2018年06月10日

エビフライなしの天丼で我慢できるか

地球がもとのような自然環境をとりもどすには、
高度成長期のまえくらいの経済規模にもどり、
みんながすこしずつ貧乏な生活をおくればいい、
というようなことを、
演出家の宮ア駿さんがはなしていた。
でも、いちどぜいたくなくらしになれると、
なかなか貧乏な生活にはもどれない。

たとえば、日本人がエビフライをたべるために、
東南アジアで大量のエビがかわれている。
日本人の食欲のために、マングローブの森が破壊されている。
だったら、天丼にはエビフライがのってなくてもいいや、
とはおもえないのが問題なんだ、というのが宮アさんの説明だ。

ネットで「エビフライ市場が縮小」という記事をみたとき、
わたしはまっさきに、この宮アさんのはなしをおもいだした。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180608-00010000-minatos-bus_all
エビフライがなくてもいいとおもいはじめたなんて、
すごいニュースではないか。
日本人もなかなかやる。

でも、記事をよむと、ぜんぜんちがう内容だった。
ほそいエビにおおきなコロモをつけたエビフライが、
贅沢な日本人にあきられてきた、という さらにひどいはなしだ。
エビフライはうれなくなったけど、
そのかわりに、エビカツがよくうれているのだという。
エビカツとはなにか。
わたしはきいたことも、たべたこともない。
ネットをみると、エビの肉をミンチにして、
コロッケみたいに油であげた料理なのだそうだ。
ますます贅沢になった日本人が、
ほそいエビフライではあきたらず、
エビの肉がいっぱいつまったカツをもとめた。
これでは、自然環境がもとの姿をとりもどすのは、
ずいぶんさきになりそうだ。

posted by カルピス at 18:57 | Comment(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月09日

スイムランで3時間きるには、日本代表とおなじように「運」が必要

8月5日(日)に多伎町でおこなわれる
スイムラン・ロングの部にもうしこんだ。
8月の第1日曜日にひらかれるこの大会は、
たいてい35℃の炎天下のなか、1.4キロおよぎ、21キロをはしる。
タイムはだんだんおちてくる傾向にあり、
もう11回も参加しているのに、いちども3時間をきれない。
いちばんいいときが3時間1分で、わるいときは3時間26分。
なんとか3時間をきりたいけど、
とくにハードな準備をつんでいるわけではなく、
ふつうにかんがえると、ことしもまた残念な大会になりそうだ。

Wカップを目前にひかえた親善試合で、
日本はスイスに0−2でやぶれた。
わたしが信頼しているサッカーライターの西部謙司さんは、
日本代表に必要なのは「運」、として
現実的な処方箋をしめしている。
日本代表は国際親善試合でスイス代表と対戦し0-2で敗れた。負けはしたが、相手との実力差を考えれば驚くことではない。(中略)
 ロシアワールドカップでベスト16を目指すなら、日本に必要なのは「運」だ。ただし、運を生かせる条件は作っておかなくてはならない。接戦の展開に持ち込めるかどうかだ。 
 0-4で負けている試合は、いくら運がよくても5-4にはならない。悪くても1点差で推移する展開にしなければ運が味方しても勝つのは無理だ。
https://www.footballchannel.jp/2018/06/09/post273561/

1986年のWカップメキシコ大会で、
優勝したアルゼンチンは、
「戦術はマラドーナ」といわれていた。
マラドーナが絶対的なエースとして
アルゼンチンのゆくえをすべてにぎっていたからだ。
それにくらべ、戦術が「運」というのは ずいぶんなさけないけど、
日本がどんな状況にあるかを 適切にあらわしている。

わたしがスイムランで3時間をきるのは、
日本代表とおなじように「運」にしかすがれないのではないか。
50代も後半となり、これからタイムをあげようとめざすのは
かなりむつかしい時期にきている。
いろんな条件(コンディションや気象条件、
ちかくにひっぱってくれるランナーがいるか、など)が
すべてがわたしに都合のいいようにまわれば、
そして そんな条件で10回くらいチャンスをもらえば
3時間をきれるかもしれない。
つまり、ほとんど無理、ということだけど。

わたしのスイムランとおなじように、
日本代表がベスト16にすすむのは、
ひかえめにいって、かなりむつかしいだろう。
神風がふいたら、とか、奇跡がおきたら、とか、
スピリチュアルな方面への期待が
これからさかんに口にされると、わたしは予言する。
運にたよるうちは、まだましかもしれない。

posted by カルピス at 20:13 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月08日

地主恵亮さんの「あなたは一人じゃない!」にはげまされた

デイリーポータルZに地主恵亮さんの
「あなたは一人じゃない!誰かがいつも応援しています」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/180607203078_1.htm

おちこんだとき、ひとは自分がひとりきりだと さみしくおもう。
ひとりを意識すると、かなしみやなやみがさらにふかくなる。
でもそれはちがう、と地主さんはいう。
どこかであなたを応援してくれるひとがいる。
よーく目をこらせば、川や海のむこうで
大声をあげながら、あなたに声援をおくっているひとがみえるだろう。
あなたのちかくには、かならずあなたをみまもっているひとがいる。

だからどうなんだ、といえばそれだけで、
いっけん、むちゃな記事のようにおもえる。
でも、表現方法としては つたないかもしれないけど、
それだけ地主さんがつたえたいメッセージを
ストレートに文字で、そして写真であらわしている貴重な内容だ。
おとなになると、こうした表現は
なかなか頭にうかんでこない。
これは、現代人が必要としているおとぎばなしだ。
わたしは、こんなふうに、ピントがずれているようで、
じつはふかい確信のもとに、
自分ならではの表現をこころみようとする
地主さんをたかく評価する。
あなたは一人ではない!
この記事から自分は一人ではないということが学べたのではないだろうか。みんなあなたの仲間なのだ。あなたを応援しているのだ。遠くにも近くにもそのような人はいる。そういうことなのだ。大丈夫、私が一番、そういうことってどういうこと?って思っているから。

とおくに、あるいはすぐそばに、
わたしを応援してくれるひとがいる(かもしれない)。
そういわれても、じっさいに姿がみえなければ、
なかなかこころのささえになりにくい。
今回の記事がすぐれているのは、
ちからのかぎり声援をおくるじっさいの応援者を、
地主さんがえんじてくれたところにある。
そのおかげで、わたしたちは、イメージとしての声援ではなく、
リアルにありえる声援として しんじられる。
「あなたは一人ではない!」と、
ちからいっぱい声援をおくる地主さんの姿が、
わたしの脳みそにやきついた。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月07日

えんどう豆あんパンを紹介する料理番組で、自由を手にいれる

仕事でクッキーをうりにでかけたら、
その部屋においてあるテレビで
「ひるまえクッキング」という料理番組をやっていた。
クッキーをテーブルにならべおえてから、
しばらくテレビの画面をながめていた。
つくっているのは、えんどう豆をつかったアンパンだ。
えんどう豆であんこをつくるわけで、
色あざやかなアンは、たしかにみばえがいい。

1 ロールパンにバターをたっぷりぬる
2 そこに、えんどう豆でつくったアンを
  これもまたたっぷりのせる。
3 パンを両手でおしつぶし
4 フライがえしをつかって、片面ずつフライパンでやきつける

つくっているのは、きっと有名な料理の先生で、
アシスタントの女性がさかんにヨイショしている。
でも、手でロールパンをおしつぶすところとか、
フライパンでやき目をいれるところなど、
全編をつうじて、かなり残念なみた目だ。
手をくわえていくにつれ、ますますヘンテコな方向へと料理がむかう。
できあがったアンパンをくちにいれると、
アシスタントの女性は、ゆたかなかおりを
とってつけたようにほめていたけど、
とてもこころからの声にはきこえない。
料理の先生がつくっても、
こんな不思議なしあがりのときもあるのかと、
わたしはふかく感心した。
あざやかな包丁さばきをみせつけて、とても素人はマネできないと
あきらめさせるのではなく、
これぐらいなら、自分でつくったほうがうまくいきそう、と
おもわせてくれる番組は あまりない。
どうでもいい料理を、みごとな手つきで
コジャレたおやつにしあげるのではなく、
いかにもむりやりにバターをぬり、
アンもまたギュウギュウづめにおしこむ。
まるで、厚化粧の女性が、
得意そうに料理をする 外国の番組みたいだ。
それを、初老の板前さん風の先生がやるのだから、
そのおおきなギャップを わたしはわるくないとおもった。

わたしは、自炊料理をいくらかはつくるけど、
とてもひとにたべてもらえるようなできばえにはならない。
レシピどおりにつくらないので、いいかげんな味つけだし、
うつくしくもりつけられないのが、
ながねんのコンプレックスとなっている。
でも、えんどう豆のアンパンづくりをみると、
肩のちからがぬけてきた。
有名な料理の先生でさえ、あんなしあがりにしか
もっていけないのなら、わたしがきれいにもりつけられなくても、
はずかしくおもう必要はない。

番組のおわりでは、えんどう豆アンパンのアレンジとして、
サバをはさんだたべ方も紹介されていた。
こちらもまた さらに傷口をひろげる 残念なできばえで、
ぜったいにやってみようとはおもわない。
戦前の日本人が西洋料理をまねたら、
おそらくこんなふうにヘンテコで、
料理オンチのできだったのではないだろうか。
偶然みかけた不思議な料理番組は、
まともな料理にからみとられていたわたしを、
自由で、どうでもいいよのスタート地点にまで もどしてくれた。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

健康のためには ブログをつづけたらいいのかも

ブログをつづけるのは、なかなかたのしいとりくみではあるものの、
そういつもスラスラかけるとはかぎらない。
ネタがあるかどうかは重要だけど、
それにくわえ、いいコンディションで生活しているかどうかが
あんがい大切になる。
ふつかよいや、便秘はよくないし、
お腹がいっぱいでも頭がはたらかない。
イライラしていたら、記事をかきにくいし、
不機嫌なこころもちでは、すなおな文章とならない。
お腹がいたかったり、カゼをひいていたりはもちろんまずいし、
自分だけでなく、家族の健康だって
生活のリズムにおおきな影響をあたえる。
そうしたコンディションにくわえ、
精神的におおきな波にさらされたりすると、
おちついて文章にむきあえない。
きっと夫婦げんかなんかしたら、
逆上してしまい、ブログどころでは ないだろう。
健康に不安をかかえていても、心配で記事に集中できない。

こうしてみると、記事を無事にアップできるのは、
いくつものハードルをくぐりぬけたすえ、
ようやくつくりだした貴重なコンディションを
毎日ブログにむすびつけた結果なのがわかる。
逆説的にいえば、健康でいようとするなら、
ブログをつづければいいのかもしれない。
ブログを生活習慣にとりこめば、
必然的に よいコンディションをたもちやすくなる。
はげしすぎる喜怒哀楽をとおざけ、
できるだけたいらな心境をこころがけるのが、
ブログをつづけるひとつのコツだ。
色即是空、色即是空。

書評家の目黒考二さんが、
「旅行と家族は読書の敵」となにかにかいていた。
あんがい旅行ではなく酒だったかもしれない。
とにかく、目黒さんには、
本をよむのに障害となる懸案がいくつもあり、
だから目黒さんは社員旅行にでかけるのも
めんどくさがっている。

わたしは、10日まえに 子ネコ(ココ)を家族としてむかいいれた。
子ネコといっしょにくらしていると、
ものすごく時間をとられるのがわかった。
顔をあわせれば、ちょっかいをかけてくるので、
ネコじゃらしやなにかで いっしょにあそぶ。
かわいいし、たのしいしで、ついながらくいっしょにすごし、
自分の部屋にもどったら、もう10時をすぎていた、
なんてことがつづいている。
ほんの10日いっしょにいただけとはいえ、
いまココになにかあれば、わたしのこころはかきみだされる。
とてもブログどころではない。
子ネコとブログは、相性がよくない、というのがわたしの発見だ。

posted by カルピス at 22:16 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月05日

中途半端な知識でも大丈夫

よくいわれるように、中途半端な知識があると、
ついそれをひけらかして、まわりにつたえたくなる。
反対に、かなりふかくしっていることについては、
かりにそれが話題になっていても、
自分からウンチクをかたろうとはおもわない。

たとえばアメリカの人口や、
基本的な産業構造をしらずにおいて、
アメリカについてだれかと議論したところで
たいしたはなしはできないだろう。
では、どれだけしっていたら、
じゅうぶんな一般常識といえるのか。
どこまでしったところで、対象への情報にキリはないのだから、
完全な知識を前提にしていたら なにもいえない。
けっきょく、よくしらないことについても、
じゅうぶんな知識でないのを承知しつつ、
なんでも口をつっこんでいけばいいのではないか。
相手に敬意をはらいながら、おもったことをいえばいい。

野にさく花について、ただしい名前をしっていたら
それにこしたことはないけど、
名前をしっているからといって、
その花のすべてをしっていることにはならない。
名前をしっているだけなのに、
すべてをしってる気がするほうが、
名前をしらないよりも よくない態度になるかもしれない。
名前をしってることと、
その花についてしっているのとは べつのことだ。

どんな歴史があって日本にたどりついたのか、
いつ芽がでて、いつ花をさかせるのか、
どんな養分を必要として、どんな気候をこのむのか、
しっておいたらいい情報はいくらでもある。
では、それらのすべてをしってないと、
なにもいえないかというと、そうでもない。
その花についてたしかに「しっている」といえるのは、
ほんのわずかな専門家だけだけど、なにかをはなすのは、
よくその花をしらない愛好家でも なにも問題はない。

わたしは村上春樹の小説がすきだけど、
何十回もよみかえしているひとにくらべ、
きわめてあさいよみ方しかしていない。
だからといって、卑屈にならなくてもいい。
中途半端な知識であることをみとめたうえで、
ひとがはなす村上春樹について、
謙虚な気もちできき、自分からもはなせばいい。

専門家だけが発言する権利をもっているわけではなく、
愛好会にすぎないレベルでも、
ほんのすこし関心があるだけだとしても、
おもったことを口にしてもいい。
もし、素人の発言をかるくあつかうような専門家がいるとしたら、
きっとたいした実力がなくて、
自分のなわばりにはいってほしくないのだろう。
アマチュアや、ただの愛好家でも、
なんでもおもったことをはなす権利がある。

posted by カルピス at 22:38 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

『偽りの楽園』(トム=ロブ=スミス)

『偽りの楽園』(トム=ロブ=スミス・田口俊樹:訳・新潮文庫)

トム=ロブ=スミスといえば、
ソビエト連邦時代を舞台にした レオ3部作が記憶にのこる。
壮大なスケールでソビエト連邦の内幕がえがかれており、
ミステリーの大作として、3冊ともそれぞれおもしろかった。
つぎはどんな作品かとたのしみにしていたら、
『偽りの楽園』は、まるでデビュー作をおもわせる、
こじんまりとした小説に作風がかわっている。
印象としては、村上春樹があたらしい課題に挑戦しようと、
実験的にかいてみたような作品だ。
トム=ロブ=スミスとしらされなかったら、
とてもおなじ作家の作品とはおもえない。
つまらないわけではないけど、なかなかはなしが核心にはいらず、
じらされながらよんでいると、後半でいっきに急展開をみせる。

ロンドンでくらしているダニエルに、父親から電話がはいる。
母親の具合がよくないという内容だ。
ダニエルの両親は、あたらしい生活をはじめるため、
半年まえにスウェーデンへひっこしている。
その母親が、精神病で入院したという。
きゅうなしらせにダニエルがおどろいていると、
こんどは母親から電話がかかってきた。
お父さんからあなたに話があったと思うけれど、あの男があなたに言ったことは全部嘘よ。わたしの頭はおかしくなんかなってない。

夫からにげだすように、母親はロンドンにやってきて、
むすこであるダニエルに、スウェーデンでなにがあったかをはなす。
まわりがぜんぶグルになって、自分を精神病あつかいにしていると。
しかし、母親のはなしぶりとその内容は、
いかにも精神をやんでいるひとのきめつけにおもえる。
ダニエルは、母親と父親にはさまれて、
どちらをしんじていいのかわからなくなる。

おさないころからダニエルの母親は、
家族との関係がうまくいかず、くるしんでいた。
スウェーデンの農村における 排他的な面が、
母親のようなタイプの人間には、生きづらい社会となる。
50年たったいま、おさないころ、
こころの奥にしまいこんだつらい体験が、しだいにあふれだした。

おもいはなしでありながら、あとあじはわるくない。
自分の家族関係についてもかんがえざるをえない。
わたしは配偶者のことをどれだけしっているか、
むすことはどんな関係をきずけているかが、ふとあたまをよぎる。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月03日

子ネコが家にやってきてから一週間

子ネコが家にやってきてから一週間がたつ。
わがやにつれてきたとはいえ、
ネコがすんなりいついてくれるとはかぎらない。
ネコは、家が気にいらなければ、にげだしてしまうので、
どこかへいってしまうのではないかと心配していた。
つれてかえったつぎの日には、はでにあそびはじめ、
かわいい声をきかせてくれたので、
どうやらわがやになじんでくれたようだ。

家にきてから3日たったとき体重をはかると850グラムだった。
ネットでネコの体重をしらべると、生後6週間くらいのようだ。
こんなにちいさなネコが、これまでよくひとりで生きてきたものだ。
病気にもかかってないし(たぶん)、ノミもいない。
お母さんネコとはぐれてから、どうやって生きてきたのだろう。

子ネコとくらすのは、ずいぶんひさしぶりだ(10年以上)。
また子ネコとネコじゃらしであそべるとはおもわなかった。
なにをしてもかわいい。
わたしがからだにふれると、ねばりつくようなひくい音をだして、
ここちよさをおしえてくれる。
ミャーミャーというよりは、ミュンミュンとかぼそい声をあげる。
たくさんあそび、たくさんたべて、
つかれはてるとコロッとねてしまう。
子ネコがあそぶエネルギーのすさまじさにおどろいている。
J0IZWpXZNSG_1EnxMfpbE-c6Bu1EVPtTYY5XjC00OWB0ig7zWEya188AAvXg2cmmTdUdKuUBBwi2WIOcZQ=w165-h220.jpg
名前は「ココ」にした。
ココア色なので、ココアにしようかとおもったけど、
ココアはよくありそうだ。ココアから「ア」をとって「ココ」。
もっとも、名前でよぶのに、こちらがまだなれておらず、
「かわいいニャンコだね」と、名前ぬきでよびかけるときがおおい。
ココのおかげで、家にかえるのがたのしくなった。
ココのことをかんがえただけで、胸がポッとあたたかくなる。
配偶者の表情も、ずいぶんあかるくなった。
ピピは自分の子どもみたいな気がしてたけど、
ココは孫のようにおもえる。
孫なので、なにをされても ただかわいい。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月02日

すきな曲がラジオからながれると、なぜついきいてしまうのか

すこしまえの「音楽遊覧飛行」(NHK-FM)で、
映画『ブルース・ブラザーズ』の曲がかかった。
映画音楽をあつかう週で、テーマは「素晴らしい音楽仲間たち」。
音楽仲間の映画といえる『ブラス!』はわかるけど、
ジェイクとエルウッドみたいな いかれたふたりが中心の
『ブルース・ブラザーズ』を、
「素晴らしい音楽仲間」にいれてしまう紺野さんがおもしろい。
きっといいひとなのだろう。

『ブルース・ブラザーズ』につかわれた曲は、
どれもわたしがすきな曲なので、車のなかでたのしくきいた。
それまでわたしは、ラジオ番組に
リクエストをだすひとの気がしれなかった。
そんな手間があれば、自分ひとりできいてたらいいのに。
でも、こうしておもいいれのある曲をラジオできくと、
ひとりですきな曲をたのしむのとは ちがったよさがたしかにある。
『ブルース・ブラザーズ』の曲は、
家にかえれば、いや、かえるまでもなく、
ユーチューブやiPodでいくらでもきけるのに、
ラジオだと、ついきき耳をたててしまうのはなぜだろう。
もちろん気にいった曲にかぎるわけで、
わたしの場合、演歌や邦楽がながれると、番組をかえる。

ラジオからながれる音楽は、個人できく曲とはべつものだ。
だからいつまでもラジオ番組では音楽がかかるし、
リクエストは人気のあるコーナーとしてなくならない。
ラジオと音楽の相性はばつぐんで、
というよりも、音楽をきくためにラジオ番組はあるのかもしれない。
ラジオで音楽をながすのをおもいついたひとは
すごいくみあわせに興奮したのではないか。
仕事をしながら、だれかといっしょにラジオをきいてもいいし、
ひとりでも もちろんたのしめる。
いまさらながら、ラジオの魅力におどろいている。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

『甘いお菓子は食べません』(田中兆子)女性が自信をとりもどしていくものがたり

『甘いお菓子は食べません』(田中兆子・新潮文庫)

6編からなる短篇集で、登場人物が
すこしずつかさなっての連作となっている。
「結婚について私たちが語ること、語らないこと」
がおもしろかった。

タイトルどおり、結婚をめぐる女性たちの心理がえがかれている。
ベシ子(41歳)・のんちゃん(25歳)・あやっぴ(34歳)は、
おなじゴルフ場ではたらくキャディー仲間だ。
生まれてはじめてプロポーズされたと、
3人であつまったのみ会で、ベシ子が報告する。
3人のうち、のんちゃんだけは20歳年上の会社社長と結婚しており、
ベシ子とあやっぴは、それぞれの理由から結婚をねがっている。
のんちゃんは、貧乏なくらしからぬけだすために、
愛や外見よりも、お金をもたらしてくれる男性をえらんだ。
結婚は金だと、玉の輿にのった自分を肯定している。
あやっぴは、そこそこの外見なのに、
なかなか結婚できず、あせっている。
ベシ子の本心をいえば、
どうしても、なにがなんでも結婚したいわけではない。
ただ、容姿のすぐれない自分を、
えらんだくれたる男性がいたという事実で生きやすくなる。
 ガリガリ君(ベシ子にプロポーズした男性)はなぜか一目見たときから私のことを気に入っていて、それがずっと私の自信になっていたのだ。私にとっては、結婚相手が金持ちとか才能があるとかハンサムとかいうことよりも、私のことが好きで、心から私との結婚を求めているかがはるかに重要だったのだ。

あやっぴは、そこそこの男性と、恋愛したうえで結婚したい。
34歳という年齢から、あせっているものの、
なりふりかまわず婚活にうごく自分はゆるせない。
3人がのぞむ結婚はさまざまながら、
結婚は彼女たちに自信をあたえてくれる。

すこしまえによんだ『セクシー田中さん』
(葦原妃名子・小学館)は、
40歳の田中さんがベリーダンスをならい、
すこしずつ自信をとりもどしていくマンガだった。
56歳のわたしからすると、
40なんてまだまだじゅうぶんわかくおもえるけど、
女性にとっての40歳は、かなり深刻な年齢らしい。

こうした本は、女性たちが結婚と恋愛になにをもとめているのか、
わたしにもわかるようにおしえてくれる。
口にだすことばだけでなく、
かたらなかったことのなかに、彼女たちの本心がかくされている。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする