2019年01月31日

アジア杯 カタール対UAE

アジア杯の決勝で、
日本とたたかうことになった カタールの試合を録画でみる。
相手は、開催国のUAE。
日本代表の監督を以前つとめた ザッケローニさんが指揮をとる。
サッカーライターの宇都宮徹壱さんによると、
カタールが現在、UAEやサウジなど7カ国と断交状態にあること。現地で聞くところでは、カタールからUAEへの入国は原則禁止されており、カタール代表は孤立無援の状態で今大会を戦っているという。

事情はよくわからないけど、
たしかにカタールへのブーイングをよく耳にした。
もっとも、カタールの選手たちは、
こうした四面楚歌な状況になれているようで、
淡々とプレーをつづけている。

試合は、カタールが前半に2点をいれ、
うまさをみせつける。
とくに、2点目となるアリのシュートは、
ディフェンスにかこまれながら、コースがないところを
絶妙なカーブをえがいて、ボストをかすめ、
反対側のゴールネットをゆらした。
アリにとって、今大会8ゴール目で、
これは大会記録とならぶ数らしい。
日本を相手に、9ゴール目をあげれば新記録の達成であり、
なんだかイヤなシナリオが頭のすみをかすめる。

後半は、ザッケローニ監督がたてつづけに選手交代をはかり、
UAEはボールをつなげられるようになる。
ただ、ゴールまえでは、さいごのところでアイデアにとぼしく、
カタールのゴールキーパーのファインセーブもあり、
なかなかゴールをうばえない。
この時間帯に、点がほしかったところなのに、
つぎの点をとったのは、またしてもカタールだった。
後半35分、まえがかりにせめるUAEからボールをうばい、
カウンターがきれいにきまった。
カタールに3点目がはいったことで、UAEは気もちがきれ、
ラフプレーでレッドカードがでたり、
ロスタイムに4点目をいれられたり。

中東の選手たちは、うまくいっているときはつよくても、
いったん気もちがとぎれると、そこで試合がおわってしまう。
日本にやぶれたイラン、そしてこの試合のUAEは、
中東のチームにありがちな よわいメンタル面を
無残にさらけだしてしまった。
まけたときこそ、そのチームの真価がとわれる。
イランもUAEも、ただ自分たちがかてばいいという、
スポーツマンシップからほどとおいレベルにとどまっている。

あすおこなわれる日本対カタールの決勝戦。
ふつうにやれば日本がまけないとおもうものの、
UAEとの試合をみると、カタールもまた
よくまとまったいいチームだ。
おそらくスタジアムは反カタールで一色となり、
日本に有利とはいえ、それはそれで、やりにくい。
日本の選手たちは、カタールをみくびったり しないはずだけど、
リスペクトしすぎて、慎重になりすぎるのもこまる。
カタールは、これまで無失点と、守備がかたいので、
きれいにくずそうとばかりしないで、
ゴリゴリとドリブルをしかけたい。
貪欲にゴールをめざすサッカーをみせてほしい。
タグ:アジア杯

posted by カルピス at 21:09 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月30日

いたくないだけで、どれだけしあわせだったか

足のいたみになやまされる日がつづく。
病院でもらったいたみどめがきかない。
ベッドで横になるのも、おきあがるのも、ズボンをはくのも、
トイレにすわるのも、車にのりこむのもいたみをともなう。
いたみのない生活が、どれだけありがたいか、
ほんの2週間まえまでおくっていたあたりまえの生活を、
いまは最高にしあわせだった日々として、
とおいむかしのことみたいに、なつかしんでいる。

すこしまえに、デイリーポータルZの林雄司さんが、
「いま口内炎ができてない!」
という記事を個人のブログにかいている。
http://yaginome.jp/?p=1645%26%23160
口内炎ができてないことが、どれだけしあわせか。
その記事について、わたしもブログにかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/452587193.html

そのときのわたしは、林さんの記事を、
ただおもしろくよんだのだけど、
いまは切実に共感できる。
からだにいたいところがないだけで、
まさに「生きてるだけでまるもうけ」だ。
ふつうにくつしたをはき、ビクビクしないでイスにこしかけ、
なにげなくたちあがるのは、ありえないほどのよろこびだ。
いたみから解放され、あたりまえの生活にもどれたら、
わたしはしみじみとしあわせを実感するだろう。
そのときには、うちあげをして盛大においわいしたい。

posted by カルピス at 20:54 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月29日

アジア杯 準決勝 日本対イラン イランのラフプレーに腹をたてる

アジア杯 決勝トーナメント 準決勝
日本対イラン 3−0で日本

試合がはじまると、イランを相手に日本が互角に試合をすすめていく。
チャンスは日本のほうがおおくつくっている。
おちついた試合はこびに、イランのほうがあわてているかんじだ。
ワントップのアズムンをめがけたロングボールを、
富安がことごとくクリアーしていく。
中国を相手に、完璧な試合をみせたイランが、
日本戦ではフィジカルだけがたよりの、2流チームになりはてていた。

イラン選手のラフプレーには、ほんとうに腹がたってくる。
自分が遠藤をつきたおしておいて、
はやくおきろ、ファールじゃないぞと、どやしつけるイラン選手。
このプレーで遠藤はうごけなくなるほどダメージをうけ、
塩谷への交代を余儀なくされた。
テクニックがあると評判のアズムンも、
欲求不満がたまり、プレーのたびに
悪質な技をあの手この手でおりまぜでくる。

相手に対するリスペクトがまったくない。
おおげさにたおれてファールをもらい、
日本の選手には、ボールのないところでも
ケンカのようにけったりなぐったり。
日本においこまれて一皮むけると、
暴力にたよるだけの おろかなチームでしかなかった。

そんな試合展開から、日本の選手点がうまれた。
南野がたおされ、ファールじゃないと、
レフェリーにアピールしまくるイラン選手。
笛はふかれておらず、試合はとまっていない。
南野がひとりボールにおいついて、
ゴールまえでまつ大迫にクロスをあげる。
フリーの大迫がヘディングでおしこみ1点め。

2点めのPKでは、ボールをもった大迫を
イランの選手たちがおおぜいでかこみプレッシャーをかける。
自分たちの反則がまねいたPKなのに、
大迫にむけてなにやらのろいのことばをはく。
試合にかっても、こんなチームでしかなかったのかと、
イランにたいしてむなしさ・なさけなさがわいてくる。

イライラしていたのは原口もおなじだ。
アディショナルタイムに、原口がドリブルできりこみ、
とどめとなるみごとなシュートをきめる。
原口は、それまでレフェリーの笛に
さんざん不満をためこんでおり、試合をきめた3点めで、
これまでのうっぷんをはらした。

イランの選手たちがなさけないのはしょうがないとしても、
試合をコントロールできなかった主審の責任はおもい。
ケガをさせられたり、なぐられた日本の選手に、
ナショナリズムがかきたてられる。
日本の選手たちのおちついた、
しかし あつい気もちでの試合はこびをほこらしくおもう。
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タグ:アジア杯

posted by カルピス at 22:38 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月28日

「猫の変形性関節症」の予防と、ゆるすぎるサッカーのルール

先日から足のいたみになやまされているわたしは、
きのうの朝日新聞にのっていた、
「猫の変形性関節症」の記事が目にはいった。
 
 関節が変形して凸凹ができ、歩くと痛みが生じます。重症化すると脚を引くずるようになり、犬では散歩や階段の上り下りを嫌がったり、猫では高いところに飛び乗ることをしなくなったりします。関節をうごかさないとさらに変形が進むので、ほっておくと悪循環に陥ってしまいます。

まさしくわたしとおなじ症状ではないか。
とくにジョギングをしたわけではないのに、
関節が変形してしまうなんて、猫もたいへんだ。
新聞に質問しているひどは、
「予防に粉末状のサプリメントをあげようとしましたが、
嫌がって食べません」とこまっている。
まだ症状がでているわけでもないのに、
まえもって予防しようとするとは、なんてすばらしいかいぬしだろう。

新聞にのっている回答によると、
体重の管理が予防には効果的だそうで、
そのほかにも
「屋内の床を、犬や猫が滑りにくい素材にすることも予防になります」
とある。
予防になるかもしれないけど、犬や猫のために
わざわざ床をはりかえるひとなんているのだろうか。
ペットをめぐる世界は、わたしの認識をはるかにこえている。

サッカーの試合をみていると、
よくあんなはげしいプレーをして、
ケガをしないものだとおどろかされる。
自分ひとりでころんでもいたいのに、
相手とぶつかったり、わざと足をひっかけられたりしたら、
捻挫や骨折がおきてあたりまえだ。
「球際のつよさ」なんていうとかっこいいけど、
ひらたくいえば、ボールをめぐるたたかいに、
ぜったいかてと選手にもとめている。
ヘディングでのせりあいでは、頭どうしがぶつかると
ものすごくあぶないし、
ジャンプしたあとに体勢をくずすと、
頭からおちて脳震盪をおこしたりもする。
じっさい、サッカー選手にケガはつきもので、
試合でも練習でも、リスクをおかしてボールをおいかけまわるから、
ケガで何ヶ月も試合にでられなくなる選手がめずらしくない。

ひとつには、ルールがゆるすぎる点を指摘できる。
選手生命に影響をおよぼすような
悪質なプレーをふせぐように、ルールをきびしくすればいいのに。
ネコの変形性関節症を予防しようとするひとがいるのに、
サッカーの反則をふせごうとしないなんて、
サッカーをする人間はどうかしている。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月27日

備蓄ずきの血がさわぐ

インフルエンザがはやっているそうで、
週末は寒波も予想されていた。
備蓄のすきなわたしとしては、血がさわぐ場面だ。
まず、ガソリンスタンドで灯油を2缶いれる。
どのストーブも、灯油が満タンなうえに、
6缶のボリ容器にも、これで灯油がみたされた。
18リットルいりの容器は、ほんとうは20リットルはいるので、
貧乏性のわたしは、どの容器にも19リットル灯油をいれている。

ネコのご飯と、トイレの砂もかった。
お米がやすくなっていたので、10キロを3180円でかった。
もちろんトイレットペーパーもそなえておく。
ワイン・焼酎・ウィスキーの補充もおこたりない。
そんなげんきがあるかどうかはわからないけど、
インフルエンザでねこんでもいいように、
本屋さんと図書館へいって、
おもしろ本を何冊か用意してある。
いま『カササギ殺人事件』の(上)をよんでおり、
もしインフルエンザにかかっても、
すこしはラッキーとおもえそうだ。
本をよむ気にならなければ、アジア杯の録画がある。

このようにして、おもいつくだけの用意をすませた。
1週間ぐらい職場が閉鎖になっても、
スーパーやガソリンスタンドがおやすみになっても、
籠城できるだけの燃料と食料、それに本がある状況に、
なんだか胸がさわいでくる。
地震や原発の事故などがおこれば、
わたしの日常などひとたまりはないけど、
電気をふくめたエネルギーがとまるだけなら、
すずしい顔をしてしのげるだろう。

災害をまちのぞむわけではもちろんない。
ただの備蓄ごっこなのだけど、
ものがあるということは、
はかりしれないほど、こころに安心をもたらす。
こうしてみると、断捨離は、都会のひとがやるあそびで、
備蓄にはげむのは、いなかむきのそなえかもしれない。

posted by カルピス at 20:21 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月26日

いたみをうったえる脳の司令になやまされる

自由って、なんだろう、なんて
おおきすぎる問題をかんがえようとしていたら、
からだが不自由になった。
比喩的な意味でいっているのではなく、
足がいたくて、日常生活に不自由するようになったのだ。
たぶん、ランニングによる故障だとおもう。
2週間ほどまえからすこし足がいたくなり、
でもはしれないほどではないので、
ごまかしながらジョギングをつづけていたら、
今週から本格的ないたみになった。
どこがいたいのか、ひとことではいいあらわせられない。
左足のつけねがおおもとのいたみで、
そこに関係する筋が、うごき方によっていたみをうったえる。
足をひきづづらなければ あるけないぐらい いたい。

足がいたいのは、ものすごく不自由だ。
でも、不自由のなかにも
ちらほらつきあい方をみつけられるようになる。
お風呂にはいって 足があたたまると、
いたみがウソのようにひくのに気づいた。
いたみさえひけば、スクワットでも、
その場でのかけあしも、問題なくできる。
そのときは、問題なくできるものだから、
そうやって 完全に足をやすめずに
およいだり、自転車にのったりしていたら
いたみがますますひどくなった。
いまでは、たったりすわったりする動作でさえ
おそるおそる足をかばいながら、老人よりも老人らしい。
そうでなくても、首やら肩のいたみになやまされている。
歳をとるとは、あちこちのいたみとつきあうことでもある。

腰痛は、脳がつくりだしたいたみだ、
というのをテレビでやっていた。
ながいあいだ腰痛になやまされていると、
ほんとうはいたくなくても、
脳がいたみの司令をだすようになるらしい。
わたしのいたみも、便宜的に、
気のせいだとおもうようにする。
夜ねているときは、なんどか寝がえりをうっているはずなのに、
いたみでいちども目をさまさないのは、
この説をうらづけている気がする。
足がいたいのは、脳がからをやすませろといっているのだ。
やれやれ、気のせいだけど、ほんものみたいにいたいなーと、
いたみとのつきあいを なんとかやりすごそうとしている。

posted by カルピス at 17:57 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月25日

アジア杯決勝トーナメント2回戦 日本対ベトナム 1−0で日本

アジア杯決勝トーナメント2回戦
日本対ベトナム 1−0で日本

試合がはじまると、前評判どおり、
ベトナムはいきおいよくボールにからんでくる。
ひいてまもるのではなく、たかい位置から
労をおしまずプレスをかけつづけた。
かんたんなミスはしない。テクニックもある。
よくきたえられたいいチームだった。
とくに10番と19番の選手は印象にのこる。

前半24分に、柴崎からのコーナーキックを、
吉田が頭であわせる。
まえの試合が再現されたような展開だ。
しかし、VAR(ビデオ=アシスタント=レフリー)判定により
吉田のハンドとなり、得点はとりけされた。
その後も、均衡したゲームはこびがつづく。
ベトナムは、積極的にゴールへせまり、
ミドルシュートをためらいなくうってくる。
ベトナムのゴールキーパーも、ファインセーブをみせ、
両チームとも、なかなか得点をあげられない。
試合がうごいたのは、またしてもVAR判定によるものだ。
ペナルティエリア内で堂安がたおされ、PKをえる。
堂安がおちついてきめ、日本の先取点。
2つのVARは、いずれも微妙なプレーで、
白熱したゲームをこわしたようにおもえる。

日本は、サウジアラビア戦から唯一ワントップを北川にかえてきた。
武藤が累積カードのため、出場できなかったからで、
北川は、ボールにからみながらも、得点できなかった。
南野も、おしいシュートをはなちながら、
さいごまでゴールをわれない。
アジア杯におけるこのふたりは、
いいプレーをしても、結果をだせない
マイナスの役割をになっているかのようだ。
とくに北川は、大迫をケガでかき、武藤が出場停止となり、
おおきな責任をひとりしょいこんでしまった。
もっとストレスのない場面での起用なら、
ほんらいの のびのびしたプレーができたはずで、
気のどくになってくる。

後半27分に、その北川が大迫にかわると、
チーム全体のうごきが ほんの瞬間でげんきづいた。
ボールが大迫にあつまり、大迫はたくみにキープして、
味方へ絶妙なパスをおくる。
こんなにも大迫の存在はおおきかったのかと
おちついたひとつひとつのプレーにおどろかされる。

試合終了間際は、ベトナムの猛攻がつづく。
リスクをおかして前線へひとをおくりこみ、
ぶあつい攻撃をしかけてくる。
日本はなんとかしのぎ、5試合連続の1点差となる
1−0でベトナムをくだした。
おたがいにせめあっての、みごたえのある試合だった。
とはいえ、しつれいながら、まさかベトナムをあいてに
これほどくるしめられるとは、おもっていなかった。
ベトナムが急速にちからをつけつつあるのをみとめながら、
大会をつうじ、どの国との試合でも、圧倒できない日本に
すこし欲求不満をかんじている。

この試合の、もうひとりの主役は、
ベトナム代表のパク=ソンハ監督だ。
試合のあいだ、ずっと熱のこもった指示をおくりつづけ、
自分たちのよさをだそうとあの手この手をつくしていた。

もうひとつ印象にのこるのはうつくしいドバイのスタンドだ。
2007年のアジア杯は、タイ・マレーシア・
ベトナム・インドネシアによる共催で、
大会運営や試合会場、ピッチコンディションがおそまつだった。
日本の選手たちは試合に集中するまえに、
もうひとつの「敵」とたたかわなければならなかった。
それをおもうと、こんかいの開催国UAEは
これまでのところきっちりした運営をみせ、
選手やサポーターが、集中して試合にのぞめるよう
適切に環境をととのえている。

日本のつぎの試合は、決勝進出をかけ、イランにきまった。
優勝まであと2試合。
どんな試合をみせてくれるか、たのしみにしている。
タグ:アジア杯

posted by カルピス at 10:07 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月24日

「ワープロ誕生40年」の記事におもうこと

けさの朝日新聞に、「ワープロ誕生40年」という記事がのった。
副題は、「漢字制限論捨てさせた発明」となっている。
明治時代には、漢字をつかっているから、
日本はおくれているんだ、という説をとなえるひとたちがいて、
英語やフランス語を公用語に、
という うごきさえあったと紹介されている。
また、外国語をもちこむのではなく、漢字をすくなくつかおう、
というかんがえ方もあったと、
漢字制限の歴史がざっとまとめられている。
以前あった当用漢字とは、
将来的には漢字をつかわない方向にすすめるけど、
きゅうに廃止するのではなく、
「当面はこれぐらいの制限でやっていこう」
という意味だったそうだ。

そうしたながれをかえたのが技術革新だったと、
この記事をかいた山脇岳志氏は ワープロの登場にふれている。
日本人は、繊細な日本語を使い、世界を相対化しながら、美的感覚や独自の文化を磨いてきた。ものづくりにもその感覚は生かされてきただろう。
 40年前の武骨なワープロを眺めながら、多くの漢字が生き残ってよかった、とつくづく思った。

と山脇氏はむすんでいる。
見解の相違としかいいようがない。
なぜ「多くの漢字が生き残ってよかった」
という結論になるのか、なんどよんでもわからない。
日本語だけが繊細な言語なのか。
ほかのことばをつかうひとたちは、
繊細なことばをつかっていないのか。

わたしは、漢字制限について、
梅棹忠夫さんのかんがえ方につよい影響をうけ、
できるだけ漢字をつかわずに 日本語をかこうとしている。
漢字にたよらなくても、文章はかける。
日本語を勉強するとは、ほとんどそのまま
漢字をおぼえることであり、
日本語を勉強する外国人にたかいハードルとなっている。
そして、なによりも日本語をまなびはじめる小学生は、
漢字練習におおくの時間をうばわれ、文章のかき方について、
ごくかんたんにしかおそわらない。
これらの問題点を、梅棹さんはくりかえし指摘している。

漢字は、遺産かもしれないけど、負債でもある。
漢字をたくさんのこしたことにより、
日本語をあやつるようになるには
そうとうな時間をかけて、漢字をおぼえる必要がある。
漢字は、日本の文化かもしれないけど、
漢字だけが日本の文化ではない。
ワープロやパソコンによって、
だれもがかんたんにむつかしい漢字をつかえるようになり、
かえって問題はさきおくりされた、というとらえ方もある。
漢字をつかわなければ、
繊細な表現ができないというかんがえ方に、
わたしにはいつも反発をかんじてしまう。

posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月23日

ツイッターがこころのささえ、でも ぜんぜんオッケー

わたしはツイッターでつぶやいたことがなく、
いったいなにがおもしろいのか理解できないのだけど、
新聞でなにかの記事をよんだとき、あるひとが、自分なりの方法で、
すごくたのしそうにツイッターとつきあっていた。
べつにだれがよもうとも、自分がいまを生きているあかしとして、
ブツブツつぶやくのもありなのだと気づく。
一方的な発信であってもかまわない。
ツイッターでなくても、ひとによっては
それがフェイスブックかもしれない。
まわりからは、ひとりさみしく くらしているようにみえても、
本人は、ツイッターにかきこむことを、こころのささえとして、
じゅうじつした時間をすごしているかもしれない。
それはそれで、いいんだ、とおもえてきた。

親密なコミュニケーションではないかもしれないけど、
だれかとつながっている実感は、けしてわるいものではない。
これからさき、世界じゅうで問題となっている高齢化において、
ツイッターなどのSNSが、おおくの老人にとって、
大切なこころの支柱となっていくかもしれない。
純粋なログでいいのなら、
わたしもツイッターでつぶやこうかともおもったけど、
入力に手間がかかりすぎて、実用的でない。
わたしにはブログのほうがあっているみたいだ。

わたしは7年まえからブログをかいており、
ほとんど関心をもたれないにもかかわらず、
あきらかにわたしの生活のなかで
ブログはひとつの句読点となっている。
いちにちにいちどの苦行、ではなく、たのしみとして。
「ブログをかいていなかったらとおもうと、すこしこわい」
と、すこしまえの記事にかいていた。

ほおっておいても明日はくるけど、
ほおっておいたらブログの1000回目はこない

とも、何年もまえにかいている。
なかなか含蓄のあることばのような気がしてきた。

糸井重里さんが「ほぼ日」のどこかで、
なんでも10年やすみなくつづければ、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばを紹介していた。
気のきいたことはかけないとしても、
つづけるだけならわたしにもできるかもしれないと、
そのことばをささえに、10年をめざしてブログをかいている。
10年たったある日、わたしはなにを身につけているだろうか。

あたたかな部屋にストーブがもえていて、
テーブルのうえにはMacBook Airがあり、
ひざのうえにはネコがくつろいでいる。
ねるまえの読書にぴったりのミステリーと、すこしの寝酒。
いちにちに1本の記事をトボトボかきつづけ、
あのおじいさんは、けっこうしあわせにくらしましたとさ、
みたいな老人で、ぜんぜんオッケーだ。
10年のブログで獲得するのは、
あんがいそんな かれた心境だったりして。
なんだか、グルム童話かなにかの、むかしばなしみたいだ。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月22日

しつこくきのうのサウジアラビア戦について

きのうのアジア杯サウジアラビア戦をしつこくふりかえる。
ポゼッションは、7:3でサウジアラビアだった。
解説の山本昌邦さんは、あいてにボールをもたせているだけで、
これが日本のサッカーです、といっていたけど、
とてもそのことばどおりにはうけとれない。
たしかにかたくまもりきったけど、
結果がよかったからいえることで、
なにがおきても不思議はない場面もおおかった。
あいてのシュートミスにたすけられただけで、
ほかの国があいてだったら、もっと点がはいっていただろう。

ネットにあがった記事では、
日本はうまく試合をコントロールしたそうで、
ねばりづよくまもりきった試合はこびが評価されている。
たしかに、サウジアラビアのようなサッカーを、
かつては日本がやっていた。
圧倒的にボールを支配し、シュートを何本もあびせ、
でも、ことごとく枠をはずしたり、バーにきらわれたり。
さいごまでゴールをわれず、決定力不足をたたかれ、
こんなはずではなかったとしたをむく。
ゆうべは、その日本を、サウジアラビアが再現したような試合だった。
こまかくパスをつなぎ、ゴールちかくまでせまるものの、
そこからさきのアイデアがとぼしい。

とはいえ、サッカーではなにがおこるかわからない。
まければおわりのトーナメントで、
うけにまわりつづけるのはリスクがある。
まもりきれたからよかったけど、
あつさとつかれで、選手たちのうごきがにぶくなり、
もう1点をとりにいくちからは のこされていなかった。
選手を10人いれかえた、グループリーグのウズベキスタン戦にかち、
選手全員でたたかえるめどがついたというのなら、
なぜもっとはやく交代の選手をいれなかったのか。
わたしには、まもりきったうまい試合はこびよりも、
アジアレベルの大会で、ほとんどボールをもてずに
90分せめられつづけたことがショックだった。
タグ:アジア杯

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月21日

アジア杯 決勝トーナメント 日本対サウジアラビア 1−0で日本

アジア杯 決勝トーナメント 一回戦
日本対サウジアラビア 1−0で日本

わたしの職場では、送迎や配達に、
ワンボックスタイプの軽自動車を何台もつかっている。
車種はハイゼットがおおく、どれも色はグレーで、
したがって、どれがどの車なのかをみわけにくい。
いつからか、便宜的に、アンパンマンにでてくるキャラクターを、
車の名前としてよぶようになった。
アンパンマン号・バイキンマン号・ドキンちゃん号、というふうに。
車のキーには、それぞれのキャラクターの人形がついており、
車をみただけではみわけられないけど、
鍵をみれば、どの車かはわかる。

けさ、わたしがアンパンマン号にのってエンジンをかけると、
ラジオから「アンパンマン」の主題歌がながれてきた。
しかも、前奏から。
まるで、わたしがアンパンマン号をうごかすのを
まっていたかのようなみごとなタイミングだった。
ほかの車ならまだしも、アンパンマン号にのって、
アンパンマンの主題歌という、ものすごい偶然に、
わたしのなかで なにかがはじける。
きょうのサウジアラビア戦では、
このであいにみあったプレゼントが
ころがりこむにちがいないと、確信した瞬間だ。

おわってみれば、1−0でなんとかかったものの、
ほとんどの時間帯をせめられつづけたきびしい試合だった。
サウジアラビアの選手は、
まるで日本が格下のチームとやるときみたいに
こまかくパスをまわす。
キーパーも、ながいボールはけらず、サイドからつないでいく。
ポゼッションは圧倒的にサウジアラビアがにぎる。
ただ、さいごのところで精度をかき、
なんどもシュートミスにたすけられた。
前半20分に、コーナーキックを富安が頭でおしこみ、
日本は はじめてのシュートを得点にむすびつけた。
けっきょく、日本の得点はこの1点だけで、
あとは ほとんどずっとせめられつづける。

後半になれば相手の足がとまるだろうとおもっていたのに、
とまったのは日本のほうだった。
あつさのなか、まもってばかりで体力をうばわれ、
自分たちのリズムをうみだせない。
セカンドボールはことごとくサウジアラビアにまわる。
審判団もあきらかにサウジアラビアよりの笛をふき、
相手がたおれると日本のファール、
日本の選手がたおれたらノーファールの判定がくりかえされた。
いちどペナルティーエリアないで、
ハンドをとられかねないプレーがあったけど、
さいわいこのときはおとがめなしだった。

後半が半分おわっても、サウジアラビアの猛攻はとまらない。
日本はクリアーするのがせいいっぱいだ。
ボールをもてても、パスがつながらない。
点のはいる気配がまったくなかった。
そんななか、ロスタイムは4分もあたえられる。
日本の選手たちはじょうずに時計をすすめるプレーをみせ、
なんとか試合終了の笛までたどりついた。

もしわたしが、けさアンパンマン号で
アンパンマンのテーマソングをきく僥倖がなかったら、
どんな結果になっていただろうか。
タグ:アジア杯

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2019年01月20日

ミルクティーをいれるコツ

ミルクティーを なかなかうまくいれられない。
紅茶の種類は、アッサム茶がいいといわれているけど、
それ以外の点、紅茶のこゆさ、牛乳の量がわからない。
それでも、ネットをみてためしているうちに、
おおまかなポイントがだんだんつかめてきた。

ミルクティーをおいしくいれるには、

・こゆい紅茶をいれる
・紅茶と牛乳のわりあいは2:1
・牛乳はあたためない

リーフティーのときは、いつもの2倍の葉、
ティーパックでいれるときは、
もったいないようだけど、2つのティーパックをつかう。
むらす時間も、いつもよりながめがいいようだ。

わたしは、コーヒーでも紅茶でも、
あつあつでのむのがすきだけど、
ミルクティーは常温の牛乳を1/3いれるため、
どうしても紅茶がさめてしまう。
あつさをたのしむのは あきらめたほうがいい。
ちょっとぐらい牛乳をあたためてもいいだろうと、
電子レンジにすこしかけていたけど、
それでも紅茶のおいしさをじゃましてしまう。
せいぜい、まえもって牛乳をカップにうつし、
つめたくない状態にしておくぐらいしか
紅茶をいれる人間にできることはない。

こうしてミルクティーをいれてみると、
おなじ紅茶でも、レモンティーとは
まったくべつものであることがわかる。
レモンティーはレモンティーでおいしいけど、
このごろはずっとミルクティーをいれている。
食後にのむコーヒーとちがい、
ミルクティーは、いかにもサンドイッチをつまみながら、
という状況がにあっている。
食事をしながら大量にのむのがミルクティーかもしれない。
そう、カフェ・オ・レみたいに。
当然ながら、日本食とミルクティーはあわないので、
日本でミルクティーをのむ場合は、
食後かおやつのときにかぎられてくる。
仕事のあいまのミルクティーは、あまりにつかわしくない。

イギリスの貴族は、朝めがさめると
めしつかいがベッドに紅茶をもってきてくれるという。
おおきなお盆に、なんだかんだ食器がならんでいるので、
ここでのまれる紅茶はおそらくミルクティーだろう。
顔をあらわず、口もゆすがないで、紅茶をのみたいかというと、
わたしはあまりほしくないけど、これも習慣の問題だろうから、
なれてくれば、なくてはならないのみものになるのかも。
死ぬまでに、ベッドでの紅茶をいちど体験しておかなければ。

posted by カルピス at 21:08 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月19日

ネコが外にでないよう、網戸風カーテンを玄関につける

子ネコのココが、いまや家じゅうをあるきまわっている。
まえは3部屋だけに限定していたけど、
戸のあけ方をおぼえ、自分ですきなように部屋をではいりする。
家のなかをうごきまわるのはいいとして、
外にでるたのしさをおぼえたらたいへんだ。
きょうは、しりあいにたのんで、玄関に網戸をつけた。

ホームセンターをたずねると、
とりつけるタイプの網戸は、夏だけの商品といわれる。
それ以外の季節は、アミや、網戸風のカーテンしかおいてない。
ココが本気になって外をねらうようになれば、
すこしぐらいの障害は、かんたんにクリアーして
外出の機会をうかがうだろう。
とりあえず、ここからはではいりできないなーと、
ココに心理的なプレッシャーをかけられたらいいことにして、
カーテン風の網戸を2100円でかう。

磁石とマジックテープで玄関のひらき戸にくっつける方法だ。
説明書には、こまかな字でいろいろ注意点がかいてある。
両面テープをはってから、24時間おいて
以下の作業にとりくんでください、なんてある。
いったん網戸をつけようと腰をあげたひとが、
はいそうですかと、とちゅうで24時間もまてるわけがない。
われわれも、注意がきを無視して仕事にとりかかる。

マジックテープにはオス・メスがあり、
磁石もくっつく側と、くっつかない側がある。
なんどもやりなおし、だんだんとテープでとめた部分が
いびつな形にかわってくる。
そもそも、磁石でとまるといっても、ごくかるい力でしかなく、
ほんのすこしひっぱれば、かんたんにはずれてしまう。
ココが、この網戸風カーテンをまえにしたとき、
すこしでも気もちをなえさせてくれるようねがう。
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わたしたちが網戸風カーテンをとりつけているとき、
ココが台所の戸から外にでてしまった。
母が生ゴミをすてようと、戸をあけたスキをねらっていたのだ。
さいわいココは自分からかえってきたけど、
網戸をつけているさいちゅうにはじめての外出をするとは、
ココもなかなかやる。

配偶者は網戸風カーテンをみて、
ためらいなく「これやだな!」といった。
たしかにたよりない網戸であり、
ぶさいくなしあがりとはいえ、
かなり苦労してとりつけたのに、
そのひとことはないだろうと、がっかりする。

posted by カルピス at 20:00 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月18日

アジア杯 日本対ウズベキスタン戦 2−1で日本

アジア杯 日本対ウズベキスタン戦
2−1で日本

決勝トーナメントでの対戦相手をかんがえると、
グループリーグを1位で通過するか、それとも2位かは、
どちらが優位にたてるのか、いろいろなみかたがある。
いろいろなことを計算すると、よけいなものがついてくるので、
わたしのこのみとしては、
とにかく目のまえの試合をかちにいくのがすきだ。
森保監督は、1位通過をめざす、といいながら、
第2戦の先発とは 10人もの選手をいれかえてきた。
決勝戦までをみとおし、総合的な判断のすえ、
10人をいれかえ、しかも試合にかとうというのだから、
監督の本心がどこにあるのか、わからない。
これまで試合にでていなかった選手に機会をあたえられ、
試合にもかったのだから、ねがったとおりの展開なのだろう。

10人も選手がかわれば、
はじめはこまかな連携がとれなくてもしかたがない。
試合がすすむにつれ、だんだん攻撃の意図がかみあってきた。
得点のにおいがしだしたころ、反対に、
あいてのカウンターがきまって先取点をあげられる。
槙野がショムロドフのスピードについていけず、
三浦もかわされて、たくみにシュートをきめられた。
かなりなさけない形で先制点をゆるした。
それでもその3分後、室屋のクロスに武藤がとびこみ
頭であわせて同点にもちこんだ。

後半13分に、塩谷がミドルシュートをきめてかちこし。
そのあとは、ウズベキスタンにせめつづけられながらも
なんとかしのぎきり、試合終了の笛をきいた。
ひかえ組の選手に活躍の場をあたえ、
試合にもかち、1位でグループリーグを通過する。
結果としてはわるくない形で試合をおえた。

気になったのは、乾の調子がいまひとつなことと、
北川が得点をあげられなかったこと。
カウンターへのもろさはいまさらどうしようもない。

乾はドリブルでしかけるものの、
W杯のときのようなキレがない。
セクシーなシュートもはなてず、
ボールをなんどもうしなっている。
後半にはいると、めだってつかれがでており、
試合のスピードについていけなかった。

北川は、おしいシュートをなんどもはなったものの、
結果として得点をあげられなかった。
本人も点がほしかっただろうけど、
チームとしても結果をだしてもらわないとこまるため、
森保監督は、ほとんどさいごまで我慢してつかっている。
なんとか得点をあげて自信をとりもどしてほしかった。

決勝トーナメントの1回戦は、サウジアラビアをあいてに
1月21日の午後8時(日本時間)におこなわれる。
選手たちが、どんな試合をみせてくれるか、
監督の采配はどうか。
いい形で大会をおえられるようねがっている。
タグ:アジア杯

posted by カルピス at 20:41 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月17日

NHKカルチャーラジオ「河合俊雄が読み解く村上春樹の”物語”」がおもしろそう

配達ちゅうに車のラジオをきいていたら、
心理学の先生が、村上春樹の本についてはなしている。
先生のなまえは「かわいとしお」というらしい。
心理学で「かわい」なら、もしやとおもい
ネットをみると、河合俊雄というひとだった。
とうぜんお父さんは河合隼雄さんだ。
河合俊雄さんは、お父さんとおなじ、ユング派の精神分析家だという。
河合隼雄さんと村上春樹さんは、
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という本をつくっている。
河合さんのもとで 精神分析をうけるひとのおおくが、
村上さんの本をよんでいることから、
村上さんにたいして関心をもっていたという。
それにしても、むすこの俊雄さんまで、
村上さんの本を題材にえらばなくてもよさそうなものだけど。

NHKカルチャーラジオ「文学の世界」の
「河合俊雄が読み解く村上春樹の“物語”」(全12回)は
村上さんファンにとって、とてもおもしろそうだ。
1回目のきょうは(再放送をきいたので)、
物語・夢のリアリティ:
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」で、
カキフライ論理のはなしもでていた。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/20190110_0318_kawai_nhkradio/

心理学をこころざし、ユング派をえらび、村上春樹を題材にする。
ここまでお父さんのあとをおうような人生とは、
どんなかんじがするのだろう。
長嶋茂雄さんにたいする 長嶋一茂さんみたいなものかとおもったけど、
河合隼雄さんほど、精神分析において
圧倒的な存在となった父親をもつと、
たとえむすこだからといって、まったくべつの存在と
ひらきなおれるような気がする。
親子だからどうこういわれる世界でもなさそうだし、
コピペしてできた人格なわけではもちろんないし。
そもそも、むるこに「俊雄」と
自分の名前から一文字えらんだ時点で、
父、隼雄さんがひそかにレールをしいたと いえなくもない。

わたしは俊雄さんの本をよんだことがなく、
俊雄さんが、どのような人生をあゆんだすえ、
いまにいたったかをまったくしらない。
そして、父親の河合隼雄さんは、
あれだけたくさんの本をかきながらも、
自分の家族についてはいっさいかたっていない。
しらないものは、想像するしかないけれど、
河合隼雄さんが、むすこをあいてに、
こんこんとユングのはなしをきかせたとはおもえない。
ウィキペディアをみると、
「4歳から7歳までチューリッヒで過ごす」とある。
ここらへんに、河合俊雄さんとユング派とのであいがありそうだけど、
4歳から7歳までの滞在では、まだはやすぎるか。
河合隼雄のむすことしてユング派の精神分析家をめざすのは、
どんな人生なのか興味がわいた。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月16日

『行商人に憧れてロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』(春間豪太郎)

『行商人に憧れてロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』
(春間豪太郎・KKベストセラーズ)

旅行からかえったばかりだけど、春間豪太郎さんの
『行商人に憧れてロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』
をよんでいると、またぞろ あるきの旅行がしたくなってきた。
本のタイトルどおり、春間さんは、
ロバといっしょにモロッコを1000キロあるいている。
ロバだけでなく、ネコやニワトリ、犬にハトと、
いっしょに旅をする動物が、だんだんふえていく。
必然的に野宿がおおくなり、客観的にみると
ずいぶんタフな旅なのに、春間さん本人はじつにたのしそうだ。
自分がどれだけたいへんな旅をしているか、なんて
春間さんは自慢しない。
自分のちからをすべてだしきる充実感が、
本書のいたるところでかたられている。

わたしはタイの旅行で、ながい距離をあるこうとおもっていたけど、
もともとそんなガッツはないものだから、
現地につくと、せいぜいながめの散歩くらいで、
あとはタイマッサージとビールのデカダンスにとどまった。
きっと、なんど旅行にでかけても、得るもののない、
おなじような時間をすごすだけなのだろう。
そんなわたしでも、すぐれた冒険や旅行記はかぎわけられる。
本書は、まちがいなく第1級の冒険によるおもしろ本だ。

ロバとあるくのも、奇をてらった企画で
まわりをおどろかそうというつもりはなく、
ただやってみたかったからにすぎない。
ただ、やるからには、まえもって情報をあつめ、
しっかりした準備と、まいにちのチェックをおこたらない。
語学のセンスがあるらしく、
モロッコのまえに3ヶ月すごしたカメルーンで
フランス語をはなせるようになっている。
エジプトでの体験からアラビア語もおぼえた。
お金をできるだけつかわないで旅をしているし、
つかわないどころか、旅のはなしをしたり、
写真撮影に協力したりして、お金をかせいでいる。
1000キロあるき、ゴールのタンジェまでの滞在費を、
たった3000円にみつもっているのもすごい。
いくらモロッコの物価がやすいといっても、
いちにちいくらですごすつもりなんだろう。
モカ(ロバ)の餌やり中にサソリを見つけた。サソリを間近で見たのは初めてだったので、ラテ(子ネコ)を十分に遠ざけた上でさされてみることにした。

ずいぶんむちゃなひとなのだ。
ふつう、サソリをはじめてみたからといって、
わざわざさされてみるひとはそんなにいない。

この本をよんでかんじるのは、
春間さんの自由な精神とやわらかなこころだ。
野宿やコミュニケーションなどの旅のスキルがたかいため、
たいへんな旅をしていながら、
危険をさけ、ときにはモロッコのひとのふところにはいり、
やりたいことをスルスルと実現させていく。
春間さんは自分の能力すべてをかたむけて、
やりたかった旅にとりくむときによろこびをかんじている。
自分のちからで目のまえの問題に対処し、自信をつけ、
さらに困難な局面でも、のりきるちからをつけていく。

夏のモロッコをあるくのだから、
とうぜんものすごくあついだろうに、
春間さんはシャワーやビールがなくても弱音をはかない。
ホテルなんかにとまらず、野宿が基本の旅だ。
こうした旅のスキルを、これまでの体験により春間さんは身につけ、
やしなってきた たかい実力のもとに、モロッコでの旅は実行された。
旅のおともをする動物たちと、
彼らの安全を第一にかんがえる春間さんのやさしさもいい。
こんなすてきな旅を、本で味あわせてくれた春間さんに感謝したい。
タグ:冒険

posted by カルピス at 21:52 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月15日

年賀状の返事がかけない

2015年から年賀状をやめ、
寒中みまいの形で手紙をだしている。
年末年始に旅行している年がおおい、という理由だけでなく、
年賀状が元旦にとどくように
ちゃんと準備できないための寒中みまいだ。
おくれて返事をかく年賀状よりも、
寒中みまいのほうがいいわけできるような気がする。
ことしもまた、旅行へいっていたので、
あとから手紙をかこうとおもっていたけど、
なかなかおもい腰があがらない。
4日には、日本にもどっていたのだから、
はやく返事をかけばいいのに、その気になれない。
返事といったって、ほんの10通ほどの数だ。
それも親戚からの賀状が半分をしめるので、
コピペすればたいした手間ではないのに、
なにかがわたしのやる気を邪魔している。
形式だけでしかない、つまらないやりとりなので、
ますますめんどくささがさきにたつ。

わたしがはたらく事業所のお客さんに、
客商売をしているひとがいて、
このまえあったときに、
「ことしは年賀状をあきらめました」
とはなされた。
150通ほどの年賀状を
いつもならお得意さまにだすのだけど、
ことし(というか、きょねん)はあまりにいそがしくて、
とうとうぜんぶやめることにしたらしい。
客商売をしていて、年賀状をださないのは、
かなりの決断だったのではないか。
ひくくにながされやすいわたしは、
そうか、その手があったかと すぐにとびついた。
わたしも、寒中みまいをやめてもいいのでは。

しりあいがやめたのは年賀状であり、
寒中みまいではないけれど、
そこらへんはちゃっかりすりかえる。
どうせ形式だけのつまらない手紙だ。
客商売をしているひとが 覚悟をきめて
年賀状をやめるのだから、
わたしも世間体など気にかけず、
このさい さっぱりとやめる時期かもしれない。
寒中みまいは、立春(2月4日)までにだせばいいらしく、
まだあきらめるのは、ほんとうは はやすぎる。
でも、親戚との距離感をきっちりとるために、
年賀状も寒中みまいもやめ、
つきあいのわるいやつとしての立場を確立するべきかも。
ちかい将来、母親がなくなったとき、
親戚との関係がうすければ、
母の葬儀は身内だけですませましたと、
いいのがれしやすいのではないか。
ことし返事をださなければ、らいねん年賀状はこないだろう。
ことしだけ我慢すれば、このさきずっと楽ができる。

ネットで「年賀状 やめる」を検索すると、
いくつもの記事がひっかかる。
年賀状をやめる側にも、それなりの論理があるようだ。
身内だけの葬式にしたいから、という理由はみかけなかった。
タグ:寒中みまい

posted by カルピス at 22:25 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月14日

アジア杯 日本対オマーン 1−0で日本

アジア杯 グループリーグ日本対オマーン
1−0で日本

アジア杯のオマーン戦をみる。
ひとことでいうと、おもしろみのない試合だった。
あいてはよくまもったものの、
攻撃の精度はいまひとつのチームだ。
日本はあいてにあわせたかのように、
おなじようなミスからボールをうしなってしまう。

初戦からかわったのは、
センターバックが槙野から富安へ。
ボランチが富安から遠藤へ。
ワントップが、大迫から北川へ。
トルクメニスタン戦では、
富安が本職ではないボランチにはいり、
パートナーは、はじめてコンビをくむ柴崎だったので、
うまくいかなくて当然というくみあわせだった。
2試合目となるオマーン戦は、コンディションがととのい、
初戦の重圧もなくなり、いいわけはきかなくなる。

日本らしいながれがつくれるだろうと楽観していたけど、
あいかわらずおもうようにパスがつながらない。
ときどきチャンスをつくれるものの、
モタモタしてるうちに うまくまもられてしまう。
オマーンの時間帯がながかったわけではないけど、
日本らしいリズムの時間はほとんどなかった。
けっきょく、得点はPKで原口があげた1点にとどまる。
わるいのは前半だけで、後半からは、
さすがにスイッチをいれるだろうとおもっていたのに、
ずっとおなじような単調な攻撃がくりかえされた。
のこり10分ではいった伊東純也のスピードを
あいてがいやがっていたのが、ひとつのすくいだ。

北川が、大迫ほどボールをおさめられないこと。
ドリブルで強引にきりこむ中島がいない。
わるければわるいなりに、なんとかしようと
中心になって声をかける選手がいない。
シュートが相手ゴールキーパーの正面にとんでしまう。
運がないとばかりはいえない。
PKをもらえたし、長友のハンドはみのがされた。
なんでこんなにピリッとしない内容がつづくのだろう。
結果としては、グループリーグを突破できたわけで、
順当に目標を達成したのだけど、
はっきり正体がみえないモヤモヤをかかえている。

パナマやウルグアイとの国際親善試合では、
あんなにわくわくするプレーをみせてくれたのに、
大会となると、まるでちがうチームになってしまった。
それだけアジアのレベルがあがったのだろうか。
このまま決勝トーナメントにすすんだら、
どことあたっても、くるしそうだし、
おもわぬ敗退をまねいても不思議ではない。
タグ:アジア杯

posted by カルピス at 21:10 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月13日

「筋肉女子」美ボディをめざす女性たち

BS1スペシャル
「筋肉女子〜スーパー美ボディへの道〜」
をみる。

あたらしい競技「ビキニ」でうつくしさをきそう女性たち。
いっけん女性のボディビルダーにみえるけど、
「ビキニ」は、女性らしいうつくしいラインを大切にする。
ボディビルダーは、たとえ女性でも、筋肉の量とキレをきそうので
胸までぜんぶ筋肉にしてしまう。
目的とするうつくしさの基準がはじめからちがうのだ。
審査の基準は、「女性らしいボディライン」を「いかに筋肉のカタチで作っているか」というところ。 一般的にボディビルでは、いかに大きな筋肉を作るかで勝負しますが、ビキニ場合は筋肉を大きくしすぎると減点となるのが大きな特徴です。
中でも最も重要なポイントは、お尻からももの裏側の筋肉です。ただ、お尻の丸みは失ってはいけないので、ピンポイントで鍛えすぎずに、鍛える(笑)。すごく繊細なトレーニングをしなければいけないんです。
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=17373
番組では、日本でおこなわれた世界大会にむけ、
トレーニングにうちこむ日米3人の選手を紹介している。

日本人選手のMIHARUさんは、大会での優勝をめざし
きびしいトレーニングと、徹底的に管理した食事を自分にかしている。
欧米の選手ときそうには、筋肉量をふやなければならない。
そのため一時的に体重を64キロまでふやし、そのあと大会までに
6キロおとしてうつくしいボディラインを完成させた。
ストイックな生活をみていると、これだけの努力をかたむけたら、
なんだってかなりのレベルにたっするようにおもええる。
MIHARUさんにとって、その対象がたまたま「ビキニ」だった。

すこしまえの朝日新聞に、
がんばってダイエットしたけれど、リバウンドして
もとの体重にもどってしまった女性が紹介されていた。
ふとった自分の姿をネットに公開したら、
おおくのひとから共感がよせられてきたという。
ダイエットしてやせたときは、
たしかに体重はおちたけれど、気はやすまらなかった。
あるがままの自分をうけいれたいまのほうが、
しあわせだとはなしている。

「ビキニ」のうつくしさにひかれ、
きびしいトレーニングにうちこむひとは、
それぞれ、それなりの理由があるのだろう。
ほかの競技でも、トップをねらう選手たちは、
ハードなトレーニングを毎日おこなっているわけで、
「ビキニ」の選手たちも、それといっしょかもしれない。
彼女たちのからだは、たしかにものすごい筋肉だけど、
わたしには、それが「女性らしい」とは、あまりおもえない。
これはまあ、このみの差でしかない。
わたしにとっては、女性スイマーのなめらかなラインがうつくしい。
「ビキニ」がめざす「美」が、わたしのこのみとちがうからといって、
この競技を否定してはならないだろう。
あくまでも個人的な感想として、美意識のちがいをかんじた。
わたしだったら、ふとった自分をうけいれて、
ほんわかと のんきにくらしたい。
タグ:ビキニ

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月12日

『君の名前で僕を呼んで』みおえたあとのすがすがしさが自分でも意外だった

『君の名前で僕を呼んで』
(ルカ=グァダニーノ:監督・2017年)

ゲイのカップルのはなし、としりあいから説明をうけていた。
映画がはじまっても、なかなか恋愛感情はうかがえず
(わたしがにぶいのだろうけど)、
とちゅうまでたいくつでしかなかった。
作品の世界にはいっていけたのは、
ゲイがどうこうではなく、これは年下の男の子が、
年上のひとをすきになる恋愛映画なのだとおもえてからだ。
おたがいが、おたがいを、いとおしくてならない存在となり、
いつもそばにいなければおちつかない。
肉体的なコミュニケーションもあるけれど、
精神的にふたりの関係はすごくピュアだ。

相手の男性(オリバー)も、さいわい、
少年(エリオ)をリードできるだけの
責任感のつよい しっかりした大人だった。
オリバーがいうように、もし彼のお父さんが
ふたりの関係をしったら、
矯正施設へおくりこまれるくらい、
あたまごなしに反対するだろう。
でも、エリオのお父さんは、
すべてをしっても あえて口をはさまないで、
ふたりをみまもりつづける。
オリバーへの態度も、むすこのパートナーであるにもかかわらず、
家にきたときとかわらない誠実な態度でせっしている。
両親だけでなく、お手つだいの女性も、
庭師みたいなおじいさんも、大人たちがみんないい。
まともな大人にかこまれているから、
少年はこれだけまっすぐにそだった。

オリバーは、エリオたちのもとをさってから半年後に、
婚約のしらせを電話でつたえてくる。
エリオは、もうけしてオリバーが
自分のもとにはもどってこないかなしみにつつまれる。
しかし、オリバーのしあわせを祝福できるだけの
大人になっていた。
相手へのおもいがかなわなかった恋愛なのに、
映画をみたあとのすがすがしさが、自分でも意外だった。

posted by カルピス at 20:16 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする