『シカゴ』(ロブ=マーシャル:監督・2002年・アメリカ)
『ターミナル』にキャビンアテンダント役ででていた
キャサリン=ゼタ=ジョーンズがすてきだった。
ほかの出演作品をしらべてみたら、『シカゴ』がおもしろそうだ。
ツタヤでかりようとおもった日、新聞の番組欄をみると、
BSプレミアムでの放映がのっていた。
だったら、わざわざかりることはないので、録画ですませる。
かりようとおもっていた作品を、その日にテレビで放映するなんて、
すばらしい偶然だ。
こういう運命をかんじさせるながれは、
たいてい「あたり」となる。
「あたり」となるはずだったけど、
さいごまで だれがキャサリン=ゼタ=ジョーンズなのか
はっきりしないまま わたしはみつづけた。
おそらく主人公の女性が彼女だろう、
でも、『ターミナル』のときとずいぶんちがうな、とおもいつつみて、
エンドロールでようやくまちがいに気づく。
ほんとうは、主人公がはじめあこがれ、
やがて反目しあうヴェルマ=ケリーをえんじたのが、
キャサリン=ゼタ=ジョーンズだった。
弁解じみてくるけど、そのていどの理解でも、
この作品はじゅうぶんたのしめる。
むつかしいことは、いいっこなし。
ゴージャスなナイトクラブでくりひろげられる、
うすっぺらな歌とおどりに、ただうかれていればいい。
1920年代、アメリカのナイトクラブが、
いかがわしく、はなやかで、社交の中心だった時代。
いちどライトをあびた女性は、ずっと注目をあびつづけようとする。
誠実さとか、良識などは、だれも気にとめない。
どうしたらいつまでも バカさわぎにうかれたまま いきられるか。
ものがたりのおわりで、ロキシー=ハートとヴェルマ=ケリー、
つまり主役のレニー=ゼルウィガーと、
ライバル関係にあるキャサリン=ゼタ=ジョーンズがデュオをくみ、
夫ごろしの犯罪者コンビとしてうりだすのがおかしい。
おたがいに、あいてをきらいあっているけど、
お客が注目してくれるなら、そんなこと関係ない。
あのふたりがくんで、ながくつづくわけないけど、
それでもスポットライトをあびながら、
嬉々としてうたい、おどるラストがこの作品のキモだ。
お気らくで、かるがるしく、目さきのことしかかんがえない、
この時代の社会風俗をよくあらわしている。
「シカゴ」というと、映画『ブルース・ブラザース』にでてきたし、
ミステリーの『シカゴブルース』と『通り魔』
(いずれもフレドリック=ブラウン原作)の舞台でもある。
ほかにも、シカゴ市内の高架をはしる電車を、映画でよくみかける。
なぜブルースとシカゴがふかい関係にあるのか、
わたしはよくしらないけど、
アメリカを象徴する都会として、シカゴをイメージしている。
映画『シカゴ』は、都会としてのシカゴが
舞台でなければならなかった。
いったことがないのに、なんとなくしたしみをかんじる町だ。