2018年04月24日

自然界での泥棒は、弱肉強食にみえる

チリのアタカマ砂漠にある湖での映像をみた。
動物たちをとおして、自然のいとなみをうつしだす。
ツノオオバンが子そだてをしていると、
巣をのっとりにカモメがやってきた。
自分で巣をつくるより、
ツノオオバンがつくった巣のほうが上等なのだ。
そのうえ、あろうことか、ツノオオバンがそだてている
3羽のヒナをもねらっている。
ツノオオバンの親がカモメをおいはらおうとしても、
巣のちかくをうろついたままスキをうかがっている。
カモメは水にもぐれないので、
ツノオオバンがあつめた水草をずうずうしくよこどりしたりもする。
ツノオオバンにとったら、やっかいで、ありがたくない隣人だ。
カモメがやっていることは、
人間の価値観にてらしあわせると、完全な泥棒なのだけど、
それが自然界でおこなわれていると、弱肉強食のいち場面であり、
ツノオオバンにはかわいそうだけど、
しかたないのかも、とおもえてくる。
つよいものが、よわいものをエサにするのは
自然界ではあたりまえにすぎず、
巣をのっとられたり、ヒナをたべられたからといって
ツノオオバンが大声で抗議しても、神さまはきいてくださらない。

人間の社会でこれをやったらどうなるだろう。
お金をかせぐのが苦手なひとが、金持ちからお金やものをぬすむのは、
自分の不得意を、なんとかカバーしようとしただけなのに、
一方的にわるくいわれるのは、なんだか理不尽におもえてきた。
先進国ではぜったいにみとめられないけど、
どこかの国には、それもまたしかたない、
というルールの社会もあるのではないか。
ものをとらなければ、泥棒は生きていけない状況なのかもしれない。
「盗人にも三分の理」があるようにおもえる。

けさの朝日新聞に松村圭一郎さんが
エチオピアで調査をしていたときのはなしを紹介している。
農家の庭にあるアボカドの木がみのるころ、
サルのむれがやってきてたべてしまうのだという。
松村さんはサルをおいはらおうとしたけど、
農家のひとは、あきらめてサルがするにまかせている。
なんで私はアボカドを食べられるのがそんなに口惜しいのか、疑問がわいてくる。アボカドは自然に実をつける。それをなぜ人間だけが独り占めするべきだと思うのかと。(松村圭一郎「アボカドを食べるサルを見て」より)

日本でも、サルやイノシシによる農作物の被害がほうじらる。
農家の方々にすれば、はらだたしい野生動物たちなのだろうけど、
自然のなかでそだてているものを、たべようとするのは
動物の側からみれば あたりまえのことをしているにすぎない。

ツノオオバンにたいするカモメ、
エチオピアでのサル、
日本のサルやイノシシによる被害。
共通点をみつけようとするのは無理があるかもしれないけど、
カモメを一方的にわるくいえないのとおなじように、
日本のサルやイノシシにも三分の理があるのではないか。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする