2018年10月11日

「スポーツ酒場 語り亭」での「とことんイニエスタ」

「スポーツ酒場 語り亭」でイニエスタをとりあげていた。
Jリーグには、これまでにもうまい選手がたくさんいたけど、
イニエスタは、そうした有名な選手たちのなかでも
さらに頭ひとつぬきでている。
ときどきいいプレーがでるのではなく、
どの場面をとってもすごいのだから
神戸の試合にお客さんがあつまるのもうなずける。
神戸がかたなくても、イニエスタのプレーをみるだけで満足できる。
イニエスタをみるだけでしあわせになれる。

イニエスタは、相手側の選手にかこまれてもあわてない。
ときにはじっととまり、相手のうごきをみきってからうごく。
相手は逆をつかれてとりのこされる。
ヒールパスもたくみだ。
おおげさなモーションがなく、ふつうにまえをみながら
なにげなくヒールパスをだすので、相手は予測できない。
ヒールでうしろにいる選手のまたぬき、なんて技もきめている。
ボールのあつかいが完璧で、ピタッと足にすいついている。
トラップのとき、ボールがばたばたうごかないので、
相手はとりにいくタイミングをみつけられない。

とはいえ、神戸は前節をひきわけたものの、
そのまえは 5連敗とくるしんでいる
(イニエスタがいなかった試合もふくめ)。
J1リーグの18チームちゅう11位と、
イニエスタ効果が成績にむすびついていない。
前節におこなわれた長崎との試合では、
とちゅうからイニエスタが出場したものの、
得点にからめず1-1でひきわけにおわった。
それほどすごい選手がいても、試合になると、
かならずかつわけではないのがおもしろいところだ。

語り亭では、いかにイニエスタがすごいか、
ビデオをみながら感心しあっていた。
あれだけうまいうえに、ひとがらもいいのだから
だれもにすかれるわけだ。
わたしは、笑顔がすてきだとおもった。
ニッコリわらうと、子どもみたいな表情になる。
いわゆる「いい男」ではないのも 好感がもてる。

どうやってイニエスタを日本によべたのか。
なぜイニエスタは日本にきてくれたのか。
日本にイニエスタがいるなんて、いまでもまだしんじられない。
できるだけながく 日本でプレーしてくれるよう ねがっている。

posted by カルピス at 21:29 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月10日

石飛幸三さんからのといかけ「口から食べられなくなったらどうしますか」

『「平穏死」のすすめ』(石飛幸三・講談社)

朝日新聞の土曜日版beで、
石飛幸三さんが平穏死について連載している。
興味ぶかいかんがえ方がのべてあるので、本もよんでみようと、
石飛さんがかかれた『「平穏死」のすすめ』を図書館でかりてきた。
副題には、「口から食べられなくなったらどうしますか」とある。
親が死をむかえるとき、おおくの家族は
すこしでもながく生きてほしいと、
病院にできるかぎりの医療を期待する。
家により、ぞれぞれ事情があるだろうから
どんな対応が正解かは だれにもきめられない。
とはいえ、自分がそうした状況におかれたとき、
やってほしくないことは、きっぱりおことわりしたい。
家族や病院にたいし、自分のかんがえを
はっきりつたえておきたいとおもうようになった。
ほとんどの方は喋れません。寝たきりで寝返りも打てません。今このひとたちは何を考えておられるのだろう。どんな思いでおられるのだろう。鼻から管を入れられて、1日三回宇宙食のような液体を滴下され、定時的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。胃に直接注入される”宇宙食”は、ご本人にはどのような味がするのでしょうか。(中略)この人たちは誰のためにこんな難行苦行を強いられなければならないのでしょう。
 寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥性肺炎を起こします。膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を出します。これは治療なのか、何のための栄養補給か。

せんじつよんだ『あおいけあ流介護の世界』には、
考えてみれば、我々はいつから高齢者の自由を奪うことに慣れきってしまったのだろう。「医療上必要だから・・・」、「安全のため必要だから・・・」しかし、彼らの自由を奪ってまで必要なことが本当にあるのだろうか。自分が歳をとった時にそれをされたらどう思うのだろうか。

とあった。
わたしだっていつ脳梗塞をおこしたり、
認知症の症状がでたりして、家族の負担となり、
施設へいれられるかわからない。
「あおいけあ」のように、すぐれた施設もあるとはいえ、
おおくの施設では 自分にあったサービスをうけられそうにない。
「口から食べられなくなったら・・・」は、
親の みとり の問題であるとともに、
どんなさいごをのぞむのかという 自分の問題でもある。

すべての状況を想定はできないけれど、
ひとつの線として、自分でものをたべられなくなったら、
延命措置をうけてまで生きるのはやめようとおもっている。
自分の意思をはっきり病院につたえ、
管からの栄養補給はうけない。
たべられなくなったときが寿命なのだとうけいれ、
あとは水分だけとってしずかに死をまちたい。
死ぬのはこわいけど、ねたきりで生かされるのは、なお おそろしい。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月09日

正面から自立支援にとりくむ『あおいけあ流介護の世界』

『あおいけあ流介護の世界』
森田博洋之・加藤忠相:著
南日本ヘルスリサーチラボ:発行

理事長から、必読書としてこの本が指定された。
福祉とか介護の本はこれまでにいくつもよんでいる。
いまさら新鮮な刺激をうける本があるだろうかと、
かるい気もちでよみはじめると、これがすごい本だった。
ふかい内容がわかりやすくまとめられている。
会話方式ではなしがすすめられるなかで、インタビューがあったり、
こまかな説明をコラムでおぎなったりと、スラスラよめる。
それでいて、つたえる内容は具体的であり、ふかくてふとい。

小規模多機能型施設「あおいけあ」を経営する加藤さんは、
・介護の最終ゴールは『人間関係・信頼関係を築くこと』
・自立支援
・地域をまきこんだとりくみ
という3つのかんがえ方を中心にすえている。
どれもよくきくことばなので、
「たてまえ」としてとらえ、かるくながしがちだ。
たとえば、いつでもどこでも自立支援ということばをきくけど、
じっさいに正面から自立支援にとりくむ事業所がどれだけあるだろう。
理想は自立支援だけど、現実は職員の都合、というのが
じっさいに介護の現場ではあたりまえにおこなわれている。

介護保険法にかいてあるのは自立支援なので、
自立を支援するのがわれわれの仕事と
加藤さんは文字どおり、意義どおりに自立支援をとらえている。
あたりまえのようでいて、あまりないのが現状だ。
お茶をだしてあげる、オシメをとりかえてあげる、などは、
お世話であって自立支援とはよばない。
たとえばウチの職員が、『○○さんの部屋のお掃除、キッチリ終わりました!』って報告してきたとします。(中略)
私はそれを全く評価しません。なぜなら介護のプロがする仕事ではないからです。介護職は掃除屋さんではないんですよ。『掃除してあげる』ではなく、どうしたら○○さんが掃除できるか、環境を整えるとか、意欲を引き出すとか、そう言う『自立支援』をしないといけないわけです。(中略)システムエンジニアとして雇った社員に『トイレ掃除してきました!』って言われても困りますよね。それと同じです。(加藤)

・「あおいけあ」の最終ゴールは『人間関係・信頼関係を築くこと』
信頼関係がいちばんのリスクマネージメントであり、
ひごろから関係ができていれば、
事業所の方針を理解してもらえるし、
もしなにかトラブルがあった場合でも、
いつもあれだけやってくれているひとたちがいうのだから、
まちがいないだろうと、理解・協力してもらいやすい。

・地域をまきこむ
のも、そうしたほうが「あおいけあ」にくる老人たちが
いきいきと活動できるからだ。
ちかくの幼稚園から子どもたちがきてうたをきかせてくれる、
なんて、よくありがちな「交流」ではなく、
ひごろから、子どもたちがあたりまえのこととして
「あおいけあ」にではいりし、老人たちとあそんでいる。
老人たちはおゆうぎみたいなプログラムに参加しなくても、
日常の活動として、自分の得意なこと、
たとえば畑しごとだったり、大工仕事だったり、
お茶をいれたりにとりくんでいる。
まわりのひとに、お酒をついでいるひともいる。
自分が介護をうける側になったとき、
「あおいけあ」みたいな施設ならいってみたいと
おおくのひとが えらびたくなるのではないだろうか。
施設でお酒を呑んでいいか、行政に聞かなくていいんですか?っていわれたことがあるんですけど、どこでお酒を飲もうが飲むまいが基本的に個人の自由です。高齢者になった、介護される側になっただけで、どうしてお酒を飲むのが許可制になるんでしょう。お役所にお伺いをたてる、っていうこと自体がナンセンスじゃないですか?介護のプロはこちらなのに、なんで役所で座っている素人に聴くの?って。そういう人は、出来ない理由をさがしてるだけ・・・。

この本を、すべての職員がよむ意味はおおきい。
ひごろの実践に、この本の視点をもちこむだけで、
サービスの中心にすえる方向性があきらかになる。
老人介護の「あおいけあ」が
自立支援を正面からとらえた実践をしているのだから、
わかい障害者を対象にしたわたしたちは
自立支援を本来的な意義において、
活動の中心にすえてとりくまなければならない。
わたしたちも、「あおいけあ」の職員とおなじように、
お世話をするのが仕事なのではなく、
自立を支援するために給料をもらっている。
この本をよんだ刺激により、
どんなあたらしいうごきがでてくるかが たのしみだ。

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月08日

あるきの師匠と なんちゃって観光客として 23キロあるく

きのうにつづき、あるきの師匠のはなし。
きょうは師匠をさそって ながめのウォーキングにでかける。
松江市の中心をながれる大橋川にそってすすみ、
橋をわたって ぐるっと一周するコースをえらんだ。
1キロを11分のペースで、23キロを4時間38分かけてあるいた。
松江城ちかくにできた「おつまみ研究所」で
ビールをのみ、観光客の気分をあじわう。
まえからいってみたかったお店に、
またとない状況ではいれたのがうれしかった。

気もちよくながい距離をあるくのは、
かんがえてみると、なんてぜいたくなあそびだろう。
あるいたのは4時間38分でも、
休憩や昼ごはんをいれると6時間半もかけてあそんでいる。
たいていのスポーツ観戦よりも ながい時間からだをうごかし、
たわいのないおしゃべりをたのしむ。
それができるからだなのを ありがたくおもう。

きのうのランスマでは、
何ヶ月もはしれなかったひとが
どうやって復帰したかをとりあげていた。
ケガだけでなく、仕事がいそがしかったり、
出産ではしれなかったりと、さまざまな理由から
おおくのひとがはしれなかった時期を体験している。
以前は1キロを3分きってはしっていたランナーでも、
出産によるブランクで、
7分くらいのペースでしかはしれなくなったり、
ケガであるくことさえできなくなったひと。
わたしなんかは、だんだんおちていくタイムに
グチをいったりするけど、
はしれないくるしみを体験したことはない。
レベルはひくくとも、あたりまえのように
はしったりおよいだりできるしあわせをおもった。

あるいているさいちゅう、師匠からは、
サンチャゴ巡礼のはなしをききだした。
こまかなノウハウよりも、巡礼を話題にしてのおしゃべりだ。
いちにちに20〜30キロあるき、
宿にはいって荷物おろし、ほっとひといきつくと、
師匠はまた町の散歩にでかけるので、
まわりのひとがあきれていたそうだ。
筋金いりのあるくひとなのに感心する。
巡礼ちゅうの韓国人マッサージ師に
足をもんでもらったら、
「あなたの足はあるくのにとてもむいているから、 
 ぜひヒマラヤの山をのぼりなさい」
ともいわれたという。
土ふまずのかたちからわかるらしい。
いったいどれだけあるけるのか、
師匠の底しれぬあるくちからがうかがえる いいはなしだ。

posted by カルピス at 20:46 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月07日

サンチャゴ巡礼からかえってきた師匠にはなしをきく

「あるき」の師匠が、サンチャゴ=デ=コンポステーラへの
巡礼旅からかえってきた。
さっそく夕ごはんにさそい、旅行ちゅうのはなしをきかせてもらう。

ちょうどきょねんのいまごろ、
スペインのサンチャゴまでの巡礼がおもしろそう、
とわたしは師匠にはなしている。
あるくのがすきな彼女は、すぐのり気になり、
実現にむけて準備をすすめ、
ことしの6月25日に日本を出発した。
フランスのル=ピュイからあるきはじめ、
2ヶ月半かけて1600キロさきにある
スペインのサンチャゴにたどりついている。
9月19日に日本にかえってきて、
いまはとくになにもしていないけど、
そろそろ仕事をさがそうかなー、というところらしい。
ハードな旅行をおえたばかりなのに、
師匠は出発するまえと、ほとんどかわらない。
すこしやせたかなー、というぐらいのささやかな変化だ。
そして、姿だけでなく、内面にもかわりをかんじさせない。

宿のこと、装備のこと、食事のこと。
いちにちにあるいた距離や予算はどうなのか。
おもいつくままに、わたしはあれこれ師匠にたずねた。
彼女は、きかれたことにはちゃんとこたえてくれるけど、
やりとげた感はとくにないそうだ。
おもしろい旅行ができてよかった、という
充実感だけで満足しているようにみえる。
写真をとらず、日記もつけてない。
わたしからすると、貴重な体験をしながら
もったいない気がするけど、
師匠はただあるけただけでいいのだという。
なげやりなわけではなく、
自分のなかに大切にしまっているのだろう。

いきたいといいながら、
いつまでもぐずぐずしているわたしをしりめに、
彼女は着実に行動をおこして サンチャゴにたどりついた。
それでいてすこしもうかれてない。
いったいどんな経緯で、師匠のような人間が形成されたのか
わたしにはすごく興味がある。
あすはいいお天気の予報なので、
ながいあるきの極意にふれようと、
20キロくらいの「あるき」に師匠をさそった。
なにか彼女からききだせるだろうか。

posted by カルピス at 22:24 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月06日

3つ つづけて作品をなげだしてしまい、すこし残念

たてつづけに3つの作品をとちゅうでなげだした。
2冊の本と1本の映画。
『遭難信号』は、主人公のパートナー(女性)が
仕事でいったはずのスペインからかえってこない。
なぜ自分のまえからいなくなったのか、
主人公は延々と自問し、とまどいつづける。
500ページのうち、130ページまでよんでも、
ずっとその調子でひっぱられ、ついていけなくなった。
なんの説明もなしにものがたりがすすむのは きらいではない。
かきかたにもうすこし工夫がほしかった。
読者をイライラさせない気くばりがたりないのではないか。

『点のひらの音符』は、むかしをおもいだす描写がずっとつづく。
きっといいはなしなんだろうけど、わたしにはたいくつだった。
書評でとりあげられていたので、かってみたのだけど、
わたしのストライクゾーンとずいぶんずれがある。

映画の『バタフライ・エフェクト』は、
ショッキングな場面がおおく、なんどもドキッとさせられる。
犬がひどい虐待をうけたところで
それ以上みつづけられなくなった。

このごろ自分のやさしくない部分に気づくことがおおく、
しょんぼりというか、残念におもっていた。
こんなときにこそ、自分を肯定できるも作品にふれたいのに、
3つもとちゅうでなげだしては、
ますます自分のゴーマンさをかんじてしまう。
本や映画は、作品によってあう・あわないがあり、
作品の優劣ではなく相性の問題なのだから、
わりとあっさりとちゅうでなげだしてしまう。
とはいえ、こんかいのように、
3つ たてつづけになげだすのはめずらしい。
なんだかマージャンの役がそろったみたいなので、
これをきっかけに、いい作品とであいたい。

夜ねるまえに、子ネコのココとあそんでいる。
とぎれとぎれに『ソナチネ』(北野武:監督)をみていたら、
たけしが機関銃をもってホテルへ・・・という場面になった。
いつもは はげしくあそびまわるココが、
わたしのひざのうえで、じっと画面をみている。
うごきがあるからテレビに視線をうつすわけではないから、
ココなりになにかをかんじたのではないか。
ぼんやりみていた『ソナチネ』は、
テキトーな鑑賞態度にぴったりの作品だった。

posted by カルピス at 13:19 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月05日

MacBook Airの13インチがほしくて あれこれ理由をつける

すこしまえの記事に、iMacがこわれたとかいた。
こわれたけど、べつのパソコンをメインにつかっているので、
あまりこまらない、ともかいた。
あれからなんにちかたち、切実な困難ではないけど、
やはりiMacがないと、いろいろ不都合なのがわかってきた。

・ファイルメーカでつけていた日記
・iTunesにいれていた音楽
・スキャナー

iMacとのおわかれにより、これらのデーターがつかえなくなった。
データーはタイムマシンにとってあるけど、
システムがあわないので、MacBook Proでは
ふるいファイルメーカーはうごかせないし、
256ギガのSSDには、音楽のデーターをいれる余裕はない。

などと、もっともらしくできない理由をあげるのは、
MacBook Airの13インチがほしくなったからだ。
MacBook Proがうごかなくなったらこまるので、
いまのうちにつぎのパソコンを
用意しておいたほうがいいような気がする。
これまでの経験からいえば、ただなんとなくほしい、
という欲望にながされて、必要でないパソコンをかうと、
たいしてつかわずに ほったらかしにしがちだ。
ただ、理性より、欲望にしたがったほうが、人生はおもしろい。

MacBook Air13インチは、もう10年ものあいだ
あのデザインをかえずにいる。
2015年には、Airよりもひろくてかるいパソコンとして、
12インチのMacBookが発売となった。
いまや、MacBook Airの価値はそのやすさだけかもしれない。
そんな、みるべき点のあまりないパソコンだけど、
それだけ熟成をかさねたともいえる。
10年間も、おおきなモデルチェンジなしのパソコンが、
MacBook Airのほかにあるだろうか(よくしらないけど)。

所有欲と必要性とをはかりにかけ、サイフとも検討したふりをして、
けっきょくわたしはMacBook Air13インチをかうような気がする。
人生にのこされた時間をかんがえると、
このさきあたあらしいパソコンをかう機会は あまりないだろう。
あまりないのなら、もっとたかくてかるいマックにすればいいのに、
ケチで貧乏なわたしらしいパソコンは、
あくまでもMacBook Airしかない。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月04日

AirbnbやUberをつかうスマホネイティブたちにおどろく

先日の朝日新聞に、清水ミチコさんが
ネット情報をつかっての旅行をとりあげていた。
なかよしの4人組でごはんをたべたとき、
Airbnb(エアビーアンドビー)がよかった、と
清水さんがはなしたら、
みんなとっくにつかいこなしていたそうだ。
わかいひとたちは「Uber(ウーバー)も
便利につかっているという。

Airbnbは民泊をあっせんするサービスのことで(しらなかった)、
Uberは自家用車によるタクシーサービスだ(ちょっとしっていた)。
まいとしのように外国へ旅行にいきながら、
こうしたサービスを わたしはこれまでつかったことがない。
ネットでホテルを予約できるだけで、すごく便利におもったし、
アジアではタクシーよりも トゥクトゥクやバイクでじゅうぶんだ。
せっかくSIMフリーのスマホをもっていながら、
ぜんかいの旅行ではWi-Fiだけですませ、
それですこしもこまらなかった。

でも、Airbnbで一般家庭にとまれたら、
地元のひとがどんなくらしをしているかを
ホテルですごすより、ずっとふかく体験できるだろう。
旅行のあたらしいたのしみ方として、
年末にいくタイ旅行でためしてみたくなった。
日本をおとずれる外国人は、いまや3000万人をこえており、
これから日本でもはやりそうなサービスだ。
たかいホテルより、一般家庭にとまりたいひとはおおいだろう。

目的地へどうやっていくかや、レストランなどの情報は、
いまはスマホでいくらでも手にはいる。
スマホをあたりまえの環境としてそだった世代は、
はじめての旅行先でもスイスイうごける。
わたしみたいなふるいタイプの人間は、
スマホをじょうずにつかえないので、
これまでのスタイルをそんなにかえようとはおもわない。
すこしぐらい不便でも、旅行ちゅうだからしかたないといいわけし、
アナログなやり方で これからもあるきまわる。
スマホのちいさな画面をいじるのがめんどくさいのも、
わたしがスマホをつかいたがらない利用のひとつだ。
老眼鏡とスマホは、あまり相性がよくないのでは。

posted by カルピス at 21:54 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月03日

江ノ島茂道さんによる、味覚がらみの2本の記事

デイリーポータルZで江ノ島茂道さんが、
「甘いものは塩で食べろと心の食通が言ってくる」
http://portal.nifty.com/kiji/181002204072_1.htm
をアップした。
前回の記事が、
「食通が塩で食べるなら俺たちは砂糖で食べる」
http://portal.nifty.com/kiji/180918203960_1.htm
だったので、2匹めのドジョウをねらっているがあきらかだ。

けっかからいうと、塩をつけておいしくなる素材は
あまりなかった(トマトとパンをのぞく)。
砂糖はたいていのものと よくあったのとは
ずいぶんちがう。
いっけんバカバカしいような実験だけど、
やってみなければわからないことがたくさんある。

このふたつの記事であきらかになったのは、
江ノ島さんの味覚が、ほかのひととはずいぶんちがうことだ。
サシミに砂糖をかけたとき、
ほかの2人は「うわー」と声をあげているのに、
江ノ島さんだけ「食べられますよ」と、
冷静にコメントしている。
牛乳に塩をかけた実験では、
うすいポタージュみたいでおいしい、といい、
ほかのふたりに
「有りか無しで言うと有りですよね?」と
しつこく くいさがると、
「いや、ないですよ。」と
きっぱり否定されている。
前回の記事は、通ぶって塩をかけるひとへの異議もうしたてとして、
硬派なところをみせた江ノ島さんだけど、
塩をかけた今回の記事をよむと、ただたんに
味オンチなだけかも、という疑惑がぬぐいきれない。

今回の記事からよみとれるもうひとつの事実は、
江ノ島さんがさいきん実家をでて
ひとりぐらしをはじめたことだ。
ひとりではないかもしれないけど、
電子レンジや、そもそもダイニングキッチンがない部屋なので、
だれかつれがいるとはおもえない。
親からの独立をきっかけに、さらなるたかみをめざすべく
ひと皮むけた記事をたのしみにしている。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月02日

もうひとひねりほしい『ユージュアル・サスペクツ』

『ユージュアル・サスペクツ』
(ブライアン=シンガー:監督・1995年・アメリカ)

ラジオ番組の音楽遊覧船で、
紺野美沙子さんがとりあげていたのをきき、
ツタヤでかりてくる。
いりくんだストーリーで、いったいなんのはなしなのか、
とちゅうまでよくわからなかった。
わからなくても、ながれをおっているだけで
それなりにおもしろい。
以下、ネタバレあり。

いちばんあやしくないやつが犯人というのが
ミステリーではよくある手だ。
『ユージュアル・サスペクツ』では、作品にでてきた5人のうち、
おおきな仕事はやれそうにないのが
キント(ケヴィン=スペイシー)で、
わたしはずっとキントが犯人にきまっているとおもってみていた。
でもまさか、不自然なほど
犯人らしくない人物としてえがかれているキントが、
そのまま犯人なんて ありえないだろう。
さいごはどんなおどろきを味わせてくれるのか
たのしみにしていたら、
ほんとうにそのままキントが犯人だったので 拍子ぬけした。
わたしなんかが 簡単に犯人だとおもう人物を、
そのまま犯人にするなんて、あまりにもひねりがあまい。

紺野美沙子さんがこの作品をとりあげたのは、
「おどろきの結末」をテーマにした回で、
『スティング』『バタフライ・エフェクト』とともに名前があがった。
「おどろきの結末」というぐらいだから、
わたしなんかが犯人をあてるようでは よくない気がする。
まあ、わたしがあてたのは、
論理をくみたてたうえの推理ではなく、
ただたんに、「いちばんあやしくないやつが犯人」
の法則にのっとっただけなので、
あまりいばれる犯人さがしではない。

ケヴィン=スペイシーをはじめてみたのは、
『ペイ・フォワード』で先生役をしたときだ
(とおもったら、『ワーキング・ガール』に
さえない相手役としてでていた)。
少年に誠意をもってむきあうすてきな先生だった。
そのあと『セブン』をみると、いかれた犯人を
気もちわるくなるほどリアルにえんじたのが
つよく印象にのこった。
『ユージュアル・サスペクツ』でのケヴィン=スペイシーは、
意外性という意味でも、演技のたくみさにおいても、
さほどおどろかなかった。
この役で、ケヴィン=スペイシーは
アカデミー助演男優賞を手にしたそうで、
そっちのほうが よっぽど意外におもえる。

posted by カルピス at 22:47 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月01日

アレサ=フランクリンのあとをおうように わたしのiMacがいってしまった

8月に亡くなったアレサ=フランクリンさんは、
たいへん有名な方だったようで、ラジオ番組をきいていると、
なんどもアレサさんの死をいたむ発言を耳にしたし、
追悼の意をひょうして、彼女の曲もながされた。
けさもまた、アレサさんの特集みたいな番組があり、
車のラジオでききながら職場へむかった。

職場につき、クッキーづくりをはじめても、
ラジカセでおなじ番組に周波数をあわせる。
モノラルのラジカセなので、とうぜん音の質はわるい。
相性にしても、クッキーをまるめる仕事と、
アレサさんのうたは、あまりあわない気がする。
とにかく、彼女の声をききながら仕事をするという、
状況をつくれたことが この場合は大切なのだ。
シーンとしずまりかえったクッキー工房に、
とつぜんながれたアレサさんのうたごえは、
クッキーづくりの地道な仕事こそ、
社会へのコミットメントにほかならないとおもわせる。

ミーハーでにわかファンのわたしは、
きのうツタヤでアレサさんのCDをかりてきて、
iMacのiTunesにいれた。
そのアルバムをプレイリストにのせ、
車できけるようCDにコピーする。
いまおもえば、それがiMacの、さいごの仕事だった。
画面がフリーズしているので、
起動ボタンを ながおしして電源をきり、もういちどスイッチをいれる。
でも、リンゴをバックに、まるいマークがクルクルうごくだけで、
いつまでたっても 起動の画面にならない。
ハードディスクがこわれたのだ。
まえにもなんどかおなじような症状でマックとおわかれしている。
7年まえにかったiMacなので、寿命がきたとおもうしかない。

さいわい、iMacはシステムがOS10.6.8とふるく、
補助的な位置づけにすぎなかった。
メインは15インチのMacBook Proを、
23インチのモニターにつないでつかっている。
こちらもふるいパソコンだけど、システムだけはOS10.13.3にあげた。
iMacがこわれても、ひどくこまりはしないけど、
とつぜんのおわかれは、いかにも残念だ。
それにしても、アレサさんのCDづくりをさいごに、
むこうの世界へいってしまうなんて、
パソコンながら、人情をかんじさせる演出がにくい。
あまりにもできすぎたiMacの生涯に、
アレサ=フランクリンとの 不思議な縁をおもった。

posted by カルピス at 22:15 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする