2ヶ月ほどまえ、胃がいたくなったのをきっかけに
コーヒーをのまなくなった。
「ひかえる」のではなく、それからいっさいのんでいない。
かわりに紅茶をいれているので、コーヒーをのむのと
にたようなものかもしれないけど、
とにかくコーヒーからは距離をおいている。
おなじような時期に、ふつかよいになったつらさから、
しばらく酒をのまなくなった。
こちらのほうは、完全にやめたのではなく、
ポツリポツリていどにはのんでいるとはいえ、
寝酒の習慣からはぬけだしている。
お酒をのまないでむかえた朝は、すごくからだがらくだ。
からだ全体、とくに胃袋がやすまった気がする。
こんないいかんじを手ばなしてまで 酒をのまなくてもいい。
我慢というより、積極的にのみたくない気もち。
食後のコーヒーをのまなくていいと、
コーヒーのたのしみを味わえないさみしさより、
コーヒーに頭とからだを支配されない自由をかんじる。
食後にのむコーヒーを、いつも気にしていたのが、
のまなくていいとなれば、気もちがすごくらくになった。
こんなふうにして、いろんなことをやめていけたら、
人生がだんだんとシンプルになりそうだ。
たべもの・のみものへの執着から解放され、
物欲もなくなって、いまあるものでなんとかするようになれば、
こころは縄文人のように自由だ。
お金や人間関係など、さまざまな欲望がうすれていくと、
さいごにはなにがのこるのだろう。
まわりのひとたちへの感謝だったらすごい。
団塊の世代が本格的な高齢化をむかえるせいか、
このごろ健康への不安につけこんだ広告をよく目にする。
さまざまな健康情報がとびかい、
コレステロール・中性脂肪・血糖値・高血圧について、
あの手この手で危機感をあおる。
健康に、絶対の自信をもつひとはそういないだろうから、
あぶなっかしい数値がでると、
なんとか病院や薬にたよらないで
数値をよくしたいとおもうのだろう。
わたしはケチでビンボーだから、
それらのトクホやサプリメントに手をだしたことがない。
もちろん健康でいたい気もちはあるけど、
それらの商品に、からだとこころを支配されたくない。
死ぬときがきたら、死ねばいいとおもっている。
そうおもっていたところへ、がん免疫治療薬が登場した。
ノーベル賞を受賞された本庶佑氏は、
おおくのひとが がん免疫治療薬を利用できるよう
ねがっておられるという。
ガンがなおるのは、おおくのひとのねがいであり、希望だろう。
ガンによって死ななくなれば、どれだけおおくの命がすくわれるか。
とはいえ、そうなったらなったで、またべつの問題がでてくるはずだ。
ガンで死ななくなっても、人間がしあわせになるとはかぎらない。
かぎらないけれど、わたしがもしガンになり、
目のまえにオプジーボがあったら、わたしはことわれるだろうか。
トクホやサプリをのまないといって得意がり、
でもオプジーボにはたよというのでは、なんだかおかしい。
シンプルでありたいわたしの美意識に、
オプジーボの出現は、あたらしい宿題となっている。