朝日新聞の土曜日版beで、
石飛幸三さんが平穏死について連載している。
興味ぶかいかんがえ方がのべてあるので、本もよんでみようと、
石飛さんがかかれた『「平穏死」のすすめ』を図書館でかりてきた。
副題には、「口から食べられなくなったらどうしますか」とある。
親が死をむかえるとき、おおくの家族は
すこしでもながく生きてほしいと、
病院にできるかぎりの医療を期待する。
家により、ぞれぞれ事情があるだろうから
どんな対応が正解かは だれにもきめられない。
とはいえ、自分がそうした状況におかれたとき、
やってほしくないことは、きっぱりおことわりしたい。
家族や病院にたいし、自分のかんがえを
はっきりつたえておきたいとおもうようになった。
ほとんどの方は喋れません。寝たきりで寝返りも打てません。今このひとたちは何を考えておられるのだろう。どんな思いでおられるのだろう。鼻から管を入れられて、1日三回宇宙食のような液体を滴下され、定時的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。胃に直接注入される”宇宙食”は、ご本人にはどのような味がするのでしょうか。(中略)この人たちは誰のためにこんな難行苦行を強いられなければならないのでしょう。
寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥性肺炎を起こします。膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を出します。これは治療なのか、何のための栄養補給か。
せんじつよんだ『あおいけあ流介護の世界』には、
考えてみれば、我々はいつから高齢者の自由を奪うことに慣れきってしまったのだろう。「医療上必要だから・・・」、「安全のため必要だから・・・」しかし、彼らの自由を奪ってまで必要なことが本当にあるのだろうか。自分が歳をとった時にそれをされたらどう思うのだろうか。
とあった。
わたしだっていつ脳梗塞をおこしたり、
認知症の症状がでたりして、家族の負担となり、
施設へいれられるかわからない。
「あおいけあ」のように、すぐれた施設もあるとはいえ、
おおくの施設では 自分にあったサービスをうけられそうにない。
「口から食べられなくなったら・・・」は、
親の みとり の問題であるとともに、
どんなさいごをのぞむのかという 自分の問題でもある。
すべての状況を想定はできないけれど、
ひとつの線として、自分でものをたべられなくなったら、
延命措置をうけてまで生きるのはやめようとおもっている。
自分の意思をはっきり病院につたえ、
管からの栄養補給はうけない。
たべられなくなったときが寿命なのだとうけいれ、
あとは水分だけとってしずかに死をまちたい。
死ぬのはこわいけど、ねたきりで生かされるのは、なお おそろしい。