2019年01月26日

いたみをうったえる脳の司令になやまされる

自由って、なんだろう、なんて
おおきすぎる問題をかんがえようとしていたら、
からだが不自由になった。
比喩的な意味でいっているのではなく、
足がいたくて、日常生活に不自由するようになったのだ。
たぶん、ランニングによる故障だとおもう。
2週間ほどまえからすこし足がいたくなり、
でもはしれないほどではないので、
ごまかしながらジョギングをつづけていたら、
今週から本格的ないたみになった。
どこがいたいのか、ひとことではいいあらわせられない。
左足のつけねがおおもとのいたみで、
そこに関係する筋が、うごき方によっていたみをうったえる。
足をひきづづらなければ あるけないぐらい いたい。

足がいたいのは、ものすごく不自由だ。
でも、不自由のなかにも
ちらほらつきあい方をみつけられるようになる。
お風呂にはいって 足があたたまると、
いたみがウソのようにひくのに気づいた。
いたみさえひけば、スクワットでも、
その場でのかけあしも、問題なくできる。
そのときは、問題なくできるものだから、
そうやって 完全に足をやすめずに
およいだり、自転車にのったりしていたら
いたみがますますひどくなった。
いまでは、たったりすわったりする動作でさえ
おそるおそる足をかばいながら、老人よりも老人らしい。
そうでなくても、首やら肩のいたみになやまされている。
歳をとるとは、あちこちのいたみとつきあうことでもある。

腰痛は、脳がつくりだしたいたみだ、
というのをテレビでやっていた。
ながいあいだ腰痛になやまされていると、
ほんとうはいたくなくても、
脳がいたみの司令をだすようになるらしい。
わたしのいたみも、便宜的に、
気のせいだとおもうようにする。
夜ねているときは、なんどか寝がえりをうっているはずなのに、
いたみでいちども目をさまさないのは、
この説をうらづけている気がする。
足がいたいのは、脳がからをやすませろといっているのだ。
やれやれ、気のせいだけど、ほんものみたいにいたいなーと、
いたみとのつきあいを なんとかやりすごそうとしている。

posted by カルピス at 17:57 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする