2019年02月28日

河合俊雄さんがよみとく村上春樹作品の垂直性

毎週木曜日の10時から、NHKカルチャーラジオで
「河合俊雄が読み解く村上春樹の“物語”」をきいている。
すこしはなれたお店にクッキーをとどけると、
ちょうどこの番組がまるまるおさまる。
なんてかくと、わたしが自分の趣味にあわせて
配達場所をえらんだみたいだけど、
もちろん たまたまの偶然でしかない。

はじめのころの放送は、きいていて
あまりおもしろくなかったけど、前回の「垂直性」から、
わたしにもはなしの内容が いくらかわかるようになってきた。
垂直性は、「パン屋再襲撃」にでてきた
「特殊な飢餓」を説明するとき、
洋上にうかぶボートというかたちで顔をだしている。
1 僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。
2 下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。
3 海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし、正確なところはわからない。
4 何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。

河合さんによると、これが「垂直性」だという。
水平ではなく、垂直な構造をとりいれることによって、
ものがたりのふかみがますらしい。
ただ、垂直性をだそうとしながら、
「パン屋再襲撃」ではマニュアルにたよった
ハンバーガーショップの対応をうけ、
水平な関係にとどまっているらしい。
うまいことをいうものだと感心した。
わたしは、洋上にうかぶボートの描写をよんでも、
かかれたとおりにうけとめるだけだ。
それが垂直性だなんて、まるで気づかないし、
パン屋をふたたびおそうことと、
なにか関係があるとも もちろんかんがえなかった。
でも、河合さんによって 構造がときあかされると、
この短編にひかれるのは、垂直性と水平性の
おもしろさにあると気づかされる。

「パン屋再襲撃」は、短編集『パン屋再襲撃』におさめられている。
突然おとずれた理不尽なほどの空腹は、
むかしパン屋をおそいそこねた
のろいにちがいないと 奥さんがいいだし、
もういちどパン屋をおそいなおすはなしだ。
深夜にひらいているパン屋さんは、
すくなくとも当時はなかったので、
かわりにハンバーガーショップをおそうことになる。
わたしは、奥さんがきゅうに
機関銃のレミントンをとりだしたおかしさにつりだされ、
軽ハードボイルドとしてよんでいたぐらいだから、ひどい読者だ。

『パン屋再襲撃』のなかには、
いい歳になっても、あそびつづけるおにいさんのはなし、
「ファミリー・アフェア」もおさめられていて、
わたしはこのいいかげんそうなおにいさんがだいすきだ。
「でも本当の生活というのはそういうものじゃないわ。(中略)あなたはまるで自分のことしか考えてないし、真面目な話をしようとしても茶化すばかりだし」
「内気なだけなんだ」と僕は言った。
「傲慢なのよ」と妹は言った。
「内気で傲慢なんだ」と僕はワインをグラスに注ぎながら渡辺昇に向かって説明した。「内気と傲慢の折りかえし運転をしてるんだよ」

わたしはこのおにいさんから、
ささやかなおいわいにシャブリをおくること、
デートでは、ウィスキーのI・W・ハーバーをのむこと、
そして、
良い面だけを見て、良いことだけを考えるようにすれば、何も怖くないよ。悪いことが起きたら、その時点でまた考えればいいさ

をまなんだ。
文学的なふかみはないかもしれないけど、
人生における実用書として、「ファミリー・アフェア」は
「パン屋再襲撃」よりもやくにたつ。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月27日

キャサリン=ゼタ=ジョーンズにひかれて『シカゴ』をみる

『シカゴ』(ロブ=マーシャル:監督・2002年・アメリカ)

『ターミナル』にキャビンアテンダント役ででていた
キャサリン=ゼタ=ジョーンズがすてきだった。
ほかの出演作品をしらべてみたら、『シカゴ』がおもしろそうだ。
ツタヤでかりようとおもった日、新聞の番組欄をみると、
BSプレミアムでの放映がのっていた。
だったら、わざわざかりることはないので、録画ですませる。
かりようとおもっていた作品を、その日にテレビで放映するなんて、
すばらしい偶然だ。
こういう運命をかんじさせるながれは、
たいてい「あたり」となる。

「あたり」となるはずだったけど、
さいごまで だれがキャサリン=ゼタ=ジョーンズなのか
はっきりしないまま わたしはみつづけた。
おそらく主人公の女性が彼女だろう、
でも、『ターミナル』のときとずいぶんちがうな、とおもいつつみて、
エンドロールでようやくまちがいに気づく。
ほんとうは、主人公がはじめあこがれ、
やがて反目しあうヴェルマ=ケリーをえんじたのが、
キャサリン=ゼタ=ジョーンズだった。
弁解じみてくるけど、そのていどの理解でも、
この作品はじゅうぶんたのしめる。
むつかしいことは、いいっこなし。
ゴージャスなナイトクラブでくりひろげられる、
うすっぺらな歌とおどりに、ただうかれていればいい。

1920年代、アメリカのナイトクラブが、
いかがわしく、はなやかで、社交の中心だった時代。
いちどライトをあびた女性は、ずっと注目をあびつづけようとする。
誠実さとか、良識などは、だれも気にとめない。
どうしたらいつまでも バカさわぎにうかれたまま いきられるか。
ものがたりのおわりで、ロキシー=ハートとヴェルマ=ケリー、
つまり主役のレニー=ゼルウィガーと、
ライバル関係にあるキャサリン=ゼタ=ジョーンズがデュオをくみ、
夫ごろしの犯罪者コンビとしてうりだすのがおかしい。
おたがいに、あいてをきらいあっているけど、
お客が注目してくれるなら、そんなこと関係ない。
あのふたりがくんで、ながくつづくわけないけど、
それでもスポットライトをあびながら、
嬉々としてうたい、おどるラストがこの作品のキモだ。
お気らくで、かるがるしく、目さきのことしかかんがえない、
この時代の社会風俗をよくあらわしている。

「シカゴ」というと、映画『ブルース・ブラザース』にでてきたし、
ミステリーの『シカゴブルース』と『通り魔』
(いずれもフレドリック=ブラウン原作)の舞台でもある。
ほかにも、シカゴ市内の高架をはしる電車を、映画でよくみかける。
なぜブルースとシカゴがふかい関係にあるのか、
わたしはよくしらないけど、
アメリカを象徴する都会として、シカゴをイメージしている。
映画『シカゴ』は、都会としてのシカゴが
舞台でなければならなかった。
いったことがないのに、なんとなくしたしみをかんじる町だ。

posted by カルピス at 22:03 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月26日

「モーツァルトはとなりによりそう音楽」ひふみん ふたたび

「きらクラ!」をきいていたら、
きょねん 加藤一二三さんをゲストにむかえた回が、
すこし手をくわえて、もういちどながされていた。
おなじはなしをきいているはずなのに、
おもわずメモをとるおもしろさだ。
スランプで何ヶ月もかてない日がつづいていたとき、
モーツァルトのバイオリン協奏曲第3番をきいたら、
あすの将棋をかてる気がしてきたという。
その予感のとおり、その勝利をきっかけに、
ひふみんの連勝がはじまる。
加藤さんがかんじるには、バッハをきいていると、
さあなにかやりなさい、はやくしなさいと、
せきたてられる気がするのに、
モーツァルトだと、いいですよ、
いまやらなくても大丈夫ですよ、と
いわれている気がするという。
ふかわりょうさんは、
「バッハは背中をおす音楽。
 モーツァルトはとなりによりそう音楽。」
とうまくまとめていた。

あいてとたたかう意欲がなければ、将棋はさせない。
でも、むきだしの闘争心だけでは、これもまたうまくいかない。
その微妙なバランス感覚を、
モーツァルトをきくことで、とりもどせようだ。

サッカーライターの西部謙司さんが、
ここへ出せば決定的なチャンスを作れる、そういうときでも、ちらりと別の方向を見る。集中しすぎるとそこしか見られなくなりますけど、ちらりと別のものを見ることで『世界』は変わりますよ

という、中村憲剛(川崎フロンターレ)のことばを紹介している。
https://www.footballchannel.jp/2019/02/22/post310518/
サッカーにおいて、集中をかくプレーなど、問題外だ。
でも、集中しすぎてもまた
まずしいプレーになるというかんがえ方がおもしろい。
なぜこのタイミングで、ありえない方向へのパスがだせるのか、
憲剛のプレーをみていると、いつも不思議になってくるけど、
「ちらりと別のものを見」ているからこそ、
ちがう世界をえがけるのだろう。

加藤一二三さんぐらいの天才になると、
なにをいってもきく側が納得してしまう。
ご自分のことを、天才といわれても、
ひふみんだといやみがない。そのとおりだから。
これまでおおくのゲストをむかえている「きらクラ!」なのに、
そのなかから、あえて加藤一二三さんの回を
もういちどながしたのは、それだけ反響がおおきかったのだろうか。
わたしとひふみんがにているのは、ネコずきなことぐらいだ。
バイオリン協奏曲第3番をきいても、
わたしの頭には、なにもうかばなかった。
これでは連勝のきっかけにならない。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月25日

Jリーグ開幕

2019年のJリーグがはじまった。
12月まで昨シーズンがあり、
1月にはアジア杯をたのしんだので、
サッカーの空白は ほとんどないのだけど、
それでもあたらしいシーズンがはじまるのはうれしい。
ことしのJ1は、あたらしくはいった外国人選手や、
川崎フロンターレの3連覇なるか、など、話題がほうふだ。

いくつかの予想をよむと、
川崎フロンターレの前評判がたかい。
これまでの戦力にくわえ、
188センチとたかさのあるレアンドロ=ダミアンがくわわり、
攻撃がさらにあつみをました。
どこにもスキがない、というひとまでいる。

ヴィッセル神戸にも、もちろん注目があつまっている。
これまでのポドルスキとイニエスタにくわえ、
あたらしくビジャまではいったのだから、
バルセロナ化がどうすすむのかを、
おおくのひとがたのしみにしている。
ただ、スーパースターが3人になったから
どんどん点がはいるようになるかというと、
そうはかんたんにはいかないのがサッカーだ。
3人に注目があつまりすぎて、
チームとしてまとまるのが たいへんかもしれない。

そのほかでは、風間監督になって3年目の、
名古屋グランパスの名前もよくでてくる。
補強をうまくすすめたうえに、
風間監督のサッカーが浸透したことをかんがえると、
きょねんみたいに下位をうろつくチームではない。

超攻撃型の戦術をとる、横浜F・マリノスもおもしろそうだ。
昨シーズンは、リーグ最多得点をあげた攻撃が、
2年目となる今シーズンは さらにたかまるだろうか。
いずれにしても、こういう極端なチームはみていてたのしい。

FC東京にはうりだしちゅうの久保建英がいる。
17歳ながら、天才的なボールさばきをみせ、
なにかおきそうな気にさせてくれる。

わたしが2番目にすきな(一番はフロンターレ)
ガンバ大阪にも期待がかかる。
昨シーズンは、宮本監督にかわってから9連勝をあげ、
残留あらそいからぬけだした。
ただ、遠藤と今野が、どれだけ本調子をたもてるかが未知数で、
このふたりにたよれないときにどうなるか。

J2から昇格してきた大分トリニータと松本山雅もたのしみだ。
どちらもJ1を経験ずみで、
どんなたたかいかたが必要かよくわかっている。
開幕戦で、トリニータは鹿島を2−1でやぶり、実力をしめした。
J2でのいきおいを、そのままJ1にもちこんで あばれてほしい。

昨年に初タイトルとなるルヴァン杯をとった湘南ベルマーレは、
チョウ=キジェ監督となって8年目をむかえ、
戦術の浸透が期待される。
労をいとわずはしりまわるサッカーは魅力的だ。
そのほかでは、浦和や鹿島はもちろん上位をねらえるチームだし、
広島だって、昨シーズンの失速をかてに、たてなおしてくるだろう。
昨シーズンまでは、関心のわかない試合もあったけど、
今シーズンは、どのチームもそれぞれ特徴があり、
全試合がたのしみだ。
わたしの予想としては、
おわってみればフロンターレ、
という年になるような気がしている。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月24日

おおきな混乱なしに「竹島の日」をやりすごす

2月22日はネコの日だけど、島根県は条例でこの日を
「竹島の日」とさだめており、おおがかりな式典がひらかれる。
まいとしこの時期になると、
日本の政治団体(いわゆる右翼)が
何台もの宣伝車でやってきて、
軍歌をながしながら宣伝車でゆっくり市内をはしったり、
式典の会場ちかくで演説したりする。
韓国人の活動家もくるそうで、
島根の警察だけでは対応できないのか、
ちかくの県から たくさんの警官が応援にやってくる。
いつもはしずかな松江の町が、
「竹島の日」をめぐり、なにやら おちつかない雰囲気となる。

先週の日曜日は、つらなってすすむ 右翼の車をみかけた。
日本じゅうから、さぞかし たくさんの活動家があつまったのだろう。
そうおもっていたら、新聞に発表された数字は、
ひょうしぬけするほど すくなかった。
 県警によると、市内では今年、竹島の領有権を主張するなどした日本側の政治団体は約20団体40人で、街宣車は約15台。これに対し、韓国人とみられる複数人のグループが乗用車に乗って訪れたという。

市内をはしる街宣車には、
ぎっしりと活動家がのっているのかとおもったけど、
15台に40人なら、一台あたり3人にもみたない。
そもそも、15台というのも、あんがいすくない。
まっくろでおおきな車はめだつので、かなり威圧感があるけど、
無数にはしっているとおもった街宣車は、
かぞえてみれば、たった15台だったのだ。
わたしはすべての街宣車をみたのかもしれない。
しかも、そのなかには、運転手と助手席以外、
ほとんどひとがのっていなかったとは。

まあ、わたしがかってにかんちがいしていただけだけど。
警察は過去最多の790人態勢で警備にあたったというから、
圧倒的な物量で旧日本軍におそいかかったアメリカ軍みたいだ。
そのおかげもあり、「竹島の日」をめぐる攻防は、
おおきな混乱をまねかずに のりきれたそうで、
まずは めでたしめでたし。

posted by カルピス at 22:41 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月23日

朝日新聞「beランキング」での村上春樹作品

朝日新聞の土曜日版beに
アンケート調査による ランキングのページがある。
こんかいは、「一番好きな村上春樹の小説」
についてのアンケートだった。
朝日新聞デジタルの会員登録者を対象にした調査で、
「村上作品の長編・短編集の27作品から、
 一番好きな作品あるいは読んでみたい作品を
 三つまで選んでもらっ」ている。回答者数は1121人。

「beランキング」は、2012年にも、
「いちばん好きな村上春樹の小説は」というタイトルで、
村上作品についてたずねている。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/295044140.html
そのまたまえの2009年には、おなじ土曜日版のちがうページに、
似たようなアンケートで村上作品をとりあげている。
この時期になぜ村上作品をアンケートしたのかわからない。
ちかぢか新作が発表されるのだろうか。

こんかいと、2012年のランキングをくらべてみると、
1位『ノルウェイの森』
2位『1Q84』
3位『海辺のカフカ』
と、上位の3作品はかわっていない。
わたしがすきな
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、
こんかいが8位で、前回は7位だから、
おなじような傾向がつづいているといえる。
新作の『騎士団長殺し』は5位にはいっており、
めだったあたらしいうごきはこれぐらいだ。

読者からよせられた意見として、
ハルキストへの違和感があげられている。
わたしのまわりに目ざわりなハルキストはいないので、
なぜそんなにきらわれるのかよくわからない。
しりあいにたずねたら、ノーベル文学賞の発表まえになると、
おおさわぎするひとたちがいるそうで、
そうした「ファン」への嫌悪感があるのかもしれない。
また、よんだけど、わからなかった、
という意見もいくつかのせられている。
27の選択肢のうち既読の作品が0、1冊という人が約半数を占めた。

ということなので、じっさいにはあまりよんでいないひとの意見が
ランキングを左右しているようで、
結果をどうとらえるかビミョーなところだ。
かずある雑多な話題のひとつとして
村上春樹をどうおもうか、というアンケートであり、
一般的にはそういう存在なのか、
という程度にしか参考にならない。
村上さんの作品にすくわれた、という読者が
すくなからずいるのだから、
ハルキストへの違和感だけでなく、
こころのよりどころとしての、村上作品にふれたらいいのに。

posted by カルピス at 13:38 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月22日

「ネコの日」は、「夜回り猫」をよむ日

「夜回り猫」の連載をたのしみにしている。
いま更新されているのは、作者の深谷かほるさんが、
台湾にまねかれたときのはなし。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/528/1
台湾にも「夜回り猫」のファンはたくさんいて、
イラストをもとめられるときもおおく、
そんなとき、7割は「宙さん」を希望されるのだという。
「宙さん」は、「先生」とよばれる
老人の家でくらしているグレイのトラネコで、
まだわかいのに、先生のからだを気づかう
しっかりものの相棒だ。
台湾のひとが、なぜ宙さんにひかれるのかわからないけど、
なんでもテキパキと実務的にこなし、
たよりになる居候、という宙さんの存在は、独特な魅力がある。

親バカでもうしわけないけど、
わたしの家にいるココは、宙さんとよくにている。
もっとも、にているのは、トラがら模様とからだのおおきさだけで、
性格はまだまだ赤ちゃんからぬけだせない。
なんにでも興味をしめし、はげしくうごきまわり、
つかれると、なんでそんなにねむいのか、
不思議におもえるぐらい、一生懸命にねむる。
いまはまだ赤ちゃんだけど、
あと5年もしたら、きっと宙さんみたいな
しっかりしたネコにそだってくれるだろう。
そうなると、問題は、わたしがちかい将来、
「先生」ほどの人格者になれるかどうかだ。
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ちなみに、わたしの「おしネコ」は
ネコずきな一家にうけいれられて、
遠慮しながら生きている「ラミー」となる。
自由に自分の気もちをだせる、
お姉ちゃん的な存在のラピにひっぱられ、
ラミーはだんだん自分も家族の一員であり、
家族としてうけいれられているんだと、こころをひらいていく。
愛されることになれてないけど、
ひといちばい愛に敏感なラミーがいとおしい。

きょうは「ネコの日」ということで、
ウィキペディアによると、
猫と一緒に暮らせる幸せに感謝し、猫とともにこの喜びをかみしめる記念日

となっている。
すばらしい趣旨であり、「ネコの日」の制定と、
関係あるかどうかわらないけど、
ネコといっしょにくらすひとがふえたときくのに、
世界には、なかなか平和がおとずれない。
だからこそ、遠藤さんに まだまだ「夜回り」してもらわないと。
WFpbT3UW1SOrBnuvHF5l9-jvBoB3RlXnfV02rGn5MXn6yYPaTNlCyFVvrzzbrwT6eMz-xYa8Z-wDEZlXIwqLab_sOgSEM_-wocEXXbzJxPNO6uXl4drXeN5aK7V4Hs_zSck2Di4LjDv6kkomezr06NzTSJttAY5KRjTzeb7zu7ITaU48pQHerbHTBmOVXseAdKxfos31lFdszyYAGTKZBr7j.jpg
【すごくねむたいココ】

posted by カルピス at 13:44 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

藤井聡太さんによくにた実習生が、すてきにたのしい人物だった

わたしの職場は介護事業所なので、
いちねんになんどか、養護学校から生徒たちがきて、
実習のかたちで活動を体験する。
保護者や学校の先生もつきそってこられ、
身ぢかにある介護資源のなかから、
適切な事業所をさがす機会となる。
卒業後の進路さがし、いわゆる就活だ。

わたしがぞくするクッキー工房にも、
3日間、高校2年生の男子生徒がやってきた。
これまでに体験したことがないほど、味のある人物だったので、
ぜひ記録にのこしておきたい。

養護学校からは、発達障害のおとなしい生徒、と
事前のうちあわせできいていた。
じっさいにせっしてみると、
たしかにおとなしいけど、
こころくばりや場面ごとの配慮など、
じつにこまやかなうごきをみせる。
たとえば、ドアのあけしめでは、
ほかのひとが部屋をでるまで、戸をおさえていたし、
お客さんからお金をうけとるときは、
ためらわずに、さっと両手をだせた。
なんてできる実習生だ、と、
かかわった職員は、みな彼のうごきをたかく評価する。

しずかで、おちついた たたずまいが、
将棋の藤井聡太さんをおもわせるので、
「にてるといわれたことがありますか?」
とたずねると、
お母さんも、そういっているという。
そのあと、わたしがうっかり
本名ではなく、「藤井さん」と、
まちがってよびかけると、
ちいさく「ガクッ」とずっこけてくれた。
その日の実習日誌には、
仕事の感想のあとに、
「あしたは藤井でいきますか?」
とかいてある。
「藤井とよばれてこまった」でも、
「藤井とよんでもいいよ」でもなく、
「藤井でいきますか?」の
「?」が藤井七段らしい しびれる妙手だ。

きょうは、配達にでかけるまで、しばらく空白の時間があった。
「出発まであと15分間、なにもしないのは、たいくつですね」
とわたしがはなしかけると、
しばらくして、「あっ」と声をあげ、
「となりの部屋にラジカセがありましたね。
 あれをきくというのはどうでしょうか」
と提案してくれた。
彼は、10代のわかさなのに、
すきなものが70年代のアイドルだったり、
ふるい自動車だったりと、すこしかわっている。
ラジオもよくきくそうで、クッキー工房においてある、
ふるいラジカセが気になっていたようだ。
いいアイデアなので、ラジカセをもってくると、
さっそく彼はすきなAM局に周波数をあわせた。
その日の日誌には、
「レトロなラジオを見させてもらいました」
とかかれていた。
CDはついておらず、カセットとラジオだけの機械なので、
「レトロなラジオ」はただしい表現かもしれない。
もっとも、彼はカセットテープを家できいているそうで、
高校生とはなしているというより、
近所にすむおちついたおにーさん、みたいなかんじだ。
彼のまえでは、わたしのあさはかな言動がすべてみすかされ、
そのうえで、じょうずにつきあってくれているような気がする。

わたしは、この業界ではたらきだしてから、
経験だけは25年とながい。
これまでにさまざまな実習生とせっしてきたけど、
彼のようなしずかでおちついた人物は はじめてだ。
存在だけで、その場におだやかな雰囲気を もたらしてくれる。
3日間の実習がきょうでおわり、
あすから彼は学校の生徒にもどる。
もう彼がこなくなるのをさみしくおもった。
彼のような人物が、卒後の進路先で、
自分のちからをじゅうぶん発揮し、
自信をもって これからの人生をすすんでいくよう ねがっている。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月20日

『本の雑誌 3月号』の特集「本の雑誌社から消えたもの」をなつかしむ

『本の雑誌 3月号』の特集は、
「出版業界消えたもの列伝」。
文壇バーだのケンカだのがあがっており、
いまそんなことをいわれると、
すごくむかしのできごとにおもえる。
なくなって当然、いまあるほうが不思議だ。

社内座談会として、
「本の雑誌社から消えたもの」が
はなしあわれている。
カーボン紙とかカセットテープ、
みたいなはなしはよくわかるけど、
本の雑誌社でおこなわれていたという
ギャンブルやチンチロリンがなくなったことや、
屋上にふとんをほしていたことなど、
ふつうの会社では まずしないような かわったおこないが、
むかしばなしとしてかたられている。
本の雑誌社には、フロッピーをよみこむために、
まだワープロがあるそうだ。
本の編集にかかわる最先端の業種かとおもっていたのに、
意外とふるい機械がいきのこっている。

おもしろかったのは、むかしは旅館をかしきって
忘年会をやっていた、というはなし。
発人 助っ人と執筆者の人も呼ぶと百人くらいにはなったから。酒も持ち込んで、一晩中話をしたりチンチロリンをやる部屋があったり(笑)。
営B よくそんなお金がありましたね。
発人 会費制です(笑)。
営A 今でもやると言えば来るんじゃない?
営B 幹事やった人、偉いなあ。
営A 対応できる体力が俺たちにはもうない。次の日から三日くらい寝込むよね。
編A 若さがあったんだねえ。
営B 若さもなくなった・・・。

というのがオチになっている。
運動会と社員旅行もなくなったそうだ。
こうしてみると、かわった会社におもえていた「本の雑誌社」も、
日本の会社にありがちな変化を、そのまま体験してきた、
あんがいフツーの会社なのかもしれない。

いまだったら、パソコンとソフトをつかえば、
ずいぶん便利になる仕事でも、たいした理由なしに、
というか、変更するのがめんどくさいので、
まえとおなじやり方を つづけてることって よくある。
わたしが仕事にかよっているクッキー工房では、
A4の1枚シートに 40ほどのマークを印刷し、
そこにカッターできれめをいれてから、
一枚いちまいのシールをはがしていく。
いくらなんでも手間がかかるので、
ラベル用紙をだしている会社のソフトをつかい、
はじめからラベルのおおきさに きれめがいれてあり、
さっとはがせるシートをためしてみた。
カッターをつかわないと、こんなに楽なんだとおどろき、
いままでの仕事はなんだったのだとあきれている。

とはいえ、カッターでシートにきりこみをいれるのは、
手間だけど、あんがいたのしい作業だった。
時間がたつのをわすれてしまうぐらい こころを集中させる。
あれはあれで、味わいのあるシールだった。
もうあとにはもどれないけど、
もしあの工程がいまものこっていたらと、
いまさらながら、なつかしくおもう。
効率はわるいけど たのしい仕事は、
もっともらしい理由をつけてでも、そのままのこしたくなる。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月19日

「世界ネコ歩き」。意外にも、アメリカのネコたちがいちばんいい顔をしている

岩合さんの「世界ネコ歩き」。
きょうはアメリカのネコをみる。
意外なことに、これまでにみたどの国のネコよりも、
アメリカのネコはいい顔をしている。
個性的で、達観した表情で、堂々としたしぐさで。
ネコがしあわせな国は、人間もしあわせな気がする。
アメリカのネコがこんなにいい味をだしているのはなぜだ。

日本・モロッコ・スリランカ・メキシコ・アイスランド・・・。
それぞれの国のネコが、それぞれにいい顔をしている。
そのなかで、とくに印象にのこるのが、アメリカのネコだ。
ざっくりわけて、欧米と、それ以外の地域のネコは、
野性味がまるでちがう。
欧米のネコたちは、汗をかきそうにないし(あたりまえ)、
おなかをへらしたりもせず、すずしい顔をして生きている。
それ以外の地域では、やせてたり、ほこりっぽかったり、
その日を生きのびるのに、せいいっぱいだ。
わたしがかんじた印象にすぎないのだけど、
生まれもったなにかにくわえ、
そだった環境がそうした人格と表情をつくるのだろう。
モロッコのネコたちが、いじめられている、というわけではない。
日本より、はるかにくつろいですごせていても、
全体としてのしぐさが、なぜか欧米のネコとはずいぶんちがってくる。
そんななかで、なぜアメリカのネコが、
とくに印象的な表情なのかはわからない。
アメリカは、個人主義のうえになりたつ きびしい競争社会なので、
さみしいひとたちがおおく、
それだけよけいにネコをかわいがる、という仮説もなりたつ。

チャールストンの公園にすむネコは、
もう20歳になるのに、とてもげんきそうだ。
だれかが家につれてかえっても、
自由ネコ(と岩合さんがいっていた)としての生きかたをのぞみ、
また公園にもどってきたという。
自由ネコ(ノラネコ)なのに、20歳までいきるなんて、
よほど幸運にめぐまれてきたのか、
地域のひととのやりとりや、公園でのくらしが、
性にあっていたのだろう。

一流ホテルのうけつけカウンターで、
ゴロリンとよこになっているネコがいた。
日本では、まずかんがえられない光景だろう。
日本のネコは、ほかの国々とくらべたときに、
社会のなかで、あまりかわいがられていない。
駅長をつとめたネコが話題になったけど、
県庁や市役所で、自由にうごきまわっているネコが、
日本にはいるだろうか。
村役場ぐらいになると、日本じゅうで3匹ぐらいはいそうだけど、
日本のネコには、自由と尊厳が
あまりみとめられていないのをかんじる。
ネコは社会の成熟度をあらわすバロメーターであり、
ネコが自由にふるまえる社会になれば、
人間たちにとっても、それだけくらしやすい環境にちがいない。

posted by カルピス at 22:09 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月18日

奥田弦さんの超絶ピアノにおどろく

土曜日に「ラジオマンジャック」をきいていたら、
ゲストとして、18歳の天才ピアニスト、奥田弦さんが出演されていた。
クラシックかとおもってきいていたら、だんだんジャズになっていく。
生理的快感としかいいようがない。
あとでユーチューブをひらき、「トルコ行進曲」をきいたら、
https://www.youtube.com/watch?v=ZiK2M-NkUr4
あまりにもすごい手のうごきに圧倒された。
なんの楽器も演奏できないわたしは、
こんなふうに音楽ができたら、
さぞたのしいだろうとおもうのみだ。
「ネコふんじゃった」をひく映像では、
奥田さんとおなじイスにすわっている犬が、
たいくつそうにおおきなあくびをしたのがおかしかった。
奥田さんのにぎやかな演奏と、
うしろできく犬の表情とが、まったくつりあわない。
犬だけに、ネコの曲には関心ないのだろう。

音楽つながりでいうと、
すこしまえの朝日新聞に、「ファントム プレミア」が紹介されていた。
「アンプとスピーカーの機能を備えたオーディオ機器」
なのだそうで、
よくわからないけど、すごい迫力の音がたのしめるという。
まるっこいデザインで、いかにも未来をかんじさせる。
わたしは、いま音楽をふるいミニコンポできいており、
なんとか音がでるていどの、ひどい音楽環境でしかない。
隠居した老後の生活では、
本と音楽をたのしむ計画だけど、
それらしい機能のオーディオをそろえたら、
ずいぶんお金がかかりそうなのが気がかりだった。
機材の知識がないので、なにをそろえたらいいのかもわからない。
そんなわたしに「ファントム プレミア」はありがたい提案となる。
24万円は、老後生活の必需品として、けしてたかくない。
こみいった配線がなくても、これひとつあれば、
わたしの音楽生活は、いっきょにレベルをあげられる。

奥田弦さんのジャズを、ファントム プレミアできく。
もちろん、クラシックやロックも、
いまとはけたちがいの質でたのしめる。
歳をとるのがたのしみになる うれしいニュースだ。

posted by カルピス at 21:14 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月17日

「原発ゼロ」をうったえる小泉元首相の講演会

きのう松江市でひらかれた小泉元首相の講演会を、
朝日新聞の島根版がとりあげている。
原発ゼロをうったえる内容の講演で、
2100人の来場者があったという。
小泉氏の発言を、記事からかきだしてみる。

原発は、単なる事故に終わらず、国がなくなるような危険性を持っている。

(福島の)事故後に全国の原発が停止したまま生活できたことや、太陽光発電などの再生可能エネルギーの供給の増加を挙げ、「原発頼らず、新エネルギーでやっていく。そうなることを期待しながらあきらめずにやっていく」

小泉氏がいうから、たくさんのひとがききにくるけど、
ものすごくあたりまえの意見であり、
おなじようなとらえ方をしているひとは、
けしてすくなくないだろう(たとえば、わたし)。
ふつうにかんがえれば、そうなる。
わたしがもしおなじ内容の講演会を企画しても、
ほとんどひとはあつまらないだろうけど、
小泉氏がひらくと、おおきなニュースとなってひとがくる。
たいしたこといってないのに。

もちろん、だから小泉氏のはなしはとるにたらない、
といっているのではない。
しごくまっとうな意見であり、
この、常識的といえるかんがえが、
常識としてつうじないのは なぜなのだろう。
おおくのひとが原発にたよらないくらしをのぞみながら、
全体としてはなぜそっちにうごかないのか。
小泉氏が、こうして原発ゼロをかかげ、
運動にとりくんでくれるのはありがたいけど、
あたりまえともいえる氏の発言が、
ニュースになる状況を不思議におもう。

posted by カルピス at 18:24 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月16日

ヨシダプロ氏による ももちゃんシリーズ「柴モチを作ってみた」

デイリーポータルZに、ヨシダプロ氏の
「柴犬がモチに見えるので『柴モチ』を作ってみた」
が登場した。
わたしがすきなももちゃんシリーズだ。
https://dailyportalz.jp/kiji/shibainu-mochi
うちの柴犬ももが、モチに見えてきた。
白い部分はもちろん、茶色部分は焼き加減&きな粉っぽくて、まさにモチ的彩り。
つまり、柴犬はほぼモチ、と言っても過言ではないだろう。

こんかいは、いつもにましてくるしいけど、
ファンとしては、この記事をとりあげないわけにいかない。
柴犬のももちゃんが、これまでなぜモチにみえなかったのだろう。
ギョーザや食パンより、ももちゃんはよっぽど「やきモチ」だ。
片栗粉と保冷材をつかい、おおまかな形にととのえ、
ノリで目と鼻をくっつける。
そこに醤油と砂糖でつくった「みたらし」をかけたら、もう完成。

ヨシダプロ氏によるこのシリーズのすばらしさは、
できあがった「ももちゃん」を、
ぜんぶたべおえ「ごちそうさま」をするところにある。
おもち10個を材料につかっているので、
みかけは「ももちゃん」でも、とうぜんものすごい量だし、
砂糖たっぷりの「みたらし」をぜんぶかけてしまったうえ、
キナコまでまぶしてあるので、みるからにあまそうだ。
それでもヨシダプロ氏は、「ももちゃん」がのったお皿を
自宅のテーブルでかかえこみ、ちゃんと完食する。
ひさしぶりのももちゃんシリーズを堪能した。

posted by カルピス at 17:19 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月15日

足のいたみがひくと、そこは ほんとうに「生きてるだけでまるもうけ」の世界だった

右足のいたみについて、すこしまえの記事にかいた。
はじめはすこしの違和感だったので、
ジョギングをつづけていたら、
だんだんといたみがまして、
足をひきずらないとあるけなくなった。
ほとんどすべての動作が不自由で、日常生活にも、仕事にも
さしさわりがでてきたので、おもいきって病院へいく。
このまま車椅子にのる生活なのかと、くらい将来が頭をかすめる。
診察台では、いたみのあまり、大声をあげた。
レントゲンもとられたけど、
とくにわるいところはないといわれる。
股関節にはたくさんの筋肉がついているので、
そのなかのいくつかが 炎症をおこしているのでしょう、
ということだ。
ただ、股関節にはこわい病気もあるので、
MRIによる精密検査をしたほうがいいといわれる。
おっかないので、それはことわった。
毎食後にのむ薬と、湿布を処方された。

薬をのんで2日たったころ、いたみがすこしずつひいていった。
そのあとは、どんどん足の状態がよくなり、
ふつうにあるいたり、自転車をこいでもいたくない。
先週は、ようやくジムへいけるほど回復した。
ひさしぶりのトレーニングだし、リハビリちゅうなので、
みじかい時間でのかるい負荷をこころがけた。
トレッドミルで20分はしり、自転車を30分こぐ。
ジムでの順番まちは、こころをまずしくする、
とこれまでおもっていたけど、
リハビリちゅうのからだをかかえるものにとると、
ゆっくり、みじかめの運動でいいのだから、
順番をゆずりあう気もちの余裕までうまれる。
故障を体験するのは、わるいことばかりではない。

まえの記事には、いたみがなければ、
「生きてるだけでまるもうけ」ではないか、とかいた。
それほどいたみに頭とからだが支配されてしまう。
ふつうにうごけることが、どれほどありがたいか。
そして、いたくないからだでの生活は、ほんとうに
「生きてるだけでまるもうけ」だった。
自由にうごくからだにくわえ、
毎晩ねるまえには、お酒をのみながら
すきな本のページをめくる。
いちにち3どの食事では ほしいものをたべ、
お店にいけば なんでも すきなだけかえる。
天国だとおもった。
その程度のことで天国なのかと、
レベルのひくさをわらうひとがいるかもしれないけど、
わたしにとって、いまを生きているのは、
ありえないほど天国にちかい場所とおもえる。
もうすぐJリーグもはじまるし。

posted by カルピス at 14:17 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

どうしたら料理がうまくなれるのか

すこしまえのデイリーポータルZにのった、
「2週間 自分の手料理だけで生活したら料理はうまくなるのか?→なった」
がおもしろかった。
https://dailyportalz.jp/kiji/2weeks-teryori
「料理を作る必要がないから上手くなれない」のであれば、「料理を作らなければならない状態」に自分を追い込めば料理が上手くなるずだ。

の仮説のもと、2週間と期間をかぎり
megayaさんは 手料理しかたべない。
自分で食事をつくるようになれば、
それを2週間もつづけたら、
あるていどは料理になれてくるだろう。
ただ、料理になれるのと、
料理がうまくなるのとはべつのことだ。
この記事のタイトルに、(うまく)「なった」とあるので、
megayaさんは目的をはたしたようだ。
でも、食事を2週間よういするだけで、
ほんとに料理がうまくなれるのだろうか。

megayaさんの記事にある写真をみると、
日をおうごとにまともな料理になっている。
ネットでつくり方をしらべるだけではなく、料理の本もかい、
計量カップと計量スプーンをそろえ、
レシピを忠実に再現するようになる。
ひとに料理をほめられる気もちのよさをしり、
だんだんおいしいものがつくれるようになると、
ますます料理がたのしくなっていく。
ダシのとり方をおぼえ、リンゴのコンポートに挑戦し、
さらにはそれをいかして
デザートにアップルパイまでつくるようになる。
この記事は、初心者から料理人へと、一直線にすすむ
すばらしい成功のものがたりだ。

わたしが夕ごはんをうけもつときは、
6品ほどを1時間であたりまえにつくる。
あるていど、料理になれているといえるレベルだろう。
自慢するわけではないけど、
料理をするのはすきだし、たのしいとさえおもう。
だって、自分がたべたいものを
すきなようにつくるだけだから。
ただ、それでたべる側の家族が満足しているかというと、
母はともかくとして、配偶者はかなり露骨に
おいしくなさそうな顔をかくさない。
きっと、ほんとうにおいしくないのだろう。
料理には、センスとともに、
愛情が必要であると、ちまたではいわれている。
わたしの料理は、どのように位置づけられるだろうか。

料理の経験だけは、かなりの数をこなしてきたけど、
自分でも、とくにおいしいとおもったことはない。
要因として、
・おなじ料理がみじかいローテーションでくりかえされる
 つまり、レパートリーがすくなく、
 でも、それでいいんだと、ひらきなおっている。
・おいしい料理をつくろうとする意欲にかける
 レシピどうりにつくらない。
 調味料の分量がいいかげんだし、
 たりない材料はべつのもので代用したりはぶいたり。
・ひとつの料理を大量につくりすぎ、視覚的にうつくしくない
 おでんなど、おおきすぎる鍋に具があふれていて、
 食欲をかきたてられるよりも うんざりしてしまう。

けっきょく、センスと愛情の両方がかけているのだろう。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月13日

おたふく手袋のインナーがすぐれものだった

地主恵亮さんが紹介していた上下のインナーをためしてみる。
マイナス30℃でも大丈夫だった、という
おたふく手袋の商品だ。
http://genryudaigaku.com/archives/5788
上下とも1000円ほどでかえるので、
さっそく注文してみた。

身につけてみると、すぐにあたたかさを実感する。
汗で発熱するしくみだそうで、
すこしうごくと汗がでるほどあたたかい。
ユニクロのヒートテックより、ずっと快適だ。
すぐにもう1セットを注文した。
ことしいちばんのひえこみとなったせんじつの週末、
このインナーをきて仕事にでかける。
じっとうごかないまま、外でまつ時間もあった。
たしかにあたたかく、5℃ほどのさむさを なんとかしのげた。
ただ、かるいさんぽぐらいならいいけど、
はげしくうごいたときに、汗でひえないか心配になる。
ヒートテックは、汗がそのままのこり、
綿素材のインナーみたいにぬれてしまう。
外での仕事にはつかえない。

これまで冬のさむさは、モンベルのジオラインにたよってきた。
うすいのにあたたかく、かさばらない。
水分をもたないので、雨や汗で、からだをひやすおそれがない。
すぐれた製品だけど、4000円ちかくするのがいたい。
スポーツショップをあるいていたら、
いろんなインナーがおいてあった。
ネットをみても、さまざまな会社が
それぞれあたたかいインナーをだしている。
インナー市場は、いますごいことになっているのでは。
どれも、おたふく手袋とおなじように、1000円前後でかえる。
こうしたインナーがなかった時代、
たとえばわたしがわかかったときは、
どうやって冬のさむさをのりきっていたのか 不思議におもえてくる。

ねるときには、なんといっても湯たんぽがおすすめだ。
ねるまえに熱湯をいれたら、朝まであたたかい。
このまえは、あろうことか
ひるねのときにも湯たんぽのお湯をいれかえた。
いつもは、夜だけ熱湯をいれるのに、
奮発して、ひるねにも熱湯をつかうと、すごくぜいたくな気分だ。
おたふく手袋の下着だけになってふとんにもぐりこむ。
足もとは、煮えたぎる湯たんぽがあたためる。
ケチで貧乏なわたしには、この程度のぜいたくでも、
背徳のかおりさえかんじ、ゾクゾクしてくる。
ささやかだけど、さいこうにゴージャスなひるねとなった。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月12日

「ピンク・フラミンゴ」

「ピンク・フラミンゴ」
(ジョン=ウォーターズ:監督・1972年・アメリカ)

わたしがすきな角田光代さんが、
どこかで「ピンク・フラミンゴ」についてかいていた。
内容はおぼえていない。
角田さんがすすめるぐらいだから、
きっとみどころのある作品なのだろう。

でも、とてもわたしの手におえる作品ではなかった。
じつのところ、おわりまでみられず、
わたしはとちゅうでDVDをとりだしてしまった。
オープニングで、いかれた映画であると、
すこし予告してあったような気がするけど、
たのしそうな音楽だったし、
かわった体型のひとたちがでてくるので、
まあ、人間は、すこしかわってるぐらいがおもしろいと、
わかったようなつもりでぼんやりみていた。
映画にでてくるひとたちが、徹底的な変態だとわかったのは、
みはじめて何分たったころだったろう。
いったいなんなんだ、この映画は、とわたしはおどろき、
ついていけなくなり、1時間ほどでみるのをあきらめた。

徹底的にわたしの理解をこえた映画だ。
100%変態なひとたちが、ほんとうにいて、
そのひとたちどうしが、自分たちこそ世界一下品であると、
おたがいにきそいあっている。
まともな人間であろうなんて、すこしもおもっていない。
むしろ、どれだけ下品でいられるかにほこりをもっている。
こうしたひとたちが、世間には一定数いるのだ。
くるっているとか、危険だとかいってるのではなく、
わたしとまったくことなった価値観が、
あたりまえに通用していることへのおどろき。
「羊たちの沈黙」にでてくるいかれた犯人や、
「パルプ・フィクション」での暴力(とくに地下室での)は、
たしかに反社会的であり、一般市民として
うけいれられるものではないけど、
「ピンク・フラミンゴ」にでてくる変態さんたちは、
もっとぶっとんで異質だ。
下劣であることこそ 自分たちの存在価値であると
ひらきなおっている。
変態について(もしも)しりたかったら、
「ピンク・フラミンゴ」は理解をたすけるだろう。
ふつうの映画だとおもっては、みないほうがいい。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月11日

MacBook Air13インチとの快適な生活

きょねんの10月にかったMacBook Air13インチ
(ふるいほうのモデル)が、
じわじわといい相棒になってきた。
これまで、MacBook Airの11インチはもっていたけど、
画面がせますぎて、快適にはつかえなかった。
ほんの2インチの差とはいえ、
13インチというひろさは、とてもよくできていて、
ネットの記事をみたり、ブログをかいたりするには
このサイズでじゅうぶん用がたりる。
どこででもひらけるパソコンって、こんなに便利なのかと
いまさらながらおどろいている。
ノートパソコンなのであたりまえなのだけど、
そのあたりまえさを、ひさしぶりに実感するようになった。

『異邦人』のなかで、ムルソーが
寝室だけでくらしている、とのべる場面がある。
母親がいたときは、ほかの部屋もつかっていたけど、
ひとりぐらしになると、アパートがひろすぎるようになり、
寝室にすべての家具をもってきて、
そこだけの空間でくらすようになった。
ムルソーのひととなりがあらわれていて、
ついまねをしたくなってくる。
 昼食のあと、すこしたいくつして、アパルトマンのなかをぶらぶらした。ママンがここにいたときは便利だった。今では私にはひろ過ぎるので、食堂の机を私の部屋へ運びこまなければならなかった。私はもうこの部屋でしか生活しない。すこしくぼんだ藁椅子と、鏡の黄色になった衣装箪笥と、化粧机と、真鍮のベッドとの間に。そのほかはどうでもよかった。

わたしの場合は、台所ですごす時間がながくなった。
さむさのせいもある。
食事の用意をして、家族でたべ、あとかたつけをするあいだ、
台所には、ずっとストーブがついている。
あたたまった台所から、さむい自分の部屋にもどり
あらためてエアコンをつけるよりも、
台所でそのままパソコンをひらいたほうがらくだ。
自分の部屋には、ベッドとパソコン
(22インチのモニターにつないだMacBook Pro)があるけれど、
そのパソコンでなくても、
MacBook Air13インチでじゅうぶん用がたりる。
あたたかい台所でブログをかき、
そのあとズルズルとテレビで録画をみたり。

なくてはならないパソコンになってきたので、
調子がわるくなったときのために、
タイムマシンさきとして、500ギガのハードディスクをかった。
快適な環境となればなるほど、うしなったとき不自由する。
そうやって心配するのも、物質にとらわれすぎて、
自由さをうしなっているあらわれかもしれない。
よくいわれるように、自由なのは、不自由なことだ。
ムルソーなら、きっと あるものだけでなんとかすませてしまう。

posted by カルピス at 09:06 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月10日

「ターミナル」

「ターミナル」
(スティーブン=スピルバーグ:監督・2004年・アメリカ)

せんじつタイに旅行したときは、
飛行機のおくれにより いきもかえりも
かなりの時間を空港ですごした。
いきは関空で11時間、
かえりはタイのドンムアン空港で8時間。
関空では、出国審査にいれてもらえず、
出発フロアでひたすら時間がすぎるのをまった。
このときから、映画「ターミナル」が頭のすみにあった。
名前はしってるけど、まだみたことのない作品。
空港からでられないでいる 旅行客のはなしらしい。
数時間のおくれでさえうんざりするのに、
何ヶ月も空港ですごすなんて、どんな心境だろう。

トム=ハンクスがえんじるナボルスキーは、
英語をはなせないので、
まわりとのやりとりがトンチンカンになる。
いわれていることがわからないし、
自分のいいたいことを理解してもらえない。
ことばがつうじない状況が、どれだけストレスかを
わたしはこれまでにいやというほと体験してきた。
ナボルスキーは、入国がみとめられなくても、
おちこんだり、パニックになったりせず、
ひたすら現実的に対処していく。
ねる場所をととのえ、たべものをかうためのお金をかせぎ、
できることを ひとつひとつ つみかさねていく。
英語と自国語のガイドブックをよみくらべ、
英語を理解できるようになった。

ナボルスキーは、ガンプみたいにものすごく善意のひとで、
なにをするにしても、だれにたいしても、
ズルをせず、自分のかんがえを堂々とつたえる。
そんな彼のよさがだんだんとみとめられ、
やがて空港ではたらくひとたちの
アイドルみたいな存在になっていく。
はじめはトム=ハンクスの演技がおおげさにおもえ、
いまひとつ気もちがはいっていかなかったけど、
そのうちわたしもナボルスキーの魅力にとりこまれた。

ナボルスキーにいじわるをする警備局のおえらいさんが、
なぜあなたのような女性が、彼に好意をむけるのかと、
キャビンアテンダントのアメリアにたずねる。
「あなたのような男性が、ぜったい理解できないこと」
と彼女はこたえた。
そう。ある種のひとたちは、
ナボルスキーの魅力を、ぜったいに理解できない。

こまかな点についていうと、
入国をみとめられなかったナボルスキーが、
なぜおおきなカバンをもって
空港のなかをあるきまわっていたのか気になった。
入国審査のあとで、コンベアーへ荷物をとりにいくながれだから、
特別にみとめられて自分の荷物をうけとる場面がなければ、
ナボルスキーは手荷物だけしかもっていないはずだ。
いつ、だれがナボルスキーのかばんを彼に手わたしたのか。
時間のかぎられた映画のなかで、
いちいちそこまで説明するのはよけいだからと
はぶかれたのだろうけど、
そうしたささいなうごきもおさえたほうが、
ものがたりにふかみをあたえるのではないか。

この作品のキーワードは「まつ」ことだった。
ナボルスキーは、数ヶ月を空港内でまっている。
人生は、まつことだらけだ。
ひとは、いつもなにかをまっている。
旅行だけでなく、日常生活でも
なにかを手にしようと まっている。
ナボルスキーは、まつことをいとわない。
なにかをまつって、じっさいは、どんなことなのだろう。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月09日

『恋におちて』

『恋におちて』(ウール=グロスバード:監督・1984年・アメリカ)

35年ぶりにみる『恋におちて』。
おとなになった(はずの)わたしには、
この作品がどううつるだろう。
以下、ネタバレあり。

本屋さんでぐうぜんであったふたり
(ロバート=デ=ニーロとメリル=ストリープ)が、
その3ヶ月後に、ふたたびであう。
この、3ヶ月後、というのがミソで、
であってすぐにふたたびあうのと、
3ヶ月あいだをおくのとでは、
2ど目のであいのもつ意味が まるでちがってくる。
3ヶ月は、こころのかたすみで、無意識のうちに
相手へのおもいがゆっくりそだつ、適切な時間だ。

メリル=ストリープの演技がとてもうまい。
セリフがなくても気もちのうごきを
ほんのすこしのしぐさと表情の変化であらわせる。
そして、デニーロへのおもいから、
どんどんきれいになってゆく。

ふたりがはじめて自分の気もちに気づいたのは、
まちあわせの時間にフランク(デ=ニーロ)がまにあわず、
うごきはじめた列車を無念そうにみおくった場面。
あー、いってしまった、と、
がっくりきているフランクに、
うしろからモリー(ストリープ)がよびかける。
彼女は、フランクがやってくるとしんじ、
列車にのらないでまっていた。
ふたりは、おたがいにあいてのもとへとはしりより、
おもわずつよくだきしめあう。
あいてへのつよいおもいがこみあげてきて、ことばにならない。
ふたりには、まわりのひとごみは、もはや目にはいらない。
おたがいの存在だけがすべてになっていた。

モリーの夫に、おちどはない。
妻がかってに不倫したわけで、
夫である彼は、どうしようもなかった。
ただ、みるからに退屈そうな男性で、
あんなのといっしょにいたら、
モリーでなくてもほかの男性と恋におちるのでは。
いっぽう、フランクの妻は、いい奥さんであり、
母親としても魅力的な女性だ。
常識的な夫婦関係、親子関係をもとめ、
そこからはずれてしまった夫とは、
たとえほかの面では どんなに過不足のない人間であっても、
もはやいっしょにくらせない。
けっきょく、フランクとモリーは、
不倫によってふたりとも家庭をうしなってしまう。

この作品の教訓は、
本屋さんに足しげくかよう習慣があると、
すてきなであいがまっているかも、となる。
不倫して、いっときは生活がめちゃくちゃになっても
さいごにはうまくおちつくので、
本屋さんへいくのさえわすれなければ大丈夫だ。

ハッピーエンドをむかえる「恋におちて」は
めでたし めでたしの ものがたりだけど、
じっさいには、こうしたケースはまれだろう。
おたがいにあいてをうしない、家庭もこわれ、
ブツブツいいながらのこりの人生とおりあいをつけるしかない。
「マディソン郡の橋」では、ふたりの男女が、
おたがいに つよくひかれながらも、さいごにはわかれている。
こちらのほうが、人生のマニュアルとしては適切かもしれない。

デ=ニーロの友人として、ハーヴェイ=カイテルがでていた。
女ずきだけど、ひとのよさそうなおじさん役だ。
いかにもわるいおとこ友だちという雰囲気をだしている。
カイテルがすきなわたしとしては、
もうすこし活躍してほしかったけど、
あれ以上、カイテルに存在感をあたえると、
またべつの映画になってしまう可能性がつよい。
「恋におちて」をきっちりまとめるためには、
ちょうどいい時間ものがたりにかかわったといえる。
おしゃれで、めでたし めでたしで、
35年ぶりにみても、こころがキュッとなる作品だった。

posted by カルピス at 13:41 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする