2018年08月31日

いい関係をたもつには、わらいが必要(それにシャンパンと)

「世界ふれあい街歩き」のアンコール編で、
アメリカの西海岸の町をあるいていた。
いいかんじの家が林のなかにみえるので たずねていくと、
仲間があつまって 休日をたのしんでいる。
家からみわたす景色がうつくしく、
仲間どうしでおしゃべりにくつろぎながらシャンパンをのむ。
ナレーターが「いいですねー」と感想をもらすと、
そのなかのひとりが、
「いい関係をたもつには、わらいが必要、
 それにシャンパンと」といっていた。

シャンパンはともかく、たしかに笑顔のちからはおおきい。
笑顔になれば、なんでもないおしゃべりがはずんでくる。
番組のカメラがとらえる彼らは、
おしゃべりをまじえて しずかにほほえんでいる。
ふざけあっておおさわぎしているわけではない。
笑顔と、ちょっとした料理があれば、それでじゅんぶんみたいだ。
わたしがみても、極上の時間をすごしているのがわかった。

家族や友人たちと、なんとなくいい時間をすごすしあわせを、
デンマークでは「ヒュッゲ」とよんで大切にしているそうだ。
わたしもそんなあつまりに参加してみたいけど、
どこで、だれとすごすのかがイメージしにくい。
日本人は、こんなふうになんとなくあつまって
どうでもいいはなしをたのしむのがにが手なのではないか。
レストランや居酒屋ではなく、
おたがいの家や、第3のスペースですごす日常のひととき。
そんなぜいたくな時間は、
職場へかよいながらだと、なかなかのぞめない。
夏目漱石の小説には、ぶらりとあそびにきて、そのままながいこと
どうでもよさそうなはなしをする場面がよくでてくる。
現代にいきるわれわれは、いそがしすぎて、
目的もなくあつまる時間がないのだろうか。
でも、退職して、時間に余裕ができても、
だれもがじゅうじつした時間をおくれるわけではない。
いそがしい、はいいわけにすぎず、
けっきょく仕事以外のすごしかたがうまくない。
いまのうちに、仕事をはなれた人間関係を大切にしておかなければ。
といいながら、わたしは地区でのデビューに失敗した
(役員を最低限の2年だけでやめている)。
のこるはレース関係の人脈だけがたよりだ。
仕事へかたむける時間は極力へらし、
わたしなりの「ヒュッゲ」をとりいれていきたい。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月30日

家のコタツで子ネコをうんだネコ

職場でお世話になっているひとの家に、
お母さんネコと子ネコがやってきた。
帰省ちゅうだった妹さんがごはんをあげると、
子ネコはだんだんなれてきたという。
そろそろ家へもどらないといけない、というときに、
妹さんは子ネコを病院へつれていき、
予防注射やシャンプーなど、1万円以上かけて
きれいにしてあげたそうだ。
そうやって、せっかく生きるベースができそうだったのに、
お母さんネコが人間のちょっかいをきらい、
子ニャンコをつれ どこかへひっこしてしまった。
せっかくお金をかけて きれいになったのに。

そういえば、わたしの家を、出産の場にえらんだ母親ネコがいた。
それまでごはんをあげたこともない のらネコなのに、
部屋においてあるコタツのなかが気にいって、2匹の子をうんだ。
ひとけのないものおきなどで出産するならわかるけど、
しらない部屋にはいってきて、
コタツのなかを出産の場にきめるなんて、
いったいなにをかんがえているのだ。
安全だとおもってコタツのなかをえらんだのに、
やがてべつののらネコが子ネコをねらい、部屋にはいるようになり、
危険をかんじた母親ニャンコは、子ネコの頭をくわえて、
となりの部屋にあるコタツへひっこした。

わたしの家を、ここなら大丈夫、
とおもってくれたのはありがたいけど、
しらない家を出産の場にえらぶなんて、
ずいぶん大胆な判断におもえる。
それに、のらネコが子ネコをねらうというのも、
まるで野生でくらす動物たちみたいな、弱肉強食の世界だ。
出産は、そして生まれたばかりの子ネコをかかえたくらしは、
母親ネコにとって それだけ危険にみちた時期なのだろう。
いっぽうの 子ネコをねらうのらネコには、
出産が すなわちごちそうを意味するにおいとなる。
だからこそ、母親ネコは安全をもとめ、わたしの家をえらんだ。
それにしても、のらネコがなん匹も わたしの家をではいりするなんて、
むかしは うじゃうじゃと、たくさんの のらネコがいたのだろうか。

わたしの家で生まれた2匹の子ネコが、
そのあとどうなったのか、おぼえていない。
おぼえていないくらいだから、きっとすぐにでていったのだろう。
とおいむかしの かすかな記憶として、
コタツのなかで2匹の子ネコが生まれたと、
それだけが かろうじてひっかかっている。
いざとなったら、ひとの家にはいって 子どもをうむ、
母親ネコの大胆さがつよく印象にのこった。
しらない家を出産の場にえらんだ
母親ネコならではの直感がすばらしい。
人間の世話になろうとはすこしもおもわず、
ただ場所だけを利用するなんて、すごくクール。
こうした体験がかさなり、わたしのなかで無意識のうちに、
すこしずつネコの世界をひろげていったのだろう。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月29日

ホットコーヒーにつけるフタの穴からコーヒーがのめるか

コンビニでかうホットコーヒーは、
フタをつけたほうがもちはこびしやすい。
でも、そのフタに穴があるのはなんでだ。
一般的にはまずつかわないけど、
なにかの非常手段として、そこからコーヒーをのむこともできる、
くらいの、ほとんど意味のない穴だとおもっていた。
あんなところからコーヒーをすすったとしても、
おいしくないにきまっている。

なにかの映画で(たぶん『セブン』)、ブラッド=ピッドが
あの穴からコーヒーをのんでいた。
その場面をみて、あの穴を、
本気でつかうひとがいるのを はじめてしる。
とはいえ、さすがのブラピがやっても、
快適にはみえないコーヒーの のみ方だった。

デイリーポータルZに、
「あのフタ付きのカップからコーヒーをのむ特訓」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/180828203794_1.htm
フタつきのままのむと、スマートにみえるので、
ぜひやってみたいというライターのトルーさんが、
いくつもの方法をためしている。
舌をまいたり、氷を口にふくんだり、
8つの方法が採用されていた。
でも、どれもおいしくのんでいるようにはみえない。
なんにんかの挑戦者は、このような訓練をへて、
フタの穴からのめるようになるかもしれないけど、
かなり上級者むけの 特殊なのみ方なのではないか。
アメリカでは、移動ちゅうにコーヒーをのむのが一般的で、
そのためにはフタの穴が必要なのかもしれない。
できれば、コーヒーくらいゆっくりのみたい。
フタについた穴なんかからすすりたくない。

アイスコーヒーは、もちろん穴からストローをさしてのむ。
ホットコーヒーとちがい、この場合は、フタについた穴が便利だ。
このストローが、このごろやりだまにあがっている。
いちどつかっただけですててしまうプラスチック製品の利用を
みなおそうといううごきらしい。
やらないよりはマシかもしれないけど、
ほかに大量のプラスチックをすてておきながら、
ストローをやめてもたいして効果があるようにはおもえない。
プラスチックのストローのかわりに、
紙でつくったストローをつかうという。

ストローは、直訳すれば麦のワラだ。
わたしが尊敬する福岡正信さんの自然農法は、
『わら一本の革命』としてひろくしられるている。
田んぼに肥料をいれず、そのかわりに
稲の収穫でうまれたわらを ぜんぶ田んぼにかえす。
肥料や農薬にたよらなくても、土をたがやさず、雑草をとらなくても
稲はじゅうぶんにそだつというのが福岡さんの自然農法だ。
なぜなら自然にはえている草や木は、
肥料をあたえなくてもそだっているから。
ファーストフード店のストローから革命がおこれば、
ほんとうの「わら一本の革命」になる。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月28日

死ぬのはこわいけど

死ぬのはたしかにこわいけど、
死なないまでもひどい状態、
たとえば自分ではすべての判断をあらわせなくなり、
管につながれたまま死ぬまですごさなければならない、とか、
ひどいいたみに ずっとなやまされたり、
お金がとぼしい状況で、病気と借金をかかえながら生きるとか、
トホホな姿の自分を想像すると、
生きるよりも死んだほうが楽におもえる。
死ぬのはこわいけど、ひどい状態で生きるよりましかもしれない。
できるだけじゅうじつした医療をもとめ、
すこしでもながいきするのが ひとのつとめ、
というかんがえ方もあるかもしれないけど、
もっとおだやかに死をむかえられる
こころのもち方をわたしはねがう。

じっさいに深刻な病気をわずらい、死を宣告されたら
こんなにすましたことはいっておれないかもしれないけど、
週刊誌のみだしなどが、ながいきや健康をとりあげ、
そのままでは はやく死ぬよと おどかすのをみると、
なぜそんなにながいきしたいのか不思議になる。
老人になっても健康なままくらせるかどうかはわからない。
可能性からいえば、マヒをかかえたり、
医療費や生活費のやりくりにこまる老後がまっているかもしれない。
ながいきだけでなく、すんなり死をうけいれられるかんがえ方を
おしえてくれたらいいのにとおもう。

中年になったわたしは、あちこちに故障をかかえはじめた。
これが老人となれば、もっと深刻な事態が いくらでもおこりえる。
そんな目にあうなら、ながいきするより、
そこそこの時期に死ねたらいい。
こんなかんがえになったのも、自分が歳をとったからで、
わかいころは死なんて リアルにはかんがえたことがなかった。
もうそろそろ死んでも、とおもえるのは、
歳をとり、死への準備ができつつあるのかもしれない。

死ぬのがこわいのは、だれでも死ぬのははじめてであり、
なにがまっているかわからないからだ。
それに、この世から自分がいなくなる恐怖。
でも、ひどい状態で生きつづけるよりも、
死ぬときがきたら あっさり死をうけいれられたほうが
おだやかな気もちですごせそうだ。
ながいきしなければ、老後はもっとシンプルになる。

動物たちは、死ぬまで生きようとする。
生きるのが自分のやくわりだからだ。
自分では死なないけれど、
死がやってくればすんなりうけいれる。
人間がながいきにこだわるのと ずいぶんちがう。
ひとが生に執着するのは、そんなにむかしからではなく、
あんがいあたらしいかんが方かもしれない。
ひとのいのちが、あまりかるい時代はいやだけど、
現代のながいき願望もまた、極端にむかいすぎている。

posted by カルピス at 22:16 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月27日

けっこうゆるそうなアジア大会

アジア大会の女子1万メートルをみていたら、
なにかトラブルがあって、なかなかレースがスタートしない。
どうやら、11人しか出場しない決勝に、12人目の選手がはいり、
スタートラインについていたようだ。
この選手は、5000メートルに出場する選手なのに、
なんで自分がはじかれたのか、いつまでもとまどっていた。
さらに、スリランカの選手がつけていた、
背中と胸のゼッケンがちがっていたようだ。
ただしいナンバーは胸のほうだったので、
役員が背中のゼッケンをはずした。
まちがえていた選手は、ぜんぜんわるぶれず、
堂々とはずしてもらっていたのに感心した。
日本人にはできそうにない、つよ気の対応がおもしろかった。

レースがはじまると、はじめは1キロを3分15秒くらいの
ゆっくりなペースで、日本の堀選手が先頭にたっていたけど、
ほかの選手がスピードをあげるとついていけなくなった。
そこらへんのかけひきが、しとうとがみてもわかるような
生なましさがあり、おもしろくみれた。
国際大会で、ほかの選手がスタートラインにたったり、
ゼッケンをまちがえてはりつけたりするゆるさは好感がもてる。
ようは、本番にしっかりちからをだせばいいわけで、
とおもっていたら、ゼッケンをまちがえていたスリランカの選手は
途中のはやい段階で棄権した。
意識のうえでも、コンディションづくりのうえでも、
まちがって参加したひとなのかもしれない。

もうひとつ、こんどはほんとうに感心したプレーで、
女子サッカーの対北朝鮮戦をみていたら、
菅澤選手がキープし、長谷川選手へボールをだすと、
長谷川選手はきれいに胸トラップし、
そのままダイレクトのボレーシュートをはなつ。
ゴールキーパーの手のうえを、
山なりにこえるみごとなループシュートで、
練習でもなかなかできそうにない
イニエスタ選手クラスのシュートを、
長谷川選手はかんたんそうに成功させている。
長谷川選手は、いつもこんなふうにきめてます、
みたいな顔で、その後も淡々とプレーしていた。

これはかなりくるしまぎれだけど、
アジアといえばトゥクトゥクで、
タイをはじめとして、いろんな国で
いろんなタイプの車がはしっている。
アジア大会がひらかれているジャカルタでも
きっとトゥクトゥク的なのりものが
町のひとや、観光客の足となっていることだろう。
きのうは、そのトゥクトゥクが、
わたしがすむ町を、あたりまえにはしっていたのでおどろいた。
道路がひろがったのをおいわいし、
なにかのイベントがひらかれていたようで、
3台のトゥクトゥク的な車がお客をのせて
観光名所を何周もしている。
タクシーがわりというのではなく、
あらかじめ、きめられたコースをはしっていたようだ。
なかの1台は、ほんもののタイ製で、
みごとにトゥクトゥクのデザインだったし、
うしろには「タイランド」と英語でかいてあった。
日本でも、トゥクトゥクがそこらじゅうをはしるようになれば、
町の景色はずいぶんちがってくるだろう。
松江市が、トゥクトゥクのはしる町としてうりだせばおもしろい。
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posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月26日

ココを2どめの予防注射へ

ココを主治医の獣医さんへつれていく。
2どめの予防注射のためで、生まれてから3カ月のときに1どめ、
それから3週間以上あけて2どめの注射をするのがお約束だ。
1どめは、7月の上旬だったので、それから6週間がたった。
体重は、2キロから3.5キロへと、1.5キロもふえている。
たった6週間でこんなにおおきくなるなんて。

すこしまえの記事に、ココはココなのだから、
まえにいっしょにくらしたピピといっしょにしないで、
べつの個性をもったネコとしてつきあわなくては、とかいた。
まえは、ピピにしていたようなかかえ方で
無理やり 赤ちゃんだっこをしていたけど、
どうもココはそうしただきかたがあまりすきではない。
赤ちゃんだっこ、つまり、あおむけにだきかかえると、
すぐにからだをよじってぬけだそうとする。
ネコとして、ふつうの反応だろう。
おなかをさらけだして だかれるほうがおかしい。
まだ子どもなので、ココは手のひらをみると、
なでてもらうより、ガブッとかじってあそびたくなるようだ。
両脇をかかえてほっぺたをスリスリするのは大丈夫で、
はなしかけながらほっぺをつよくくっつけると、
ノドをならしてうけいれてくれる。
しずかによこたわっているときは、からだをなでさせてくれる。
目をほそめ、ノドをならすココはすごくかわいい。
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ココは、ネコとしては鼻がたかく、
キツネ顔といっていいかもしれない。
かわいい子ネコから、大人の顔つきになってきた。
ちょうどデイリーポータルZに、
「キツネをつまんでみた」はなしがのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/180824203764_1.htm
群でいるキツネをみたのは はじめてだ。
けなみはともかくとして、顔つきは、すごくかわいい。
ココも、ゆくゆくはあんなふうにとんがった鼻になるかもしれない。

網戸のむかいにあるブロック塀を、
ときどきのらネコがとおり、ココとにらめっこになる。
おたがいに、あいてを不思議そうにみている。
うちのコも、よそのコも、みんな気になる、という
「ドコノコ」の思想によれば、とおりすがりの のらネコにも
やさしくしなければならないのだろうけど、
いまはただしずかにみまもっているだけだ。
必要があれば、手だすけをしようと こころの準備をしている。

posted by カルピス at 21:11 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月25日

4年目のことしも稲づくりに失敗

田んぼの草かりをする。
7アールほどの田んぼなので、1時間ほどあれば、
アゼや道ばたを、ひととおりすっきりできる。
自然農法をこころざすわたしとしては、
草かりなんて できればしたくないけど、
ひとにかりている田んぼなので、
あるていどきれいにたもたなければならない。

田んぼのまわりはきれいになった。
でも、田んぼのなかには草がおいしげっている。
稲の穂はみあたらない。
6月に、稲らしい草がたくさんはえているのでよろこんだけど、
けっきょく雑草だったようだ。
ことしもまた、稲づくりは失敗だった。
1年目に18キロとれたので、これからなれるにしたがって
どんどん収穫がふえるだろうとおもっていたのに、
2年目がゼロ、3年目が900グラムで、
4年目のことしはまたゼロとなった。
種もみを農協からかい、きょねんとれた稲もそれにあわせたので、
じゅうぶんな量の種がまかれているはずなのに、
ぜんぜん稲がそだたないのはなんでだ。
自然農法なので、土をたがやさず、肥料もやらないとはいえ、
収穫がゼロというのはひどい。
ことしは、種もみをまくのをいつもより2週間はやくしてみたけど、
発芽には関係なかったみたいだ。
このままおなじことをつづけても、
らいねんもおなじ結果におわりそうだ。
これからどうしたものだろう。
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かえりに、すこしはなれたところにある畑にもよってみた。
いまはサツマイモとモロヘイヤしかうわっていない。
1カ月くらい雨がふらなかったので、サツマイモはくるしそうだ。
草もたいしてはえてないけど、
サツマイモだってあまりそだっていない。
まわりの畑では、それなりにサツマイモの葉がおいしげっている。
「自然農法なので」といえば、手をぬいてもいいわけがたつため、
どうしてもわたしの野菜づくりはテキトーになりがちだ。
でも、収穫がないのは、ぜんぜんたのしくない。
わたしがつとめる介護事業所でも畑をかりて野菜をつくっているけど、
肥料をやるせいか、りっぱなスイカやトマトがそだっている。
おもしろさを味わうためには、あるていどのみのりがほしい。
いつもは枝豆だけはたくさんできていたのに、
ことしはあまりそだたなくて、
しりあいにわけたら おおかたなくなってしまった。

田んぼも畑も、収穫がないとわかっていながら、
草かりだけはかならずはいらなければならない。
いつもながら むなしさをかんじつつ、夏の草かりをおえる。

posted by カルピス at 17:20 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月24日

大北重人さんによるダジャレのあたらしい概念

デイリーポータルZで大北重人さんが、
ダジャレのあたらしい概念を提案している。
「音ではなくサイズによる新しいタイプのダジャレ」
http://portal.nifty.com/kiji/180820203738_1.htm
ダジャレのおもしろさってなんだろう。「同じ音でちがう意味」それがダジャレのおもしろさなら「同じサイズでちがう意味」もダジャレになるのではないか。
ものの形はさまざまなので今回は円形に絞った。

ようするに、町でみかけるいろいろな「円」に、
用意してきたまるいものをかぶせてみて、
それがおなじおおきさだったら、それは「ダジャレ」なのだ。
まずルールを決める。これから円形のものを探して持参したものに置き換える。そしてダジャレであるのでうまくいったらドヤ顔をしようということになった。「円形のものを探す→置き換える→ドヤ顔」を繰り返す。

新宿駅の壁にはってあった消防隊のマークに
6pチーズの箱をかぶせてみると、ぴったりおさまった。
すかさず大北さんはドヤ顔してみせる。
ぴったりだろうと思ってるものがぴったりだった。これを「当たり前だ」ととるか「すごいぞ」ととるかで人は分かれるだろう。
「当たり前だ」と思う人は素晴らしい知性の持ち主だ、今からでも東大を目指してほしい。「すごいぞ」と思う人は心優しい仲間だ。この夏は地面を掘ってブラジルに行こう。

家で食器をあらっているとき、ながしの排水口に、
すっぽりタッパーのふたがおさまったりするので、
こうしたサイズには、なにか
かくれた法則が存在するのかもしれない。

そして、都営地下鉄のマークは、
新宿中村屋のどら焼きがすっぽりおさまった。
そのご、いくつもの「ピッタリ」がみつかる。
・都営大江戸線のマークとシーチキンマイルド
・火災報知器とちょっとおおきめのメロンパン
・終日禁煙のマークともちかえりコーヒーのフタ
だじゃれが成立したのだから、おもしろいはずなのに、
現実にはなんだか やるせなさがつのる。
「いまとなってはだからどうしたんだとくじけそうになる」
がせつない。
ついには、「タッチでおトク」のマークに
森永のムーンライトクッキーが
わずかにちいさくて、マークがはみでているのを、
「これは日食ではないか!」と
それまでのピッタリ路線をかなぐりすてて、
おきてやぶりの強引さでおしまくる。

さいごには、ミスタードーナツのハニーディップと、
ビッグプッチンプリンがだじゃれであり、
さらにはプリマハムもそのうえにきれいにおさまった。
「これが私達の考える新しいダジャレである。
韻を踏んでいるといってもいい」

いくつもの「あたらしいダジャレ」を発見しながら、
どうしても「だからどうしたんだ」からぬけきれなかった大北さん。
サイズがおなじものをあつめるだけでなく、
それを「ダジャレ」と喝破しようとした
大北さんのするどい感性をたたえたい。
ダジャレは、こんなにも自由なのだ。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

「なまけてずるい」と「やすんでもいいよ」のあいだ

2週つづけて朝日新聞の土曜日版beがやすみだった。
1面の目次みたいなところに
「別刷りbeは休みました」と
そっけなくふれられている。
1週だけならまだしも、2週づづけてやすむとは、
朝日新聞の夏やすみは手あつく保証されているようだ。
新聞は、月にいちど、休刊日があるし、
別刷りbeはけっこうたやすくおやすみになる。
いろんな事情があるのだろうけど、
「休みました」でやすめるのだから、
新聞なんて 気らくな商売におもえる。
「休みます」ではなく「休みました」と
事後報告でいいのだからずいぶんゆるい。

あたたかい目でみようとすれば、
仕事なんてそれぐらい気らくにやればいい、ともいえる。
はたらき方改革なんてりきまなくても、
やすみたいときは、まわりのことをかんがえず、
あっさりやすんでしまえばいい。
クオリティーペーパーのイメージがある朝日新聞でさえ、
事後報告の「休みました」ですむのだから、
一般市民のわたしたちが、
体調がわるいときなどに、無理して職場へいかなくても大丈夫だ。

わたしがすきなラジオ番組「ラジオマンジャック」も、
たまたま「別刷りbe」とおなじ週、
つまり、2週つづけておやすみだった。
NHK-FM全体としての判断であり、
もちろん番組スタッフに責任はない。
ないけれど、「ラジオマンジャック」が
2週つづけてやすむというと、そのいいかげんさに
かえって好感をもったりするから不思議だ。
番組をきけないのは残念だけど、
あのひとたちがやすむというのだから、しょーがないな、
で すんでしまうところがある。
番組のゆるい雰囲気がうみだす いわば人徳だ。
「別刷りbe」は、日ごろおりこーちゃんぶっているために、
やすむと手をぬかれたような気がして 悪態をつきたくなる。
たいしておもしろくない紙面なのに、
いっちょまえに楽したがってずるい、みたいな。
これもまた、朝日新聞がせおっている負の財産だろうか。

posted by カルピス at 21:08 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月22日

質問されるのがにが手

質問されることにたいして にが手意識がある。
このまえ「すきなたべものを3つあげて」と
なにげなくたずねられただけでつまずいてしまった。
これくらい こたえるのがかんたんそうな質問でも
わたしはかんがえこんでしまう。
ハンバーグやステーキがすきだけど、
サンマの塩やきだって、イワシの煮つけだっておいしいし、
ラーメンもいいけどスパゲッティもすてがたい、とか、
いつまでもベスト3がまとまらない。
2択とか、3択だったらなやまない。
すべての候補から3つ、がだめだ。

すきな曲、いってみたい国、すきな本、すきな作家。
質問されそうなことはいくらでもあり、
そのすべてがきちっときまっているひとは、
いつも自分がやりたいことについて、
優先順位や方針がさだまっていそうだ。
わたしの場合、ああでもない こうでもないと、
まよったり なやんだりするのを、
たのしんでいるところもある。
仕事をしていても、なにか判断が必要なとき、
「ちょっとまってね」と、しばらくかんがえないときめられない。
こういう職員は、おおくの場合つかいものにならないけど、
だからといって人間性におとるわけではないので、
すえながく職場においといてほしい。

質問にすぐこたえられるひとは、
頭のなかが整理されているというよりも、
いっていの訓練をつんだ結果ではないか。
就職試験にむけて、面接の練習をつんだ大学生は、
きっとなにがしかのコツをつかむのではないか。
とはいえ、そうやってすんなりこたえるひとが、
きいているひとのこころをとらえるかというと、
それはまたべつの問題となる。

わたしがすぐにこたえられる質問に、
「きらいなこと3つ」がある。
・質問されること
・行列にならぶこと
・おもたい荷物をもつこと
すぐにこたえられるよう、いつも準備しているのに、
これまでにいちどもこの質問をされたことがない。

ベスト3でなくても こたえがむつかしい質問もある。
あなたのしあわせとは?とたずねられたら、
なんとこたえたらいいのか。
自分のしあわせすら、すぐにはこたえられない。
やはり質問は、たとえどんな種類でも、こたえるのがやっかいだ。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月21日

祝 糸井家にブイコちゃんがきた

ほぼ日の「今日のダーリン」に、
糸井重里さんが、犬をむかいいれたはなしをかいている。
ブイヨンは、3月21日に空へ旅立っているのですが、
昨日の夕方、年の離れた妹分がうちに来たのです。
名前はブイヨン(Bouillon)のブイを受け継いで、
「ブイコ(Bouico)」といいます。

糸井さんちに、ブイコちゃんがきて、ほんとうによかった。
犬なしのくらしが、よほどさみしかったのだろう。
わたしも、ピピが亡くなってから、1カ月半ほどで、
子ネコのココといっしょにくらすことにした。
おなじような時期に愛するブイヨンをうしない、
おなじような時期に、また犬とのくらしをはじめた
糸井さんの決心を かげながらうれしくおもう。
めぐりあわせとはいえ、わたしは そばにネコがいる生活を
無意識のうちに もとめていた。
糸井さんも、偶然がかさなったのかもしれないけど、
犬がいるくらしのよろこびを わすれられなかったのだろう。
で、経験豊かなブリーダーさんのところで、
姉妹たちと100日も遊んでから、うちにやってきた、と。

うちにきたココは、おそらく1カ月ほどで
親・兄弟とわかれ(はなされ)、のらネコとなった。
じゅうぶんな親の愛をうけそこね、兄弟とあそびきらなかったツケが、
なんらかの形でココの性格に影響をあたえているはずだ。
100日も、しっかり姉妹たちとあそんだブイコちゃんは、
きっと とびきりのいい子にちがいない。

このごろすこし気になるのは、
わたしがまえにいたピピのおもかげを、
どうしてもココにもとめがちな点だ。
かわいいねー、といいながら、
どこかでココにピピの姿をかさねている。
あたりまえながら、ココはココであり、
ピピとは関係なしに生きている。
ピピとおなじ反応をしないからといって残念がるのは、
わたしの身がってでしかない。
ココはココらしく、めちゃくちゃはでにあそびまくり、
うんといたずらをして、ピピとはちがうネコであることを主張する。
ピピではなく、ココとしてかわいがらなければ。

posted by カルピス at 19:24 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月20日

『夜のくもざる』(村上春樹)紹介できないおもしろさ

ブックオフで『村上ラヂオ3』と『夜のくもざる』をかう。
2冊とも村上春樹さんの本で、どちらもすでによんでるような、
まだのような、記憶があいまいだ。
とくに『村上ラヂオ3』は、これくらいのエッセイなら、
わざわざかうまでもないかと、図書館ですませたような気がする。

『村上ラヂオ』は、女性誌の「アンナン」に連載されており、
あたりさわりのない話題がおおい。
好感がもてるおじさんとして、女性の読者を獲得するのではないか。
むかしのエッセイは、かなりとんがった内容のときもあり、
それはそれでたのしめたけど、
『村上ラヂオ』がものたりない、というわけでもない。

『夜のくもざる』も、よんだような、
まだよんでないような、記憶があいまいだ。
この本は、奇書といってよく、
すごくおもしろいけど、そのおもしろさは
どうやってもひとにつたえられないたぐいのものだ。
とくに気にいったはなしを、
できれば要約して紹介したいけど、すぐにあきらめる。
まるごとぜんぶをよまないと、魅力がつたわらない。
ことばをさがしても、なぜおもしろいのかは、説明できない。
よんでみて、どんな感想をもつか、ためしてみるしかない。
いったい村上さんはどうやってこれらの「超短編」を
おもいついたのだろう。
この本をおもしろいとおもうか、
いったいなんでこんな役にたたない本をかいたのか、
と とまどうのかは、かなりふかいところで
村上作品へのこのみを決定づけるようにおもう。
たとえ村上さんのファンであっても、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や
『ノルウェイの森』がすき、というだけでは、
同士として腹をわってはなせるかが まだわからない。
『夜のくもざる』がすきなひとだったら、まず大丈夫だ。

わたしのしるかぎり、村上さんはこのタイプの奇書を
これまでに3冊かいている。
・『夢で会いましょう』(1981年・糸井重里との共著)
・『夜のくもざる』(1995年・絵:安西水丸)
・『村上かるた うさぎおいしーフランス人』(2007年・絵:安西水丸)
4冊目となる不思議な本が出版されてもおかしくない時期となった。
長編大作をかくあいまの息ぬきとして、『夜のくもざる』のように、
まったくなんの役にもたたない本をかいてくれたらうれしい。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月19日

ヨシダプロ氏の大胆なこころみ「全国をチーバ君に」に共感する

今年の夏は暑すぎて、気温図でも日本中が高温で真っ赤になっている。そこで、いっそのこと日本全国を、赤くておなじみのチーバ君にしてみたいと思う。

デイリーポータルZに、ヨシダプロ氏の記事がのった。
あまりにもあついので、47都道府県すべてをチーバ君にするという。
http://portal.nifty.com/kiji/180817203714_1.htm
チーバ君って、よくしらなかったけど、
千葉県のゆるキャラなのだそうだ。
よこからチーバ君をみると、千葉県の形をしているらしい。
そして色は赤。
天気予報で高温をあらわすのが赤なので、
ことしのあつすぎる夏にひっぱられ、
赤がおなじみの色になった。
ヨシダプロ氏は、赤い紙を都道府県の形にきりぬき、
そのすべてにチーバ君の顔をかいた。
それぞれの県が、形だけはまもられているものの、
本来のチーバ君のようなかわいらしい表情ではなく、
トホホな顔をかきこまれている。
いったいこの「全国をチーバ君に」が、
どんな意味をもつのかわからないけど、
そこがヨシダプロ氏の真骨頂なので、
あたたかくみまもりながら記事をよみすすめる。
北からたくさんの県をへて、だんだんと、
わたしがすむ島根県にちかづいてくる。ドキドキ。

日本地図のなかにおとしこまれた県の場所は、
おおざっぱながら なんとなく把握しているけど、
こうしてひとつの県ごとにきりぬかれると、
それがどこの県なのか さっぱりわからない。
わたしのすむ島根県ですら、
みたことのない形におもえるのだから、
この「全国をチーバ君に」のとりくみは、
あんがい おおくのひとにとって、
おもわぬ盲点をつかれた気にさせるのではないか。
たとえば鳥取県についてのコメントは、
トットーリ君。イタリアのサッカー選手のよう。

とあり、その形のどこが「イタリアのサッカー選手」なのか
わたしにはさっぱりわからない。
037.jpg
そしてわたしがすむ島根県。
038.jpg
島根って、こんな形だったっけ?
シマーネ君。これを機に覚えた。

というコメントに、わたしでも納得するほどみたことのない形だ。
都道府県をくみたてるジグソーパズルはよくありそうだけど、
こうやって県ごとにきりぬかれた形をみると、
どこの県なのかさっぱりわからない。

さいごにヨシダプロ氏が、
47つの都道府県を合体させようとすると・・・、
ものすごくめんどくさい作業になっている。
客観的にみれば、47個の都道府県が、
ただトホホ顔をしているだけなので、
いったいこのどこが「全国をチーバ君」なのか
理解にくるしむところだ。
そんな結末を承知のうえで、
あえてとりくんだヨシダプロ氏のこころみに
おおきな拍手をおくりたい。
ことしの酷暑を象徴する記事としておぼえておこう。

ちなみに、この記事は、ヨシダプロ氏がかいているのに、
柴犬のももちゃんがいちども登場しなかった。
あつさのなか、ももちゃんは大丈夫なのか、すこし気になる。

posted by カルピス at 18:19 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月18日

アレサ=フランクリンさん死去

今朝の新聞にアレサ=フランクリンさんの死去がほうじられていた。
「ブルース・ブラザース」で彼女は、ジョリエット兄弟が
バンドのメンバーあつめにおとずれる、
安食堂の女主人をえんじている。
こんな奥さんがいたらたいへんだろうな、
とおもわずにおれないアクのつよさと、
でも、そうやって彼女の尻にしかれる人生も、
あんがい わるくないのかも、という不思議な味をだしている。
はじめてこの作品をみたときは、有名なシンガーだとしらなかった。
アレサが店で「think」をうたう場面で、
ジェイクたちは、ただみまもるしかすべがない。
圧倒的な存在感で「わたしをすてるなんて」と 男たちに圧力をかける。
「think」って、文字どおり
「よくかんがえな!」という意味なのだろうか。
さほどよくかんがえたようにはみえないダンナのマーフィーは、
彼女をすててジェイクたちのバンドに参加していく。
男たちはいつもうわついていて、女はしっかりと現実をみつめている。

「ブルースブラザース2000」にも、
アレサ=フランクリンさんは出演している。
このときは、オーティス=レディングの曲をカバーした
「Respect」をうたっている。
前作から18年たつあいだに、ずいぶん肉がついてしまった。
ますます「いっしょにいたらたまらない奥さん」だ。
と、これは彼女の存在感から わたしがかってに想像したことで、
じっさいの彼女は、きっと愛情ぶかいすてきな女性なのだろう。
彼女のうたごえがなければ、「ブルース・ブラザース」は
ずいぶんちがった作品になっていた。
ごめいふくをおいのりする。

posted by カルピス at 21:32 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月17日

『Scrapbox 情報整理術』(倉下忠憲)

『Scrapbox 情報整理術』(倉下忠憲・C&R研究所)

税べつ2130円と、なかなかの値段だけど、
これまでとはちがう情報整理をおしえてくれそうだ。
なんとかものにしたい。
倉下さんの本により、わたしはエバーノートをつかうようになった。
Scrapboxでも、わたしの手だすけをしてくれますように。

いちど、さらっとよんでみる。
おもしろそうだ。
でも、おもしろそうなのは わかっている。
おもしろそうだから(すこしたかくても)かったわけで、
このまま「おもしろそうだ」ではすまない。
こういう本は、じっさいに、
つかってみなければわからないものだ。
これまでにかいてきたブログの記事が、
関連づけられたら ずいぶん便利そうなので、
まずブログをコピペして、ページをつくっていく。
ブラケットとハッシュタグでどんどんリンクをはる。

とりあえず、30の記事を「ページ」にしてみた。
それなりに関連づけられ、おもしろさがすこしわかる。
でも、ブログの整理もわるくないけど、
scrapBoxは、文章をかきながら、アイデアを得るのが
本来のつかい方であり、
ブログにリンクをはるだけでは、
生理的な快感まではたどりつかない。
Scrapboxならではのだいご味も、まだかんじない。
それに、たった30の記事をscrapBoxにもってくるだけで
30分以上かかり、めんどくさくなってきた。
シコシコとブログの整理をつづけるエネルギーを、
このままではたもてない気がする。
ジャンルをしぼって記事をひっこしするのが 現実的かもしれない。

Scrapboxを紹介するサイトに、なにもかくことがなければ、
日記でもいいよ、みたいなことがかいてあった。
ためしに日記のブロジェクトもつくり、きょうの日記をつける。
これまで日記は、データーベースソフトの
ファイルメーカープロをつかってきた。
ただ、OSをHight Sierraにあげたら うごかなくなったので、
日記だけはOS10.8.6のiMacをつかってかいている。
あたらしくファイルメーカープロをかうと、4万円ちかくかかるので、
こまったなーとおもっていた。
日記にリンクをはるおもしろさだけでなく、
ファイルメーカーにたよらない日記帳として
Scrapboxをつかえたらうれしい。

この記事も、Scrapboxでかいてみた。
じっさいに手をうごかしてみると、ぼんやりながら
Scrapboxの特徴がみえてくる。
エバーノートも、はじめは「なんとなく」というよりも
「なんちゃって」なつかい方だった。
そのうち自分なりのつきあい方がつかめてくるだろう。
本書をかった元をとるためにも(しつこい!)、
なんとかしがみつきながら、これからもつかいつづけたい。

posted by カルピス at 21:32 | Comment(0) | 仕事術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月16日

『フューリー』

『フューリー』
(デヴィッド=エアー:監督・2014年・アメリカ)

8月15日にこの作品をみたのは、
敗戦記念日を意識したわけではなかったけど、
あとからおもえば、
これまでにみた戦争映画のなかで、戦場の生々しさが、
これほどリアルにえがかれた作品はなかった。
8月15日にふさわしい作品をえらんだといえる。

ドン(ブラッド=ピッド)はシャーマン戦車・
フューリー号の戦車隊長をつとめる。
彼の部下たちは、北アフリカ戦線から
ドンといっしょにたたかってきた歴戦の猛者で、
これまでいくつもの戦闘をくぐりぬけ、戦果をあげてきた。
そんな彼らのもとに、新兵であるノーマンが
補充兵としておくられてくる。
前任の副操縦手が、すぐれた兵士であり、
よき仲間であったことから、
乗組員たちはノーマンをすんなりうけいれられず、
つきはなした態度をとる。
「いまにわかる」
「なにが?」
「人間のむごいおこないが」

彼らがふともらしたひとことに、
戦争をつづけてきたかなしみをしらされる。
おなじドイツ人を、戦闘に協力しなかったといって、
さらし首にするドイツ兵。
白旗をふっているドイツ兵をためらわずにうちころすアメリカ兵。
ドンが親衛隊の兵士にむける憎悪は、
正義とか悪ということばでは説明できない。

たよりにならない新兵がおくられてきて、
古参兵たちから子どもあつかいされる設定は、
これまでなんども戦争映画でみてきた。
戦場のきびしさをつたえようとするときに、
わかりやすい方法なのだろう。
新兵であるノーマンの目をとおして、
ドイツ兵だけでなく、アメリカ兵の狂気にも
みる側はむきあわざるをえない。

3つの場面が印象にのこる。
フューリー号が所属する部隊は、ドイツのちいさな町を制圧し、
いっときの休息を手にいれる。
ドンとノーマンは、かくれていたドイツ人女性の家にはいりこむ。
彼女は、わかい いとこの女性をかくまっていた。
ドンは彼女たちに卵料理をつくらせ、戦場にいるのをわすれるような、
おもいがけない しずかなひとときをすごす。
ノーマンはピアノをひき、ドンはお湯で髪をあらい ヒゲをそった。
4人でテーブルをかこみ食事をはじめようとしているときに、
ほかの乗組員たちが下品さをまるだしにしてこの家にはいってきた。
ドイツ人女性を侮辱し、せっかくの優雅な食事を
だいなしにしようとする彼らにたいし、
ドンは頭ごなしにでていけとはいわない。
忍耐づよくつきあい、ゆずれない行為にはいかりをあらわすものの、
仲間である彼らを拒絶はしなかった。
これまでの戦場でつちかわれた きずなのふかさにわたしは気づく。
死をつねに身ぢかなものとしてすごすドンとその乗組員たちは、
ふかいところでおたがいをみとめあっている。

フューリー号たちの戦車隊(4輌)が、
ドイツのティーゲルI型にであったときの戦闘がすごかった。
ティーゲルの装甲はあつく頑丈で、
シャーマン戦車がうちだす弾をかんたんにはじきかえす。
反対に、ティーゲルの88ミリ砲は、シャーマン戦車を一撃で撃破した。
装甲のうすい うしろからの攻撃でしか
ティーゲル戦車に対応する方法はない。
フューリー号の乗組員たちは、
最大限にシャーマン戦車の能力をひきだし、
ギリギリのところでティーゲル戦車をしりぞける。
この戦闘で、4輌だった戦車隊は、
フューリー号1台をのこすのみとなる。
ティーゲルI型戦車のつよさは、
これまでもいろんな戦争映画に登場するけど、
この作品ほどリアルにティーゲルの恐怖をつたえる戦闘はなかった。
正面からたたかえば、かならずやられてしまう。
対応する戦車兵からすれば、まさにバケモノであり、
フューリー号が生きのこれたのは、運がよかったとしかいえない。

フューリー号1台と、ドイツ軍部隊とのたたかいが さいごの山場だ。
フューリー号をすてて、森へにげることもできた。
しかし、ドンのおもいに圧倒され、
ほかの乗組員たちもしぶしぶのこってたたかう道をえらぶ。
フューリー号にはじゅぶんな弾がのこされておらず、
手榴弾や自動小銃までも もちだし、
全総力をあげてフューリー号にたてこもる。
たたかいがつづくにつれ、乗組員はつぎつぎにころされ、
何発もの弾をうけたドンと、ノーマンだけがのこされる・・・。
はでな戦闘シーンは、戦争映画ならではの ハイライトともいえるけど、
爽快さはすこしもかんじない。
かなしみだけが胸にのこる。

posted by カルピス at 22:54 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月15日

充電できなくなり、スマホをかいかえる

スマホがこわれたり、なくなったりしたら、
みんなどうしているのだろう。
いちおう、バックアップをとっているものの、
なんだかこころもとないし、トイレにおとしたりしたら、
どうやってデーターをすくえるのか、よくわからない。
わたしなんか、ほとんどが電話としてしかつかってないので、
こわれてもたいしてこまらないけど、
いつもいじっているようなひとにとって、
スマホの故障はかなりダメージがおおきいだろう。

そんなことをおもっていたら、
わたしのスマホが充電できなくなった。
充電できたりできなかったり、不安定な時期のあとで、
なんにちかまえから、まったく充電しなくなった。
ネットをみると、よくあるトラブルみたいだ。

わたしがつかっているのはフリーテルの「雅」という機種で、
SIMフリースマホとして2年まえにかった。
そろそろこわれる時期なのかもしれない。
充電のプラグをさしこむところの故障だろうから、
そこをつけかえたらかんたんになおるだろう。
かるい気もちで電気屋さんへもっていったら、
フリーテルの機種はあつかっていないという。
フリーテルへ電話すると、修理はうけつけてないので、
あたらしい機種をかってもらうことになる、なんていう。
ずいぶんゆうずうのきかない世界だ。

けっきょく、イオンへでかけて、あたらしい機種をかった。
マイクロSIMに対応した機種は、ひとつしか店頭になく、
ふるい機種で、機能的にもおとるので
あまりおすすめできませんが、といわれる。
ふるいタイプのバイオ(「VAIO Phone VA-10J」)で、
ふるいだけに9800円(プラス税)とやすい。
どうせたいしたつかい方はしないのだから、
ふるくてやすいのが わたしとしてはありがたいぐらいだ。
すぐにその機種にきめる。

SDカードに電話番号がバックアップされていたので、
通話の登録先はすぐに同期できた。
フリーテルでつかっていたアプリをインストールして、
すぐにおなじ環境を手にできた。
画面のサイズはおなじ5インチなので、
かわったのは色が白から黒になったくらいか。

こんかいの故障で、充電できないスマホが、
いかにつかえないかよくわかった。
そんな基本的な操作ができなくなっただけで、
あたらしくかいかえしないといけないのは、ひどいはなしだ。
機能はそこそこでいいので、頑丈さをとりえにしたスマホがほしい。
まえのスマホがつかえなくなってからの5日間、
スマホがなくてもたいしてこまらなかったのは、
自慢したいようで、残念でもある。

posted by カルピス at 18:18 | Comment(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月14日

5時間で24キロのウォーキング

レース仲間とウォーキングにでかける。目標は20キロ。
車があまりとおらず、コンビニがちらほらあって、
あるいてたのしいコースをえらぶ。
ウォーキング、なんていうと、もっともらしいけど、
ようするにただひたすらあるくわけで、
2どコンビニでかいもの・休憩をしたほかは、
ほぼ5時間あるきとおした。

いっしょにあるいたつれは、
60キロのランとウォーキング、両方を経験しており、
そのときの感想では、はしるほうがつらかったという。
わたしは、旅行でのトレッキングや、
レースでの21キロは経験があるけど、
ただひたすらあるくだけの20キロは はじめてだ。
水を1.5リットル、おやつにソイジョイと
バターをたっぷりぬったサンドイッチを用意した。
2どたちよったコンビニでは、
カロリーメイトとおにぎりをかっている。

結果からいえば、5時間で24キロをあるき、
ひどいつかれもないまま 無事に出発点へもどれた。
拍子ぬけするくらい、なんとなくあるけたので、
イベントとしてとりくんだのに、すこしものたりなかった。
かんがえてみれば、レースや練習で20キロをはしっているのだから、
おなじ距離をあるけないほうがおかしい。
きょうは最高気温が36℃まであがり、
けしてあるきやすいコンディションではなかったけど、
おしゃべりしながらの24キロは、なんてことなかった。

スイムランから一週間がたち、つかれはぬけたけど、
まだはしる気にはならない。
はしるのに頭があきたのかもしれない。
よく「ラン歴10年」なんていうけど、
ラン歴でいうと、わたしは34年もはしっており、
そのわりに記録はのびないので、
何年はしっているかなんて、はずかしくてとてもいえない。
「災害級のあつさ」でもあるので、
気もちがもちなおすまで、しばらくウォーキングと、
せいぜいゆっくりの水泳だけにとどめたい。
きょうも、なんにんかのおじさんが
あついなか はしっているのをみかけた。
こっちも、あついなか、あるいているわけで、
ひとのことはいえないけど、みているだけでつかれる。
夏は、とくにことしの夏は、運動をひかえるときだ。

posted by カルピス at 20:34 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月13日

『ガールズ&パンツァー 劇場版』すぐれた映画作品としてたのしむ

『ガールズ&パンツァー 劇場版』
(水島努:監督・2015年・日本)

『ガールズ&パンツァー』テレビ版の@と、
この劇場版を、レンタル店でかりてきた。
まずテレビ版をみる。
乙女のたしなみとして、花道や茶道とともに、
「戦車道」が存在する世界、というのが基本設定だ。
戦車道をきわめることが、よき母、よき妻への道である。
なんてことをいうと、憲法をかえようとしてるひとが
おおよろこびしそうな作品にもおもえる。
戦車がげんきにうごきまわり、生理的な快感にひたりながら、
こうした作品をよろこんでみてもいいのか、
ほんのすこしためらいもうまれる。

劇場版は、「戦車道」などの基本設定はまったく説明されず、
いきなり戦車戦からはじまっており、
でも、なんの違和感もなく作品にはいりこめる。
はじめは、戦車と女の子たちのアニメとしてみていたけど、
だんだんと、すぐれた映画作品としてのめりこんでいた。
絵がきれいで、戦車の小気味いいうごきによいしれる。

大洗女子学園が廃校の危機をむかえる。
学園は閉鎖され、学園艦は
みほたちをいなか町にのこして港をはなれていった。
どんな展開で、この絶対的な逆境をのりきるのだろうか。
なんと、あのテキトーな生徒会長が各方面にはたらきかけ、
大学選抜とのたたかいにかてば、廃校をまぬがれるという。
ここからぐっと映画がおもしろくなっていく。

大学選抜は、センチュリオンやパーシングといった、
第二次世界大戦末期に開発された戦車を主力としており、
いっぽう、高校選抜ともよべるみほたちのチームは、
ティーガーIやティーガーII、バンターがあるものの、
中心となるのはふるい戦車だ。
火力や走力におとる高校選抜が、
どうたたかうかがみどころとなるわけだけど、
そこにリアリティをあたえるのが
すぐれたアニメのおもしろさだ。
たたかいは しだいにはげしさをまし、
さいごにのこるのは、大学選抜のセンチュリオンと
高校選抜のティーガーI型とIV号戦車のみとなる・・・。
主人公の みほを、IV号戦車にのせたあたりに、
監督のセンスがうかがえる。

ブリキでできたような旧日本陸軍の戦車も活躍する。
火力はとぼしいけど、おおはばな改造がなされたのか、
すごいスピードでうごきまわる。
のりくみ員は、高校の伝統である突撃しか頭になく、
どんな場面でも、結局は「突撃しなかい!」と
やたらとつっこもうとするのがおかしかった。
子どものころをふりかえる場面では、
みほとお姉さんがII号戦車にのって
いなか道をトコトコすすんでいく。
戦車にのりながらも、牧歌的にみえるうつくしいシーンだ。
たたかいの場面でなくても、さすに戦車道の家元らしく
つねに戦車が身のまわりにある。

ほかの作品では悪役にまわることのおおい
ソビエトのT-34やギガントがたのもしい味方だったり、
大学選抜が60センチ砲のカール自走臼砲を発射したりと、
戦車ずきにはたまらない作品にしあがっている。
燃料の補給や車両の整備はどうしてたのだろう、とか、
あの時代の戦車は、はしりながら発射できないはず、なんて、
こまかいことはいいっこなし。
こんな作品をつくりあげたスタッフに、
たくさんの拍手をおくりたい。
みおわったあと、すぐれた戦車のりは、
きっと人格的にもすぐれた人物なのだろうと、
「戦車道」をしんじるようになっていた。

posted by カルピス at 22:55 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月12日

『買い物とわたし』(山内マリコ)なにをかうかは、どう生きるかに直接かかわってくる

『買い物とわたし』(山内マリコ・文春文庫)

『ここは退屈迎えに来て』がおもしろかったので、
ほかの作品をよんでみたいとおもっていた。
この本は、タイトルどおり山内マリコさんが
かいものした品じなを、週刊文春に連載したエッセイだ。
 のっけからものすごく俗っぽい言い方でいやになるけれど、生きることは、買い物することである。(中略)ちょっと大げさに言えば買い物へのスタンスは、そのまま生き方に直結する。

たしかに。
たかいもの、有名なお店の商品をかったと、
自慢ばなしをよまされるのはたのしくないけど、
この本はいやみなくかかれていて すんなりよめた。
山内さんがかいものにむけるスタンスは、
「多少値ははっても、ずっと使えるいいもの」であり、
すこしたかいけど、つかいやすそうな品が
きまえよく紹介されている。
それに、わたしがいうのもなんだけど、文章がうまい。
 オードリー・ヘップバーンが『ティファニーで朝食を』で着ていたジバンシィのカクテルドレスが、リトルブラックドレス史上もっとも有名な一着とされる。何連にもなったパールとティアラを合わせた姿は、そのままアカデミー賞にでも行けそうなくらいゴージャスだ。

お金を払って買うという行為は、ただの「消費」以上に、製作者に対する「応援」でもある。(中略)
 さて、そういう「応援力」がもっとも発揮されるのは、自分のテリトリーにあるお店で、気に入った商品(主に食べ物)を見つけたときだ。店側に商品を仕入れつづけてもらうために、「熱心な固定ファンがここにいますよ!」と全力でアピールする(買う)。この瞬間、わたしはもはやただの「消費者」ではない。立派な「後援会の人」である。

 ところで、女子がいきなりプロレスに興味を持ちはじめたら、そこに井伏幸太あり、である。まじめなプロレスファンの男性からは顰蹙を買いそうなチャラい動機であるが、すまんがそういうことなのだ。

連載の初回でプラダの長財布をかった山内さんは、
それにしても、約9万円とは相当高額である。財布ってこんなに高いものなかとビックリした。そして高揚した気分でお店を出るなり、心中こうつぶやいたのだった。
「仕事がんばろう・・・」

ここで、「仕事がんばろう」とおもうか、
こんなにたかいものをかうために、
たくさんはたらくのはいやだ、とおもうかで
ひとの道はきまる。
すこしはたらいて、そこそこのものをかおうとするのがわたしであり、
そうした商品のあつまりがわたしを形づくっている。
なので、しょぼいみてくれは、わたしの人間性そのままだ。
57歳にもなったいま、いまさらあともどりも、軌道修正もできない。
このまま死ぬまでケチで貧乏な小市民をつらぬくしかない。

posted by カルピス at 21:05 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする