2019年05月31日

『宝島』(真藤順丈)沖縄をとりもどすヒーローたちのものがたり

『宝島』(真藤順丈・講談社)

沖縄を舞台に、敗戦から本土への返還までの20年がえがかれている。
米軍基地から物資をうばう「戦果アギヤー」たちが主人公で、
嘉手納基地への襲撃からものがたりがスタートした。
襲撃は、米軍側に気づかれ、戦果アギヤーたちは
ちりぢりになってにげまわる。
なかまの中心だったオンちゃんのゆくえがわからなくなり、
戦果アギヤーの活動は下火になっていく。
しかし、物資こそ うばわなくなったものの、
彼らは沖縄を アメリカと日本からとりもどすために、
それぞれの立場から たたかいをつづけていった。

嘉手納・普天間・辺野古・・・。
沖縄の基地問題が話題にのぼるのに、
わたしはどこになんという基地があるのか
まったくしらなかった。
『宝島』にでてくるコザも、きいたことがあるていどだ
(いまは沖縄市となり、コザは地図から名前がきえた)。
このものがたりは、小説というよりも、
教科書として 沖縄の歴史を わたしにおしえてくれる。
著者の真藤さんは、沖縄で生まれそだったひとかとおもったら、
東京都うまれなのだという。
小説のことばづかいが、いかにも沖縄らしい。
よほどつっこんだ取材をされたのだろう。
文体も独特で、しいたげられてきた沖縄のいかりが
文章のあちこちから たちのぼってくる。

20年ほどまえ、わたしがはたらいていた事業所で
沖縄旅行が計画された。
しかし、直前になってとりやめている。
海外でぶっそうな事件があいつぎ、
アメリカ軍の基地をかかえる沖縄が、
テロ活動の標的となるおそれがでたためだ。
沖縄にかわり、どこかべつの観光地への旅行となった。
テロの標的になる可能性があるからやめる、というのは、
いまおもえば 沖縄のひとたちにものすごく失礼な発想だ。
沖縄にすみ、これからも沖縄で生きていくひとたちに基地をおしつけ、
自分たちは安全なところから 関係ないような顔でながめている。
どのつらさげて、あぶないから旅行をやめるなんていえるのだろう。
沖縄が標的となるおそれがあるのなら、よけいに沖縄へでかけ
沖縄の状況を すこしでもまなぼうとするのが筋だろうに。

『宝島』の表紙には、「HERO's ISLAND」ともかかれている。
『宝島』は、沖縄をとりもどすヒーローたちのものがたりだ。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月30日

「ひらがな・カタカナ・ニュース」と新美 南吉さんの「でんでんむしの かなしみ」

ネットでなにかを検索したとき、
「ひらがな・カタカナ・ニュース」にであった。
「ネコ の せいで テニスの しあいが ストップ」
という記事だ。
https://www.trt.net.tr/japanese/supotu/2018/05/21/hiraganakatakananiyusu-nekono-seide-tenisuno-siaiga-sutotupu-975875
浅野涼子という方が、日本語学習者と、
日本語教育をしているひとにむけ、
教材として提供しているニュースらしい。
5がつ11にちから はつか(20日)まで、 イタリアの ローマで テニスの イタリアこくさい(Internazionali d'Italia)が ありましたが、 そこで とても おもしろい じけんが ありました。

タイトルどおり、記事はひらがなとカタカナだけでかかれている。
これまで、このようなニュースの存在を わたしはしらなかった。
わたしは、あまり漢字をしらないひとにでもよんでもらえるように、
できるだけ漢字をつかわないで文章をかこうとしている。
「ひらがな・カタカナ・ニュース」は、
どれくらいのひとによまれているだろう。
漢字をつかわない記事は、
日本語学習者に どううけとめられているのか。

ところで、上の記事は、
文章のかたまりが「名刺+助詞」となっている。
わかちがきをするとき、どこで 文章をきるのかは
あんがいやっかいな問題だ。
「テニス の」とするか、「テニスの」とするか、
統一性をもたせるのはかんたんではない。
ネコの記事は、名詞と助詞をつづけているけど、
1年後にかかれたべつの記事では、助詞をわけている。
ぜんごうオープンテニス(オーストラリア・オープンテニス) の じょしシングルス の けっしょう が 1がつ 26にち に オーストラリア の メルボルン で ありました。

どういう基準でかきわけているのか わたしにはわからない。

わたしのしりあいが、わたしの文章はよみにくいといって、
たてがきでかかれた ひらがなだけの文章をおくってきた。
新美 南吉さんのかかれた
「でんでんむしの かなしみ」という詩で、
ひらがなだけなのに、たしかによみやすい。
よこがきと、たてがきのちがいかもしれないと、
おなじ詩をよこがきにしたら、かわらずよみやすかったので、
新美 南吉さんのことばえらびがすぐれているのだろう。
 いっぴきの でんでんむしが ありました。
 ある ひ その でんでんむしは たいへんな ことに きが つきました。
「わたしは いままで うっかりして いたけれど、わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるでは ないか」
新美 南吉「でんでんむしの かなしみ」より

浅野涼子さんのかかれたネコの記事とくらべると、
新美 南吉さんの文章のほうがよみやすい。
浅野さんの記事は、日本語学習者にむけてかかれた
いわゆる「やさしい日本語」のせいかもしれないけど、
新美 南吉さんの詩だって、
かんたんなことばをえらんでかかれている。
漢字をつかわなくても、これだけよみやすくかける ひとつの例だ。

posted by カルピス at 22:41 | Comment(2) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月29日

富貴晴美さんの仕事ぶりがすてきだ

せんじつの「キラクラ」をきいていたら、
作曲家の富貴晴美(ふうきはるみ)さんがゲストによばれていた。
わたしは富貴さんについてなにもしらなかったけど、
番組の司会者である ふかわりょうさんと遠藤真理さんが
富貴さんからはなしをひきだしていくと、
これはただものではないと すぐにわかった。
ドラマやアニメの曲をつくる作曲家としてだけでなく、
わかいころは現代音楽をやっていたとか、
ロシア音楽がすき、
コテコテの大阪音楽をつくるのはだれにもまけない、など、
いくつもの顔をもっている。
藤井聡太さんが、将棋だけでなく、
囲碁もチェスもオセロも、それぞれ第一級のうでまえだった、
みたいなかんじだ。
あまりにもひきだしがおおいので、
はじめはふつうのゲストとしてもてなしていた
ふかわさんと遠藤さんが、
だんだん富貴さんのひととなりのふかさに気づき、
あっけにとられていくのがつたわってくる。
だからといって、富貴さんがものすごくかわってみえるとか、
神経質だとかではなく、ごくふつうのわかい女性として、
スタジオにちょこんとすわっているらしい。
そのフツーさが、富貴さんのけたはずれなスケールをかんじさせる。
ふつうでないことをふつうにやるひとがいちばんすごい。
いずれ世界が富貴さんの才能をもとめるようになりそう、
みたいな予感を、ふかわさんがくちにしていた。

映画での音楽の役割は、作品の世界観をつくること、
なんて富貴さんはいわれる。
映像はおくゆきがないので、
音楽が立体感をもたせるのだという。
ふつうは逆で、音楽のほうが立体感がないような気がするけど、
富貴さんがそういうからには、
きっとそれでまちがいないのだろう。
ドラマやアニメむけに ポピュラーでありながら、
世界観をうちだす曲をつくる。
富貴さんの活躍に注目したい。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月28日

きょうはココが家にやってきた記念日

きょう、5月28日は、ココがうちにきた記念日だ。
いちねんがすぎた。
850グラムだった体重が、半年で6キロまでふえ、
もうかんぜんにおとなのからだになっている。
いっしょにくらしはじめたころは、
まえにいたネコのピピをおもいだし、
おなじうごきをもとめて ココに気のどくなことをした。
このごろはすっかりココをココとしてみるようになり、
おたがいの関係がしっくりくるようになった。
臆病ではあるけど、家族にはすごくあまえてくる。
最高にかわいくておりこうなネコだ。
家にきてくれてありがとう、
ココはすてきなネコだねと、
からだをなでながら、まいにちよびかける。

外にでてあそぶと、ほかのネコとケンカしたり、
車との事故がこわいので、
家のなかだけですごしてもらっている。
注意しているものの、それでもちょくちょく外にでかけ、
そうなれば ますます外であそびたがるようになる。
いっしょにくらすわたしの母は、もう88歳の老人なので、
ココにとってはうごきをみきるのがかんたんだ。
母が洗濯物をほすうごきをとると、
ココはすぐにやってきて、外へでる機会をうかがうようになった。
ほんのすこしのもの音でもききつけるので、
ココの能力のたかさにおどろいてしまう。
でも、自分が外にでられるのは、
台所と、母の部屋からだけとおもいこんでいて、
ほかの部屋からにげだすのは頭からあきらめている。
つっかえ棒もなく、ただ網戸がしめてあるだけなのに、
そのまえにたって、外のようすをソワソワみているココ。
頭がいいのか わるいのか、よくわからないところがある。
EkoEGEmz0tulnwcH-YRfVSewiZdx0xwLj4Ilzd4pTnRWLUeAhovkEtfzk-ubWXb1X28tB0x1Si6-adPB375-eenFD-RB_qz6UyCYsxexFlyB1n0si04Z0J9wjDJaPvRPdBuA6_G-k4yrIBcg8ZsDMDjh0M299iuGL1Cl4h9Z7o5i3ISm9WYoRZ5AGLmffjXzoHVgpvdyHcq4bGziQeW2j_dT.jpg
このごろは、ブラシのここちよさもおぼえた。
玄関によこたわり、からだをくねらせてブラシをもとめる。
ブラシをうけるあいだじゅう、おおきくノドをならしている。
夜になると、わたしの部屋にきて
いっしょにねてくれる日がおおくなった。
ココがネコの平均寿命を生きると、わたしは75歳になる。
ココといっしょにあの世へいけたらとおもう。

posted by カルピス at 21:13 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月27日

ホーランエンヤを見物して、10年にいちどをかみしめる

きのうは10年にいちどのおまつり
「ホーランエンヤ」が松江でもよおされた。
かざりつけた100以上の船が大橋川にくりだして、
目的の神社まで船隊をくんですすむ。
めずらしいし、はなやかだし、
めったにないおまつりなのだから、みにいけばいいのに、
ぜんぜんその気にならない。
男の更年期というやつだろうか、好奇心がわかず、
わざわざひとごみのなかを でかける気にならない。
こんかいも、ま、いいか、とおもっていたら、
仕事がらみで見物することになった。
わたしがつとめる介護事業所は、ヘルパー部門もあり、
おやすみの日をたのしくすごしてもらえるよう、
いっしょにおでかけしたり、かいものにつきそったりする。
きのうは、そのおでかけさきがホーランエンヤだった。

200メートル以上の川はばがある大橋川を舞台に、
たくさんの船が船隊をくんで2周する
(ほんらいは3周のところ、今回はあつさのため2回にへらされた)。
こぎ手が息をあわせてオールをあやつり、
ひとかきしてはピタリとオールが一直線にならぶようとめる。
船のうえでおどっているひともいる。
はじめてみるホーランエンヤは、おもっていた以上に
手間とお金をかけて準備し、運営されているようだ。
これだけの規模のおまつりだから、10年にいちどでないと、
とてもひらけないだろう。
きらびやかな衣装に、すっかり感心した。
TkvsOxpcbiYJMu1tf_Inc7ftTmdAUrEXZ9o-wSUk4VoyqGA18iL56ImcCMD5r7QVU5iHq6yqhm3p_7YYpfE2vYMPWtca43JGeRy2CUzEuYjXikxJreTxpnOt9yVVRGxuM4vx-XpVGbRVfN0KdUeTTOOvA6ZZaTuAnFTPcJxYnPFJPrvbC7CTcXaN2J_zYaJDaDRTYWEwqJf5c4noV5gMmkR3.jpg
10年にいちど。
このおまつりを、つづけていこうとする地区は、
住民がすくなくなり、船やおどりを
つぎの世代へひきついでいくのが たいへんなのだという。
わたしもまた、つぎのホーランエンヤを、
どんな状況でむかえるかと、かんがえてみた。
10年という時間は、なにがおきても不思議はない。
ホーランエンヤは、日々のくらしを
ただつづけていくことが、どれだけありがたいかを
おしえてくれるおまつりとも うけとめられる。
10年ごとにふりかえり、地区や家族のうつりかわりをおもう。
ホーランエンヤ見物から家にもどり、
わたしは10年後の自分を想像しようとしたけど、
こわくなってやめた。
10年にいちどおごそかな気分にひたるのは、
いかにも島根でつづくおまつりらしい。
いっぽう阿波おどりみたいに おどらにゃそんそんと、
気らくにたのしむおまつりは、ラテン気質をかんじさせる。
どちらがいい・わるいではないけど、
10年にいちどのホーランエンヤは、
島根らしく、すごくまじめなおまつりだった。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月26日

おじさんと おじいさんのあいだは なんとよべばいいか

このまえクールジャパンをみていたら、
おじさん(中年だったかな)は何歳から何歳までとおもうか、
という調査で、35〜52.5歳という年齢をあげていた。
57歳のわたしは、おじさんですらないのかと
かるくショックをうける。
まえに酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』が話題になっていたとき、
30代・独身という負け犬のエリアに位置しながらも、
わたしはまけてないと、私生活の充実ぶりを
まくしたてるひとがいたそうだ。
そんなことをしたらいたいだけなのに、
まわりから負け犬とみられるのが たえられなかったのだろう。
わたしもまた、いくらうでたてふせができようが、
いくら週に4回ジョギングをしていようとも、
おじさんより、さらにうえのカテゴリーである自覚を
いさぎよく もたなければならない。
でも、まさかおじさんですらないなんて。ブツブツ。
おじさんでないとしたら、なんだろう。おじいさんか。
わたしは、もうおじいさんだったのか。

ルパン三世は何歳だとおもいますか?とたずねると、
たいていのひとが 自分よりうえの年齢をこたえるそうだ。
もっとも、50歳でルパン三世にであうひとは
あまりおおくないだろうから、
わかものにむけた質問なのだろう。
わたしからみても、ルパンはさすがに50代とはおもえない。
せいぜい30前半だろうか。
しかし、ひとはだれでも歳をとる。
そして、わたしもまた歳をとった。

きょう仕事で図書館へでかけたら(利用者のつきそいとして)、
おじさんだらけなのに気づいた。
いや、おじさんよりうえのカテゴリーだ。
新聞をよんだり、なにかしらべごとをしているのは、
たいてい55歳以上にみえる男性だ。
歳をとった男性が、いつのまにか図書館で増殖しているのを、
わたしはきょう発見した。
おなじような服をきて、おなじような表情の男性を
なんにんもみかけた。兄弟みたいによくにている。
なぜ男性は歳をとると図書館へでかけるのか。
本がすき、というだけでなく、
ひまをもてあましているのだとしたら、すこしつらい。

図書館だけでなく、その気になって町をあるくと、
おじさん(よりも年配のひと)がそこらじゅうにいる。
おじさんではなく、かといって老人でもないひとにたいし、
なにか適切なよび名がないものか。
おじさんとよばれたいなどと、
ずうずうしいことはいわないから、
前期高齢者になるまでの数年間、
なにかピッタリくる名前でよばれたい。

posted by カルピス at 20:20 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月25日

浦和ー湘南戦での誤審からなにをまなぶか

J1リーグ第12節としておこなわれた浦和対湘南戦で、
湘南のゴールがみとめられない誤審があった。
映像をみると、あきらかにゴールをわっているのに、
ボールがサイドネットちかくにおいてあった水のボトルにあたり、
ゴールの外にとびだしている。
ゴールしたところを主審がみていなかったため、
主審はそのまま試合をながし、
浦和の選手たちがあわやゴール、という場面まですすんだ。
試合は、そのあと湘南がもちなおし、
アディショナルタイムに奇跡的な逆転勝利をおさめた。
湘南がかったからよかったようなものの、
あのまま誤審がひびいて浦和の勝利となっていたら、
かなりあと味のわるい試合となっていただろう。

朝日新聞は、翌日に
「誤審 選手にできたことは」の記事をのせ、
残念だったのは審判の不手際よりも、浦和の選手たちの振る舞いだ。
とし、
フェアプレーの立場から選手たちにできることがあったと強く感じる。

とむすんでいる。

そして、一週間後のきょう、
朝日新聞はふたたびこの誤審をとりあげ、
国内外の例と、誤審をふせぐとりくみを紹介している。
イングランド2部のリーズ対アストンビラ戦(4月28日)では、
リーズは、相手選手がけがで倒れている間に先制点を奪った。リーズの選手がいったんはボールを外に出して試合を止めるそぶりを見せていたため、アストンビラは猛抗議。再開のキックオフで、リーズはビエルサ監督の指示で守備を放棄、得点を決めさせた。(中略)14年3月のドイツ・ブンデスリーガでは、攻撃側のブレーメン選手がゴール前で転倒。主審はPKと判定したが、選手が「自分で倒れた」と訴えて判定が変更された。
(中略)湘南の曹貴裁監督は浦和戦後の記者会見でリーズの例を挙げ、「合っている、間違っているという話ではない。逆の立場だったら、相手にゴールを与えろと指示したかもしれないが、自信はない」と答えている。

主審がただしい判定をいつもくだせるとはかぎらない。
浦和ー湘南戦のように、主審がゴールの瞬間を
みおとすこともおこりえる。
不完全さを前提にしたスポーツがサッカーであり、
まちがっているかもしれないけど、
主審の判定を尊重する精神がもとめられる。
近年では、ゴールを判定する機会や、
ビデオの導入など、「ただしい判定」をめざし
ルールがかわりつつあるけれど、基本は主審の判断にある。
朝日新聞の記事は、
フェアプレーの立場から選手たちにできることがあったと強く感じる。

としているけど、
主審が試合をそのままながしたとき、
攻撃をつづけた浦和の選手たちを
一方的に非難できるだろうか。
ケースバイケースのむつかしさをうけいれたうえで、
今回の誤審を これからのフェアプレーにいかしてほしい。
監督・選手たちが、自分たちの判断により
最良とおもえる対応をとれるのが
成熟したサッカー文化ではないか。

posted by カルピス at 21:55 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月24日

『青さぎ牧場』児童文学ならではのおもしろさ

『青さぎ牧場』(ヘブサ=フェイ=ブリンズミード・冨山社)

舞台は1960年代のオーストラリア。
17歳の少女リルが、弁護士事務所のイスにすわっている場面から
ものがたりがはじまる。
リルは、おさないころに母親がなくなり、
それからは寄宿舎での生活をおくっていた。
父親はあいにこず、1年にいちど、手紙をよこすだけ。
弁護士事務所には、少女の祖父である老人もまねかれており、
リルの父親が亡くなったこと、遺産としてまとまった金額と、
いなか町に農場がのこされた、とふたりにつたえられる。
遺書には、リルと祖父のふたりで 遺産を等分するようかかれていた。
だれもかい手のない農場は、うりにだされていたが、
はじめて自分の財産といえるものを手にしたリルは、
自分の目でどんな農場なのかをたしかめたいといいだす。
農場は、老人がそだった土地でもあることから、
彼もまた農場をおとずれたいと主張する。
ふたりは、おたがいに馬があわないとかんじながらも、
いっしょに農場への旅にでかけることとなる。

ものがたりがはじまって、ここまでが20ページ。
たった20ページで物語の設定があきらかにされ、
これからの展開がたのしみになるのだかから、
児童文学ならではのわかりやすさだとおもった。
おとなむけの小説では、
「文学」らしくいろいろなことがかかれていて、
すんなりとは ものがたりにはいりこめない。

この本は、赤木かん子さんの
『今こそ読みたい児童文学100』にとりあげられていた。
390ページのうち、まだ50ページしかよんでないけど、
児童文学のおもしろさを、ひさしぶりに味わった気がする。
よけいなものがくっついてない簡潔な展開が、
こんな気もちにさせてくれるのだろう。
いまのうちに、このたのしさをかいておきたくなった。
このたのしさは、子どもの本に独特のものだとおもった。

本書は1976年に出版されており、
当時の価格が1650円となっている。
45年まえの1650円は、ずいぶんたかかったはずだ。
本のとびらとみかえしには、オーストラリア全体の地図と、
ふたりがおとずれる地方の地図がついていて、
ロードノベルとしてもたのしめるようになっている。
さし絵がいかにもふるめかしく、
しおりがついてないのも残念だけど、
本をよむたのしさを、ストレートに味わえる。
かん子さんがすすめてくれなかったら、
自分では絶対によまなかった本だ。

あたらしい生活をむかえ、リルがどうこころをひらいていくのか。
老人は、のこりの人生をどうすごそうとするのか。
この本は、これからまちがいなくおもしろくなっていく。
そんな本にであえたしあわせを かみしめている。

posted by カルピス at 22:43 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月23日

ようやく武田真治さん出演のランスマをみる

筋肉体操の武田真治さんがゲスト、ということで、
たのしみにしていたランスマをみる。
武田さんのほかに、東海大学陸上競技部のトレーナーをつとめる
林隆道さんも出演され、陸上にきく筋トレをおしえてくれる。

武田さんは、ウエイトトレーニングだけでなく、
ランニングにもちからをいれているそうで、
とくに腹筋は、ランニングだけでつくりあげたという。
体幹をつかってはしれば、自然と腹筋もきたえられるので、
筋トレとしての腹筋はしていないそうだ。
ランニングするときは、キロ5分30秒とはやいペースで、
3キロごとにダッシュをいれながらおいこんでいく。
武田さんは、はなしかたが独特で、まじめにいってるのか、
ボケてるのか、ちょっとつかみどころがない。
将棋のひふみん系の話術でまわりをひきこんでしまう。
ひふみんはすきだけど、武田さんはわたしがにがてとするタイプで、
いじられていた亮さんが気のどくだった。

東海大学陸上部の林さんは、
ダンベルをつかったトレーニングをおしえてくれる。
林さんの筋トレは、9割が上半身をきたえるメニューらしい。
わたしがウエイトトレーニングをはじめたころは、
三角筋なら三角筋だけをつかうようにいわれたものだけど、
林さんは、腕だけでなく、
上半身を連動させてダンベルをあげるといわれる。
反動をつけてしまうと、どこをきたえるのかぼやけてしまうので、
フォームによほど気をくばらなければ
トレーニング効果があがらないだろう。
呼吸は、ダンベルをあげるときにはく、といわれる。
これも、わたしとは逆のやり方だ。
むかしは、胸をひろげる動作のときに息をすう、とならった。
林さんのダンペルトレーニングは、
おそらく、みためよりもずっとむつかしい。

さいごに、柏市のランニングクラブをハブサービスさんがたずね、
筋トレをとりいれたランニングのトレーニングをこなしている。
腹筋・うでたてふせ・バービージャンプなどを、
20秒ずつすこしもやすみをいれないでつづける。
そのあと1キロを全力で3本というから、
かなりきびしいトレーニングで、
たかい目標をもち、自分をおいこめるひとでないと
なかなかこなせそうにない。
ゆっくりタラタラはしるわたしのランニングは、
あのトレーニングにとりくむひとからみたら、
ぜんぜんなってないのだろうけど、
いまさらあそこまでやる気はおきない。
ひとくちにランナーといっても、いろんなひとがいるものだ。
わたしには、わたしなりにダメランナーのほこりがあり、
今回の放送で紹介された3つのとりくみは
(武田さん・林さん・柏のランニングクラブ)、
わたしのこのみとはかさならなかった。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月22日

ローマ字でも、姓・名の順で名前をかくのはあたりまえ

けさの朝日新聞に、
「ローマ字も『姓・名』順」の記事がのった。
日本人の名前をローマ字で書く際は姓・名の順が望ましい。日本語を所管する文化庁が近く、官公庁や都道府県、大学や報道機関などにそう呼びかける。

世のなかには理解にくるしむ習慣がいくつもある。
学校給食で主食がごはんのときでも
牛乳がかならずついてくるとか、
安全じゃないのがわかっていながら
原子力発電をつづけるとか。
外国語で名前をかくときに、姓と名をひっくりかえすのも、
まえからなじめなかった。
よくいわれるように、中国人が英語をはなすときは
英語むけにひっくりかえさないというし、
アメリカ人が中国人をよぶときにも、
中国人のよびかたをそのままつかう。
なにがかなしくて、日本人だけが外国語でなのるときに、
ひっくりかえして名・姓にしなければならないのか。

ヘボン式のローマ字をつかうのもへんだ。
ローマ字表記は、アルファベットをつかって日本語をかくのだから、
アメリカ人にとっての発音しやすさを、
日本人にとっての便利さよりも 優先させるほうがどうかしている。
日本人がかきやすいのは日本式ローマ字のほうで、
たとえば「た行」をヘボン式でかくと
ta chi tsu te to
日本式では
ta ti tu te to
となり、どちらがかきやすいかはあきらかだ。
おおくのひとが、パソコンでローマ字入力をするときには
日本式をつかっているのではないか。
ローマ字で日本語をかくときに、
なんでわざわざヘボン式をえらぶのか 不思議でならない。

外国語で名前をなのるとき、
姓・名の順なのはあたりまえであり、
そうでなかったこれまでがおかしいのだ。
つぎの段階では、ヘボン式ローマ字を
日本式へと みなおすうごきに期待したい。
東京オリンピックにやってくるのは
英語を母語とするひとばかりではない。
ひとつのことばの発音だけを優先させるのは
それ以外のことばをつかうひとにとって不親切となる。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月21日

J1リーグ第12節 ガンバ対セレッソが 大阪ダービーらしい好ゲームだった

J1リーグ第12節、ガンバ対セレッソの試合がすばらしかった。
ガンバは7試合つづけてかちがなく、
この試合にまければ最下位となる。
宮本監督は、ベテランの遠藤と今野をはずし、
わかい高尾・福田・高江をおくりだしてきた。

なんとかダービーとよくいわれ、
たしかにそれぞれ熱のはいった試合になるけれど、
大阪ダービーの雰囲気はまたべつものだ。
この試合、ガンバをもりあげたのは、
監督・選手の危機感はもちろんとして、
ガンバサポーターがつくりあげた熱気がおおきい。
あれほどまでに会場をもりあげてくれたら、
選手は気のぬけたプレーなどできない。

試合開始から、両チームとも玉ぎわではげしくぶつかり、
この試合にかける意気ごみがつたわってくる。
ガンバのキーパー東口は、なんどもスーパーセーブをみせ、
選手たちをふるいたたせた。
セレッソがペナルティエリアにはいってきても、
ガンバの選手はからだをなげだしてゴールをまもりつづける。

前半を0-0でおえ、後半にはいると、
セレッソのロティーナ監督は
それまでの4バックから3バックにかえる。
この試合、両監督のベンチワークもみごたえがあり、
総力をあげて自分たちの優位をつくろうとする。
得点がうごいたのは、その直後の後半の10分だった。
ガンバの倉田がすばらしいトラップから
ゴールのたかい位置にシュートをつきさしている。
それまでなかなかいい場面をつくれなかったガンバの攻撃が、
セレッソのシステム変更をみごとについた形だ。

試合はけっきょくこの1点をガンバがまもりきり、
ホームでの初勝利にこぎつけた。
後半の終盤には、それまでベンチにいた今野と遠藤もはいってきて、
選手たちをおちつかせ、試合をしめにはいる。
若手の活躍で試合をつくり、最後はベテランがもち味をはっきして、
あぶない芽をつみとっていく。
下位あらそいをしているチームとはおもえない
たくみな試合はこびをみせ、
ガンバはかち点3をつみあげて、順位を14位にあげた。
リーグ戦に優勝したみたいに、スタンドもピッチも、
おおきなよろこびにつつまれる。
90分のあいだ両チームともはりつめた気もちがとぎれない。
これぞダービーマッチという、すばらしい好ゲームだった。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

「健康のために一駅歩く、ただし地方で。」の重要な指摘

デイリーポータルZにのった
「健康のために一駅歩く、ただし地方で。」
(岡本智博)がおもしろかった。
https://dailyportalz.jp/kiji/chiho_no_hitoeki

雑誌やネットで、
「健康のために一駅てまえで電車をおりてあるきましょう」
みたいなよびかけをよくみかける。
都会の一駅ぶんは、1〜2キロほどの距離かもしれないけど、
地方では、10キロくらいの「一駅」がざらにある。
岡本さんは、地方での「一駅」を、
じっさいにあるいてみようとしたのがこの記事だ。

わたしは5月の連休に、出雲大社から自宅方面にむけ、
41キロを9時間かけてあるいた。
駅のかずでいえば、10以上あり、
「一駅歩く」と内容はすこしちがうけど、
地方の道ならではのむつかしさを、
岡本さんの記事とおなじようにかんじた。

・歩道がとつぜんとぎれたり、反対側にうつったりしている。
・歩道が極端にせまいところがあり、
 スピードをあげてはしる車がすぐそばをとおり、
 あるくのがたのしくない。
 
もうひとつ、じっさいにあるくとわかることで、
歩道がととのっていても、つかれる道がある。
これを岡本さんは
綺麗な道路が意外と精神を削る
と表現している。
なんのことかというと、
街路樹が植えられ綺麗に整備された道が始まる。(中略)歩道もちゃんと整備されているし見晴らしも良くとても歩きやすい。ありがたいなと思っていた。この綺麗な道路は歩きやすいのだが…歩けども歩けども景色にあまり変化がない。(中略)気が紛れるものが無いし、進んでいる実感がないのだ。

自動車にのっているときのスピード感覚では、
きれいにととのった道とおもえても、
歩行者にとってはスケールがおおきすぎて、
いくらあるいてもすすんだ気がしない。
工場がたちならび、ひろい敷地と道路がつづく場所も、
おなじような理由から、いくらあるいても
すすんでるようにおもえず 気もちがつかれてくる。
人があるくときには、人のこころによりそう風景が必要だ。

わたしがちかい将来にでかけたいとおもっている
サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、
うつくしい風景のなかをあるけるらしい。
あるくたのしさは、からだをうごかす快感と、
うつくしい景色とがセットになっており、
地方にすんでいながら、たのしくあるける道はそうおおくない。
基本的に道路は自動車のためにつくられており、
歩行者にはどれだけ不親切かを
なにかにつけておもいしらされる。

posted by カルピス at 22:05 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月19日

カップ麺に録画で「これも一種のディナーショー」がおかしかった『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(津村記久子)

『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(津村記久子・講談社文庫)

津村さんのエッセイをよんでいたら、
(家への)帰り道で買ってきたカップ麺などをすすりながら、昼間に録画したドラマを観ていると、「これも一種のディナーショーだな」とほくそえんだりする。

にわらってしまった。
ひとからみたらショボいたのしみかもしれないけど、
本人が満足してたらいいのだ、という問題ではなく、
ぜんぜんちがうだろ、とおもつつも、
こういう解釈、すごくすきだ。

まえに外国の飛行機にのったとき、
いかにもふなれなキャビンアテンダントさんが
緊急時のマスクのつかい方を説明していた。
ほかのひとをまねようとするけど、まるでさまにならない。
キャビンアテンダントの専門性って、
いったいなんだろうとかんがえてしまった。
キャビンアテンダントといえば、
以前は、あこがれの職業にあげられていたけど、
いまはどうなんだろうか。
キャビンアテンダントさんがしろうとっぽかったように、
お客であるわたしだって、よそゆきの服ではなく、
カジュアルをとおりこして、ジャージにTシャツだった。
飛行機って、非日常の場かとおもっていたけど、
スタッフとお客の両方が、肩のちからをぬいている。
まるで国内旅行のバスにのってるみたいだ。

そういえば、むかしのバスは、
たいてい女性の車掌さんがのっていて、
切符やお金をあつかっていた。
キャビンアテンダントとバスの車掌とは、どうちがうのか。
もらえるお金はずいぶんちがいそうだけど、
本質的にはおなじ仕事だ。

質的なちがいに目をつむれば、
バルセロナに所属するのも、J3リーグでサッカーするのも
おなじサッカー選手だ。
自分のレベルにおうじたチームに所属しているにすぎない。
質的なちがいがすべて、というひとがいるかもしれないけど、
そうじゃない、というとらえ方もある。
クイーンエリザベス号にのってディナーショーにのぞむより、
わたしはカップ麺で録画のほうがいいし、
J3にはセリエAにないよさがある(はず)。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月18日

動物用の歩行器を300以上つくってきたトルコのクズルさん

トルコにすむハサン=クズルさん(23歳)は、
ケガをした動物のために、歩行器を300以上つくってきた
(朝日新聞「そよかぜ」欄より)。
5b0aadec76452.png
 近所に1匹の猫がいた。感電で両後ろ脚がまひし、前脚で引きずった体に擦り傷が生々しい。おもちゃの車を分解して作った歩行器を装着すると、はじめ驚いていた猫はすぐに跳びはねてボールで遊び始めた。

ネットには子羊に歩行器をつけるクズルさんが、
動画で公開されている。
うごけるようになった子羊が、お母さんのところにいくと、
ふたりがおたがいをたしかめるように、頭ごっちんをしていた。
しあわせそうだ。
https://www.trt.net.tr/japanese/video/toruko/video-mao-quan-kamehe-demozhu-keru-ming-noxiu-li-wu-hasankuzurusan

クズルさんが「命の修理」とよぶこの活動を、
ひとりでつづけてきたところ、
このごろは支援の輪がひろがって
大型の商業施設に作業所をかまえるようになったという。
「命の修理」の傍ら、獣医師を目指していたクズルさんは2年前、大学入試に向かう途中でけがをした猫を見つけ、病院に連れて行った。受験しそこなったが、後悔はない。
「目の前の猫を救う方がずっと大切ですよ」

クズルさんみたいに動物を大切にするひとがいるのは、
なんてすてきなんだろう。

posted by カルピス at 20:09 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月17日

ガタガタだった歯科受診を、老人力としてのりきりたい

歯科受診へ。
1月から月にいちどくらいのペースで
歯医者さんにかよっていた。
虫歯になやまされての受診ではなく、
2年ほど検診をしてなかったので、
ひさしぶりにみてもらおう、とおもったのがはじまりだ。
最初の受診では、口のなかをこまかくしらべられる。
歯石がたくさんついていたし、虫歯もみつかった。
歯周病にもなっているといわれ、
親しらず歯がおそらく原因なので、
ぬいてしまったほうがいい、ともいわれる。
親しらずをぬくのは いたそうなのでことわった。
わたしは75歳で死ぬ予定だから、そう完璧になおさなくても、
あと15年くらいはなんとかもってくれるだろう。
ひとまずきょうで治療はおわりとなり、
半年後にまたようすをみせてください、といわれる。

治療がおわっても、ぜんぜんうれしくない。
自分の口のなかが問題だらけだとしり、がっかりする。
それなりにしっかり歯みがきをしてきたつもりなのに、
プロがみると あちこちわるいらしい。
ながいきは、ろくなことがないと、このごろなにかにつけておもう。
寿命が50歳くらいの時代なら、
歯をそれほどまじめにケアしなくても こまらなかっただろうに。
かといって、寿命がおもいどおりになるわけでもなく、
からだがあと何年うごいてくれたらいいのかはわからない。
限度をむかえるのは もちろん歯だけでなく、
内臓や、骨に関節も、これから苦情をいってくるはずだ。
血圧・尿酸値・コレステロールなども、
50歳が寿命の時代では たいした問題ではなかっただろうに。
脳梗塞や認知症がリアルにこわいのも、
ようするに、ながいきしてしまうからだ。

赤瀬川原平さんは、老化にともなう現象を「老人力」とよんだ。
ものわすれがひどくなっても、老人力がついた、
といえば、わるい気がしないばかりか、
なんだか能力を獲得したような気になる。
現実から目をそむけるのではなく、
はじめて身につけた能力として老化をとらえる。
老化を肯定的に評価するには、とても有効なかんがえ方だ。
このごろは、老人の運転による交通事故が
よくほうじられるけど、
これらは老人力をあやまって解釈するからおきている。
まだまだ自分はやれる、とがんばるのが老人力ではなく、
老人力がついたから、運転をやめる、がただしい。
わたしはこれからバシバシ老人力を獲得していくことになる。
老人力をただしくいかし、ニュートラルな精神で生きたい。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月16日

武田真治さんが なかなかでてこない「ランスマ」にふりまわされる

「みんなで筋肉体操」でしられる武田真治さんが、
ランスマに出演するという。
筋肉はランニングにじゃま、という内容なのか、
それとも、あれほどの筋肉があれば、
ランニングにもいい影響をもたらす、という路線なのか。
すごくたのしみにしていたのが先週のはなし(5/8)。
でも、録画した番組を再生しようとしたら、
番組がテニスに変更しており、録画そのものをしていなかった。

ネットをみると、一週間さきの5月15日(水)に放送すると
番組のツイッターがしらせている。
録画設定をしなおして、15日、つまりきのうをまつ。
そして今夜、夕ごはんをたべながら、
ランスマをたのしもうと再生したら、
番組名は「ランスマ」になっているのに、
放送はまたローマでのテニスになっていた。
錦織圭選手の試合だ。
地元しまねの住民として、
錦織選手の試合に関心がないわけではないけど、
からだと頭は ランスマむきに準備されていたので、
かなりふかくがっかりする。
作戦Bをたてていなかったので、
おおげさでなく しゃがみこんでしまった。
カツ丼をたべようとはりきってでかけたら、
お店がラーメン屋さんにかわってた、みたいな。

これだけあてにならない放送では、ついていくのがいやになってくる。
たのしみにしていた回が、2回つづけてみおくられるなんて、
よほどの事情がないかぎりありえない事態だ。
北朝鮮じゃあるまいし、だれかがランスマなんていいから、
テニスをながしとけ、と鶴の一声をだしたのだろうか。
はじめは、テレビが外部からの超能力にのっとられて暴走し、
録画予定をうけつけなくなったのかと、カルト的なちからをかんじた。
きゅうにスイッチがはいったり、時計がうごきだしたり、
電子レンジがまわりはじめる、あの現象だ。
それとも、もっとシンプルに、
機械が反乱をはじめたのだろうか。

番組のツイッターによると、放送がまた一週間のびたようだ。
「来週は、テニスの影響は無い予定です」と
ぜんぜん迫力のないツイートだ。
もしかしたらまたテニスにかわるかも、としかよめない。

よんでない本の感想をブログにかいたことがあるけど、
みていない番組のことは、さすがにかけない(かいたけど)。
たのしみにしていても、たいした内容じゃないこともよくあることで、
とくに「ためしてガッテン」は、いつもそんなかんじで、
だまされた感がつよく、もうみるのをやめてしまった。
武田真治さん出演のランスマも、
これだけ期待をたかめてしまっては、かなりの内容でないと、
みるものを納得させられないだろう。
来週の放送をみて、めちゃくちゃ文句をいってしまいそうだ。

ランスマのツイッターをぬきだして、
番組サイドの混乱を記録としてのこしておく。
https://twitter.com/nhk_runsmile
・BS1ラン×スマ きょう夜9時〜 武田真治が伝授するランとシェイプアップの極意!ランにボディメイクに役立つ筋トレ!(5/8)

・BS1ラン×スマ 「ラン×筋肉」、ATPテニス延長で放送が延期となりました。調整していましたが、来週5月15日(水)、放送となります。(5/8)

・BS1ラン×スマ あす15日夜9時〜 ATPテニスで延期になっていた武田真治が伝授するランとシェイプアップの極意!ランにボディメイクに役立つ筋トレ、あす放送予定です。(5/14)

・BS1ラン×スマ きょうのラン×スマ、テニス錦織選手の試合で放送が来週5月22日(水)に送られることになりました。来週は、テニスの影響は無い予定です。(5/15)

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月15日

ゴミ箱型ブラックホールによる「黒穴様信仰」(デイリーポータルZ)

デイリーポータルZに、乙幡啓子さんによる
ブラックホールのゴミ箱をつくったはなしがのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/blackhole-gomibako
ブラックホールの写真がはじめて撮影されたというニュースに
インスパイアされての記事だ。
なんでもすいこんでしまうブラックホールは、
まさにゴミ箱がおにあいだ。

ブラックホール(をおもわせる)のゴミ箱つくりもいいけど、
そのゴミ箱になにをすてるのか、
というところからおもしろくなった。
はじめは宇宙船とかロケットをほうりこもうとしてたけど、
せっかくだから、「自分の要らないもの」をすてようと
はなしがエスカレートしていく。
よけいなものをブラックホールにすいこんでもらいたい、という
神だのみの対象として ブラックホールが存在感をだしていく。
名づけて「黒穴様信仰」である。

ブラックホールというよりも、
ねがいをかなえるおまじないみたいに、
いらないもの、きてほしくないものを、
スーパーボールにかいていく。
参加者がそろそろ中年という年代からか、
更年期・老眼・体重などがかきこまれる。
編集部の古賀さんのだした「ねたみ」が、
ねがいを質的に方向転換させる。さすが古賀さんだ。
わたしも便乗して「ねたみ」をすてたくなった。
ブラックホール型ゴミ箱をつくるのはめんどうなので、
どうか黒穴さま、気もちだけうけとって、
わたしのねたみもすいこんでください。

そのほかには、
・普通のコーラしかない自販機
・豆腐のフタ(うまくあけられないから、らしい)
・靴下がばらけないためのクリップ
など、たしかにいらないけど
けっこうしょぼい名前があがる。
いらないものは、なかなかおもいつかないらしい。

いらないものをすいこんでもらう儀式として、
これらがかかれたスーパーボールを、
ブラックホール型のゴミ箱になげいれる。
世界ではじめて、ブラックホールに
物体がすいこまれる ありがたい瞬間が
記事には動画でアップされている。
みのがさないように。

posted by カルピス at 20:45 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月14日

「チャリダー」での実験、「自転車で健康になれる?」

先日の「チャリダー」は
「自転車で健康になれる?大実験」。
不健康な3人の芸人に、1ヶ月のあいだ
まいにち30〜1時間ほど自転車をこいでもらう。
たった1ヶ月で、どうからだがかわるだろうか。

実験のまえに、身長・体重・ウエストなどのサイズと、
血圧・コレストロール値・中性脂肪などをはかる。
3人とも、30〜40歳のわかさなので、
まだ具体的な症状がでているわけではないけど、
健康に関するどの数値も、このままほっといたら
ちかい将来、いろいろな問題をかかえそうなひとたちだ。

自分の家に、ローラをつけた自転車をもちこんで
都合のいい時間にまいにちこいでもらう。
3人とも、ひごろ運動をしてないので、
安全にトレーニングをするために、
最高心拍数をあらかじめ計算し、
それ以下の負荷で自転車をこぐ。
3人にもとめるのは、自転車をこぐことだけで、
食事の制限はない。
ただ、まいにち自転車にのるうちに、
せっかく運動してるのだからと、
たべる量をひかえたり、自炊をはじめたりしている。
酒をのみすぎれば、つぎの日の自転車がつらいので、
自然と健全な生活スタイルへ、意識がたかまっていた。

1ヶ月後の再検査では、3人とも体重が10キロほどおち、
ウエストも10センチちぢまっている。
血液の数値もおおはばに改善されていた。
自転車は健康にいいと、はっきり数字にあらわれた。

それにしても、劇的な成果があがったものだ。
いかに負荷がかるいとはいえ、
まいにち自転車に30〜1時間のるのは、
そうかんたんではない。
これが、ジョギングを30〜1時間だと、
かなりきつくて、まいにちはたいへんだけど、
自転車だからできた運動習慣かもしれない。
体重がおもいひとでも、自転車ならひざへの負担がすくない。
らくだからつづけやすく、成果もおおきいとなれば、
健康づくりには自転車がむいていそうだ。

わたしが仕事でまいにちとおる場所に、
障害者を対象にした介護事業所があり、
ひとりのわかい男性が、まいあさなわとびにとりくんでいる。
かなり体重がありそうなので、
おそらくダイエットを目標としてのなわとびだろう。
なわとびのようなはげしい運動なら、
すぐに体重がへりそうなのに、
これまでのところ あまりおおきな変化は みとめられない。
なわとびは、はげしすぎる運動なので、
ダイエットにむかないのだろうか。
数ヶ月では結果がでなくても、もうすこしながい目でみれば、
おおきな変化があらわれるような気がする。
からだがうまれかわるであろう彼のとりくみを、
まいあさ車からみまもっている。

「チャリダー」では、1ヶ月の自転車生活で、
おどろくような変化がでていたけど、
さらにつづけて半年後、1年後のすがたをおいかけてほしい。
1ヶ月では、これからも健康を維持できるのか、まだわからない。
なにごとも つみあげるのがだいじ、とよくいうけど、
成果が目にみえなければ、なかなかつづかない。
運動は、数値や形として変化がみえやすいので
勉強よりもつづけやすい面がある。
成果をみえる形にするのが つづけるコツなのだろう。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月13日

外国名から「ヴ」がきえた

外国名から「ヴ」がきえた、と
せんじつの新聞にのっていた。
外務省がつかう国名の基準がかわったためだという。
西アフリカの島国「カーボヴェルデ」は「カーボベルデ」に、中南米の島国「セントクリストファー・ネーヴィス」は「〜ネービス」になります。

 現代では、日本語を母語とする人は「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」と「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」とを区別して発音する場合はほとんどありません。例えば「ベートーベン」を「ベートーヴェン」と表記しても、通常は「ヴェ」の発音を1拍目の「べ」とことさらに区別しないはずです。

シンプルな表記をこのむわたしにとって、
とてもいいしらせなのだけど、
国名から「ヴ」がきえたからといって、
まだ安心できない。
文章のなかには、たくさんの「ヴ」がつかわれている。
たとえば、バイオリンではなく「ヴァイオリン」。
「ヴ」をつかいたがるひとは、
文章をかくときに、漢字をたくさんつかって、
かっこつけたいタイプのひとではないか。
日本語にヴァ行はないのだから、
文字としても意味不明だし、
はなす場合に「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」を
つかいわけられないし、
きくときにも、ききわけられない。
これまで「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」をつかってたのが
不思議なくらいだ。
たとえ「ベートーベン」の「ベン」を、
したくちびるをかみながら「ヴェン」と発音されても、
きくほうに、そのちがいをききわける耳がない。

「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」をつかいたいのは、
そのほうがよりもっともらしい、
という意識があるからではないか。
バイオリンよりヴァイオリンとしたほうが、
ありがたくて格調たかくきこえるというかんちがい。
わたしたちがつかっているのは外国語ではなく、
日本語ということをわすれている。

「ヴ」をなくしたいきおいにのって、
「F」をつかった「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」も
なくせないだろうか。
でも、こっちは「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」よりも
しぶとくいきつづけるかもしれない。
「ファイト」とか、「カフェ」とか、
日本語になじんでることばがおおいから。
個人的には、「カフェ」よりも「カヘ」といわれたほうが、
色気があるような気がするけど。
とくに女性が「カヘ」とやさしくささやくと、
なんだか京ことばをきいてるみたいで いいかんじだ。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月12日

『人生に生かす易経(えききょう)』(竹村亞希子)

『人生に生かす易経』(竹村亞希子・致知出版)

NHKのカルチャーラジオをきいていると、
竹村さんのはなしぶりに、ついついききいってしまう。
竹村さんのかたりかけは、耳にここちよい。
でも、わかりやすいことばをえらばれているのに、
感心しながらも、すぐに頭からぬけていく。
具体的なたとえばなしをきいて、わかった気になるけど、
ふかく腹におちるほどの理解にはいたらない。
ただ、これがすごい学問ということはわかる。
すこしでも易経にふれてみたいと、
図書館にあった本をかりてきた。

世の中のものはすべてかわる。
その変化のなかには、不変の法則がある。
春から夏になり、夏から秋になる。
夏は秋をとばして冬にはならない。
「よーく観れば、ちゃんと見えるんですよ」
いわれてる一言ひとことは きわめてシンプルなのに、
竹村さんが口にすると、
すごくたいせつな真理にきこえてくる。

易経とはなにか。「易」は易者さんの易であり、
易経はうらないから発生し、発達したという。
易経にはもちろん占い方が書いてあります。しかし、その一方では「君子占わず」の考え方も書かれています。(中略)「君子たらんと志す者は、易経を読んで変易、不易、易簡という三つのエッセンスを知れば、占わなくても出処進退がわかる」という意味です。(中略)
 占いから発達した書なのに「占わなくてもわかる」と相反することをいうのはなんとも不思議ですが、これが易経の本質です。

うらなうのだけど、易経をふかくよみこめば、
うらなわなくてもわかるようになる、
というからなんだかすごい。
 一人勝ちのような圧倒的な勝利は、長い目で見ると負けにつながっていきます。
 最高の関係は共生です。お互いに生かし合う関係です。

すこしまえの「今日のダーリン」に糸井さんがかいていた
「失敗は成功のもと」を根源的に言い換えると、
「成功は失敗のひとつ」ということかもしれません。
10の失敗のなかに、1つ「成功」と呼ばれる失敗がある。

をおもいだした。
失敗のなかに成功があるように、
成功したようにみえるときは、
すでに失敗の芽をふくんでいる。
たゆまなく変化しつづけるひとや社会のありかたをみつめ、
いまがどの段階かをとらえていくと、
すすむべき道、気をくばりたいポイントが自然とみえてくる。

わからないなりに本書をめくっていると、
ぜんぜんできそうにないことはかいてない。
すべては ごくあたりまえなのに、あたりまえのことを、
あたりまえにおさえるのは かんたんではない。
タグ:易経

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする