2019年01月24日

「ワープロ誕生40年」の記事におもうこと

けさの朝日新聞に、「ワープロ誕生40年」という記事がのった。
副題は、「漢字制限論捨てさせた発明」となっている。
明治時代には、漢字をつかっているから、
日本はおくれているんだ、という説をとなえるひとたちがいて、
英語やフランス語を公用語に、
という うごきさえあったと紹介されている。
また、外国語をもちこむのではなく、漢字をすくなくつかおう、
というかんがえ方もあったと、
漢字制限の歴史がざっとまとめられている。
以前あった当用漢字とは、
将来的には漢字をつかわない方向にすすめるけど、
きゅうに廃止するのではなく、
「当面はこれぐらいの制限でやっていこう」
という意味だったそうだ。

そうしたながれをかえたのが技術革新だったと、
この記事をかいた山脇岳志氏は ワープロの登場にふれている。
日本人は、繊細な日本語を使い、世界を相対化しながら、美的感覚や独自の文化を磨いてきた。ものづくりにもその感覚は生かされてきただろう。
 40年前の武骨なワープロを眺めながら、多くの漢字が生き残ってよかった、とつくづく思った。

と山脇氏はむすんでいる。
見解の相違としかいいようがない。
なぜ「多くの漢字が生き残ってよかった」
という結論になるのか、なんどよんでもわからない。
日本語だけが繊細な言語なのか。
ほかのことばをつかうひとたちは、
繊細なことばをつかっていないのか。

わたしは、漢字制限について、
梅棹忠夫さんのかんがえ方につよい影響をうけ、
できるだけ漢字をつかわずに 日本語をかこうとしている。
漢字にたよらなくても、文章はかける。
日本語を勉強するとは、ほとんどそのまま
漢字をおぼえることであり、
日本語を勉強する外国人にたかいハードルとなっている。
そして、なによりも日本語をまなびはじめる小学生は、
漢字練習におおくの時間をうばわれ、文章のかき方について、
ごくかんたんにしかおそわらない。
これらの問題点を、梅棹さんはくりかえし指摘している。

漢字は、遺産かもしれないけど、負債でもある。
漢字をたくさんのこしたことにより、
日本語をあやつるようになるには
そうとうな時間をかけて、漢字をおぼえる必要がある。
漢字は、日本の文化かもしれないけど、
漢字だけが日本の文化ではない。
ワープロやパソコンによって、
だれもがかんたんにむつかしい漢字をつかえるようになり、
かえって問題はさきおくりされた、というとらえ方もある。
漢字をつかわなければ、
繊細な表現ができないというかんがえ方に、
わたしにはいつも反発をかんじてしまう。

posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする