクを天秤にかけながら
ピピがむこうへいってくれるのをまった。
そんなグダグダの生活さえ なつかしいおもいでだ。
糸井重里さんが「今日のダーリン」に、
ブイヨンがいなくなったいま、できること、
たとえば海外旅行などをかんがえたとき、
でも、行きたいという意欲がそれほどでもなくて、
逆に犬がいるから海外は無理、という暮らしのほうが、
ほしいような気になっています。
とかいている。
ピピのお世話を、もうすこしさせてほしかった。