サッカー中継をみていると、
解説者と実況のアナウンサーのおかげで
わたしみたいなにわかファンでも
興味ぶかく試合のながれをたのしめる。
ただ、サッカー用語はそんなに豊富ではないようで、
おなじようなフレーズによくであう。
・まだあります
せめているほうが、決定的なチャンスをのがしたけど、
それでもまだボールがつながっていて、シュートをねらっている場面。
・おちついてきめました
決定的なチャンスをぶじものにしたとき。
PKなど、きめてあたりまえの場面は、あんがいしくじりやすい。
それをきめると「おちついてきめました」といわれる。
・いたんでいます
理由がはっきりしないけど、ボールがないところで、
選手がたおれているとき。
「名前はわかりませんが、選手がひとりたいたんでいます」
・壁にあたりました
フリーキックのとき、キッカーがゴールをねらって
おもいっきりボールをける。
ボールがゴールにはむかわず、
守備側のチームがつくる壁にあたったとき、
サッカーでは「壁にあたりました」という。
壁はもちろんひとがならんでつくっており、
急所にあたらないよう、
あらかじめ股間を手でまもっている選手もいる。
股間でなくても、おもいっきりけられたボールが
どこであろうとからだにあたればいたい。
でも、サッカーでは、ただたんに「壁にあたりました」と、
人工物の壁にあたったようなそっけないいい方をされる。
ぜんぜん心配してもらえない。
壁になった選手たちは、なにをおもってたっているのだろう。
つくずく、壁にはなりたくないとおもう。
2018年09月10日
2018年09月09日
『サッカー戦術クロニクル0(ゼロ)』(西部謙司)
『サッカー戦術クロニクル0(ゼロ)』
(西部謙司・株式会社カンゼン)
トータルフットボールをキーワードに、
サッカー戦術の歴史をときあかしている。
サッカーは、3-4-3とか4-3-2-1とか、
いくつものフォーメーションがあり、
いったいなにを目的にし、どんなちがいがあるのか、
なんどきいてもわたしにはさっぱりだけど、
この本をよむと、けっきょくはトータルフットボールが
サッカー戦術の軸になっていて、
トータルフットボールをふせごうとするうごきと、
トータルフットボールをきわめようとする側の
せめぎあいの歴史なのがわかってきた。
トータルフットボールとはなにか。
ゴールキーパー以外の選手がポジションをいれかわりながら、
こまかくパスをつなぎ、全員でせめ、
全員でまもるイメージがあるけれど、
ただポジションをかえるだけでは
トータルフットボールとよばない。
なぜトータルフットボールが
パスとプレッシングを前提条件としているかなど、
本書は理論明快にサッカー戦術のながれをときあかしてくれる。
そこらへんは、ぜひ本書をよんでいただくとして、
ここでは西部さんの本の、文章のうまさを紹介したい。
西部さんは、表現したいことの核心を、
たくみな比喩で、おもしろくかく。
わかりやすい文章は、ほかのサッカーライターにない魅力をもつ。
解説本としてだけでなく、よみものとしてたのしめるので、
いつもスルスルと、さいごまでよみすすめてしまう。
トータルフットボールと、ちょくせつ関係はないけど、
魅力のある文章を引用してみる。
この本をよむと、元代表監督のオシムさんがめざしたのは
トータルフットボールだったのがわかるし、
今シーズンの横浜F・マリノスがこころみているハイプレスも
トータルフットボールのながれをくむ戦術だ。
なぜ解説者がマリノスのサッカーを
つよく否定するのか不思議におもえる。
どんなサッカーをこのむかは、そのひとの人生観にかかわってくる。
正解はひとつではないし、自分で戦術をかえようとおもっても、
生きかたなのだから、そうかんたんにはかえられない。
(西部謙司・株式会社カンゼン)
トータルフットボールをキーワードに、
サッカー戦術の歴史をときあかしている。
サッカーは、3-4-3とか4-3-2-1とか、
いくつものフォーメーションがあり、
いったいなにを目的にし、どんなちがいがあるのか、
なんどきいてもわたしにはさっぱりだけど、
この本をよむと、けっきょくはトータルフットボールが
サッカー戦術の軸になっていて、
トータルフットボールをふせごうとするうごきと、
トータルフットボールをきわめようとする側の
せめぎあいの歴史なのがわかってきた。
トータルフットボールとはなにか。
ゴールキーパー以外の選手がポジションをいれかわりながら、
こまかくパスをつなぎ、全員でせめ、
全員でまもるイメージがあるけれど、
ただポジションをかえるだけでは
トータルフットボールとよばない。
なぜトータルフットボールが
パスとプレッシングを前提条件としているかなど、
本書は理論明快にサッカー戦術のながれをときあかしてくれる。
そこらへんは、ぜひ本書をよんでいただくとして、
ここでは西部さんの本の、文章のうまさを紹介したい。
西部さんは、表現したいことの核心を、
たくみな比喩で、おもしろくかく。
わかりやすい文章は、ほかのサッカーライターにない魅力をもつ。
解説本としてだけでなく、よみものとしてたのしめるので、
いつもスルスルと、さいごまでよみすすめてしまう。
トータルフットボールと、ちょくせつ関係はないけど、
魅力のある文章を引用してみる。
レアルの補強戦略は昔から補強というよりコレクションに近くて、その時代で最もすぐれたアタッカーを揃えることに重点が置かれている。(中略)
強い選手を集めているから強い、というのがレアルの基本的な補強戦略である。
その成分はほとんどバルセロナの同じでも、流し込まれる型が違えば出来上がりも違う。タイ焼きと今川焼きが似ているけれども違う製品であるように、バルサとバイエルンは出来上がりが違っていた。具体的にはフィニッシュへのアプローチの部分だ。
ディエゴ・マラドーナは別格だ。プラティニとジーコは人類最高クラスかもしれないが、マラドーナはそれ以上であり、史上何人か存在する「他の惑星から来たプレーヤー」に属する。
攻撃はとにかくマラドーナにボールを預け、あとはマラドーナが何とかする。実際、それで何とかなった。
ドリームチームも今振り返れば無用に大きかった80年代の携帯電話のように見える。ただ、あれがなければスマートフォンもないわけだ。
この本をよむと、元代表監督のオシムさんがめざしたのは
トータルフットボールだったのがわかるし、
今シーズンの横浜F・マリノスがこころみているハイプレスも
トータルフットボールのながれをくむ戦術だ。
なぜ解説者がマリノスのサッカーを
つよく否定するのか不思議におもえる。
どんなサッカーをこのむかは、そのひとの人生観にかかわってくる。
正解はひとつではないし、自分で戦術をかえようとおもっても、
生きかたなのだから、そうかんたんにはかえられない。
フットボールが人生で、人の生き方ならば、選択肢はたくさんあるようにみえて、そうでもないのだろう。結局はこう生きたいと思ったとおりに生きるしかない。(中略)簡単に生き方を変えられるほど人間は器用ではないのだろう。
2018年09月08日
ブログをはじめて7年
ブログを10年つづけようとめざしているので、
あとまだ3年もあるのか、という気もちと、
ゴールがリアルにちかづいてきた、という気もちと。
10年つづけたからといって、なにがどうなるわけでもなく、
ただの目標であり、自己満足だ。
さすがに7年つづけると、パソコンにむかえば
なんとなく記事ができあがり、それなりの満足感を
まいにち味わっている。
もしブログをかかなくていい、といわれても、
いまはかきたいからかいているのであり、
いちにちのなかで、ひとつのたのしみともなっている。
日記であり、アブクのような記録と
はやい段階でひらきなおった。
その日のできがすこしぐらいわるくても
がっかりしたりしない。
アクセス数がすくなくても、訪問者数のびなくても、
かんじたことを自由にかける場があるのは ありがたい。
7年つづいたのは、かなりラッキーだったといえるだろう。
おおきな病気やケガをせず、
精神的にもわりあい安定した状態をたもてた。
ブログが生活のハリとなって、
気もちがゆるむのをふせいでくれたのかもしれない。
パソコンがこわれたり、ネット関係のアクシデントもなく、
外国へ旅行にいっても なんとなくかきつづけられたのは、
運がよかったとしかいえない。
かきためておいた記事などないので、
まいにちかきこまないと、とたんにとぎれてしまう。
のみ会があったり、イレギュラーの用事がはいると、
頭にまずうかぶのはブログのことだ。
といっても、ネタがなければ、
のらりくらりと どうでもいいことを話題にとりあげるし、
ネットでみかけたおもしろ記事の紹介もおおい。
こんな記事をかいてなにになるんだ、と
深刻にかんがないのがよかったのかもしれない。
とりあえず その日いちにちを なんとかやりくりする。
そんなのがほそぼそとつづいて、2500回あまりになった。
ブログをはじめてよかったとおもう。
おおくの場合、かいていてたのしいし、
つづければそれだけ なにがしかが蓄積される。
もしブログをかいてなかったら、
メリハリがなく、充実感のない日常に なっていたような気がする。
あとまだ3年もあるのか、という気もちと、
ゴールがリアルにちかづいてきた、という気もちと。
10年つづけたからといって、なにがどうなるわけでもなく、
ただの目標であり、自己満足だ。
さすがに7年つづけると、パソコンにむかえば
なんとなく記事ができあがり、それなりの満足感を
まいにち味わっている。
もしブログをかかなくていい、といわれても、
いまはかきたいからかいているのであり、
いちにちのなかで、ひとつのたのしみともなっている。
日記であり、アブクのような記録と
はやい段階でひらきなおった。
その日のできがすこしぐらいわるくても
がっかりしたりしない。
アクセス数がすくなくても、訪問者数のびなくても、
かんじたことを自由にかける場があるのは ありがたい。
7年つづいたのは、かなりラッキーだったといえるだろう。
おおきな病気やケガをせず、
精神的にもわりあい安定した状態をたもてた。
ブログが生活のハリとなって、
気もちがゆるむのをふせいでくれたのかもしれない。
パソコンがこわれたり、ネット関係のアクシデントもなく、
外国へ旅行にいっても なんとなくかきつづけられたのは、
運がよかったとしかいえない。
かきためておいた記事などないので、
まいにちかきこまないと、とたんにとぎれてしまう。
のみ会があったり、イレギュラーの用事がはいると、
頭にまずうかぶのはブログのことだ。
といっても、ネタがなければ、
のらりくらりと どうでもいいことを話題にとりあげるし、
ネットでみかけたおもしろ記事の紹介もおおい。
こんな記事をかいてなにになるんだ、と
深刻にかんがないのがよかったのかもしれない。
とりあえず その日いちにちを なんとかやりくりする。
そんなのがほそぼそとつづいて、2500回あまりになった。
ブログをはじめてよかったとおもう。
おおくの場合、かいていてたのしいし、
つづければそれだけ なにがしかが蓄積される。
もしブログをかいてなかったら、
メリハリがなく、充実感のない日常に なっていたような気がする。
2018年09月07日
夏がおわったおいわい
2週間ぶりに畑へいく。
どれだけ草がおいしげっているかと、
おそるおそるみまわったけど、それほどではなかった。
雨がふらず、猛暑がつづいたせいで、
サツマイモがあまりのびてないと、
すこしまえのブログにかいている。
あつさと水不足で、生きるのにせいいっぱいのサツマイモは、
とてもからだをおおきくする余裕がなかったようだ。
8月下旬から雨がふるようになり、きょうみたところでは、
畑ぜんたいが、やさしい景色にかわっていた。
草がやわらかくはえ、土もしっとりとしめっている。
2週間まえは、ガチガチに土がかたまって、
猛々しく、非情な世界だった。
ニュースでよくみる、干ばつで作物がかれた畑みたいだ。
サツマイモは、そんなにのびてはいないものの、
あつすぎる夏をのりこえて、ひといきついたようにみえた。
これからイモをふとらせてくれるのではいか。
夏がおわったのを、畑のようすから実感した。
仲間うちで、夏のうちあげをする。
とびきりの猛暑を、なんとかやりすごしましたなー、
というおいわいだ。
夏はまいとしあついけど、ことしほど
きっぱりとくぎりをつけたい夏はそんなにない。
ビールをのんでかんぱいだけではさみしので、
ほかのひとがどんな手をつかって
夏のあつさとたたかったのかをたずねた。
ひとりは、とくにあつさをかんじなかったという。
夏は、まいとしあんなものだ、という。
もうひとりは、あつい風呂につかり汗をかいて、
風呂のあとでストレッチをしてと、なんだかあたらしい宗教みたいで、
ふつうの人間が参考にできる対応法ではなかった。
ネットをみても、つめたいのみものをのまないとか、
冷房にたよりすぎないなど、
よくいわれているけど、実行できないことばかりがならんでいる。
けっきょく、自分にあったやり方で、なんとかするしかないみたいだ。
わたしは、水風呂と、ひえたジン・トニックにたすけられた。
トレーニングのあと、汗をかいたからだに、
水風呂のここちよさがしみる。
水道の水では ぬるくてものたりないけど、
いちにちになんども水風呂につかり、熱をとるとかなりらくになる。
ジン・トニックは、たしかにおいしいけど、
ついのみすぎるので、ジンはかわないと、夏のはじめにきめていた。
でも、あつさで我慢できなくなり、
スイムランのあと、ちかいをやぶってしまった。
ジンのほかに、ウォッカ・トニックにもお世話になっている。
冷凍庫でボトルとグラスをひやしておき、
ロックアイスでつくるジン・トニックは、なにものにもかえがたい。
夏がおわったおいわいに、のみ会のあとでイオンにより、
ジンとウォッカを1本ずつかった。
夜がすずしくなり、もうからだはジン・トニックをもとめないけど、
夏をのりきらせてくれたジンに、感謝をささげたいとおもった。
どれだけ草がおいしげっているかと、
おそるおそるみまわったけど、それほどではなかった。
雨がふらず、猛暑がつづいたせいで、
サツマイモがあまりのびてないと、
すこしまえのブログにかいている。
あつさと水不足で、生きるのにせいいっぱいのサツマイモは、
とてもからだをおおきくする余裕がなかったようだ。
8月下旬から雨がふるようになり、きょうみたところでは、
畑ぜんたいが、やさしい景色にかわっていた。
草がやわらかくはえ、土もしっとりとしめっている。
2週間まえは、ガチガチに土がかたまって、
猛々しく、非情な世界だった。
ニュースでよくみる、干ばつで作物がかれた畑みたいだ。
サツマイモは、そんなにのびてはいないものの、
あつすぎる夏をのりこえて、ひといきついたようにみえた。
これからイモをふとらせてくれるのではいか。
夏がおわったのを、畑のようすから実感した。
仲間うちで、夏のうちあげをする。
とびきりの猛暑を、なんとかやりすごしましたなー、
というおいわいだ。
夏はまいとしあついけど、ことしほど
きっぱりとくぎりをつけたい夏はそんなにない。
ビールをのんでかんぱいだけではさみしので、
ほかのひとがどんな手をつかって
夏のあつさとたたかったのかをたずねた。
ひとりは、とくにあつさをかんじなかったという。
夏は、まいとしあんなものだ、という。
もうひとりは、あつい風呂につかり汗をかいて、
風呂のあとでストレッチをしてと、なんだかあたらしい宗教みたいで、
ふつうの人間が参考にできる対応法ではなかった。
ネットをみても、つめたいのみものをのまないとか、
冷房にたよりすぎないなど、
よくいわれているけど、実行できないことばかりがならんでいる。
けっきょく、自分にあったやり方で、なんとかするしかないみたいだ。
わたしは、水風呂と、ひえたジン・トニックにたすけられた。
トレーニングのあと、汗をかいたからだに、
水風呂のここちよさがしみる。
水道の水では ぬるくてものたりないけど、
いちにちになんども水風呂につかり、熱をとるとかなりらくになる。
ジン・トニックは、たしかにおいしいけど、
ついのみすぎるので、ジンはかわないと、夏のはじめにきめていた。
でも、あつさで我慢できなくなり、
スイムランのあと、ちかいをやぶってしまった。
ジンのほかに、ウォッカ・トニックにもお世話になっている。
冷凍庫でボトルとグラスをひやしておき、
ロックアイスでつくるジン・トニックは、なにものにもかえがたい。
夏がおわったおいわいに、のみ会のあとでイオンにより、
ジンとウォッカを1本ずつかった。
夜がすずしくなり、もうからだはジン・トニックをもとめないけど、
夏をのりきらせてくれたジンに、感謝をささげたいとおもった。
2018年09月06日
『ロング・トレイル!』
夕ごはんをたべながら、シネフィルで『ロング・トレイル!』をみる。
老人ふたりが森のなかをあるいている。
番組情報のボタンをおすと、
ふたりはどうやらレッドフォードとニック=ノルティらしい。
その気になってみると、わらい顔がすこしレッドフォードっぽくなる。
『愛と悲しみの果て』では、
サファリのガイドをしていたレッドフォードが、
30年後のこの作品では、あしもとのおぼつかないおじいちゃんになる。
歳をとるシビアさとは、こういう変化をうけいれることだ。
ニック=ノルティも、まさかこの老人が、
エディ=マーフィーと『48時間』をえんじた
タフでがんこな刑事とはしんじられない。
ウィキペディアをみると、2015年の作品なので、
レッドフォードが79歳、ニック=ノルティは79歳のときに
この『ロング・トレイル!』はつくられている。
とちゅうからみたので、ストーリーはよくわからない。
ふたりがアメリカのトレイルを何ヶ月もかけてあるいていた。
あとからネットをみると、アパラチアン=トレイルといって、
3500キロもあるトレイルコースらしい。
まさしく「ロング・トレイル」の名にふさわしい。
自然のうつくしさ、あるくたのしさがメインの作品ではなく、
あるきつづけることによって、
なにをふたりがなしとげようとしているかがテーマとなる。
せっかく国立公園のなかをあるきながら、
ふたりはどうでもよさそうなはなしをブツブツいいあっている。
テントでねたり、アウトドアらしい食事をしたりの場面もあるけど、
それよりも 印象にのこるのは、
人生のおわりをむかえようとしているふたりが
自分の内面をみつめ、生きかたを、なんとか整理しようとする姿だ。
このごろ20キロや30キロといった
ながい距離をあるくようになったわたしは、
ふたりのあるきっぷりに目がいく。
作品としてなにを表現しているかよりも、
わたしもこんなふうにあるきたい、とおもってみていた。
何ヶ月もあるいている(という設定)のわりには、
ふたりともさいごまでふとったままだ。
もうすこしやつれたり、ほっそりしてもよさそうなものなのに。
それにしても、ながいトレイルコースがあるアメリカがうらやましい。
日本には、登山を目的としたコースはたくさんあるけど、
アメリカみたいなトレイルがなくて残念だ、なんておもっていたら、
ネットをみると、日本にも、100キロをこえるコースがいくつもあった。
わざわざアメリカにまで、そして、フランスやスペインの
サンティアゴ巡礼にまで でかけなくても、
とりあえず、日本でも長距離トレイルが体験できる。
なぜながい距離をあるくのがたのしいのだろう。
あるくときに からだをうごかすスピートが、
脳みそにちょうどいい刺激なのではないか。
はしるより、自転車よりも、いまはながい距離をあるきたい。
いまからしっかりあるいておけば、
80歳にもしなっても、作品のなかのふたりより、
もうすこしましなあるきができるのではないか。
老人ふたりが森のなかをあるいている。
番組情報のボタンをおすと、
ふたりはどうやらレッドフォードとニック=ノルティらしい。
その気になってみると、わらい顔がすこしレッドフォードっぽくなる。
『愛と悲しみの果て』では、
サファリのガイドをしていたレッドフォードが、
30年後のこの作品では、あしもとのおぼつかないおじいちゃんになる。
歳をとるシビアさとは、こういう変化をうけいれることだ。
ニック=ノルティも、まさかこの老人が、
エディ=マーフィーと『48時間』をえんじた
タフでがんこな刑事とはしんじられない。
ウィキペディアをみると、2015年の作品なので、
レッドフォードが79歳、ニック=ノルティは79歳のときに
この『ロング・トレイル!』はつくられている。
とちゅうからみたので、ストーリーはよくわからない。
ふたりがアメリカのトレイルを何ヶ月もかけてあるいていた。
あとからネットをみると、アパラチアン=トレイルといって、
3500キロもあるトレイルコースらしい。
まさしく「ロング・トレイル」の名にふさわしい。
自然のうつくしさ、あるくたのしさがメインの作品ではなく、
あるきつづけることによって、
なにをふたりがなしとげようとしているかがテーマとなる。
せっかく国立公園のなかをあるきながら、
ふたりはどうでもよさそうなはなしをブツブツいいあっている。
テントでねたり、アウトドアらしい食事をしたりの場面もあるけど、
それよりも 印象にのこるのは、
人生のおわりをむかえようとしているふたりが
自分の内面をみつめ、生きかたを、なんとか整理しようとする姿だ。
このごろ20キロや30キロといった
ながい距離をあるくようになったわたしは、
ふたりのあるきっぷりに目がいく。
作品としてなにを表現しているかよりも、
わたしもこんなふうにあるきたい、とおもってみていた。
何ヶ月もあるいている(という設定)のわりには、
ふたりともさいごまでふとったままだ。
もうすこしやつれたり、ほっそりしてもよさそうなものなのに。
それにしても、ながいトレイルコースがあるアメリカがうらやましい。
日本には、登山を目的としたコースはたくさんあるけど、
アメリカみたいなトレイルがなくて残念だ、なんておもっていたら、
ネットをみると、日本にも、100キロをこえるコースがいくつもあった。
わざわざアメリカにまで、そして、フランスやスペインの
サンティアゴ巡礼にまで でかけなくても、
とりあえず、日本でも長距離トレイルが体験できる。
なぜながい距離をあるくのがたのしいのだろう。
あるくときに からだをうごかすスピートが、
脳みそにちょうどいい刺激なのではないか。
はしるより、自転車よりも、いまはながい距離をあるきたい。
いまからしっかりあるいておけば、
80歳にもしなっても、作品のなかのふたりより、
もうすこしましなあるきができるのではないか。
2018年09月05日
「おどろきの結末」特集で『スティング』がえらばれた
「音楽遊覧飛行・映画音楽ワールドツアー」を
車のラジオできいていたら、
今回のテーマは「おどろきの結末」だという。
ラストでおどろかされるといったら、
なんといっても『スティング』だろうと予想していると、
ほんとうに『スティング』について
司会の紺野美沙子さんがはなしだした。
たいして本数をみていないわたしの予想があたるなんて、
紺野美沙子さんのベタな選曲がうれしくなる。
わたしはこの作品を、映画と原作で、
それぞれ何回かずつ みたりよんだりしたけど、
そのたびにまえの記憶をほっぽりだして、
またあらたにだまされてしまう。
もしほんものの詐欺師にあえば、
わたしはなんどでもおなじやり方にひっかかるだろう。
映画では、かけだしのチンピラをロバート=レッドフォードが、
いちど足をあらったベテランの詐欺師を
ポール=ニューマンがえんじている。
最高におしゃれで、なんどみてもたのしい作品だ。
原作では、フッカー(レッドフォード)が、
安食堂のウェイトレスをしつこくさそい、
「仕事は何時におわる?」とききだそうとするするのに、
「気にしないで」とあっさりかわされてしまう場面がすきだった。
それ以来、「気にしないで」をそんなふうにつかいたいのだけど、
いまだにそのチャンスがこない。
映画つながりで、むりやりこじつけると、
脚本家のニール=サイモン氏が8月になくなった。
高校生のとき、サイモン氏の原作による
『グッバイ・ガール』をみて、だいすきな作品になった。
すぐに男ににげられるポーラとひとりむすめのルーシー。
さっぱり芽がでない役者のエリオット。
ポーラをすてた男は、アパートの権利までエリオットにゆずっており、
ポーラは不本意ながら、3人での共同生活をうけいれる。
おとなだけでなく、8歳の女の子、ルーシーまでが、
気にきいたセリフをさらっときめる。
わたしがすきなのは、こういう作品だと、
『グッバイ・ガール』によって気づく。
ラストでポーラはまたすてられそうになるけど、
エリオットは、ポーラを手ばなしはしなかった。
すきな作品はいろいろあるけど、
『スティング』と『グッバイガール』、それともうひとつ、
『パルプ・フィクション』をくわえたら、
だいたいわたしのこのみが
わかってもらえるのではないか。
車のラジオできいていたら、
今回のテーマは「おどろきの結末」だという。
ラストでおどろかされるといったら、
なんといっても『スティング』だろうと予想していると、
ほんとうに『スティング』について
司会の紺野美沙子さんがはなしだした。
たいして本数をみていないわたしの予想があたるなんて、
紺野美沙子さんのベタな選曲がうれしくなる。
わたしはこの作品を、映画と原作で、
それぞれ何回かずつ みたりよんだりしたけど、
そのたびにまえの記憶をほっぽりだして、
またあらたにだまされてしまう。
もしほんものの詐欺師にあえば、
わたしはなんどでもおなじやり方にひっかかるだろう。
映画では、かけだしのチンピラをロバート=レッドフォードが、
いちど足をあらったベテランの詐欺師を
ポール=ニューマンがえんじている。
最高におしゃれで、なんどみてもたのしい作品だ。
原作では、フッカー(レッドフォード)が、
安食堂のウェイトレスをしつこくさそい、
「仕事は何時におわる?」とききだそうとするするのに、
「気にしないで」とあっさりかわされてしまう場面がすきだった。
それ以来、「気にしないで」をそんなふうにつかいたいのだけど、
いまだにそのチャンスがこない。
映画つながりで、むりやりこじつけると、
脚本家のニール=サイモン氏が8月になくなった。
高校生のとき、サイモン氏の原作による
『グッバイ・ガール』をみて、だいすきな作品になった。
すぐに男ににげられるポーラとひとりむすめのルーシー。
さっぱり芽がでない役者のエリオット。
ポーラをすてた男は、アパートの権利までエリオットにゆずっており、
ポーラは不本意ながら、3人での共同生活をうけいれる。
おとなだけでなく、8歳の女の子、ルーシーまでが、
気にきいたセリフをさらっときめる。
わたしがすきなのは、こういう作品だと、
『グッバイ・ガール』によって気づく。
ラストでポーラはまたすてられそうになるけど、
エリオットは、ポーラを手ばなしはしなかった。
すきな作品はいろいろあるけど、
『スティング』と『グッバイガール』、それともうひとつ、
『パルプ・フィクション』をくわえたら、
だいたいわたしのこのみが
わかってもらえるのではないか。
2018年09月04日
創意工夫や改善に関心のないわたし
先日のアルバイトは、ハーブ用土をつくる仕事だった。
まぼろしのブレンダーともよばれる
経験豊富なスタッフが体調をくずしたため、
いつもやっている苗の発送ではなく、
用土づくりの仕事をいいつかった。
いきなりひとりではできないので、
店長のむすこ(大学1年生)が、
わたしにつくり方をおしえてくれる。
ハーブ用土は、つかい道によっていくつもの種類がある。
こんかいは、そのうちの2種類にとりくんだ。
土をまぜる機械に、何種類かの材料をいれてスイッチをおす。
かんたんそうだけど、材料をいれる順番や量を
まちがいなくこなすのは、あるていど経験が必要だ。
そして、仕事なので、
できるだけはやくすすめたほうが いいにきまっている。
店長のむすこくんは、お父さんから
はやく仕事をすすめられるような、
アイデアをだすよう宿題がだされている。
お父さんが3時間で30袋をつくるのなら、
材料のおき場所や、計量のやり方を工夫して、
もっとはやくできる方法はないかと
むすこくんは、ブツブツつぶやきながら用土づくりにとりくんでいた。
わたしは、作業効率をあげるための工夫や、
仕事のすすめ方を改善していくのに、まったく興味がわかない。
極端なことをいうと、そうした創意工夫こそが諸悪の根源であり、
地球を破滅にむかわせているのだと本気でおもっている。
わたしが尊敬する梅棹忠夫さんの影響だ。
20代のころによんだ梅棹さんの『わたしの生きがい論』により、
わたしは わかくして人生をおりてしまった。
たとえば、ふえすぎた人口をどうするかといった、
地球全体、人類全体の状況が
いかにむつかしい問題になっているかを梅棹さんは指摘する。
その解決のために科学の進歩にたよろうとしても、
けっきょくは またあらたなややこしい問題を
生みだすだけというのが梅棹さんのかんがえだ。
進歩で解決できるとおもうのは、あまいですよと、
一般にいわれているのと
反対の発想を梅棹さんはしめしている。
かんがえるのは、これまで人類がずっとやってきた。
むしろ かんがえないことにこそ、
あたらしい道がひらかれているかもしれないと、梅棹さんはいう。
梅棹さんの本をよむうちに、
その影響からわたしはのがれられなくなった。
わたしだって、作業効率をあげるために、
道具や材料のおき場所や順番をかえることもある。
時間がかかるやり方へ、改悪するのが目的ではないので、
おもいついた範囲で、たとえば袋のむきをかえたり、
左から順番に材料をならべたりする。
それぐらいの「工夫」はうけいれないと、
はじめたやり方をずっとつづけなければならない。
問題なのは、創意工夫を善ときめつけるかんがえ方であり、
ひょっとしたら、こうした効率改善は悪かもしれないという
可能性を頭のすみにのこしておきたい。
まだわかい大学1年生のむすこくんは、
将来のある身であり、おおいに創意工夫をすればいい。
改善にむけて、おおくの工夫をためしたあげく、
ある日、そうした努力はもしかしたら意味がないのかも、と
かんじるようになったら、おなじ道をあゆむものとして
人生論をかたりたい。
まぼろしのブレンダーともよばれる
経験豊富なスタッフが体調をくずしたため、
いつもやっている苗の発送ではなく、
用土づくりの仕事をいいつかった。
いきなりひとりではできないので、
店長のむすこ(大学1年生)が、
わたしにつくり方をおしえてくれる。
ハーブ用土は、つかい道によっていくつもの種類がある。
こんかいは、そのうちの2種類にとりくんだ。
土をまぜる機械に、何種類かの材料をいれてスイッチをおす。
かんたんそうだけど、材料をいれる順番や量を
まちがいなくこなすのは、あるていど経験が必要だ。
そして、仕事なので、
できるだけはやくすすめたほうが いいにきまっている。
店長のむすこくんは、お父さんから
はやく仕事をすすめられるような、
アイデアをだすよう宿題がだされている。
お父さんが3時間で30袋をつくるのなら、
材料のおき場所や、計量のやり方を工夫して、
もっとはやくできる方法はないかと
むすこくんは、ブツブツつぶやきながら用土づくりにとりくんでいた。
わたしは、作業効率をあげるための工夫や、
仕事のすすめ方を改善していくのに、まったく興味がわかない。
極端なことをいうと、そうした創意工夫こそが諸悪の根源であり、
地球を破滅にむかわせているのだと本気でおもっている。
わたしが尊敬する梅棹忠夫さんの影響だ。
20代のころによんだ梅棹さんの『わたしの生きがい論』により、
わたしは わかくして人生をおりてしまった。
たとえば、ふえすぎた人口をどうするかといった、
地球全体、人類全体の状況が
いかにむつかしい問題になっているかを梅棹さんは指摘する。
その解決のために科学の進歩にたよろうとしても、
けっきょくは またあらたなややこしい問題を
生みだすだけというのが梅棹さんのかんがえだ。
進歩で解決できるとおもうのは、あまいですよと、
一般にいわれているのと
反対の発想を梅棹さんはしめしている。
かんがえるのは、これまで人類がずっとやってきた。
むしろ かんがえないことにこそ、
あたらしい道がひらかれているかもしれないと、梅棹さんはいう。
梅棹さんの本をよむうちに、
その影響からわたしはのがれられなくなった。
わたしだって、作業効率をあげるために、
道具や材料のおき場所や順番をかえることもある。
時間がかかるやり方へ、改悪するのが目的ではないので、
おもいついた範囲で、たとえば袋のむきをかえたり、
左から順番に材料をならべたりする。
それぐらいの「工夫」はうけいれないと、
はじめたやり方をずっとつづけなければならない。
問題なのは、創意工夫を善ときめつけるかんがえ方であり、
ひょっとしたら、こうした効率改善は悪かもしれないという
可能性を頭のすみにのこしておきたい。
まだわかい大学1年生のむすこくんは、
将来のある身であり、おおいに創意工夫をすればいい。
改善にむけて、おおくの工夫をためしたあげく、
ある日、そうした努力はもしかしたら意味がないのかも、と
かんじるようになったら、おなじ道をあゆむものとして
人生論をかたりたい。
2018年09月03日
鴻上尚史さんが紹介している「七味・五悦・三会」についてのふりかえり
いちねんをふりかえるとき、むかしは
「七味・五悦・三会」を家族ではなしあったと、
鴻上尚史さんが紹介している(朝日新聞「土曜日版be」)。
鴻上さんも、もともとは江戸風物研究家の
杉浦日向子さんにおしえてもらったそうだ。
杉浦さんによると、江戸時代には、おおみそかに、
いちねんをふりかえりながら、
・7つのあたらしい味
・5つのたのしいおもいで
・3つのであい
があったかどうかを家族ではなしあっていたらしい。
ばくぜんといちねんをふりかえるのではなく、
「たべもの・体験・であい」に焦点をあてるのは、
ひとつの方法としておもしろそうだ。
ことしの重大ニューストップ10とか、
ことしおもしろかった本ベスト10もいいけど、
「七味・五悦・三会」は
生活に焦点をあててのふりかえりになるだろう。
記憶にたよっていてはわすれてしまうので、
なにかに記録しておいたほうが、具体的に候補をしぼれる。
そんな記録をつけていたら、うえにあげた3つだけでなく、
かなりこまかなことがらをメモしそうなので、いいことずくめだ。
あたらしいであいは、わりあい記憶にのこるかもしれない。
でも、たのしかった体験と、おいしかったたべものは、
すぐに記憶がうすれるのではないか。
ここはやはり、エバーノートやscrapboxをつかって
キーワードをしぼりながらメモすれば、
あとから効率よくふりかえられる。
さいきんよんだなにかの記事で、
よかったことだけを記録する日記が紹介されていた。
いちにちをふりかえりながら、
なにかしらよかったことをすくいあげる。
いいことなど、なにもなかったとおもえる日でも、
なにかを「よかった」とおもえるように、
角度をかえていちにちをふりかえってみる。
いやなこと、つらかったことはかかないのがコツなのだという。
日記をつけているうちに、だんだんと
ほんのささいなことまで よかったとおもえるそうだ。
ブツブツぐちめいたことばかりをかきつらねて 煮つまるよりも、
(そのほうが気もちはすっきりするけど)、
ささやかなことにも感謝してくらせたほうがしあわせだ。
これぐらい徹底して「よかったこと」を記録しなければ、
リアルな「五悦」のリストをつくれない。
もういちねんのうち2/3がすぎてしまったけど、
いまからでも
・あたらしいたべもの
・あたらしい体験
・あたらしいであい
について、メモをとってみたい。
江戸時代のひとたちは、どんなふうに記録をつけ、
いちねんをふりかえっていたのだろう。
「七味・五悦・三会」を家族ではなしあったと、
鴻上尚史さんが紹介している(朝日新聞「土曜日版be」)。
鴻上さんも、もともとは江戸風物研究家の
杉浦日向子さんにおしえてもらったそうだ。
杉浦さんによると、江戸時代には、おおみそかに、
いちねんをふりかえりながら、
・7つのあたらしい味
・5つのたのしいおもいで
・3つのであい
があったかどうかを家族ではなしあっていたらしい。
ばくぜんといちねんをふりかえるのではなく、
「たべもの・体験・であい」に焦点をあてるのは、
ひとつの方法としておもしろそうだ。
ことしの重大ニューストップ10とか、
ことしおもしろかった本ベスト10もいいけど、
「七味・五悦・三会」は
生活に焦点をあててのふりかえりになるだろう。
記憶にたよっていてはわすれてしまうので、
なにかに記録しておいたほうが、具体的に候補をしぼれる。
そんな記録をつけていたら、うえにあげた3つだけでなく、
かなりこまかなことがらをメモしそうなので、いいことずくめだ。
あたらしいであいは、わりあい記憶にのこるかもしれない。
でも、たのしかった体験と、おいしかったたべものは、
すぐに記憶がうすれるのではないか。
ここはやはり、エバーノートやscrapboxをつかって
キーワードをしぼりながらメモすれば、
あとから効率よくふりかえられる。
さいきんよんだなにかの記事で、
よかったことだけを記録する日記が紹介されていた。
いちにちをふりかえりながら、
なにかしらよかったことをすくいあげる。
いいことなど、なにもなかったとおもえる日でも、
なにかを「よかった」とおもえるように、
角度をかえていちにちをふりかえってみる。
いやなこと、つらかったことはかかないのがコツなのだという。
日記をつけているうちに、だんだんと
ほんのささいなことまで よかったとおもえるそうだ。
ブツブツぐちめいたことばかりをかきつらねて 煮つまるよりも、
(そのほうが気もちはすっきりするけど)、
ささやかなことにも感謝してくらせたほうがしあわせだ。
これぐらい徹底して「よかったこと」を記録しなければ、
リアルな「五悦」のリストをつくれない。
もういちねんのうち2/3がすぎてしまったけど、
いまからでも
・あたらしいたべもの
・あたらしい体験
・あたらしいであい
について、メモをとってみたい。
江戸時代のひとたちは、どんなふうに記録をつけ、
いちねんをふりかえっていたのだろう。
2018年09月02日
今年のあつさをグラフであらわそうとして失敗する
酷暑といわれることしの夏を、エクセルをつかってグラフにしよう。
わたしは習慣として、毎朝新聞をよみながら、
まえの日の気温を記録している。
最高気温と最低気温、それに、平年値との差がのっているので、
それをほぼ日手帳にかきこむ。
7月と8月の気温をエクセルに入力し、グラフにしようとしたら、
おどろいたことに できなかった。
ながいことエクセルをつかってないので、
やり方をわすれてしまった。
いろいろしらべるのはめんどくさいので、
残念だけどグラフはやめにして、
島根県松江市におけることしの夏(7月と8月)の傾向を
数字と文字で、ざっとまとめておきたい。
まず、梅雨あけが7月9日と、きょねんより4日、
平年より12日はやかった。
そして、7月にはいると、ずっとあつかった印象があるけど、
上旬は最高気温でも21.9℃なんてすずしい日もある。
猛暑として ことしの夏がキバをむいたのは、7月の中旬からで、
33℃以上の日があたりまえにつづく。
35℃以上の日が19日もあり(ことしの最高気温は37.9℃)、
33℃から35℃だって20日もあるのはひどい。
2カ月のうち、39日が33℃以上だったのだから、
酷暑とか、災害なみの猛暑、といわれるのにも、納得できる。
平年値(過去30年の平均)は、最高気温が30℃程度なので、
もしまいにちが平年値ていどだとしたら、
夏のあつさなんて、たいしたことない。
35℃は猛暑だけど、30℃ならすずしくかんじるだろう。
ただ、平均をだすと、あつさの印象がずいぶんちがってくる。
平年値より、7℃たかい日などがあるので、
まいにちずいぶん高温にくるしんだ気がするけど、
平年値を平均で どれだけうわまわったかを計算したら、
たった2.6℃だった。
あつい日もあれば、すずしい日もあったのを すっかりわすれ
あつさばかりが頭にのこっているのだろう。
ひとの記憶は、数字よりも印象としてのこるので、
客観的にあつさをとらえておかないと、
2018年は、ものすごくあつかった、という
おおざっぱな印象だけにおわってしまう。
とはいえ、たった2.6℃、といういいかたもまたよくない。
平均で2.6℃もたかいのは、
それだけで事件といえるほどのあつさといったほうが正確だ。
きょうも30℃をこえ、あすも35℃が予想されているけど、
9月2日といえば、なんとか夏をのりきったといっていいだろう。
あとはわたしがだいすきな秋の登場となるわけで、
いまがいちねんでいちばんいい時期ともいえる。
夏をやりすごしたおいわいとして、
週末に夏のうちあげをする。
夏がおわったよろこびを、しみじみとかみしめたい。
わたしは習慣として、毎朝新聞をよみながら、
まえの日の気温を記録している。
最高気温と最低気温、それに、平年値との差がのっているので、
それをほぼ日手帳にかきこむ。
7月と8月の気温をエクセルに入力し、グラフにしようとしたら、
おどろいたことに できなかった。
ながいことエクセルをつかってないので、
やり方をわすれてしまった。
いろいろしらべるのはめんどくさいので、
残念だけどグラフはやめにして、
島根県松江市におけることしの夏(7月と8月)の傾向を
数字と文字で、ざっとまとめておきたい。
まず、梅雨あけが7月9日と、きょねんより4日、
平年より12日はやかった。
そして、7月にはいると、ずっとあつかった印象があるけど、
上旬は最高気温でも21.9℃なんてすずしい日もある。
猛暑として ことしの夏がキバをむいたのは、7月の中旬からで、
33℃以上の日があたりまえにつづく。
35℃以上の日が19日もあり(ことしの最高気温は37.9℃)、
33℃から35℃だって20日もあるのはひどい。
2カ月のうち、39日が33℃以上だったのだから、
酷暑とか、災害なみの猛暑、といわれるのにも、納得できる。
平年値(過去30年の平均)は、最高気温が30℃程度なので、
もしまいにちが平年値ていどだとしたら、
夏のあつさなんて、たいしたことない。
35℃は猛暑だけど、30℃ならすずしくかんじるだろう。
ただ、平均をだすと、あつさの印象がずいぶんちがってくる。
平年値より、7℃たかい日などがあるので、
まいにちずいぶん高温にくるしんだ気がするけど、
平年値を平均で どれだけうわまわったかを計算したら、
たった2.6℃だった。
あつい日もあれば、すずしい日もあったのを すっかりわすれ
あつさばかりが頭にのこっているのだろう。
ひとの記憶は、数字よりも印象としてのこるので、
客観的にあつさをとらえておかないと、
2018年は、ものすごくあつかった、という
おおざっぱな印象だけにおわってしまう。
とはいえ、たった2.6℃、といういいかたもまたよくない。
平均で2.6℃もたかいのは、
それだけで事件といえるほどのあつさといったほうが正確だ。
きょうも30℃をこえ、あすも35℃が予想されているけど、
9月2日といえば、なんとか夏をのりきったといっていいだろう。
あとはわたしがだいすきな秋の登場となるわけで、
いまがいちねんでいちばんいい時期ともいえる。
夏をやりすごしたおいわいとして、
週末に夏のうちあげをする。
夏がおわったよろこびを、しみじみとかみしめたい。
2018年09月01日
32キロのウォーキング
ながめのウォーキングの2回目として、30キロをあるく。
前回は、24キロを5時間であるき、すこしものたりなさをかんじた。
最終目標は、宍道湖を一周する50キロなので、
すぐにでも50キロへステップアップしたかったけど、
パートナーであるレース仲間は、
こまかく段階をふんで50キロへすすもうという。
たしかに、いまの実力では、
いっきょに30キロも距離をふやすのは無謀かもしれない。
2回目のきょうは、30キロのコースをつくってあるきだした。
前回は、気温が36,6℃まであがった日で、
あとからおもえばかなりたいへんなあつさだったけど、
きょうはずっとくもりのお天気で、まったくあつくない。
すこしはやめにあるくと1時間に5キロ、
かなりはやめだと時速6キロになるのがわかった。
コンビニやスーパーでのかいものをさしひいて、
6時間40分で32キロをあるく。
わたしがスマホにいれた「ジョグノート」というアプリは、
パートナーのスマホとちがう距離をしめしていたので、
念のためにジョグノートが30キロになるまであるいた。
あとから地図にしめされた履歴をみると、
じっさいにあるいた道とは かなりちがったコースがしめされており、
ただしいのはパートナーのほうのアプリだった。
無料のアプリとはいえ、これだけあてにならないとつかえない。
ながい距離をあるくと、たべるたのしみがおおきい。
ランニングでは、すぐに栄養を補給できるサプリメントにたよるけど、
ウォーキングの場合、ゆっくりたべればいいので、
おにぎりやらサンドイッチをコンビニでかえる。
たべたぶんは、あるけばすぐに消費されるので、
たべすぎを気にせずに、ほしいものをたべる。
坂道が気にならないのも、ウォーキングのいいところだ。
ランニングだと、きゅうな坂道は、ただくるしいだけなのに、
ウォーキングの場合、まったく気にならない。
きょうは、結果として32キロをあるいたのに、
へとへとにつかれはてたりせず、
ゴールまでいいかんじのままあるけた。
ながい距離をあるくなんて、ただ単調なだけかとおもっていたけど、
コースを工夫すれば、上質なたのしみとなる。
100キロの大会に参加しようとまではおもわないとしても、
きょうのかんじだと、目標である50キロくらいなら、
いい気分のままあるきとおせそうだ。
前回は、24キロを5時間であるき、すこしものたりなさをかんじた。
最終目標は、宍道湖を一周する50キロなので、
すぐにでも50キロへステップアップしたかったけど、
パートナーであるレース仲間は、
こまかく段階をふんで50キロへすすもうという。
たしかに、いまの実力では、
いっきょに30キロも距離をふやすのは無謀かもしれない。
2回目のきょうは、30キロのコースをつくってあるきだした。
前回は、気温が36,6℃まであがった日で、
あとからおもえばかなりたいへんなあつさだったけど、
きょうはずっとくもりのお天気で、まったくあつくない。
すこしはやめにあるくと1時間に5キロ、
かなりはやめだと時速6キロになるのがわかった。
コンビニやスーパーでのかいものをさしひいて、
6時間40分で32キロをあるく。
わたしがスマホにいれた「ジョグノート」というアプリは、
パートナーのスマホとちがう距離をしめしていたので、
念のためにジョグノートが30キロになるまであるいた。
あとから地図にしめされた履歴をみると、
じっさいにあるいた道とは かなりちがったコースがしめされており、
ただしいのはパートナーのほうのアプリだった。
無料のアプリとはいえ、これだけあてにならないとつかえない。
ながい距離をあるくと、たべるたのしみがおおきい。
ランニングでは、すぐに栄養を補給できるサプリメントにたよるけど、
ウォーキングの場合、ゆっくりたべればいいので、
おにぎりやらサンドイッチをコンビニでかえる。
たべたぶんは、あるけばすぐに消費されるので、
たべすぎを気にせずに、ほしいものをたべる。
坂道が気にならないのも、ウォーキングのいいところだ。
ランニングだと、きゅうな坂道は、ただくるしいだけなのに、
ウォーキングの場合、まったく気にならない。
きょうは、結果として32キロをあるいたのに、
へとへとにつかれはてたりせず、
ゴールまでいいかんじのままあるけた。
ながい距離をあるくなんて、ただ単調なだけかとおもっていたけど、
コースを工夫すれば、上質なたのしみとなる。
100キロの大会に参加しようとまではおもわないとしても、
きょうのかんじだと、目標である50キロくらいなら、
いい気分のままあるきとおせそうだ。