2018年05月31日

日本代表の23人が発表された

サッカーWカップロシア大会にむけ、
日本代表の23人が発表された。
えらばれた23人には、
とうぜん本田・香川・岡崎がはいっている。
4年まえのブラジル大会のとき、
グループリーグで1勝もできず、
いまのスタイルをこのままつづけても、
日本のサッカーはつよくならないという反省のもと、
あたらしい道への一歩をふみだしたのではなかったか。
本田・香川・岡崎をえらべば、
あるていど計算はなりたつだろう。
しかし、おおきく生まれかわるには、ちがうメンバーを中心に、
これまでにないサッカーをめざしてほしかった。
このままでは、いつまでたっても
うまくいってグループリーグ突破がやっとの国だ。
西野朗監督は、経験豊富なベテラン中心となった選考について、「若い選手、これからのサッカーを担っていく選手たちは、もっとそういう選手たちを超えることを考えなければいけない」と、若手のさらなる奮起を促した。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180531-00107686-soccermzw-socc

4年まえのメンバーは、
それだけ歳をとり、ピークをすぎている。
好調を維持しているのならともかく、
状態をたしかめる必要があるため、
1試合しかない貴重な機会を、ベテランのためにつかった。
それでいて、若手に「奮起を促し」たのだから、
なんのことかよくわからない。
うまくいくわけがないとおもうし、
かりに結果をのこせたとしても、
たまたま手にいれた結果はつぎにつながらない。

チーム状態は、いまが底なので、
2010年南アフリカ大会のときみたいに、
本番までには なんとか形をととのえるだろう、
みたいな期待をきくことがある。
あのときにも、大会まえは、内容のわるい試合がつづき、
日本代表はサッカーファンにたたかれていた。
たたかれたからこそ、みかえしてやろうと
選手たちは必死になったし、
よけいなプレッシャーからは解放されて ちからを発揮できた。
でもこんかいは、サッカー協会が、
自分からちゃぶ台をひっくりかえしたわけで、
それまでにつみあげてきた3年を、おしげもなくすてて、
大会直前にゼロからのスタートとなった。
状況は、はるかにわるい。

残念ながら、こんかいの代表を
あつい気もちで応援する気にはなれない。
協会のでたらめな判断にがっくりさせられたけど、
こうした体験は、サッカーがつよくなるうえで
どの国もしはらってきたコストとかんがえるしかない。
そうした意味では、グループリーグで散々な成績となり、
謙虚な気もちで再スタートできる 最低の結果を 公然とねがっている。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

サッカー国際親善試合 日本対ガーナ 0−2でやぶれる

職場の同僚が今夜の試合について
「かわいそうに、たった1試合で」とつぶやいていた。
ほんとうだ。この1試合だけでなにがわかるのだろう。
これまでのつみあげをチャラにしながら、今夜の試合だけで、
最終的な23人をきめようというのだから むちゃなはなしだ。
代表候補にあつめられた26人のうち、
ケガがなおったばかりで、ながらく試合からとおざかっているか、
所属チームであまり出番がなく、試合勘に不安がある選手がおおく、
どんな状態かをみてみたいと、西野監督ははなしている。
コンディションが完全でない選手をあつめたのは、西野監督だ。
当然、チームは成熟をかんじさせるようなレベルにない。
連携でくずすところまでいかず、
単純にクロスをあげる場面がおおかった。
3バックにのぞみをつないだといわれているけど、
うまくいかず、とちゅうから4バックにもどす。

前半8分にゴールまえからのフリーキックをきめられ失点。
後半6分には、PKで2点目をうしなう。
ガーナの選手たちは、それほどからだのキレをかんじない。
ただ、要所要所でしっかりせめてくるし、手がたくまもる。
うまく時間をつかわれて、あぶなげなくにげきられた。
実況放送は、どうしてもかたなければ、とくりかえしていたけど、
かちまけよりも、内容がとわれる試合のはずで、
その内容がとぼしかったから、みていてあつくならない。
つい、ネコじゃらしで子ネコとあそびながらの、
気のぬけた観戦となった。

代表の23名は、あす発表の予定だ。
今夜の試合で西野監督はなにか収穫があっただろうか。
選考への判断をたすけてくれる内容だっただろうか。
先発でピッチにたった11人と、とちゅうからはいった6人で17人。
ゴールキーパーのひかえ2人をのぞくと、
7人は、アピールするチャンスをあたえられず、
あすの代表発表をまつことになる。
ハリルホジッチ前監督を解任した時点で、
Wカップまでのスケジュールがきびしいのはわかっていた。
今夜の試合だけしか、実戦はないのだから、
なおさら今夜だけできめるような事態はさけたかった。
今夜の収穫は、試合勘のチェックだけ。
それが西野監督の目的だったのだから、これで気がすんだろう。
勝敗や内容がどうこうよりも、
けが人がこれ以上でなくてよかったのかもしれない。

posted by カルピス at 22:27 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

わたしのすきな「ももちゃんシリーズ」 こんかいはギョウザ編

「うちの柴犬を見ていたら、
 その茶色具合が、◯◯に見えて仕方がなくなった」
ではじまる 柴犬のももちゃんシリーズ。
こんかいは、ももちゃんがギョウザにみえてしかたないので、
「柴ギョウザ」をつくったという。
http://portal.nifty.com/kiji/180523202952_1.htm
過去にヨシダプロ氏は、
・食パン1斤のまるやき
・ショーユをかけけたおろし大根
・アイスクリーム
・コロッケ
などをももちゃんに似せてつくっている。
ももちゃんをみていたら
◯◯にみえてしかたなくなったので、
じっさいにつくってみる記事が、
この歴史ある「ももちゃんシリーズ」だ
(たべもの以外では、
羽生結弦選手やトランプ大統領に似せた格好を
ももちゃんはさせられている)。

ときにはとてもうまくしあがることもあれば、
さすがにこれはいかがなものか、というときもある。
結果からいえば、こんかいのギョウザ編は、
かなりくるしい部類といっていいだろう。
そもそも、ももちゃんはぜんぜんギョウザに似ていない。
似ているのは、毛の色が茶色という、色だけでしかない。
ももちゃんシリーズのファンとはいえ、
さすがにこんかいの記事は、とりあげるのがためらわれたけど、
「無理やり」というのは いつもの路線ともいえる。
いままでどおり、定番のあそびとして
気らくにたのしませてもらったので、
このブログでも 例外あつかいはせずに紹介したい。

ヨシダプロ氏は、いろんなももちゃんをつくるうちに
なにやらコツを身につけたようで、
今回もわりとそつなくギョウザの材料をつかって
「ももちゃん」ができあがった。
とはいえ、ギョウザのアンで犬の頭ほどのかたまりをつくるのは、
そしてそれをギョウザの皮にくるんで
やき目をいれるのは、頭におもいえがくほど かんたんではない。
ヨシダプロ氏は、アンがあるていどの強度をもつように、
片栗粉をおおめにいれたりという工夫をほどこしている。
アンを皮にくるみ、できあがったギョウザの原型を、
まずトースターでやいてみるけど、いいぐあいの茶色にならなかった。
ヨシダプロ氏は、チャッカマンをつかい、
むりやりこげ目をつけている。
さいわい、やきギョウザは、こげ目をつけたのち、
むすことでアンに火をとおすのがふつうの料理法だ。
「柴ギョウザ」も、しっかりむせば、
なまにえのアンではなくなり、
安心してたべられる「ギョウザ」となった。

できあがった「柴ギョウザ」は、
ももちゃんがギョウザに似てるというのなら、
きのうわがやにやってきた子ネコは、もっとギョウザ風だ。
頭だけでなく、全身がギョウザを体現している。
◯◯に似ている、というのは、あくまでもあそびであって、
基本的には、ももちゃんのかわいさが中心のシリーズと
わりきってとらえたほうがいいだろう(あたりまえ)。
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posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月28日

子ネコを家につれてかえる

なんにちかまえの記事にかいた子ネコを、
けっきょく家につれてかえる。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/459512166.html?1527511699
仕事がえりに、カンヅメなどのエサをあげていたけど、
いつまでもこんなかたちでかかわるのはよくない。
きょうの夕方とおりかかったときは、
わたしをみてもにげなかったし、ノドをならしてもくれた。
こうなったら、もうしょうがない。
「家にくる?」とたずねると、わたしの手のなかで
もぞもぞうごいていた。
いやではないようだ。
これもひとつのご縁だろうと、
だっこして家までの道をいそいだ。

糸井重里さんが「今日のダーリン」で、犬やネコをかうと
家族がいいかんじになるわけをかんがえている。
ひとつめの理由は、
あたらしい家族として犬やネコむかえいれるときに、
真剣なはなしあいがおこなわれるし、
それを実行できるようになった家族は、
ひとまわりつよくなるからでは、というものだ。

わたしも子ネコをあたらしい家族としてむかえるにあたり、
まず家族(配偶者とわたしの母)にみせ、
つれてかえることになった事情を説明し、
これからあたらしい家族になるのでよろしくと、
ちゃんとはなすつもりだった。
でも、家にかえってみると、台所にだれもいない。
配偶者は、実家にかえっていた。
母は、部屋でテレビをみながら夕ごはんをたべていた。
はなばなしいデビューとならず、拍子ぬけしたので、
なんとなく母に、「ネコ」と声をかけただけにおわった。
母は、またこりずにネコをかうのかという顔で、
悲鳴みたいな声をあげたけど、
ご縁があってのお客さまなので、しょうがない。
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子ネコのお腹がふくれていたので、
便秘でくるしんでいるのかと、トイレにつれていく。
しばらく砂をひっかいていたけど、
なにもでないまま、本棚のうしろにかくれてしまった。
夕方みかけたときは、わたしからにげなかったのに、
基本的にこわがりな性格らしく、なかなか姿をみせない。
これから、どんなつきあいになるだろうか。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月27日

完璧な休日

きのうは、きゅうにおもいついて、宍道湖岸の公園まで散歩する。
スマホで「ラジオマンジャック」をききながら、
ゆっくりあるいて30分。
イメージによわいわたしは、とくにノドがかわいてはいなかったけど、
とちゅうのスーパーでビールをかい、公園のベンチにこしかけた。
よいお天気・公園・休日とくれば、つぎにくるカードはビールとなる。
さわやかな風がふき、お天気だけど、あつすぎはしない。
目のまえに宍道湖がひろがり、
そのよこには県立美術館がおちついた姿をみせている。
あつくなく、さむくなく、Tシャツ1枚ですごせる日は、
いちねんのうち、ましてや休日となると、そうおおくない。
ベンチでビールをのみながら、この日が
かずすくない完璧な休日であることに気づいた。
梅雨までの、夏のあつさがおとずれるまえの
わずかなすきまから手にはいった、ありがたい休日だ。

ほかのひとたちも、にたようなおもいをだいているようで、
たくさんのひとが、散歩したり、ジョギングしたり、
おもいおもいに休日をたのしんでいる。
ジョギングをするランナーの、
ウェアやはしり方をみているのもおもしろい。
はやいひと、ゆっくりなひと。
ひとりで、あるいはカップルではしるひとたち。
自分がはしっているときには、ほかのランナーが気になるけど、
ベンチにすわっていると、競争意識はまったくうまれない。
スピードのあるひとにはすなおにおどろき、
ゆっくりはしっているひとには、
たのしいジョグを、とおだやかな気もちで声援をおくる。
散歩しているおじさんの服装や もちものもまた、
観察のよい対象となる。
ラジオをききながら、散歩用のファッションを、
きめてあるいているひとがおおい。

休日とベンチのくみあわせは盤石だけど、
ラジオもまたベンチとの相性がいい。
ベンチにただすわっているだけなら退屈なのに、
すきなラジオ番組をきいているとピッタリだ。
耳はラジオにむけられているので、
目のまえにひろがる景色が、音なしの映画をみているみたいだ。
平日だと、ひとがすくなすぎて、
休日ならではの満足感をもてなかっただろう。
お天気など、いくつもの条件をクリアーしたのち、
完璧な休日がわたしのまえにさしだされた。
気もちがおだやかになり、
平和なひとときを こころからたのしんだ。
わたしはしあわせな気もちになり、
すっかり満足してベンチにすわっていたけど、
はたからは、時間をもてあましてる
さみしい中年にみえていただろうか。

posted by カルピス at 20:37 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月26日

自然農法による野菜づくり

ことしは毎週かかさず田んぼと畑へでかけている。
畑には、ニンジンとチンゲンサイ、
夏やさいの苗(スイカ・ナスビ・あすなろ・モロヘイヤ)、
それにインゲンがそだっている。
それぞれたいした本数ではないので、
畑へ毎週いくと、たいしてすることはない。
でも、1週でもぬかすと、すぐに草にうもれたり、
まびきが必要になってたりする。
自然農法といえども、週に1回は足をはこばないと、
畑らしくならない。
きょねんは、田んぼにまいた種もみがほとんど芽をださず、
田んぼと畑へいく気をなくしていた。
夏が本格的なあつさをむかえると、
日中はとても畑仕事なんかできなくなり、
ますますやる気がうせてしまった。
畑をかりておきながら、あんまりひどい状態だったので、
ことしは気もちをいれかえて 週に1回は でかけるときめた。

肥料をつかわないつくり方なので、
野菜がうまくそだつとはかぎらない。
自然農法の野菜づくりについて本をみると、
肥料がなくてもちゃんとできる、みたいにかいてあるけど、
わたしの畑でいうと、夏やさいは、たいていだめだ。
おおきな実をつけるには、それなりの養分が必要なようで、
あつくなるにつれ株の元気がなくなり、
自分の身をまもるのがせいいっぱいなようすだ。
自然農法でやろうとすると、夏をのりきるのはむつかしい。
ほかの野菜では、タマネギもだめだった。
ピンポン球よりも、もっとちいさい玉しかできない。
豆は肥料をあたえなくても あんがいそだち、
そこそこの収穫をもたらしてくれる。
じゃがいもとサツマイモも、
おおきさをもとめなければ、肥料がなくてもなんとかなる。

田んぼには、4月の下旬に種もみをまいたけど、
いつもながら、草だらけの田んぼなので、
芽がでたのか、稲がそだっているのかよくわからない。
田んぼのちかくにある畑には、枝豆の種をまいた。
わたしの畑では、唯一うまくそだってくれるのが
この枝豆で、きょねんもおととしも、
冗談みたいにたくさんのサヤをつけた枝豆がそだった。
ことしも期待しているのに、あまり芽がでていないし、
でている芽もあまりおおきくそだっていない。
3年つづけて枝豆をそだてようというのがよくないのだろうか。

自然農法のかんがえ方では、
ひとが手をくわえなくても、すべてを自然がやってくれる。
わたしは、稲や野菜がそだつのを
ほんのすこし手だすけすればいいだけだ。
その「手だすけ」のみきわめがわたしにはむつかしい。
苗がなにをもとめているのかわからず、
草にうもれてしまいがちになる。
野菜が順調にそだっていれば、
わたしもやる気がでて、畑にいきやすくなるのに。
市民農園などで、おじさんたちがこまめに世話をやいているのは、
それなりの収穫があるから、畑仕事がたのしいのだろう。
みるからに、市民農園はたしざんの農法で、
いいとおもえることは、ぜんぶやってるかんじだ。
自然農法はもちろんひきざんの発想で、
できるだけわたしは手をださずにみまもりたい。

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月25日

生ゴミをまえの夜から準備する配偶者

なにごとにおいても用意周到な配偶者は、
もえるゴミをだす日(火・金)は、
そのまえの夜からゴミのつまった袋を玄関においている。
朝、新聞をいれるときに、用意していたその袋もだす。
朝から生ゴミをあつかわなくてもいいので、
だんどりがいいのだろう。
でも、5月にはいり、気温があがってくると、
ゴミ袋から生ゴミのにおいがするようになってきた。
わたしの部屋は、玄関のすぐちかくにあり、
部屋からでるたびに、生ゴミのにおいをかがされる。
いまは我慢できないほどつよいにおいではないけど、
夏になればかなりくさい存在になるだろう。
解決への道はかんたんだ。
まえの夜からもえるゴミを用意したりせず、
朝までまって ゴミ袋をとりだすようにすれば、なんの問題もない。

とはいえ、夫婦といえども、
こういう提案にはあんがい気をつかう。
配偶者は、なにかものすごい理由があって、
まえの夜からゴミ袋を用意しているのかもしれないし、
もしかしたら、わたしへの 無意識な いじわるという線はありえる。
いじわるがいいすぎだとすれば、わたしにたいする無言の圧力か。
いずれにしても、わたしの提案に 配偶者はどう反応するだろう。
やぶへびで、わたしの生活態度までがやり玉にあがったり、
生ゴミをめぐって徹底抗戦にすすむかもしれない。
まあ、配偶者が習慣をあらためるのをことわれば、
わたしがもえるゴミをだせばいいだけのはなしだ。
いろんな面から慎重に検討をかさねたのち、
わたしはおそるおそる配偶者にきりだしてみた。
あたたかい季節となり、生ゴミがにおいだしたので、
まえの夜から準備するのはやめてほしい、と。

こたえは、拍子ぬけするものだった。
鼻がわるいので、においに気づかなかったのだそうだ。
いっぺんに謎がとけてほっとする。
宣戦布告につながるいじわるでなくてよかった。
そういえばまえにも、配偶者の鼻がわるいのをついわすれ、
誕生日プレゼントとして アロマオイルをおくったことがある。
気がきかないのは、わたしのほうだった。
コミュニケーションがたりないと、このように、
ささいな問題をおおげさにとらえがちだ。

もうひとつ、配偶者とのあいだに
わたしはタンス問題をかかえている。
わたしの部屋においてある配偶者のタンスが 邪魔でしょうがない。
本棚や机がおいてある書斎ともいうべき空間に、
おおきなタンスはいかにも場ちがいだ。
でもそれは、あくまでもわたしのいいぶんであり、
配偶者としては、ほかに場所がないから
わたしの部屋においている、というだろう。
タンス問題はかなりデリケートな要素をかかえており、
かんたんにきりだせば、倍がえしされそうだ。
どんな状況なら、タンスがわたしの部屋からきえだろうか。
夫婦でいることのだいごみは、おたがいに気をつかいつつ、
自分勝手な欲求を、どうやって提案するかにある。
生ゴミのつぎは、いよいよあいての本丸へとせまりたい。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

かとうちあきさんについてのつづき

かとうちあきさんは、寝袋ひとつでなんとかしてしまう。
マットがなければダンボールをしくし、
夏の夜に蚊になやまされても、
「もう刺すなら刺せ!」と達観した自分をたのしむ。
お金がとぼしくても、あるお金でなんとかするし、
すごくさむい夜は、ブルーシートを
寝袋カバーのかわりにしてしのぐ。
終電をのがしても、
宿にとまるのはもったいないから野宿をするし、
そうした「しょうがないから」の野宿でなくても、
ただたのしいから野宿をする。
自由だ。

なにかへの執着やこだわりは、自由からとおざかる。
これさえあったら大丈夫、という道具は、
ちがうみかたをすると、
それがなければどうにもならない状態をうむ。
巡礼の旅の準備として、わたしはいま
どんな靴をはくかをかんがえている。
あるきやすく、雨にもぬれない靴なら完璧だけど、
それにたよりきっていたとき、
なくしたり、とられたりしたら、
かなり気もちがへこむだろう。
はじめからそこそこの靴で手をうっておけば、
それがなくなっても、心理的な影響はすくない。
雨がふっても、あしもとがぬれないのは
とても大切なアドバンテージだけど、
完璧をもとめないで、
多少ぬれてもへっちゃらな気もちをそだてていったほうが、
いろんなアクシデントにも対応できる。
へたにこだわりをもつと、
それにたよった心理状態をうみやすい。

ビールがものすごくおいしい状況は、
ビールがなければとんでもない地獄となる。
ビールがなければスイカでもいいよ、とは
なかなかおもえない。
かとうさんは、ま、いいかと、
きっといえるひとだ。

かとうさんは、この寝袋でないと、とか、
この道具がぜったい必要、とはいわない。
自由なのだ。

posted by カルピス at 19:15 | Comment(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月23日

朝日新聞の「リレーおぴにおん」に かとうちあきさんがとりあげられた

朝日新聞がときどきのせているコラム「リレーおぴにおん」に、
かとうちあきさんがとりあげられた。
タイトルは「予想外を楽しむ心持ち」。
さほどおおくはない文章に、
かとうさんが野宿をはじめたきっかけや、
なぜ野宿をするのかが、わかりやすくまとめられている。
きき手がじょうずにかとうさんの魅力をひきだしており、
すこしおおげさにいえば、珠玉の名文集だ。

8年まえ。
わたしは、かとうさんがはじめてだした
『野宿入門』をよみ、すっかり感心してしまった。
自由について、こんなにわかりやすくかいた本はない。
根がまじめなわたしは、『野宿入門』をよみながら、
あちこちにえんぴつで線をひいた。
どちらかというと、かるい文章なので、
一般的にはそんなよみ方をする本ではないのだろうけど、
わたしには、かとうさんがふかせている自由の風が、
とてもここちよかった。

けさの記事も、かとうさんのこころのもち方が、
とてもよくまとめられている
(寝袋にくるまったかとうさんの写真が 野宿の精にみえる)。

・はじめての野宿は高校1年生の春
・寝袋ひとつ担いで旅する行為の自由さに憧れていた
・(当時は)女子高生ブームの時代で、大人に好きに消費されるだけの
 「女子高生」に抗するようなことをしてみたかったのだと思います。
・高校3年生の夏休みに、53日かけて日本縦断。所持金は約7万円。
 前に進むには、行く先々で見知らぬ人と
 コミュニケーションをしないといけません。
・到着したときにはすごい達成感がありました。
 でも、達成感が目的になると
 「より遠く」「より早く」となっていくだけなので、
 旅の途中を楽しみたいな、と思いました。
・大学では野宿仲間もできました。ただ「学生のうち」
 「就職したらできないよ」と言われるのがイヤで、
 「ずっと楽しい旅をしながら生きていけないかなあ」
 と考えていました。
・受験勉強とか就職活動という、それを乗り越えれば
 若者を人間的に一回り成長させる、
 というような「節目感」が苦手で、
 4年生では半年、野宿の旅をしながら、将来を考えました。
・結局、就職せずに大学でバイトしていた介護の仕事をそのまま続け、
 野宿への愛をミニコミ誌の編集にも注ぎました。
・(野宿では)予想外のことはたくさん起きます。
 すべて楽しむ心持ちでないとやっていけず、
 生きていく上で何でも面白がれるようになりました。
・野宿という旅を通じて、ダメな自分を意識し、
 他人のダメさも受け入れて、愛せるようになった気もしています。
ダメな自分を意識し、他人のダメさも受け入れて、愛せるようになった気もしています。

がすばらしい。
これができないから、みんな生きるのがつらいのだ。
わかくしてこのこころもちにたどりつたかとうさんは、達人である。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月22日

レトルトカレーが ルーでつくるカレーより よくうれるらしい

けさの朝日新聞によると、レトルトカレーのうりあげが、
ルーでつくるカレーをうわまわったという。
(民間調査会社インテージは)単身世帯が増えたことでルーを使って複数人分のカレーを作る機会が減っていいることが要因とみている。

カレーといえばおおきな鍋にたくさんつくって、
2,3日たべるものだったし、意外なものをかくし味につかうとか、
2種類のルーをまぜると、コクのあるカレーにしあがるなど、
いろんな技がつかれていたのに、
それがレトルトカレーでは、ひねりをくわえようがない。
たしかにわりやすでかんたん、それにおいしいとくれば、
わざわざルーでつくるよりも、
レトルトカレーにしたくなるかもしれない。
人間って、徹底的に楽をしたくなるいきものみたいだ。

なんにちかまえには、メンツユのうりあげが
へっているという記事があった。
 そうめんなど夏の定番メニューに欠かせない万能調味料の濃縮つゆの売れ行きがふるわない。共働きの増加などで料理に手をかけない世帯が増え、つゆでさえ使うのが面倒という傾向があるという。

「つゆでさえ使うのが面倒」というのがすごい。
わたしだって和風だしやメンツユをつかうし、
クックパッドにすがって、
すぐにつくれる料理をおしえてもらったりする。
これらはむかしなかった道具であり、
ふるい世代にいわせたら、わたしは楽をしすぎかもしれない。
手ぬきなのか、ちゃんとした料理なのか、
料理の基準をどこにおくかは、意外とむつかしい。
ギョーザを例にとると、冷凍ギョーザをあたためるだけ、
というひともいるだろうし、
皮はお店でかうけど、アンは自分でつくる、というひと、
ぜんぶ自分でつくるひと、など
どれもがギョーザを料理したといれるだろうか。
そして、平均的な食事もまた はっきりとはきめにくい。
孤食・個食など、家族でくらしていてさえ
世帯により、いろんなたべ方がフツーになっている。
どれがただしいかは、いまさらきめられない。

ずいぶんまえに、いまのわかいひとは、
ミカンの皮をむくのがめんどくさいのでたべない、
というのをきいておどろいたことがある。
ミカンだけでなく、くだもの全般がめんどくささから不人気だという。
めんどくさいにはかてないと、
すこしまえの記事にかいたけど、ほんとうに
めんどくさいくらい、おそろしい影響力をおよぼすものはない。
レトルトカレーがよくうれるのも、
メンツユがうれなくなったのも、
めんどくさいからだ。
めんどくさくないようにつくられたメンツユさえ
もはやめんどくさいというのだから、
楽をもとめる人間の欲望にはキリがない。
本をよむには、手間と忍耐力が必要なので、
メンツユさえうれない時代に
本なんかがうれるわけがないとおもう。
つぎはなにがうれ、なにがうれなくなるか、
わたしにはさっぱり見当がつかない。

posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月21日

かえり道でみかけた 子ネコとサル

仕事あと、夕ごはんの材料をかおうと
スーパーへの道をいそいでいたら、
小学生くらいの女の子がブロック塀をのぞきこんでいる。
ほそい路地で、ブロック塀のすぐむこうは一軒家だ。
わたしがとおりかかるのに気づくと、となりの家へはいっていった。
きっとそこが女の子の家なのだろう。
わたしがブロック塀にさしかかると、ネコのなき声がきこえた。
子ネコ特有の、かぼそくて、たかい声だ。

わたしがブロック塀ごしにのぞきこむと、
生後1ヶ月くらいの子ネコがみえた。
でも、ひとがこわいらしく、すんなりはでてこない。
お母さんネコをさがしているのか、
お腹がすいてたまらないのか、
ひっきりなしになき声をあげる。
そのうち、女の子がまたもどってきた。

女の子にようすをたずねると、
ゆうべからネコの声がきこえるようになったそうで、
そのときは、お母さんネコもいたという。
女の子も、子ネコが気になるけど、
家でかうわけにはいかないらしい。
ひとをおそれるので、わたしも家につれてはかえれない。
すこしかんがえてから、ちかくのコンビニへいき、
ネコのエサをかってこようときめた。
まだ固形食はたべれないかもしれないけど、
ものはためしだ。

コンビニで3種類のエサをかい、
そのうちの2つを、子ネコのいた場所においてみる。
ものすごくお腹がすいていたようで、
じきに子ネコは姿をみせ、エサをなめた。やがてたべはじめる。
あしたもまたこの道をとおり、子ネコの無事を確認しよう。
エサだけをあたえて役にたった気になるのは、
偽善的で、余計なお世話かもしれないけど、
わたしにはせいいっぱいの対応だ。
すべてのネコがしあわせであってほしい。
信念というほどつよくはないけど、ねがってはいる。
子ネコがどこかへ旅にでるにしても、そこにとどまるにしても、
お腹いっぱいになって、こころやすらかにねむってほしい。

スーパーでのかいものが、子ネコのエサやりでおそくなった。
かいものをすませ、いそいで家への道をあるいていると、
道路のまんなかで、ネコが毛づくろいしている。
とおもったら、サルだった。まだ子どものようだ。
サルがカエデの葉っぱをくわえてウロウロしている。
このところ、市内でサルをみかけると、
きょうと、なんにちかまえの2ど、新聞にものっていた。
保育園の庭にあらわれて、子どもたちをこわがらせたらしい。
わたしがであったサルも、わたしをみてもまったくにげない。
わたしが手にしている かいもの袋が気になったのか、
こっちにむかってきて ちょっかいをだそうとする。
わたしはかいもの袋をふりまわして おっぱらった。
近所のひとたちもちかくにあつまってきて、
興味ぶかそうに サルのうわさ話をしている。
ひとをおそれないサルは、わたしもこわさをかんじた。
子どもあいてだと、おそったりするかもしれない。
これまで町なかでサルをみたことなどないのに、
なぜきゅうに サルがあらわれるようになったのだろう。

子ネコへはエサをあたえ、サルにはつめたくする。
正反対の対応とはいえ、
サルにたべものをあげるわけにはいかないだろう。
だったら、なぜ子ネコだとゆるされるのか。
サルは、わたしの論理的な欠陥をみぬき、
堂々とたべものを要求したのかもしれない。
それともただあそびにさそったのか。
サルもわたしも、あいてがどううごくのか よくわかっていない。
正確な知識なしでの異文化交流は、
あまりいい結果をまねかないだろう。
おたがいの生活圏をおびやかさないいつきあい方が
いちばんおだやかに共存できる方法だろう。
サルがもうしでてきた交流のさそいを、
人間はうけとめる準備ができていない。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月20日

「ヤバそうな猫」と「めんどくさくなった」錦織圭選手のつながりは

木村岳人さんのツイッターに、
ネコの写真がついていた。
dc05550678ca4ecd132657fba5c668de.jpeg
コメントは「ヤバそうな猫が現れた」。
ほんとうに、「ヤバそう」がぴったりのつよい視線だ。
はやく戸をあけなさい、あけてごはんをだしなさい、と
このネコはテレパシーをおくっている。
おだやかにみつめているだけのようでいて、
おおくの要求をものがたっている。
部屋にいれ、たべものをあげたら、
もうこのネコからのがれられない。
といっても、ずっと家にいりびたるというのではなく、
自分がそうしたいときだけやってきて、
またこんな視線をおくるだろう。
ネコの目にすいこまれてしまい、
魂をめちゃくちゃにされて、いいようにあやつられる。
かずある動物のなかでも、ネコにしかできない視線だ。

テニスのイタリア国際で、
錦織圭選手がジョコビッチ選手にやぶれ、
同選手に12連敗となった。
 最終セットには、相手がサービスエースを奪った判定を主審が一度は取り消しながら、ジョコビッチの抗議で紛糾。「めんどくさくなった」という錦織が相手に得点を譲る一幕もあった。(朝日新聞)

ながい選手生活では、いろんな経験をつむだろうけど、
率直に「めんどくさくなった」と
ふりかえられる試合はそうおおくないだろう。
いいたくてもいえない本音を
サラッとくちにした錦織圭選手にわたしは好感をもった。
じっさい、めんどくさくなったら、どうしようもない。
テニスだけではなく、あらゆる場面で
「めんどくさい」はすべてに優先する。
「めんどくさい」のこまったところは、
論理ではどうしようもないところだ。
「めんどくさい」が頭にうかんだら それでおわり。
すべての条件をおしのけて 最終的な決定となってしまう。
めんどくさくても、やらなければならないことがある、と、
正論をのべるのはかんたんだけど、
そうした論理とはべつのところに「めんどくさい」は存在する。

審判に抗議したジョコビッチ選手は、当然の要求を口にしたまでで、
それにたいし「めんどくさくなった」から、
得点を相手にゆずった錦織選手もまた、
自分がなにをかんじたかを、率直にかたっている。
世界で一流の選手たちは、技のたくみさだけでなく、
精神の自由さと、つよさのレベルにおいても、
別次元にたっしたひとたちだ。

ツイッターにあがった「ヤバそう」なネコと、
「めんどくさくなっ」て相手に得点をあげた錦織選手。
ふたりになにかつながりがあれば、
もっともらしい記事になるけど、いまのところおもいつかない。
両者とも、柔軟な精神状態がきわだっている、という点を
むりやりのまとめとしたい。

posted by カルピス at 21:47 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月19日

内田勘太郎さんのギターにおどろく

毎週土曜日にたのしんでいる
「ラジオマンジャック」をきょうもきく。
いつもは散歩をしながらとか、移動ちゅうの車でとか、
なにかをしながらきくのだけど、
きょうはベッドにねそべって、
「ラジオマンジャック」だけにからだをあけた。
でも、集中してきけばたのしいかというと、
あなんがいそうではなく、
かえってばかばかしさがきわだってしまった。
ばかばかしくて いいのだけど、
そのばかばかしさは、なにかをしながら、
なんとなくきくくらいがちょうどいい。
じっくり腰をすえてきくと、番組のかるさが
ただうすっぺらだけにかんじられて、
いまひとつたのしめなかった。

先週の「ラジオマンジャック」には、
内田勘太郎さんがゲストにきていた。
ときどき番組によばれるそうで、
しずかに、ひとことひとこと 自分のかんがえを
できるだけ正確にあらわそうとするはなし方がいいかんじだ。
ギターのうまさにも、もちろんおどろいた。
このひとはただものではないと、あとでユーチューブをみる。
日本にこんなブルースシンガーがいたとはしらなかった。
自由自在にギターをあつかうテクニックがすごい。
ギターをひいている、というかんじはもはやしない。
からだの一部になっている。そして、魂がこもっている。

わたしはひとつも楽器がひけない。
ひけないくせに、練習すればなんとかなるような気がしている。
パソコンのタッチタイピングができるのだから、
ピアノだってコツコツつづけたら
なんとかものになるにちがいない。
ギターだって、ようするに、指をはやく移動させればいいのだろう。
でも、ユーチューブの勘太郎さんをみていると、
とてもわたしなんかがどうにかなるレベルではないのがよくわかった。
ピアニストの指つかいをうつした動画もあったけど、
これまたぜったいにわたしにはできないうごきだ。
なんねんもかけ ようやく習得できたテクニックであり、
わたしがいまから練習してたどりつける境地ではない。
いきなり達人の技をめざさなくても、
かんたんな曲から練習すればいいわけだけど、
めざしたいイメージがあまりにもたかいと
いまさらコツコツ練習するよりも、
達人たちの演奏をきいていたほうがいい、としかおもわない。

内田勘太郎さんがギターをひいているところをみると、
たのしくてしょうがない、というかんじがつたわってくる。
なにもかんがえなくても、指がかってにうごき、
気もちいい音とリズムをつくっていく。
勘太郎さんが魔法つかいにみえた。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月18日

ガーナ戦にむけた27人が発表される

後任者は、往々にして前任者の路線を否定しがちだ。
なにがどうかわったかをはっきりさせるためには、
それまでのやり方はだめだった、としたほうが説得力をもつ。
あらたなポジションについたときの所信表明など、
くちさきでは、前任者の功績をたたえながら、
方針を継続していくような発言をするけど、
おおくの場合、めざしてるのは、前任者の否定だ。

トランプ氏は、オバマ前大統領の遺産を
とにかくなかったものにしようとしているし、
サッカー日本代表監督についた西野氏は、
前任者のハリルホジッチ氏の方針をひきつぐといいながら、
じっさいにはハリル氏がためしていた選手を否定したいだろう。
ガーナ戦をまえに発表された27人は、
予想どおり、ハリルホジッチ氏ならえらばなかったとおもわれる
本田・香川ありきの人選だった。
この2人をいれるのが協会の最終目標であり、
それさえできれば、あとの人選はハリル氏とかさなっても
協会のメンツはたもてる、という舞台裏がみえる。

今回の発表でいちばん目だった「犠牲者」は中島だ。
最後の遠征となったマリとウクライナとの試合でいい活躍をみせ、
あのままハリルホジッチ氏が監督をつづけていたら、
たかい確率で最終メンバーにえらばれていただろう。
いまはまだカムフラージュしているけど、
最終的なメンバーをきめるときには、
より反ハリルホジッチ色をつよめるはずだ。
ハリル氏を否定しなければ、なぜ解任したのかわからなくなるので。
そうした意味あいから、ハリルホジッチ氏の信頼をかちえていた
井手口・原口・浅野が はずされるのでは、と心配している。
コミュニケーションがすこしたりない、
というのが監督解任の原因になるぐらいだから、
えらばなかった理由はいくらでもつくれる。

実戦からはなれている香川をえらんだ理由として、
彼も間違いなく代えの利かないプレースタイルを持った選手ですから、彼がトップフォームに戻っていることを期待するところです。

岡崎については、
いま懸命にトップフォームに戻そうとしていますけれど、間違いなく、この1カ月の猶予があれば、彼は良い状態に持っていけるという予想がある。そうした想像力を働かせた上で、彼を選出しました。

経験と実績があれば、「想像力を働かせ」て選出されたり、
「トップフォームに戻っていることを期待」してもらえる。
西野色をだすのが目的なので、説明にならないような理由でも
じゅうぶん通用するようだ。

posted by カルピス at 22:01 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月17日

『サイレント・スクリーム』

『サイレント・スクリーム』
(アンジェラ=マーソンズ・高山真由美:訳・ハヤカワ・ミステリ文庫)

482ページのあつさがありながら、
さいごまでよませるのだから、
それなりにおもしろかったものの、
なにかとハードルのたかい読書だった。

かなりいりくんだはなしで、
そこにたくさんの登場人物がからんでくる。
いったいこのひとはだれだっけ?とか、
まえにこのひとはなにをやったんだっけ?と、
なんどもまえにもどってたしかめないと 頭にはいらない。

主人公のキム=ストーン警部は、
たぐい稀な勘のよさと、ときに上司の命令すら脇にのけてごりごり捜査を進める実行力で、担当した事件の解決率は非情に高い。対人スキルはいまひとつながら、少人数チームのメンバーからは絶大な信頼を寄せられている。34歳、独身、子供なし。趣味はバイク。(「訳者あとがき」より)

というキャラクターで、よんでいると、サラ=パレツキーのかく
ウォーショースキーをおもいだす。
ウォーショースキーは私立探偵、ストレートは警部と、
ちがう職業とはいえ、やってることはよくにている。
ちがっているところをいうと、
ストーン警部には女性性をかんじることがない。
いっぽうのウォーショースキーは、
男への対抗意識のつよい筋金いりのフェミニストだ。

ストーン警部は、まだわかいのに、ポジションがら
チームをひっぱっていくリーダーシップが必要となる。
責任感と正義感がつよいので、「警部」は天職ともいえるけど、
あまりユーモアのセンスはないようで、
軽口をたたいてもからまわりしてしまう。
ストーリーの展開におどろきながらも、
ストーン警部のわらえないジョークになんどかしらけてしまった。
ストーン警部が、げんきばかりがとりえの、
こまったおねーちゃんにおもえてしまう。
高山真由美さんの訳がわたしにはあわないのかもしれない。
この本のまえによんだ『そしてミランダを殺す』は、
務台夏子さんのおちついた訳がすばらしかった。
ストーン警部をおとなの女性としていかすには、
彼女のいきおいをおさえた訳のほうが むいているようにかんじた。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月16日

サッカー日本代表えらびの迷走

サッカーWカップにむけた選手選考の迷走がつたえられている。
 サッカー日本代表の西野朗(63)は14日、W杯ロシア大会(6月14日開幕)の予備登録メンバー35人を決めた。この日は国際サッカー連盟 (FIFA)への予備登録リスト提出の締め切り。この中から最終メンバー23人を選出するが、予備登録メンバーは日本サッカー協会の方針で公表されなかっ た。当落線上とみられる本田(パチューカ)、香川(ドルトムント)、岡崎(レスター)は選出されたもようだが、最終メンバーはいまだにアウトラインすら決 まっていないのが現状で、迷走中といわざるを得ない。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180516-00000017-ykf-spo

どんなサッカーをやるのか
はっきりした形をきめてないので、
選手をすんなりえらべるわけがない。
監督がもとめる戦術を試合でためしてみて、
それにマッチする選手をえらぶのが筋なのに、
西野氏が代表監督になってから、
いちども試合はおこなわれていない。
選手をえらべると、かんがえるほうが無理なのだ。
西野氏は、ヨーロッパのチームに所属する選手をみにいったり、
Jリーグの試合を観戦したりしてるけど、
自分の戦術をつたえているわけではないので、
いまの段階で、どの選手の調子がいいか、しかわからない。
3年間つみあげてきた成果を、2ヶ月まえに手ばなしたツケだ。

ハリルホジッチ前監督によばれていた選手が基本、
と協会はいっているけど、そんなわけがない。
きめるのは西野監督なのだから、
むかしえらばれていたからといって、
その選手たちだけで35人の予備登録メンバー、
そして最終的な23人が 構成されはしないだろう。
いまは、どの選手にインタビューしても、
代表によばれたらがんばります、といった内容の発言をする。
監督の交代によって、すべてがチャラになり、
もういちどスタートラインにたったようなものなので、
自分にもチャンスがあるとおもうのは当然だろう。
わたしもまた、もしかしたらえらばれるかもしれないので・・・、
といのがサッカーずきの鉄板ギャグだ。
可能性はゼロではないにしても、
あす太陽がもえるのをやめるくらい、きわめてひくい。
でも、おおくの「代表候補」は、わたしとにたようなものではないか。
からだがよくうごく選手、
かつてつねにハリル氏によばれていた選手、
まえはハリル氏によばれていたけど、
最近はそうでもない選手、
よばれたことはないけど、いま調子がいい選手、
ケガをしたけど、いまはなんともないよ、という選手、
歳はとったけど、からだはよくうごく、という選手、
すごく足がはやい選手、
若手だけど、フリーキックがじょうずな選手、
つまり、いきのいい選手と、
かつていきのよかった選手が、
全員えらばれる可能性にうかれ、うきあしだっている。
そんなみっともない集団にしたのは、
その気にさせたサッカー協会であり、
どんな選手を5月31日に発表しようが、
すんなり納得できる選手選考にならないことだけはたしかだ。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月15日

『希望のかなた』

『希望のかなた』
(アキ=カウリスマキ:監督・2017年・フィンランド)

シリアからやってきた難民のカーリドをめぐるものがたり。
(以下、ネタバレあり)
石炭をはこぶ船にもぐりこみ、
カーリドはヘルシンキ(フィンランド)の港におりたつ。
シャワーをあび、石炭まみれになった身なりをととのえてから、
警察へいって難民の申請をする。
フィンランドは、難民をうけいれる制度はととのっているものの、
具体的な手だすけはなかなかうけられない。
難民の収容センターにおくられたカーリドは、
自分がどういうあつかいになるか、
フィンランド政府の決定をまつしかない。
みとおしのもてない状況のまま ききとり調査がつづき、
やがて、強制送還の決定がいいわたされる。
カーリドがにげだしてきたアレッポは、
いまもまだ戦闘状態がつづき、安心してくらせる場所ではない。
しかし、それほど危険ではないというのが政府の見解だ。
つぎの日の朝、難民担当の係官がカーリドをむかえにくる・・・。

ヘルシンキには、難民に親切なひとも、
おいだそうとするひとたちもいた。
フィンランドへの密航を、かくまってくれた船員。
ネオナチ風の3人組にからまれたとき、
カーリドをたすけてくれたひとたち。
身なりはまずしそうだけど、こころはやさしくてあつい。
難民センターでは、イラクからやってきた男性、
マズダックとなかよくなり、
カーリドの妹のゆくえについて相談にのってもらう。
さきのみえない生活にいらついていたカーリドは、
マズダックを酒をにさそう。
いかつい顔のバーテンが
「はじめの1杯はサービスだ」といって、ビールをおごってくれた。
カーリドがはたらきはじめたレストランには、
3人組の「ダメな」従業員がいて、
はじめはカーリドにたいしてつれなかったけど、
人間としての彼のつよさをしるにつれて 態度がかわってくる。
社会の底辺でくらす、うだつのあがらない3人は、
レストランにまよいこんだ犬もかくまってしまう。
ボスがすててくるようにめいじても、
自分たちとおなじような境遇の犬をとてもすてられない。
カーリドの妹がべつの国の難民センターにいるとしらされると、
レストランのボスがちからをかして、
ヘルシンキまでトラックに妹をかくし、
カーリドとの再会を手だすけする。
ドライバーは、「いい荷物をはこばせてもらった」と、
金をうけとらない。
おおくのひとが、みかけはきびしそうな顔つきなのに、
こころの奥にやさしさをひめている。

これからあたらしい生活がはじまるというとき、
ずっとつきまとっていた男におそわれ、
カーリドはナイフで腹をさされる。
レストランのボスが、カーリドのねぐらにやってくると、
血のしずくをのこしてカーリドはきえていた。
映画のラストシーンは、木にもたれるように、
カーリドがよこたわっている。
死んでしまったのかとおもっていたら、
タバコをおいしそうにすいだした。
これまでにみせなかったおだやかな表情で
カーリドは海をみつめている。
これからさき、レストランにもどるつもりはないらしい。
すでに死を覚悟したのだろうか。

映画をみてから家にもどるとちゅう、
あまりにも平和そうな町のようすにおどろいた。
さっきまでみていた映画は、
日本とは、まるでちがう世界のはなしにおもえる。
でも、ほんとうは、カーリドがかかえるくるしみは、
わたしもけして無関係ではないはずだ。
現実社会では、難民を生みだすあらそいが各地でおき、
いまもたくさんのひとが、さきのみえない生活をおくっている。
根本的な解決策をかんがえると、とほうにくれるけど、
作品のなかで、まずしいひとたちが
たすけあって生きていくさまは、
わたしにも希望をあたえてくれた。

posted by カルピス at 21:47 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

コンサドーレ札幌は、うまくいってないから、うまくいっている、という西部謙司さんの分析にひかれる

J2からあがってきたコンサドーレ札幌が、
現在J1リーグで3位といい調子でとばしている。
監督は、きょねんまで浦和レッズで指揮をとっていた
ペトロビッチ氏(愛称ミシャ)だ。
ペトロビッチ氏がもちこんだ独特のサッカーは、
札幌がこれでJリーグ3チーム目となった。
かなり特殊な戦術なので、チームになじむまで、
しばらく時間がかかるとおもっていたのに、
これまでのところリーグ戦で7勝2負、5つのひきわけと、
予想外の健闘をみせている。

わたしのすきなサッカーライターの西部謙司さんが、
A1との対決企画で、第14節の試合結果を予想している。
https://www.footballista.jp/preview/45365
コンサドーレ札幌について、西部さんは、
やろうとしているシステムを、やりきれていないために、
かえって弱点が表面化していない、と分析している。
 札幌については「正直、もっと時間がかかると思っていた」という西部さん。続けて「ミシャ式のスタイルは、Jリーグでは対策が確立されています。 ただ、今の札幌はミシャ式の可変システムやり切れておらず、そこまで攻めれていない。それによって、逆に弱点が表面化していないように思います」とのこと。

うまくいってないから、うまくいく場合があるのだ。

ある戦術をとりいれようとして、
でも実践ではなかなかうまくいかないことがある。
それがかえっていい結果にむすびつく場合があるのだから、
サッカーは、そして人生はおもしろい。

だからなにもしなくていい、というわけではないけど、
とかくひくいほうにながされやすいわたしは、
札幌の好調をよい教訓にしたいとおもう。
おもったとおりにいかなくても、結果はどうなるかわからない。
あんがい、まわりまわって、そのほうがいい結果をもたらすかも。
札幌の教訓を拡大解釈すると、
だるまさんのように、うごかないほうがいい、となる。

歳をとると、からだのあちこちにガタがきて、
わかいころとおなじようには生きられない。
自分だけでなく、家族やまわりの人間も歳をとり、
状況は日々かわっていく。
親が歳をとると、介護が必要になってくるし、
職場の同僚たちも、介護にかかわるひとや、
子どもが生まれてうごきがとりにくくなるひとがでてくる。
その結果、おもってもなかった仕事が
わたしにふりわけられたりする。
自分がバタバタとなにかをはじめなくても、
ただ生きているだけで、だまっていても、
まわりがかってに変化をもたらしてくる。
状況にながされるのはいやだ、というひともいるだろうけど、
自分でなにかをめざしたところで、結果はおなじかもしれない。

コンサドーレ札幌は、これからどんな成績をおさめるだろうか。
ペトロビッチ氏の戦術が浸透するとともに、
相手にうまく対応されるようになれば、
西部さんの予想どおりとなる。
監督のめざすサッカーができてないから いまはうまくいっている、
なんてペトロビッチ氏がしったらどうおもうだろう。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

田うえをしない米づくりが ひろがりつつあるというのは ほんとうか

すこしまえの天声人語(朝日新聞)で、
田うえをしない米づくりがとりあげられていた。
田んぼに種もみを直接まく「じかまき」とよばれる方法で、
研究する拠点が秋田県にあるそうだ。
(田植えは)毎年のことながら重労働である。
その光景が変わりつつある。(中略)
種もみを鉄粉でくるみ、倒れにくい品種を開発し、徐々に実用化が進んだという。

わたしが高校生のころにも(40年もまえになる)
じかまきを研究しているひとたちはいた。
40年で普及しなかったものが、
これからほんとうにひろがっていくのだろうか。
田うえをやめて、種もみをまくようにすれば、
すごく楽なのはわかったことなのに、
なぜいままであまりひろがらなかったのだろう。

田うえはたいへんだけど、マニュアル化がすすんでいるので、
いままでやってきたことをくりかえせば、
そこそこの量がとれると計算がなりたつ。
じかまきは、うまくいけば楽だけど、
確実なやり方がまだわかっていない。
だからこそ、天声人語が紹介したような研究施設で
試行錯誤をくりかえしているのだろう。
ようやく実用化の手ごたえをかんじているようだけど、
これから順調にひろまっていくだろうか。

いままでのやり方をかえるというのは、たいへんなことだ。
田うえの時期になると、田んぼのあちこちでトラクターをみかける。
トラクターが土をかきまわし、そのあと田植機で苗をうえる。
どの家も、おなじころに田うえをするので、
農機具のかしかりはひろまらない。
おおくの農家は自分で苗をそだてないで、農協などからかっている。
農機具メーカーにしたら、機械がいらなくなるような変化は
ありがたくないだろうし、
農協だって ずっと苗をかってもらうように「指導」するだろう。
いまのしくみがかっちりできあがっているので、
じかまきをためそうとしても、
そうとうハードルがたかいのだろうと想像する。
農家の高齢化がすすみ、できるだけ省力化したいだろうに、
田植機がはいったとはいえ、基本的には
弥生時代からおなじ米づくりを延々とつづけている。

ちかい将来、米づくりは根本的にかわるだろうか。
天声人語は、スマホを操作して、ロボットが空から種もみをまく
未来の米づくりの夢想でむすばれている。
わたしがしっているだけでも40年をかけて
ひろまらなかった歴史をもつじかまきが、
これからどんな変化をみせるのか興味ぶかい

posted by カルピス at 20:46 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月12日

慢性痛は脳のかんちがい、というのがおもしろい

腰痛など、3ヶ月以上つづく慢性的ないたみは
脳がつくっている、とテレビの健康番組でやっていた。
脳があやまった情報をおくっているからいたいのだという。
いってみれば、気のせいなのだ。
あるくのさえたいへんな腰痛も、
かんちがいかもしれない、というのがおもしろい。
わたしはひだり肩にいたみをかかえている。
はじめはねているときの姿勢がわるいのかとおもっていたけど、
もう1年以上つづているから、ほかに原因があるようだ。
じっさいにいたいのだから、「気のせい」とはおもえないけど、
いたみはからだがじっさいにかんじているのではなく、
脳がつくりだしている、といわれると
それもありかな、という気がしてきた。

『1・2の三四郎』(小林まこと)というマンガに、
「自分のからだじゃない作戦」というのがでてくる。
プロレスラーをめざす三四郎は、
試合をするといたみがつきものだけど、
流血をともなうすごい状態でも、
「自分のからだじゃない」とおもえば
いたみはやりすごせる、という作戦だ。
ひとは、どうしても自分のこととなると
慎重になったり、だいじにしすぎたりするので、
「自分のからだじゃない」とつきはなしてかんがえるのは
ひとつの方法だとおもう。

わたしのいたみは、ひだり側の首から肩にかけて
なんとなく調子がわるい。
じっとしているといたみはなく、
50肩とちがって、肩はよくまわるし、
クロールだっておよげるくらいだから、
生活していて不自由はかんじない。
ときどき「いたい」のが、ただ不愉快なだけだ。
肩甲骨のうえあたりをおすと、すごく気もちがいい。
「ツボ」をさがして そのまま首までさわっていると、
どこをおさえても気もちがいい。
気もちがいいからといって、もんでみてもなおらない。

このまえタイへ旅行したときには、
10日以上つづけてタイ式マッサージにかよったけど、
気もちがいいだけで、根本的にはなおらなかった。
いたいところを、集中してほぐそうとすると、
からだが反発して、もみがえしのような症状になった。
まさしく慢性痛なわけだから、番組がいうように、
脳がかんちがいして、まつがった命令をだしているのかもしれない。
番組では、ちいさな目標を設定し、
いたみとまえむきにとりくむと、効果があるといっていた。
とはいえ、わたしの場合、
なにかができないほどのいたみではないので
目標はきめられない。
「自分のからだじゃない」をつぶやいて、
なかったことにするほうが、現実的な対応におもえる。

1年以上いたみとつきっているので、朝おきたときに、
きょうはどこがどれだけいたいかをたしかめる。
かなりいたい日もあるし、ほとんどかんじないときもある。
だんだんいたみの存在になれ、
いたみがあるのがあたりまえになってきた。
できればこれ以上、ながくつきあいたくはないけど、
いたみがなくなると、あんがいものたりなかったりして。
いたみがあるのがふつうのわたし、と
脳がかんちがいしてなければいいけど。
どんなかたちでいたみがおわりをむかえるのか、
脳の路線変更をたのしみにしている。

posted by カルピス at 10:05 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする