近年、若い世代を中心に、いかにも方言らしい表現で場面に応じたキャラクターを演じ分ける手法がしばしば見られます。田中ゆかり・日本大教授のいう「方言コスプレ」です。(中略)
(方言が)次第に「面白い」「かわいい」と見なされるようになりました。方言コスプレは、その風潮の中で生まれました。(校閲センターから)
島根県の出雲地方では出雲弁がはなされている。
関西弁や博多弁ほど一般的な方言ではなく、
ほかの県からきたひととはなすときは、
なれない標準語(もどき)になりがちだけど、
島根県人だけの会話は、わかいひとでも
出雲弁が共通語としてはなされている。
わたしは、そんな島根にすみながら、
母語である出雲弁についてのコンプレックスが根づよく、
職場でさえ出雲弁をつかわない。
出雲弁はかっこわるい方言におもえ、
出雲弁をはなす自分をかくそうとする。
わたしは、英語があたかも世界の共通語としてあつかわれたり、
日本語のいわゆる標準語が幅をきかすのは
よろしくない状況とかんがえる人間なのに、
現実には、自分こそが方言をはずかしがってつかわない。
津村記久子さんが、
方言使う賢い人がいちばん怖い、最強やなと思います。
とどこかではなしていた。
自分の母語である方言を、
はずかしがらずに堂々とつかうひとが最強、
というのはとてもよくわかる。
ありのままの自分に自信をもち、
方言をあやつる中央のエリートたちにも
けして卑屈にならずわたりあえる。
わたしみたいに、方言をはなすべき、
と、たてまえとしてはいうくせに、
じっさいは 標準語もどきでごまかしているような人間が、
いちばんなにもできないタイプだ。
くみしやすく、むきあってもこわくない。
はなすことばは、生まれもった資質なので、
自分でどうすることもできない。
だからひらきなおって出雲弁をつかえばよさそうなものだけど、
これまでにはずかしいおもいをした かずかずのかなしい歴史が
母語である出雲弁をおさえこもうとする。
せっかく「方言コスプレ」というあたらしいうごきがでてきても、
出雲弁には縁のない現象だとおもいこんでいる。
方言へのコンプレックスからときはなたれるには、
わたしはあまりにもこころがよわく、自意識過剰のようだ。
津村記久子さんが「方言使う賢い人がいちばん怖い」とみぬいたのは、
サッカーの取材でおおくの地方をまわり、
堂々と方言をはなすひとにであった実感なのだろう。
わたしのまわりには、出雲弁をふつうにはなすひとがいくらでもいる。
「方言コスプレ」ではなく、母語としての方言であり、
ネイティブらしい自由な空気がここちいい。
それなのに、わたしはいつまでも実践がともなわず、
「方言をつかわない いちばんこわくないひと」だ。
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