2019年04月09日

『ギリギリ』(原田ひ香) 原田さんの「盛る」ちから全開

『ギリギリ』(原田ひ香・角川文庫)

解説の仁木英之さんが、著者の原田ひ香さんは
シナリオをかいてきた経験があるので、
「盛る」ちからがすごい、と紹介している。
よむものをひきつけるため
エピソードをもり、キャラクターをもり、感情をもる。
テレビドラマなどは、すこしでもつまらなければ
チャンネルをかえられてしまうので、
視聴者をのがさないために
そうした「盛る」ちからが必要という。

そういわれると、たしかに原田さんの本は、
読者をはなさないよう ストーリーやセリフが
意外性をもつようにひねられている。
登場人物が、あらかじめきっちり配置されており、
それでたりないようなら べつの人物をもってきて
ものがたりに起伏をつける。いかにもシナリオ的だ。
ふつうなら不自然におもえるほど「盛」られているのに、
原田さんはギリギリのところで「盛」りすぎをさけるので、
わたしはスルスルとよみすすめる。

『ギリギリ』は、シナリオ作家をめざす男性と、
そのパートナーである女性との関係を中心に、
ややこしくものがたりがからまっている。
ふたりは、それなりに うまくやっていたのに、
女性のほうが、もっとちゃんとした関係でなければと、
家をでていってしまう。

わたしなんかだと、そんなにマジにならなくても、
ハッピーにやれていたら、それでいいじゃないかとおもう。
いっぱんに、ひとはおおくをもとめすぎなのだ。
完璧であろうとせずに、たんたんと、
おだやかな幸福感にひたれたら それでいいのに。
『ギリギリ』にでてくる女性は、
いまのままでもよさそうなのに、
さらにちゃんとした関係をもとめるなんて、
なんとよくばりなのだろう。
こうした真剣さは、女性におおくみられる心理かもしれない。
わたしは、映画の『愛と悲しみの果て』をおもいだす。
あれほど自由に生きてきたカレンでさえ、
デニスのすべてを手にしたいと、彼を束縛したくなる。

とかいていて、すぐに例外をおもいついた。
わたしの配偶者だ。
彼女がわたしを束縛したり、
「ちゃんとした関係」をもとめたりしないのはなんでだ?
とにかく、女性でも、わたしの配偶者のように
サバサバと生きているひとがいるのだから、
まじめにかんがえすぎのひとは、
すこし彼女をみならったらいいかもしれない。
ものがたりとしては原田さんの小説みたいに
「盛」ってあるほうがおもしろいけど、
じっさいの生活では、「ちゃんとした関係」でなくても
あんがいぬくぬくとやっていける。

posted by カルピス at 21:29 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする