2018年08月16日

『フューリー』

『フューリー』
(デヴィッド=エアー:監督・2014年・アメリカ)

8月15日にこの作品をみたのは、
敗戦記念日を意識したわけではなかったけど、
あとからおもえば、
これまでにみた戦争映画のなかで、戦場の生々しさが、
これほどリアルにえがかれた作品はなかった。
8月15日にふさわしい作品をえらんだといえる。

ドン(ブラッド=ピッド)はシャーマン戦車・
フューリー号の戦車隊長をつとめる。
彼の部下たちは、北アフリカ戦線から
ドンといっしょにたたかってきた歴戦の猛者で、
これまでいくつもの戦闘をくぐりぬけ、戦果をあげてきた。
そんな彼らのもとに、新兵であるノーマンが
補充兵としておくられてくる。
前任の副操縦手が、すぐれた兵士であり、
よき仲間であったことから、
乗組員たちはノーマンをすんなりうけいれられず、
つきはなした態度をとる。
「いまにわかる」
「なにが?」
「人間のむごいおこないが」

彼らがふともらしたひとことに、
戦争をつづけてきたかなしみをしらされる。
おなじドイツ人を、戦闘に協力しなかったといって、
さらし首にするドイツ兵。
白旗をふっているドイツ兵をためらわずにうちころすアメリカ兵。
ドンが親衛隊の兵士にむける憎悪は、
正義とか悪ということばでは説明できない。

たよりにならない新兵がおくられてきて、
古参兵たちから子どもあつかいされる設定は、
これまでなんども戦争映画でみてきた。
戦場のきびしさをつたえようとするときに、
わかりやすい方法なのだろう。
新兵であるノーマンの目をとおして、
ドイツ兵だけでなく、アメリカ兵の狂気にも
みる側はむきあわざるをえない。

3つの場面が印象にのこる。
フューリー号が所属する部隊は、ドイツのちいさな町を制圧し、
いっときの休息を手にいれる。
ドンとノーマンは、かくれていたドイツ人女性の家にはいりこむ。
彼女は、わかい いとこの女性をかくまっていた。
ドンは彼女たちに卵料理をつくらせ、戦場にいるのをわすれるような、
おもいがけない しずかなひとときをすごす。
ノーマンはピアノをひき、ドンはお湯で髪をあらい ヒゲをそった。
4人でテーブルをかこみ食事をはじめようとしているときに、
ほかの乗組員たちが下品さをまるだしにしてこの家にはいってきた。
ドイツ人女性を侮辱し、せっかくの優雅な食事を
だいなしにしようとする彼らにたいし、
ドンは頭ごなしにでていけとはいわない。
忍耐づよくつきあい、ゆずれない行為にはいかりをあらわすものの、
仲間である彼らを拒絶はしなかった。
これまでの戦場でつちかわれた きずなのふかさにわたしは気づく。
死をつねに身ぢかなものとしてすごすドンとその乗組員たちは、
ふかいところでおたがいをみとめあっている。

フューリー号たちの戦車隊(4輌)が、
ドイツのティーゲルI型にであったときの戦闘がすごかった。
ティーゲルの装甲はあつく頑丈で、
シャーマン戦車がうちだす弾をかんたんにはじきかえす。
反対に、ティーゲルの88ミリ砲は、シャーマン戦車を一撃で撃破した。
装甲のうすい うしろからの攻撃でしか
ティーゲル戦車に対応する方法はない。
フューリー号の乗組員たちは、
最大限にシャーマン戦車の能力をひきだし、
ギリギリのところでティーゲル戦車をしりぞける。
この戦闘で、4輌だった戦車隊は、
フューリー号1台をのこすのみとなる。
ティーゲルI型戦車のつよさは、
これまでもいろんな戦争映画に登場するけど、
この作品ほどリアルにティーゲルの恐怖をつたえる戦闘はなかった。
正面からたたかえば、かならずやられてしまう。
対応する戦車兵からすれば、まさにバケモノであり、
フューリー号が生きのこれたのは、運がよかったとしかいえない。

フューリー号1台と、ドイツ軍部隊とのたたかいが さいごの山場だ。
フューリー号をすてて、森へにげることもできた。
しかし、ドンのおもいに圧倒され、
ほかの乗組員たちもしぶしぶのこってたたかう道をえらぶ。
フューリー号にはじゅぶんな弾がのこされておらず、
手榴弾や自動小銃までも もちだし、
全総力をあげてフューリー号にたてこもる。
たたかいがつづくにつれ、乗組員はつぎつぎにころされ、
何発もの弾をうけたドンと、ノーマンだけがのこされる・・・。
はでな戦闘シーンは、戦争映画ならではの ハイライトともいえるけど、
爽快さはすこしもかんじない。
かなしみだけが胸にのこる。

posted by カルピス at 22:54 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする