今シーズンのJリーグおよびサッカー日本代表は、
ほとんどの試合をおえた。
のこるおもな大会は、UAEでおこなわれるクラブW杯のみとなる。
天皇杯さえ、12月9日におわってしまい、
なんだか肩すかしをくったかんじだ。
元旦の天皇杯は、日程がたいへんなのかもしれないけど、
12月上旬に天皇杯の決勝がおこなわれるとはおもわなかった。
12月につきものの10大ニュースをかってにまとめてみた。
1 川崎フロンターレのリーグ2連覇
序盤はつまづいたものの、リーグ戦中盤にはいってからは、
本来のつよさをとりもどし、パスをつなぎ、相手を圧倒する。
中村憲剛・家長・大島・小林・守田など、
ベテランと若手がうまくかみあい、
パスサッカーがきょねんよりもさらに成熟した。
ほかのチームがまねできないたかいレベルにたっしている。
2 森保氏がA代表とオリンピック代表の監督をかねる
新体制になってからの試合で若手選手が積極的に起用され、
これからの活躍がたのしみになる。
3 V・ファーレン長崎が1年で降格となる
終盤はかてなくなったものの、
シーズン開幕当初の善戦が印象にのこる。
高木監督のおだやかなかたりくちがすてきだった。
4 横浜マリノスのハイプレスサッカー
攻撃のときは、ゴールキーパーもセンターサークルまであがり、
たかいポジションをとる。
得点はうばえたものの、失点もおおく、かろうじて残留する。
56得点は、首位のフロンターレにつづく2位。
56失点は、リーグでしたから3番目。
5 神戸にイニエスタ、鳥栖にフェルナンドトーレスが加入
とくにイニエスタは、たかい技術をみせつけ、
その存在が社会現象となり、おおくのファンを会場にあつめる。
6 ガンバ大阪が宮本監督にかわってから9連勝で降格圏をだっする
最終的には9位まで順位をあげる。
7 湘南ベルマーレがJリーグ杯のルヴァン杯で優勝する
8 壮絶な残留あらそい
最終節をおえた段階で、5チームがかち点41にならんでいた。
16位となったジュビロ磐田がJ1リーグ参入プレーオフにまわり、
J2の東京ヴェルディとの試合にかち、残留をきめている。
9 風間監督のひきいる名古屋グランパスが、1年目での残留をきめる
10 W杯2ヶ月まえに、代表監督のハリルホジッチ氏が解任される
その後西野氏が代表監督につき、W杯でベスト16にすすむ。
解任の理由が理解しにくく、すっきりしないうごきだった。
2018年12月11日
2018年12月10日
たのしんでいるうちに、「すごく広いところに出てしまった」林雄二さん
デイリーポータルZの林雄司さんがパリへでかけ、
「顔が大きくなる箱」を展示している。
https://dailyportalz.jp/kiji/reeaction_to_bigfacebox
この箱をかぶると、そのなかの顔がおおきくみえておもしろい。
おもしろいけど、ただそれだけともいえるのに、
どこで展示しても、ものすごくうけるらしい。
この記事では、これまでおとずれた国の
それぞれの反応がまとめられている。
わたしは、おおきな顔をみただけで、
あんなに無邪気な笑顔をみせられるだろうかと、
うややましくなるほどみんなわらっている。
いいなー、とおもったのは、
「ハーイとかいう人生」という、
林さんによるまとめのようなもの。
「それを進めていったらものすごく広いところに出てしまった」
がすばらしい。
たのしくやっていて、気づいたら
とんでもないたかみにたっしていた林雄二さん。
林さんは、いまサイコーの人生をおくっている。
「顔が大きくなる箱」を展示している。
https://dailyportalz.jp/kiji/reeaction_to_bigfacebox
この箱をかぶると、そのなかの顔がおおきくみえておもしろい。
おもしろいけど、ただそれだけともいえるのに、
どこで展示しても、ものすごくうけるらしい。
ぬけぬけと言うと、めちゃくちゃ受けた。トレビアンとなんども言われた。
この記事では、これまでおとずれた国の
それぞれの反応がまとめられている。
わたしは、おおきな顔をみただけで、
あんなに無邪気な笑顔をみせられるだろうかと、
うややましくなるほどみんなわらっている。
いいなー、とおもったのは、
「ハーイとかいう人生」という、
林さんによるまとめのようなもの。
サンフランシスコ郊外でのメイカーフェアのとき、bigfaceboxの展示も2回めだったので、ほかの出店者に bigface! と声をかけられて笑いながら Hi とか答えていた。
あ、おれいま西海岸でハーイとか言ってる!
そして「楽しい人生だな」と思っていることに気づいた。なんだこの素直さは。
あまのじゃくな性格が災いしてインターネットでちまちまおかしなものを作っていたのだが、それを進めていったらものすごく広いところに出てしまった。
これからもきっとハーイとか言っていくと思う。
「それを進めていったらものすごく広いところに出てしまった」
がすばらしい。
たのしくやっていて、気づいたら
とんでもないたかみにたっしていた林雄二さん。
林さんは、いまサイコーの人生をおくっている。
2018年12月09日
本格的な冬のおとずれで、ねぐら型クッションをココにプレゼントする
11月下旬からあたたかい日がつづき、
冬なんてほんとにくるのか、さむさがなつかしい、
なんてうそぶいてたら、予報どおりほんものの さむい冬がきた。
からだがなれてないので、秋からいきなり真冬になった気がする。
さむさにそなえ、ホームセンターでクッションをかい、
ネコのココにプレゼントした。
ドーム型のおおいがついていて、いごこちのいいねぐらになりそうだ。
これまでかっていたネコは、
家のなかを自由にあるきまわっていたので、
冬になると母の部屋のコタツが彼らの居場所になっていた。
ココはいまのところ3部屋だけにかぎっているので、
冬のさむさがこたえるだろうと、ねぐら型クッションをおもいついた。
でもココは、クッションのにおいをかぐだけでなかにはいらない。
ダンボールなんかがあると、すぐにもぐりこむのに、
なんのためのクッションなのか、つかい方がわからないようだ。
せっかくのプレゼントなのに・・・と、残念がっていたら、
あそびにきたキジトラがさっとクッションにはいりまるくなった。
ノラネコの彼女は、ほぼ毎日わが家をたずねてきて、
ご飯と人間からのナデナデをもとめる。
きのうは、ご飯をたべおえるとすぐに、
ストーブのちかくにあるクッションへむかった。
まえから自分の寝床だったように、なれたうごきだ。
こうなると、ココは自分のねぐらがほしくなったようで、
まるまっているキジトラにちょっかいをだす。
これまでは、メスネコにたいする関心だったのが、
クッションにかんしては、あきらかに
自分の居場所を確保しようとしたうごきだった。
自分のご飯がたべられても、人間たちがキジトラをナデナデしても、
そばでうろつくだけだったココが、
クッションあらそいでは、ほんとにおこって手をだしている。
キジトラがクッションのつかいみちをおしえてくれなければ、
ココはせっかくのプレゼントをほったらかしにしていたくせに。
ほかのネコがいいおもいをするのはゆるせないなんて、
なんだか人間の子どもたちのやりとりをみているみたいだ。
わたしの仲介もあり、キジトラを外にかえすと、
ココは「まったくもう!」みたいな顔をして
自分のねぐらにまるくなった。
キジトラはそれからもちょくちょくあそびにきて、
ご飯とストーブ、それにクッションをたのしんでからかえる。
2匹のネコがあそぶようすをながめながら、
あたたかくもえるストーブにあたってくつろいでいると、
冬のさむさもまたわるくないとおもえてくる。
冬なんてほんとにくるのか、さむさがなつかしい、
なんてうそぶいてたら、予報どおりほんものの さむい冬がきた。
からだがなれてないので、秋からいきなり真冬になった気がする。
さむさにそなえ、ホームセンターでクッションをかい、
ネコのココにプレゼントした。
ドーム型のおおいがついていて、いごこちのいいねぐらになりそうだ。
これまでかっていたネコは、
家のなかを自由にあるきまわっていたので、
冬になると母の部屋のコタツが彼らの居場所になっていた。
ココはいまのところ3部屋だけにかぎっているので、
冬のさむさがこたえるだろうと、ねぐら型クッションをおもいついた。
でもココは、クッションのにおいをかぐだけでなかにはいらない。
ダンボールなんかがあると、すぐにもぐりこむのに、
なんのためのクッションなのか、つかい方がわからないようだ。
せっかくのプレゼントなのに・・・と、残念がっていたら、
あそびにきたキジトラがさっとクッションにはいりまるくなった。
ノラネコの彼女は、ほぼ毎日わが家をたずねてきて、
ご飯と人間からのナデナデをもとめる。
きのうは、ご飯をたべおえるとすぐに、
ストーブのちかくにあるクッションへむかった。
まえから自分の寝床だったように、なれたうごきだ。
こうなると、ココは自分のねぐらがほしくなったようで、
まるまっているキジトラにちょっかいをだす。
これまでは、メスネコにたいする関心だったのが、
クッションにかんしては、あきらかに
自分の居場所を確保しようとしたうごきだった。
自分のご飯がたべられても、人間たちがキジトラをナデナデしても、
そばでうろつくだけだったココが、
クッションあらそいでは、ほんとにおこって手をだしている。
キジトラがクッションのつかいみちをおしえてくれなければ、
ココはせっかくのプレゼントをほったらかしにしていたくせに。
ほかのネコがいいおもいをするのはゆるせないなんて、
なんだか人間の子どもたちのやりとりをみているみたいだ。
わたしの仲介もあり、キジトラを外にかえすと、
ココは「まったくもう!」みたいな顔をして
自分のねぐらにまるくなった。
キジトラはそれからもちょくちょくあそびにきて、
ご飯とストーブ、それにクッションをたのしんでからかえる。
2匹のネコがあそぶようすをながめながら、
あたたかくもえるストーブにあたってくつろいでいると、
冬のさむさもまたわるくないとおもえてくる。
タグ:ねぐら型クッション
2018年12月08日
福岡マラソンと参加選手のBMIについて
おくればせながら、12月2日(日)におこなわれた
2018年福岡マラソンを録画でみる。
マラソンを録画でみるのははじめてだ。
コマーシャルをとばせるので、あたりまえながら、
2時間ちょっとのレースがすぐにすすんでいく。
服部優馬選手が14年ぶりに
日本人選手としての優勝をはたしたこのレース。
積極的なレースはこびがたかい評価をえたし、
気温20℃という よくないコンディションのなか、
ほかの日本人選手も健闘をみせた。
テレビの画面では、選手のはしりにふれるとき、
ゼッケンナンバーと氏名のほかに、身長と体重もしめされる。
優勝した服部選手の体重は63キロで、
身長からすると(176センチ)おもいのに気づいた。
マラソン選手というと、とくに女性ランナーは、
すごくやせているひとがおおい。
かるければ、無駄なエネルギーはつかわないけれど、
脂肪のすくないからだは余裕のなさでもあり、調整がむつかしい。
大切なレースのまえに、高橋Qちゃんが体重をへらしすぎて
おもうようにはしれなかったのをおぼえている。
服部選手は、上半身がやせていながら63キロなので、
よほど充実した下半身なのだろう。
ただ、やせているといっても、
かつてのマラソン選手の体格よりはずっと筋肉質だ。
ひきしまっている、といったほうがいいかもしれない。
男性ランナーも、むかしでいえば宗兄弟や、中山選手、
今回4位だった設楽選手なども
マラソンランナーのイメージどおりのプロポーションだ。
うでがほそく、長距離だけに特化したからだつき。
選手の体重について興味がわいたので、
上位にはいった選手についてBMIをだしてみた。
日本ではBMIが22程度を 標準体重とされている。
もっとも、競技によって体格にちがいがあり、
マラソンでBMIが22というと、かなりふとめの選手となる。
ここではいちおうの目安としてあげた。
181208福岡マラソンBMI指数.pdf
川内選手は、マラソン選手らしからぬ体格が頭にうかぶとおり、
8人のなかで ひときわたかいBMIだ。
たくさんの練習をこなしながら、
よくこの体重を維持できるものだと不思議にもおもえる。
ゲンをかついで、福岡にはいるといつもたべるという
おおもりのカレーライスのせいでは おそらくない。
ずっといまのような体格なので、川内選手にとって、
65キロという体重が いちばん調子よくはしれるのだろう。
設楽選手のやせ方も、川内選手とは逆の方向でぬきんでている。
高橋Qちゃんのように、やせすぎてちからが発揮できなくないか、
心配になる数字だ(レーズのあとではなんとでもいえる)。
そこへいくと、服部選手のBMI 20.34は、
きわめてバランスがとれている。
ちからづよく、スピードをだせるはしりは、
この体格からもたらされているのではないか。
かてば官軍で、優勝したからなんでもすぐれている、
というわけではないけど、テレビがうつしだす
服部選手のプロポーションと、余裕のあるはしりをみていると、
今回の優勝は体重からもうらづけされているのがわかる。
アフリカ勢はともかくとして、
日本人がマラソンで好タイムをめざすとき、
これまでのようにほそいプロポーションでは世界とたたかえない。
これからのマラソンランナーについて かってに推測すると、
BMIは20くらいがちょうどいいんじゃないかと
ちからづよくわたしは断言する。
だからどうというわけではないけど。
2018年福岡マラソンを録画でみる。
マラソンを録画でみるのははじめてだ。
コマーシャルをとばせるので、あたりまえながら、
2時間ちょっとのレースがすぐにすすんでいく。
服部優馬選手が14年ぶりに
日本人選手としての優勝をはたしたこのレース。
積極的なレースはこびがたかい評価をえたし、
気温20℃という よくないコンディションのなか、
ほかの日本人選手も健闘をみせた。
テレビの画面では、選手のはしりにふれるとき、
ゼッケンナンバーと氏名のほかに、身長と体重もしめされる。
優勝した服部選手の体重は63キロで、
身長からすると(176センチ)おもいのに気づいた。
マラソン選手というと、とくに女性ランナーは、
すごくやせているひとがおおい。
かるければ、無駄なエネルギーはつかわないけれど、
脂肪のすくないからだは余裕のなさでもあり、調整がむつかしい。
大切なレースのまえに、高橋Qちゃんが体重をへらしすぎて
おもうようにはしれなかったのをおぼえている。
服部選手は、上半身がやせていながら63キロなので、
よほど充実した下半身なのだろう。
ただ、やせているといっても、
かつてのマラソン選手の体格よりはずっと筋肉質だ。
ひきしまっている、といったほうがいいかもしれない。
男性ランナーも、むかしでいえば宗兄弟や、中山選手、
今回4位だった設楽選手なども
マラソンランナーのイメージどおりのプロポーションだ。
うでがほそく、長距離だけに特化したからだつき。
選手の体重について興味がわいたので、
上位にはいった選手についてBMIをだしてみた。
日本ではBMIが22程度を 標準体重とされている。
もっとも、競技によって体格にちがいがあり、
マラソンでBMIが22というと、かなりふとめの選手となる。
ここではいちおうの目安としてあげた。
181208福岡マラソンBMI指数.pdf
川内選手は、マラソン選手らしからぬ体格が頭にうかぶとおり、
8人のなかで ひときわたかいBMIだ。
たくさんの練習をこなしながら、
よくこの体重を維持できるものだと不思議にもおもえる。
ゲンをかついで、福岡にはいるといつもたべるという
おおもりのカレーライスのせいでは おそらくない。
ずっといまのような体格なので、川内選手にとって、
65キロという体重が いちばん調子よくはしれるのだろう。
設楽選手のやせ方も、川内選手とは逆の方向でぬきんでている。
高橋Qちゃんのように、やせすぎてちからが発揮できなくないか、
心配になる数字だ(レーズのあとではなんとでもいえる)。
そこへいくと、服部選手のBMI 20.34は、
きわめてバランスがとれている。
ちからづよく、スピードをだせるはしりは、
この体格からもたらされているのではないか。
かてば官軍で、優勝したからなんでもすぐれている、
というわけではないけど、テレビがうつしだす
服部選手のプロポーションと、余裕のあるはしりをみていると、
今回の優勝は体重からもうらづけされているのがわかる。
アフリカ勢はともかくとして、
日本人がマラソンで好タイムをめざすとき、
これまでのようにほそいプロポーションでは世界とたたかえない。
これからのマラソンランナーについて かってに推測すると、
BMIは20くらいがちょうどいいんじゃないかと
ちからづよくわたしは断言する。
だからどうというわけではないけど。
タグ:マラソン
2018年12月07日
どこにメモしたかをさがすのは すごく無駄だけどなんとかなる
なかなかなりやまない電話について きのうかいた記事は、
かきはじめてから ほんの30分でアップできた。
ただ そのまえに、ざっとメモした
ことのあらましをさがすのに 45分かかけている。
コピペすれば、すぐにできあがるほど、
完成度のたかいメモをかいたはずなのに、どこにもみあたらない。
あれさえあれば、すぐにアップできてらくだからと、
なんどもおなじ場所を無駄にさがしていた。
エバーノートにかいたとおもっていたのに、ちがった。
Scrapbox でも、WorkFlowyでもなかった。
ほぼ日手帳だったかなと、よみかえしてみるけど、ない。
さがしているうちに、いったいどれだけまえのことなのか
わからなくなってきて、ずいぶんさかのぼってさがした。
けっきょく、ロディアのメモ帳にあったのだけど、
記憶にあったような ほぼ完璧なメモではなく、
ただ数行をかきなぐっただけのものだった。
ロディアだと気づくまえに記事をかきだしており、
じっさい、ロディアにかいたメモがなくても
ぜんぜんさしつかえなかった。
この件の教訓は、
にがした魚は、じつはそんなにおおきくない、ではなくて、
たいしてやくにたたないから、
メモをしなくても大丈夫、でもなくて、
どこにメモしたかをさがすと、時間が無駄なので、
ひとつの場所にきめたようがいいみたい、でもない。
そうかくと、おりこーちゃん的ですてきだけど、
じっさいは、なかなかメモがみつからなくても、
けっきょくなんとかなる、というのが実感だ。
よくいわれるように、さがしものの時間は無駄でしかない。
あたりまえすぎるけど、ひらきなおっていえば、
教訓とはだいたいあたりまえのことがおおい。
あたりまえのことを、あたりまえにやるには、
なにか しくみづくりがほしいところだ。
わたしの場合、はじめにメモする場所はどこでもいいとして、
それらをエバーノートで一元管理したほうがまぎれにくい。
いつもはエバーノートになんでもあつめているつもりなのに、
今回の件では、つい手をゆるめてしまった。
でもまあ、それはそれで味のある時間をすごせた。
自由ポータルZの記事にたいする編集部からのコメントに、
「資料やメモを撮っておく」とあった。
これは、写真でとっておくと、管理がらくだよ、ということと、
執筆までは原紙も保管しておきましょう!
と、おしえてくれている。
保管しておく期限をかぎっているのがミソだ。
執筆さえすませれば用はすむのですててもいい。
執筆(アウトプット)までは一元管理で。
目的をはたしたあとは、どうあつかっても問題ない。
かきはじめてから ほんの30分でアップできた。
ただ そのまえに、ざっとメモした
ことのあらましをさがすのに 45分かかけている。
コピペすれば、すぐにできあがるほど、
完成度のたかいメモをかいたはずなのに、どこにもみあたらない。
あれさえあれば、すぐにアップできてらくだからと、
なんどもおなじ場所を無駄にさがしていた。
エバーノートにかいたとおもっていたのに、ちがった。
Scrapbox でも、WorkFlowyでもなかった。
ほぼ日手帳だったかなと、よみかえしてみるけど、ない。
さがしているうちに、いったいどれだけまえのことなのか
わからなくなってきて、ずいぶんさかのぼってさがした。
けっきょく、ロディアのメモ帳にあったのだけど、
記憶にあったような ほぼ完璧なメモではなく、
ただ数行をかきなぐっただけのものだった。
ロディアだと気づくまえに記事をかきだしており、
じっさい、ロディアにかいたメモがなくても
ぜんぜんさしつかえなかった。
この件の教訓は、
にがした魚は、じつはそんなにおおきくない、ではなくて、
たいしてやくにたたないから、
メモをしなくても大丈夫、でもなくて、
どこにメモしたかをさがすと、時間が無駄なので、
ひとつの場所にきめたようがいいみたい、でもない。
そうかくと、おりこーちゃん的ですてきだけど、
じっさいは、なかなかメモがみつからなくても、
けっきょくなんとかなる、というのが実感だ。
よくいわれるように、さがしものの時間は無駄でしかない。
あたりまえすぎるけど、ひらきなおっていえば、
教訓とはだいたいあたりまえのことがおおい。
あたりまえのことを、あたりまえにやるには、
なにか しくみづくりがほしいところだ。
わたしの場合、はじめにメモする場所はどこでもいいとして、
それらをエバーノートで一元管理したほうがまぎれにくい。
いつもはエバーノートになんでもあつめているつもりなのに、
今回の件では、つい手をゆるめてしまった。
でもまあ、それはそれで味のある時間をすごせた。
自由ポータルZの記事にたいする編集部からのコメントに、
「資料やメモを撮っておく」とあった。
撮影の時にメモを取ったり、取材の場合は資料をもらうじゃないですか。紙であればもちろん手元には残るんですけど、あわせてその場で写真に撮っておくといいです。紛失することがなくなるし、写真とひとまとめで管理できるので、楽です。
ただ、撮ったからといってすぐ捨ててしまうと、あとで映りが悪くて判読できない場合があります。執筆までは原紙も保管しておきましょう!
これは、写真でとっておくと、管理がらくだよ、ということと、
執筆までは原紙も保管しておきましょう!
と、おしえてくれている。
保管しておく期限をかぎっているのがミソだ。
執筆さえすませれば用はすむのですててもいい。
執筆(アウトプット)までは一元管理で。
目的をはたしたあとは、どうあつかっても問題ない。
タグ:メモ
2018年12月06日
なりつづける電話との 意地のはりあいにかった
このまえのやすみの日、
でかけようとしているときに、電話がなりだした。
同居している母の電話だ。
母はるすだったので、ほんらいなら
わたしが電話にでて要件をきくべきなのだけど、
めんどくさいので そのままなりやむのをまった。
どうせ、ややこしいセールスからの電話だろう。
でも、いつまでたっても電話がなりつづけている。
それまで ほっておいたのだから、
いまさら「もしもし?」なんて電話にでれない。
これだけしつこくベルをならすのは、
よほどの緊急事態なのだろうか。
なりやむのをまつわたしと、
受話器をとるのをまちつづけるひととの、
意地のはりあいみたいな緊張の時間がしばらくつづいた。
けっきょくわたしがかち、電話はようやくなりやんだ。
わたしはいやなかんじをかかえたまま家をでる。
もし緊急の連絡だったとしたら、
ひどいことをした(しなかった)ことになる。
でもまあ、ほんとうの緊急事態であれば、
なんとか母にしらせようと、
そのあともまた電話がかかってくるだろう。
家にもどった母が、おそかれはやかれ内容をしるわけだから、
あとでどんな電話だったかおしえてもらおう。
それにしても、あれだけながいあいだ
ベルをならしつづけるのは、そうとう大切な内容だったのだろう。
もし緊急事態でないとしたら、かなり問題のある人物だ。
わたしが夕方に家にもどっても、
電話について母はなにもいわなかった。
こちらからもたずねなかったので、
電話がかかってきたかどうか、かかってきたとしたら、
どんな内容だったのかはわからない。
わたしになにもいわないのだから、
緊急事態でなかったのはたしかだ。
なんということのない内容の電話だったとしたら、
あれだけベルをならしつづけるのは
どんな神経のもちぬしなのだろう。
ただのセールスだったなら、わたしがでなかったのは正解で、
母の友だちだったとしても、わたしがでなかったのは正解だ。
緊急事態でなくてよかったと安心し、
電話の対応のむつかしさと奇妙さをしる機会となった。
この件の教訓は、電話がしつこくなりつづけても、
きっとたいした要件ではないので、でなくても大丈夫、だ。
でかけようとしているときに、電話がなりだした。
同居している母の電話だ。
母はるすだったので、ほんらいなら
わたしが電話にでて要件をきくべきなのだけど、
めんどくさいので そのままなりやむのをまった。
どうせ、ややこしいセールスからの電話だろう。
でも、いつまでたっても電話がなりつづけている。
それまで ほっておいたのだから、
いまさら「もしもし?」なんて電話にでれない。
これだけしつこくベルをならすのは、
よほどの緊急事態なのだろうか。
なりやむのをまつわたしと、
受話器をとるのをまちつづけるひととの、
意地のはりあいみたいな緊張の時間がしばらくつづいた。
けっきょくわたしがかち、電話はようやくなりやんだ。
わたしはいやなかんじをかかえたまま家をでる。
もし緊急の連絡だったとしたら、
ひどいことをした(しなかった)ことになる。
でもまあ、ほんとうの緊急事態であれば、
なんとか母にしらせようと、
そのあともまた電話がかかってくるだろう。
家にもどった母が、おそかれはやかれ内容をしるわけだから、
あとでどんな電話だったかおしえてもらおう。
それにしても、あれだけながいあいだ
ベルをならしつづけるのは、そうとう大切な内容だったのだろう。
もし緊急事態でないとしたら、かなり問題のある人物だ。
わたしが夕方に家にもどっても、
電話について母はなにもいわなかった。
こちらからもたずねなかったので、
電話がかかってきたかどうか、かかってきたとしたら、
どんな内容だったのかはわからない。
わたしになにもいわないのだから、
緊急事態でなかったのはたしかだ。
なんということのない内容の電話だったとしたら、
あれだけベルをならしつづけるのは
どんな神経のもちぬしなのだろう。
ただのセールスだったなら、わたしがでなかったのは正解で、
母の友だちだったとしても、わたしがでなかったのは正解だ。
緊急事態でなくてよかったと安心し、
電話の対応のむつかしさと奇妙さをしる機会となった。
この件の教訓は、電話がしつこくなりつづけても、
きっとたいした要件ではないので、でなくても大丈夫、だ。
2018年12月05日
ほぼ日手帳カズンのつかい方をふりかえる
7年つづけてほぼ日手帳カズンをつかっている。
来年の手帳もカズンにした。
この7年間、つかい方にどんな変化があるのかを
ざっとふりかえってみようと、7冊に目をとおした。
基本的に、はじめたころも 7年後のいまも、
ほとんどかわらないつかい方をしている。
日記として、その日になにをやったかをかくのだから、
そうちがった様式にはならないのだろう。
手帳として、週間や月間の計画につかうのは、
はやばやとあきらめた。
いまは、なにをしたかだけの記録帳となっている。
2015年から、朝ごはんをたべながら新聞をよむとき、
まえの日の気温(最高・最低・平年との差)を
起床時間と天気の下に かきこんむようになった。
20年ぐらいたてば、あんがい貴重なデーターとなり、
意味がでてくるかもしれない。
温暖化がすすんだとき、むかしはこんなに気温がひくかったのか、
なんておどろくのにつかいたい。
そのほかは、あたりまえながら自分のことばかりがかいてある。
2015年の3月いっぱいでまえの仕事をやめており、
時間ができたので、トレーニングの回数や(月に20回)、
映画をみた本数がふえている(月に10本くらい)。
よくかきこんだ1冊なので、よみかえすとあんがいおもしろい。
ただ、あまりにも字がきたなくて、
自分でもなにがかいてあるのかを、よみとるのがたいへんだ。
まえは、ブログにかけないようなグチをかきこんで、
うさばらしにつかってきたけど、
このごろはそういうつかい方をしなくなった。
それだけ性格がおだやかになった、というわけではない。
自分のかんがえを、どうしてもとおしたいという
あついおもいがほとんどなく、
ただたんに、なにごともどうでもよくなっただけだ。
7年といえば、わたしがブログをかいた年数とかさなっている。
ほぼおなじ期間にわたり、ブログとほぼ日手帳をつけているわけだ。
手帳ですらむかしの記録をよみかえしたりしないのだから、
ブログをつづけても、記事がたまるだけで、
あとからよんだりしない気がしてきた。
デジタルデーターのつよみをいかして、
なんとか記事の山にうもれないようにしないと、
ただながい年数かいてきた、という事実だけにおわってしまう。
というわけで、10連休がうわさされている
来年のゴールデンウィークには、
キンドルでの本づくりにとりくみたい。
月刊はむりとしても、季刊をめざして
うもれそうなブログの記事にひかりをあてる(予定)。
来年の手帳もカズンにした。
この7年間、つかい方にどんな変化があるのかを
ざっとふりかえってみようと、7冊に目をとおした。
基本的に、はじめたころも 7年後のいまも、
ほとんどかわらないつかい方をしている。
日記として、その日になにをやったかをかくのだから、
そうちがった様式にはならないのだろう。
手帳として、週間や月間の計画につかうのは、
はやばやとあきらめた。
いまは、なにをしたかだけの記録帳となっている。
2015年から、朝ごはんをたべながら新聞をよむとき、
まえの日の気温(最高・最低・平年との差)を
起床時間と天気の下に かきこんむようになった。
20年ぐらいたてば、あんがい貴重なデーターとなり、
意味がでてくるかもしれない。
温暖化がすすんだとき、むかしはこんなに気温がひくかったのか、
なんておどろくのにつかいたい。
そのほかは、あたりまえながら自分のことばかりがかいてある。
2015年の3月いっぱいでまえの仕事をやめており、
時間ができたので、トレーニングの回数や(月に20回)、
映画をみた本数がふえている(月に10本くらい)。
よくかきこんだ1冊なので、よみかえすとあんがいおもしろい。
ただ、あまりにも字がきたなくて、
自分でもなにがかいてあるのかを、よみとるのがたいへんだ。
まえは、ブログにかけないようなグチをかきこんで、
うさばらしにつかってきたけど、
このごろはそういうつかい方をしなくなった。
それだけ性格がおだやかになった、というわけではない。
自分のかんがえを、どうしてもとおしたいという
あついおもいがほとんどなく、
ただたんに、なにごともどうでもよくなっただけだ。
7年といえば、わたしがブログをかいた年数とかさなっている。
ほぼおなじ期間にわたり、ブログとほぼ日手帳をつけているわけだ。
手帳ですらむかしの記録をよみかえしたりしないのだから、
ブログをつづけても、記事がたまるだけで、
あとからよんだりしない気がしてきた。
デジタルデーターのつよみをいかして、
なんとか記事の山にうもれないようにしないと、
ただながい年数かいてきた、という事実だけにおわってしまう。
というわけで、10連休がうわさされている
来年のゴールデンウィークには、
キンドルでの本づくりにとりくみたい。
月刊はむりとしても、季刊をめざして
うもれそうなブログの記事にひかりをあてる(予定)。
タグ:ほぼ日手帳
2018年12月04日
プレゼントをたずねられたとき、すぐにこたえられず残念だった
わたしはつとめさきの介護事業所で、
クッキーづくりにとりくんでいる。
利用者4人、職員3人のちいさなグループで、
わたしはあまり目だたなくてもいいポジションをえて、
気らくにはたらかせてもらっている。
12月にはいったせいか、
「プレゼントをもらうとしたら、なにがいい?」と、
きのう女性の利用者にたずねられた。
わたしになにかプレゼントしたい、という意味ではなく、
まさしく「(もしも)もらうとしたら」という純粋な質問だ。
なさけないことに、なにも頭におもいうかばなかった。
わたしがほしいものって、なんだろう。
ほかの職員にもはなしをふると、
そのひともすぐにはこたえられなかった。
「車」といちおう口にはしたものの、もちろん冗談だ。
プレゼントとしてもらうには おもたすぎる。
ノンタンじゃあるまいし、
おもちゃの赤い自動車でもないだろうし。
しばらくはなしあったのち、
おとなはプレゼントをイメージしにくいのでは、
という結論にいたった。
プレステ(ふるっ!)やプラモデルをプレゼントにもらい
こころをときめかせるには、
うすよごれ、世なれすぎてしまっている。
欧米のクリスマスでは、家族のあいだで
プレゼントのやりとりをするというけど、
いったいどんなものをプレゼントにするのだろう。
セーターとかシャツとか、
かんたんで実用的な品なのだろうか。
もらえたらものすごくうれしい、みたいなリストを、
あまりおとなはもっていないのでは。
子どもとちがい、プレゼントのリストをもたないのが
ふつうのおとな、という定義もありかもしれない。
質問をした女性に、おなじ質問を家にかえって
お母さんとお父さんにもしてみてください、とはなす。
彼女の予想では、お母さんは「時間」とこたえそうだという。
いつもいそがしくうごきまわっているひとなので、
ゆっくりした時間がほしいのでは、という意味だ。
いかにもおとながのぞみそうな「プレゼント」だけど、
これもことばのあそびであって、
じっさいのプレゼントにはならない。
もらってこころがポッとあたたかくなる
気のきいたプレゼントは、
おくり手よりも、うけ手のおおきさをあらわしている。
プレゼントをこたえられなくてなやむのがふつうのおとなで、
ほしいプレゼントを、さっとこたえるのが、
ワンランクうえのおとななのだと定義したい。
クッキーづくりにとりくんでいる。
利用者4人、職員3人のちいさなグループで、
わたしはあまり目だたなくてもいいポジションをえて、
気らくにはたらかせてもらっている。
12月にはいったせいか、
「プレゼントをもらうとしたら、なにがいい?」と、
きのう女性の利用者にたずねられた。
わたしになにかプレゼントしたい、という意味ではなく、
まさしく「(もしも)もらうとしたら」という純粋な質問だ。
なさけないことに、なにも頭におもいうかばなかった。
わたしがほしいものって、なんだろう。
ほかの職員にもはなしをふると、
そのひともすぐにはこたえられなかった。
「車」といちおう口にはしたものの、もちろん冗談だ。
プレゼントとしてもらうには おもたすぎる。
ノンタンじゃあるまいし、
おもちゃの赤い自動車でもないだろうし。
しばらくはなしあったのち、
おとなはプレゼントをイメージしにくいのでは、
という結論にいたった。
プレステ(ふるっ!)やプラモデルをプレゼントにもらい
こころをときめかせるには、
うすよごれ、世なれすぎてしまっている。
欧米のクリスマスでは、家族のあいだで
プレゼントのやりとりをするというけど、
いったいどんなものをプレゼントにするのだろう。
セーターとかシャツとか、
かんたんで実用的な品なのだろうか。
もらえたらものすごくうれしい、みたいなリストを、
あまりおとなはもっていないのでは。
子どもとちがい、プレゼントのリストをもたないのが
ふつうのおとな、という定義もありかもしれない。
質問をした女性に、おなじ質問を家にかえって
お母さんとお父さんにもしてみてください、とはなす。
彼女の予想では、お母さんは「時間」とこたえそうだという。
いつもいそがしくうごきまわっているひとなので、
ゆっくりした時間がほしいのでは、という意味だ。
いかにもおとながのぞみそうな「プレゼント」だけど、
これもことばのあそびであって、
じっさいのプレゼントにはならない。
もらってこころがポッとあたたかくなる
気のきいたプレゼントは、
おくり手よりも、うけ手のおおきさをあらわしている。
プレゼントをこたえられなくてなやむのがふつうのおとなで、
ほしいプレゼントを、さっとこたえるのが、
ワンランクうえのおとななのだと定義したい。
2018年12月03日
謙遜しない
デイリーポータルZに「自由ポータルZ」という企画があり
「デイリーポータルZみたいな余計なことがしてみたい」
というひとは自由に投稿できる。
そして、一定の水準にたっしている記事は、
毎週金曜日にデイリーポータルZでとりあげられるし、
編集部のだれかがコメントまでしてくれる。
先週の「自由ポータルZ」では、
記事のタイトルを、「適当取材」と名づけた投稿者にたいし、
編集部の古賀さんが、
としたうえで、
「謙遜しない」というアドバイスをよせている。
ネットというと、えたいのしれない
魑魅魍魎の世界かとおもっていたけど、
ディするひとはほんのすこし、とか、
「適当」とかいてあると、そのとおりにうけとめられるとか、
あんがいみたとおり、かいたとおりによまれる場所のようだ。
ほとんどの読者の意識は常識的で、
かいてあるとおりに記事をよみ、
よんだそのままをうけとめる。
ある意味では、健全ともいえるのではないか。
わたしは、これまでかいてきた記事に、
「つまらない記事ですが」と
予防線ははっていないつもりだけど、
「テキトー」ということばがすきで よくつかっている。
謙遜というよりは、ほんとうにテキトーだから
そうかいたわけだけど、
でも、そのまま「テキトー」だとうけとめられるのは
すこしつらいという 矛盾した心境でもある。
専属ライターがかいた
デイリーポータルZの記事をみればわかるように、
ちからずくで無理をとおす内容がすくなくない。
それでも「つまらないものですが」とは
絶対にかいてないのを みならうべきだろう。
とはいえ、わたしは「面白いから見て」という気もちはもってない。
この記事を おもしろいとおもうひとはわずかだろうけど、
よかったらみてね、というぐらいか。
おおくのひとにはうけいれられないのを承知しつつ、
わずかなひとでもわかってもらえたらうれしい。
「デイリーポータルZみたいな余計なことがしてみたい」
というひとは自由に投稿できる。
そして、一定の水準にたっしている記事は、
毎週金曜日にデイリーポータルZでとりあげられるし、
編集部のだれかがコメントまでしてくれる。
先週の「自由ポータルZ」では、
記事のタイトルを、「適当取材」と名づけた投稿者にたいし、
編集部の古賀さんが、
せっかく上手に書けているのでタイトルの「【適当取材】」は不要かなと思いました。
としたうえで、
「謙遜しない」というアドバイスをよせている。
「つまらないものですが」って言われて謙遜だと思うのは相手との人間関係があるからで、知らない人がネットに「つまらない記事です」って書いてたら、本当につまらないんだなと思ってしまうのだと思います。遠慮しないで、「面白いから見て」という気持ちで書きましょう!
ディスられを予防するために「適当な取材だから穴があるかもだけど勘弁してね」みたいな気持ちで入れたんじゃないかと思うんですよね。でもディスる人はほんと数%で、読んでるほとんどの人は「適当」と書いてあると、「ああ適当な記事なんだな」とそのまんま受け取るので結果遠慮してると損をするという。
ネットというと、えたいのしれない
魑魅魍魎の世界かとおもっていたけど、
ディするひとはほんのすこし、とか、
「適当」とかいてあると、そのとおりにうけとめられるとか、
あんがいみたとおり、かいたとおりによまれる場所のようだ。
ほとんどの読者の意識は常識的で、
かいてあるとおりに記事をよみ、
よんだそのままをうけとめる。
ある意味では、健全ともいえるのではないか。
わたしは、これまでかいてきた記事に、
「つまらない記事ですが」と
予防線ははっていないつもりだけど、
「テキトー」ということばがすきで よくつかっている。
謙遜というよりは、ほんとうにテキトーだから
そうかいたわけだけど、
でも、そのまま「テキトー」だとうけとめられるのは
すこしつらいという 矛盾した心境でもある。
専属ライターがかいた
デイリーポータルZの記事をみればわかるように、
ちからずくで無理をとおす内容がすくなくない。
それでも「つまらないものですが」とは
絶対にかいてないのを みならうべきだろう。
とはいえ、わたしは「面白いから見て」という気もちはもってない。
この記事を おもしろいとおもうひとはわずかだろうけど、
よかったらみてね、というぐらいか。
おおくのひとにはうけいれられないのを承知しつつ、
わずかなひとでもわかってもらえたらうれしい。
2018年12月02日
『タネをまく縄文人』(小畑弘己)
『タネをまく縄文人』(小畑弘己・吉川弘文館)
縄文時代に農耕、とくに稲作が
すでにおこなわれていたかどうかに興味がある。
縄文文化とかさなるようで、
照葉樹林文化のはなしもすきだ。
縄文時代の稲作や、照葉樹林文化は、
いまでは決着がついているそうだけど、
専門的すぎて、わたしにはよくわからない。
ばくぜんとした理解のまま、縄文時代があいかわらずすきだ。
作者の小畑氏によると、縄文人はダイズをそだてていたという。
と、ここでなにげなく「縄文人」とかいたけど、
「縄文人」という表現は定義がむつかしく、あいまいなので、
「縄文時代の人」というほうが正確らしい。
それでも著者は、あえてわかりやすく「縄文人」だったり、
「農耕」「栽培植物」など、一般的に
なじみのあることばをつかってくれる。
とにかく、縄文人は、ダイズを栽培していた、
と小畑氏はかんがえている。
縄文人というと、狩猟採集により
たべものをえていたひと、というイメージがあるけど、
農耕にも彼らはとりくんでいた。
かんがえてみると、
成人男子がいちにちに必要といわれる2000カロリーを
狩猟採集によってとりいれるのは、そうかんたんではない。
わたしたちがもし無人島になげだされたとしたら、
どうやって必要なカロリーを確保するだろう。
山には植物がたくさんはえているといっても、
そのどれもをたべられるわけではない。
いまのわたしたちは、お金をだせばなんでもかえるからこそ、
食料生産にかかわらない仕事についたり、
やすみの日にのんびりくつろいだりできる。
狩猟採集だけで安定したくらしをつづけるのは
自然からのめぐみが、よほどゆたかでないとなりたたない。
魚がたくさんいる川があり、貝をたくさんひろえる海があり、
山にはクリやドングリがたくさんなっている土地。
そんなゆたかな土地でも、そこでくらせる人間の数は、
おのずと手にはいるたべものによって制限される。
農耕により、安定した収穫をえようとするのは、
自然のながれにおもえる。
縄文時代に生きたひとびとは、
おおきなタネをえらんで「畑」にまき
収量がおおく、あつかいやすい栽培植物へと、
すこしずつ改良をかさねていった。
縄文時代は、原始的なくらしのイメージがつよいけど、
すでに高度な技術をつかいこなしていた時代のようだ。
本書にざっと目をとおしても、
縄文時代にたいするわたしのイメージは、
あいかわらずあいまいで、ばくぜんとしている。
それでも、高度な農耕をすでにはじめていたという著者の説は、
縄文時代や照葉樹林文化といった、
夢ものがたりのすきなわたしをよろこばせてくれる。
縄文時代に農耕、とくに稲作が
すでにおこなわれていたかどうかに興味がある。
縄文文化とかさなるようで、
照葉樹林文化のはなしもすきだ。
縄文時代の稲作や、照葉樹林文化は、
いまでは決着がついているそうだけど、
専門的すぎて、わたしにはよくわからない。
ばくぜんとした理解のまま、縄文時代があいかわらずすきだ。
作者の小畑氏によると、縄文人はダイズをそだてていたという。
と、ここでなにげなく「縄文人」とかいたけど、
「縄文人」という表現は定義がむつかしく、あいまいなので、
「縄文時代の人」というほうが正確らしい。
それでも著者は、あえてわかりやすく「縄文人」だったり、
「農耕」「栽培植物」など、一般的に
なじみのあることばをつかってくれる。
とにかく、縄文人は、ダイズを栽培していた、
と小畑氏はかんがえている。
縄文人というと、狩猟採集により
たべものをえていたひと、というイメージがあるけど、
農耕にも彼らはとりくんでいた。
かんがえてみると、
成人男子がいちにちに必要といわれる2000カロリーを
狩猟採集によってとりいれるのは、そうかんたんではない。
わたしたちがもし無人島になげだされたとしたら、
どうやって必要なカロリーを確保するだろう。
山には植物がたくさんはえているといっても、
そのどれもをたべられるわけではない。
いまのわたしたちは、お金をだせばなんでもかえるからこそ、
食料生産にかかわらない仕事についたり、
やすみの日にのんびりくつろいだりできる。
狩猟採集だけで安定したくらしをつづけるのは
自然からのめぐみが、よほどゆたかでないとなりたたない。
魚がたくさんいる川があり、貝をたくさんひろえる海があり、
山にはクリやドングリがたくさんなっている土地。
そんなゆたかな土地でも、そこでくらせる人間の数は、
おのずと手にはいるたべものによって制限される。
農耕により、安定した収穫をえようとするのは、
自然のながれにおもえる。
縄文時代に生きたひとびとは、
おおきなタネをえらんで「畑」にまき
収量がおおく、あつかいやすい栽培植物へと、
すこしずつ改良をかさねていった。
縄文時代は、原始的なくらしのイメージがつよいけど、
すでに高度な技術をつかいこなしていた時代のようだ。
本書にざっと目をとおしても、
縄文時代にたいするわたしのイメージは、
あいかわらずあいまいで、ばくぜんとしている。
それでも、高度な農耕をすでにはじめていたという著者の説は、
縄文時代や照葉樹林文化といった、
夢ものがたりのすきなわたしをよろこばせてくれる。
タグ:縄文時代の農耕
2018年12月01日
J1リーグ最終節 名古屋グランパスが残留にこぎつける
録画しておいた名古屋グランパス対湘南ベルマーレ戦を、
夕がたに ごはんをたべながら、ゆるい気分でみる。
わたしは気らくだけど、降格あらそいをしているチームは
どこもたいへんな状況にたたされている。
前節がおわった時点で16位のグランパスと、14位のベルマーレ。
どちらも、かてば自力で残留がきまる。
ベルマーレは、ひきわけでもいいけど、
グランパスは、かたなければならない。
ひきわけでは、他会場の結果しだいだ。
前半にベルマーレが2点をいれ、
グランパスは はやく点をとろうとあせるばかりで、
攻撃がからまわりする。
ベルマーレのペースで前半をおえ、
こりゃ、グランパスの16位がきまったな、とおもえた。
自分の部屋にひきあげ、ネットをみると、
「グランパス降格」のニュースはながれていない。
降格を心配していなかったジュビロ磐田について、
雲ゆきのあやしい記事がちらほらみえる。
きょうおこなわれた全試合の結果をみると、
グランパスは後半に2点いれてひきわけにもちこんでいた。
いっぽうジュビロは、後半ロスタイムに失点して
(しかもオウンゴール)川崎にやぶれている。
なんと、5チームがかち点41でならぶ、壮絶な最終節だった。
グランパスは、ジュビロとのかち点差が6あったおかげで、
かろうじて降格(の可能性があるプレーオフ)をまぬがれている。
パスサッカーをすて、なりふりかまわず
個人技にたよらざるえなかったシーズン終盤のグランパスが
首の皮いちまいで残留にこぎつけた。
最終節は、毎年いろんなことがおこる。
きょねんは、川崎が鹿島とかち点でならび、
得失点差で、劇的な初優勝につなげたのが印象にのこる。
鹿島のひきわけにより、自分たちの優勝をしった中村憲剛が、
ピッチにうずくまって号泣した場面をおぼえている。
そのフロンターレは、はやばやと2年つづけての優勝をきめ、
今シーズンの最終節は、残留あらそいに焦点がしぼられていた。
16位となったジュビロは、グランパスとベルマーレ、
あるいはサガン鳥栖のいずれかがやぶれれば、
降格あらそいからぬけだせたのに、
その3チームがひきわけ、かち点1をつみあげた結果により、
まさかの貧乏くじをひいてしまった。
ロスタイムでの失点さえなければ12位で残留できたのに。
まさに天国と地獄だ。
でもまだジュビロの降格がきまったわけではない。
今シーズンからレギュレーションがかわり、
16位のジュビロは、J2リーグで上位の成績をおさめたチームと、
J1リーグ参入プレーオフをたたかう。
これまでは、下位の3チームが、自動的に降格するルールだったのが、
かつか、ひきわけで、J1リーグに残留できるのだから、
ジュビロにとっては ありがたいルールの変更だろう。
12月8日の参入プレーオフ決勝で、
J1への切符を手にするのはどのチームだろうか。
夕がたに ごはんをたべながら、ゆるい気分でみる。
わたしは気らくだけど、降格あらそいをしているチームは
どこもたいへんな状況にたたされている。
前節がおわった時点で16位のグランパスと、14位のベルマーレ。
どちらも、かてば自力で残留がきまる。
ベルマーレは、ひきわけでもいいけど、
グランパスは、かたなければならない。
ひきわけでは、他会場の結果しだいだ。
前半にベルマーレが2点をいれ、
グランパスは はやく点をとろうとあせるばかりで、
攻撃がからまわりする。
ベルマーレのペースで前半をおえ、
こりゃ、グランパスの16位がきまったな、とおもえた。
自分の部屋にひきあげ、ネットをみると、
「グランパス降格」のニュースはながれていない。
降格を心配していなかったジュビロ磐田について、
雲ゆきのあやしい記事がちらほらみえる。
きょうおこなわれた全試合の結果をみると、
グランパスは後半に2点いれてひきわけにもちこんでいた。
いっぽうジュビロは、後半ロスタイムに失点して
(しかもオウンゴール)川崎にやぶれている。
なんと、5チームがかち点41でならぶ、壮絶な最終節だった。
グランパスは、ジュビロとのかち点差が6あったおかげで、
かろうじて降格(の可能性があるプレーオフ)をまぬがれている。
パスサッカーをすて、なりふりかまわず
個人技にたよらざるえなかったシーズン終盤のグランパスが
首の皮いちまいで残留にこぎつけた。
最終節は、毎年いろんなことがおこる。
きょねんは、川崎が鹿島とかち点でならび、
得失点差で、劇的な初優勝につなげたのが印象にのこる。
鹿島のひきわけにより、自分たちの優勝をしった中村憲剛が、
ピッチにうずくまって号泣した場面をおぼえている。
そのフロンターレは、はやばやと2年つづけての優勝をきめ、
今シーズンの最終節は、残留あらそいに焦点がしぼられていた。
16位となったジュビロは、グランパスとベルマーレ、
あるいはサガン鳥栖のいずれかがやぶれれば、
降格あらそいからぬけだせたのに、
その3チームがひきわけ、かち点1をつみあげた結果により、
まさかの貧乏くじをひいてしまった。
ロスタイムでの失点さえなければ12位で残留できたのに。
まさに天国と地獄だ。
でもまだジュビロの降格がきまったわけではない。
今シーズンからレギュレーションがかわり、
16位のジュビロは、J2リーグで上位の成績をおさめたチームと、
J1リーグ参入プレーオフをたたかう。
これまでは、下位の3チームが、自動的に降格するルールだったのが、
かつか、ひきわけで、J1リーグに残留できるのだから、
ジュビロにとっては ありがたいルールの変更だろう。
12月8日の参入プレーオフ決勝で、
J1への切符を手にするのはどのチームだろうか。
タグ:Jリーグ