どの大会でも、グレートレースはまさに「グレート」なので、
きびしいコースを、どれだけながい距離はしっても、
あまりおどろかなくなっている。
それでも、トップあらそいをする選手たちのスピードは驚異的だし、
かぎられた食事だけで、よくあんなにはしれるものだとおもう。
今回のレースでは、ヒザをいためてあるくのもたいへんになっている
イギリス人の選手が、足をひきずりながらゴールした。
「自分がほんとうに誇らしい」が、ゴールしたときのコメントだ。
ほこれる自分であるために、レースをなげださなかった。
グレートレースに参加する選手たちは、
なぜこんなに過酷なレースに挑戦するのか不思議におもうけど、
「自分がほんとうに誇らしい」は、
わたしにも納得できる感情だ。
相手にかつためよりも、自分をほこらしくおもえるほうが、
わたしにはしっくりくる。
むすこがまだ保育園にかよっていたとき、
わたしはむすこの親として、
はずかしくない人間でありたいとおもっていた。
保育園でおこなわれる運動会や卒園の発表会では、
棒のぼりやとびばこなど、日ごろからとりくんでいる運動を、
保護者たちにみてもらう場となる。
失敗がつづいたからといって妥協はなく、
できるまでやりつづけるきびしい「発表会」だ。
夜になるまで練習をつづける子もいる。
子どもたちの真剣さをまえにすると、
なにかの課題から、わたしがにげだすわけにはいかない。
子どもたちが一生懸命にとりくむ練習をみて、
エリをただすなんて なさけない親だったけど、
さいわい むすこにたいし、
うしろめたい気もちをもたない程度には
はずかしくない親として生きられた。
モンゴルのグレートレースでは、
65歳の女性が完走をはたしている。
友人の死がきっかけとなり、
60をすぎてから、からだをうごかすようになり、
はじめて参加したのが このモンゴルでのグレートレースだ。
つらいときには歌をうたって気もちをもりたてていた。
70キロの行程をいく日には、
夜なかになってようやくその日のゴールにたどりついている。
ほんの数時間の休憩のあと、またつぎの日のレースがはじまる。
このひとは、自分への挑戦というよりも、
自分と自然との調和に関心があるようにみえた。
とつぜんふってきた雨にも、
グチをこぼすことなく よろこびをかんじている。
旅行からかえって1週間たったわたしは、
平凡な日常のここちよさをたのしんでいる。
なんでもない日をありがたくすごすのは、
わたしの得意とする状況だ。
でも、グレートレースに参加するひとたちをみると、
なにかに挑戦するすばらしさから刺激をうける。
スピードをきそうのは、もはやわたしにはできない。
はずかしくない自分であるために、
自然や命への感謝をわすれないために、
ことしもからだをうごかしていく。
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