2019年06月30日

『ゴジラ キング オブ モンスターズ』ゴジラをおこらしたらやばいよ、という映画

『ゴジラ キング オブ モンスターズ』
(マイケル=ドハティ:監督・2019年・アメリカ)

もちろん、いまさらゴジラをみるつもりなんてなかった。
ましてやハリウッド版なんて、ろくでもない作品にきまっている。
でも、なんとなく予告編をみたら、
迫力にすっかりやられてしまった。
ここまでやってくれるなら、おもしろいかも。

映画をみても、ストーリーは、よくわからなかった。
ゴジラをおこらせるとこわい、という映画だったとおもう。
じっさい、さいごの場面で
キングギドラにむかっていったときのゴジラは、
全身いかりでふるえていて、
スクリーンをみてるだけでもこわかった。
ゴジラをおこらせてはならない、がこの作品の教訓だ。

花火大会では、さいごの10分ぐらいに山場をもってきて、
これでもかとハデに花火をうちあげるけど、
ゴジラのたたかいも、ちょうどそんな ながれになっている。
さいごの10分は、あきれるほどの出血大サービスで、
それまでは、かなりひくめにおさえられている。

じっさいに映画をみてみると、
これまでのシリーズになじみがないものには、
ストーリーにすんなりはいれない。
なにやらパソコンみたいな機械をひらいて、
怪獣たちに信号をおくるというけど、
いったいなんのことだろう。

アメリカ政府にアメリカ軍、それに、
巨大生物を研究している秘密機関「モナーク」と、
いくつもの組織がごちゃごちゃになっており、
指示体型が理解できない。
だれがいちばんの責任者なんだ?
渡辺謙さんも出演しているけど、
モナークのなかでの立場がわからない。
かなりえらいひとみたいだけど、
あそこで謙さんはなんの仕事をしていたの?
さいごのほうで、爆弾をしかけにいく役を謙さんがかってでたとき、
このために謙さんは出演してたんだ、とようやく納得した。
特攻隊には日本人がにあってる、という
ハリウッドらしいステレオタイプな発想だ。

モスラはどうも、「いいもの」らしい。
ラドンにモスラがおそわれ、もうだめだ!というとき、
きゅうにラドンのうごきがとまる。
なんと、モスラのするどいツメが(ほんとうか?)
ラドンのからだをひきさいていた。
ヤクザ映画で、もみあっているとき、
あいくちがあいてのからだをつらぬき、
きゅうにうごきをとめたのち、くずれおちるのをおもいだした。
ゴジラの映画をつくるぐらいだから、日本映画をリスペクトしてくれ、
ヤクザのきりこみを参考にしてくれたのだろう。

リスペクトといえば、伊福部昭さんの作曲した「ゴジラ」が
エンディングでながれてきた。
すこしまえの「キラクラ」で、
遠藤真理さんが「SF交響ファンタジー第1番」をかけてくれ、
いまさらながらこの曲の魅力にうたれた。
真理さんは、ご自身も演奏にくわわったことがあるという。
「いまゴジラがあるいている!」
「いまゴジラが火をふいた!」
と、リアルにかんじられて、
会場がたいへんなもりあがりをみせたそうだ。
あらためてきいてみると、ほんとうに名曲であり、
この曲によって ゴジラの作品世界ができあがった。

あまりにもにぎやかな作品だったため、
みおわったあとも感想がまとまらない。
ゴジラすげー!
ゴジラつよい!
という映画だったのだろう。

posted by カルピス at 20:20 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月29日

すごくわかりにくいけど地主恵亮さんらしい記事「レフェリーになって街を綺麗にする」

デイリーポータルZにのった
「レフェリーになって街を綺麗にする」(地主恵亮)が、
意味不明でものすごくわかりにくいけど 妙にこころをとらえる。
https://dailyportalz.jp/kiji/man_who_clean_the_city
このひとでないとかけない記事、という意味において、
まちがいなく 地主さんの存在は、
デイリーポータルZにかがやく いくつかの星のひとつである。

記事の概要を紹介するのは かんたんではない。
なぜレフェリーになり、街でたおれているものにたいし
カウントをとろうとするのか、理屈では説明できないからだ。
(たおれているものをみると)心の「レフェリー」が騒ぐ。ここで言うレフェリーはプロレスのレフェリーだ。誰の心にもレフェリーは住み着き、我々にカウントを促す。

(カラーコーンをたてなおし) 試合が終われば、彼は起き上がる。そういうものなのだ。ダウンこそしていたけれど、レフェリーの温かい手により彼は起き上がり、いい試合だったことをオーディエンスに伝え、次のいい試合に期待するのだ。

レフェリーは歩いた。夏となり、晴れ渡る空の下を歩いた。まだセミの鳴き声は聞こえない。ただ梅雨入りしている。夏はそこまでやってきている。梅雨明けするためには、オーディエンスの熱狂をもっと集めなければならないのだ。
(ここらへん、論理が破綻しており、めちゃくちゃくるしい)。
飲み干されたペットボトルが落ちていた。彼も頑張って戦ったのだろう。しかし、戦い虚しく、彼の美味しさが仇になり、飲み干されダウンしてしまっている。カウントを取らなければ、私がカウントを取らなければ。

彼はもうヘトヘトなのだろう。本来の場所に戻る力がない。なにより空っぽだ。レフェリーである私はおもむろに彼を抱きかかえ、次の居場所へと誘った。街中レフェリーは街中美化を応援しています。

といいながら、ペットボトルを自販機のよこにある ゴミ箱へいれる。
ここにきて、ようやく記事のタイトルである
レフェリーと「街を綺麗にする」がむすびつく。

よく この企画が編集部にみとめられ、
ぶじにアップまでこぎつけたものだ。
デイリーポータルZは、おおきなリスクをおかしてながら
デイリーポータルZの精神を、どうどうと世間にしめした。
こうした冒険のつみかさねが、デイリーポータルZを
デイリーポータルZたらしめている。

ひとからの評価をほとんど意識せず、
自分の世界をかききりたいという貪欲な意志。
それがまた 読者には魅力となるのだから、
地主さんは本質的に すぐれた芸術家だ。
タグ:地主恵亮

posted by カルピス at 09:11 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月28日

1歳をすぎ、気もちがつうじるようになってきたココ

すこしまえの「ほぼ日」に
「つうじてきてる。」として、
糸井さんがブイコの成長をとりあげている。
このごろ、1歳を過ぎてからね、
いままでより
気持ちが通じてる気がする。
人に人格があるみたいに、
犬にも、犬人格があるようでさ。
それが形成されてきてるんだ、きっと。
<『ブイコはいいこ(未刊)』より>

わたしの家にいるココ(ネコ)も、
1歳をすこしすぎ、このごろ「つうじてきてる」。
もっと子ネコだったときは、
ただわちゃわちゃさわいでるだけだったけど、
さいきんでは、あまえたり、要求をうったえたり、
家族と気もちがつうじるのをかんじるようになった。
外であそぶたのしさをおぼえてから、
わたしたちのスキをうかがって、
なんとか外へでようとする。
だめなときは、ハナをならして不満をうったえる。
さみしいときは、ひざのうえにのってくれる。
けさは、風呂場からの脱出をはかり、
くるしまぎれか 操作パネルに足をひっかけたようで、
湯船をお湯でいっぱいにしていた。
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ブイコは幼稚園にいってるそうだけど(どんなところだろう?)、
ココにはともだちのコナツがいて、
ときどきあそびにきてくれる。
コナツはメスのキジトラで、どこに本宅があるのかわからないけど、
お腹をすかせてわがやにくるのではなく、
かといって、ココがめあてでもないようで、
ときどきふらっとやってきては、
いつもすこしこまったような顔をしながら、
ココのあいてをすこしつとめてくれる。
ココのしつこさにめんどくさくなるとかえっていく。
ネコ用のごはんはたべず、
人間がたべているおかずは、気にいったらたべる。
すきなのはカツオブシ。
ココの家庭教師として、ネコの道をおしえているのかもしれない。
ココがまだ子どもすぎて、レッスンにならないので、
ココの成長をしずかにみまもっている、としたらうれしい。
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posted by カルピス at 20:19 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月27日

女子W杯、日本のベスト16は、実力にふさわしい結果だった

女子W杯決勝トーナメント、日本対オランダをみる。
さほどテクニックがあるとはおもえないオランダなのに、
日本は相手のサッカーにつきあってしまい、
なかなかパスをつなげない。
それでも だんだんとオランダのやり方になれてきて、
前半のうちに1-1においつき、なおもせめつづける。
結果からいえば、点をとれるときに、
しっかりとれなかったのがいたかった。
あとになって そのツケがまわってくる。
後半終了間際に、熊谷がハンドをとられ、
PKをきめられてかちこちをゆるす。
アディショナルタイムをうまくしのがれ
そのまま1-2で試合をおえた。
ゴールキーパーの山下は、なんどもファインセーブをみせていたし、
クロスバーにきらわれるシュートがあったりと、
もうすこしで点がはいりそうなのに、
ながれをいかしきれない。
熊谷のハンドにしても、微妙な判定だったし、
内容からいえば、日本のほうがまさっていた。
まけた気がしないのに、日本はベスト16どまりとなり、
決勝トーナメントの1回戦ですがたをけす結果におわる。

ただ、この試合だけをみれば、日本はかてたかもしれないけど、
大会ぜんたいでとらえると、いまの実力におうじた結果だった。
よかったのはグループリーグのスコットランド戦ぐらいで、
あとの試合は、決定力不足がそのまま結果にひびいた。
つよかったのは、イングランドだけで、
あとのチームはそれほどこわさをかんじなかったのに、
点をとれなければ 試合にはかてない。

女子W杯・コパアメリカ・トゥーロン国際大会と、
おおきな大会がいくつもひらかれた6月。
わかい世代が着実にそだっているのが実感でき、
これからの活躍がたのしみとなる。
女子の代表は、これが自分たちの実力だとすなおにうけいれ、
その現状認識から これからのスタイルをつくりあげてほしい。
いまのままでは、どことやっても
にたような結果しか あげられそうにない。

posted by カルピス at 20:58 | Comment(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月26日

杉江由次さんの発見「胃袋こそ人生のバロメーター」

Web本の雑誌に連載中の
「帰ってきた炎の営業日誌」(杉江由次)がすきで、
更新されるのをたのしみにしている。
6月22の「営業日誌」には、
杉江さんのご両親とご夫婦、それにむすめさんとの5人で、
とんかつをたべにいったとかいてある。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/2019/06/23/071404.html
ご両親のいきつけのお店なのだそうで、
さいきん調子をくずしていたお父さんは、
「ここにまた来るのが夢だったんだよ」という。
店員さんは、
「そんな大げさな。小さな夢ですよ」
というけど、中高年のわたしには、
お父さんの気もちがよくわかる。
健康に万全の自信など とても もてず、
あした、というか、ほんの数時間さきに、
自分がどうなっているのかさえあやふやだ。
きゅうに気分がわるくなってすわりこむかもしれず、
そのまま病院へはこびこまれとしても、
なんの不思議もなくうけとめられる。

杉江さんのお父さんは、だいすきなカツ丼を半分のこし、
お母さんは「すくなめに」とたのんだご飯さえ半分のこし、
そのすべてを、大学にはいったばかりという
杉江さんのむすめさんが平然とたべている。
「胃袋こそ人生のバロメーター」
が杉江さんの発見だ。
たしかに。
なんの心配もなく、おおもりをあたりまえに注文し、
気あいをいれたらカレーライスを何杯でもおかわりでき、
というころが、わたしにも たしかにあった。
いまでは、おなかがすくからたべる、というよりも、
エネルギーをとりこむために、たいしてほしくなくても
たべものを胃袋におくりこむかんじだ。
カツ丼を半分のこすのも、
さほどとおくない日にやってきそうだ。
まさしく「胃袋こそ人生のバロメーター」であり、
いちどおとろえた食欲が、復活したりはしない。
しずかに、ちゃくじつに、食欲のグラフは右にさがっていく。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月25日

秋山可愛さんの「できるかできないかではなく、やりたいかやりたくないか」に共感する

わたしのしりあいが園長をつとめる児童施設で、
子どもたちを富士山にのぼらせたいと、
クラウドファウンディングによるプロジェクトをたちあげた。
せんじつ、目標額に到達したというしらせがはいる。
無理を承知で計画をたちあげ、なんとか実行にうつそうと、
あらゆる手段にうったえて実現をめざす。
すこしの寄付をしたものとして、
しりあいのとりくみを、とてもすがすがしくかんじた。
こうした計画は、できない理由をさがせば
いくらでもみつかるものだ。
そんな議論にうつつをぬかさず、
とにかく子どもたちをつれていきたい、
という一点をたいせつにして
しりあいは、全力をかたむけていた。
富士山登山の意義だとか、子どもたちへの教育的な視点とかは、
あとからいくらでもくっつけられる。
だいじなのは、子どもたちを富士山へ、という熱意であり、
それさえおさえてあれば、成功はまちがいない。
成功するまでつづければいいのだから。

せんじつの朝日新聞beで、
介護現場の若手リーダーをそだてている
秋山可愛さんが紹介されていた。
秋本さんは
自分が選択に迷った時、大事にしている言葉があります。「できるかできないかではなく、やりたいかやりたくないか」です。

とはなしている。
まったくそのとおりだと、ふかく共感する。
なにかの会をひらいて、
ある事業を やるかやらないかきめる、
というのでは、ぜんぜんだめだ。
やるかやらないかは、そのまえにきめておき、
あとは、それをよりよく実現するために、
みんなの知恵をだしあっていく。
やるかやらないかをきめるときは、
秋本さんがいうように、
「やりたいかやりたくないか」がだいじになってくる。
できない理由はいくらでもあげられるだろうけど、
社会的な責任とか、とにかくやりたいという熱意で、
まわりをときふせる。
これをやれば経営的に有利だから、なんて議論に、
わたしはぜんぜん興味がない。
どうしてもこの事業をすすめたい、というあついおもいを
若手の職員がどうどうと主張できる職場でありたい。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月24日

「じゃないほう」に注目したい

浦和レッズの武藤選手がうりだしちゅうのとき、
「じゃないほうの武藤」と名のっていた。
本家の武藤は海外にでていった武藤で、
「じゃないほう」の武藤は、いまも浦和にいる。
「じゃないほう」なのに、本家の武藤をうわまわるほど
いいプレーをするじゃないかと、
「じゃないほう」の武藤の活躍に、おおくのひとが注目した。
うりだしちゅうのころにくらべ、
いまはすこしぱっとしない存在になってしまった。

でもまあともかく、「じゃないほう」という距離感がいい。
本家のようなプレーをめざすのは、なにかとたいへんだけど、
おれは「じゃないほう」だから、
あんまり期待しないでみててね、というかるい印象をうける。
ふつうだったら、名前がおなじだけで、へんにくらべるなと、
すこしごねたくなりそうなのに、
じぶんから「じゃないほう」といえるのは、
かなり気もちの面で余裕があるのだろう。

NHK-FMの「ラジオマンジャック」にメールをよせると、
「クリアじゃないファイル」がもらえるらしい。
どんなファイルかしらないけど、
すくなくとも、なまえはとてもすてきだ。
ほんらいなら「クリアなファイル」であるべきだけど、
もうしわけないことに、クリアじゃないんです、
と、いっぽひいた姿勢に好感がもてる。
それにくらべ「クリアファイル」は、
クリアであることに なにか得意げで、かわいくない。

デイリーポータルZの記事に、
「ニューじゃないほうに注目する」というのがあった。
ニューヨークやニューギニアは、
ヨークやギニアに「ニュー」がついているわけで、
その「ニュー」がついていないほうに注目するわけだ。
ニューヨークじゃないほうの町、ヨークは
イギリスにあるそうで、
ヨークのひとが「じゃないほうのヨークです」
と内心おもっていたとしたらうれしい。
いずれにせよ(強引)、「じゃないほう」となのる余裕は、
われわれがむかいつつある ややこしい時代にこそ、
こころのかたすみに すまわせておきたい精神ではないか。

posted by カルピス at 22:15 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月23日

『たちあがる女』鉄の意志をもつハットラの実力行使に どれだけ共感できるか

『たちあがる女』(ベネディクト=エルリングソン:監督・2018年・アイスランド)

アイスランドを舞台に、環境保護活動のため、
工場への送電線をきるという過激な方法で、
妨害工作をする女性、ハットラが主人公だ。
わたしは、彼女が弓矢をかまえる場面を予告編でみていた。
弓でなにをしているかとおもったら、
弓矢にひもをつけ、そのさきに鉄線がむすんであった。
送電線と送電線のあいだに鉄線をわたし、
ショートさせていたのだ。
彼女のこうした妨害工作により、
国が支援する工場が深刻な被害をうけ、
おおきな社会問題とまでなっている。

上映まえに、作品についてかんたんな説明があった。
アイスランドは北海道と四国をあわせたほどの面積に、
35万人がすむというから、かなりちいさな規模の国だ。
えっ、たった35万人?ほんとうだろうか。
ネットをみると、たしかに35万人となっている。
しんじられないほど、すくない人口だ。
わたしがすむ島根県の人口の半分なのに、
独立国をなのって国際社会にのりだすのは たいへんだろう。
自然をいかした観光がおもな資源だけど、
アルミニウムの生産にもちからをいれており、
自然を破壊して(開発、というみかたもある)、
工場の建設がすすんでいる。
政府をたて、警察があり、ライフラインもととのっている。
テレビ局に、新聞・ラジオもあるけど、
35万という人口で、いったいこれらを
どうやってなりたたせているのか。
映画をみているあいだじゅう、ずっと人口のすくなさが 気になった。

ハットラはなぜつよい決心のもとに、
工場や開発への妨害工作をはじめたのだろう。
自然をまもりたいとおもうようになった きっかけはなにか。
ハットラへの共感がわかない理由のひとつは、
「たちあがる女」になった背景が
作品のなかで えがかれていないからだ。
また、命をかけた妨害工作をあつかうため、
しかたがない面もあるとはいえ、
作品にわらいがすくなく、みていてつらくなってくる。
ずっとシリアスなまま はなしがすすんでいく。
作品が、彼女の視点でえがかれているので、みているわたしは、
彼女をテロリストときめつけたりはしないけど、
かといって、彼女自身が確信しているほど、
全面的にただしい行動とも おもえない。

4回目の妨害工作からハットラが家にもどると、
ウクライナにすむ4歳の女の子を
養子にむかえるはなしがすすんでいた。
4年まえに申請したきり、彼女はこの件をわすれており、
しばらくなやんだすえに、女の子をひきとろうときめる。
ハットラには、双子の姉がいた。
姉はヨガをおしえ、インドへいって修行をつもうと計画している。
姉に養子の申請の保証人になってもらい、
ハットラは、ウクライナへ女の子をひきとりにいこうとする。

ハットラの妨害工作は、爆弾をぬすみ、
爆発で 鉄塔をたおすまでにエスカレートする。
国は、捜査に本腰をいれ、総動員体制で彼女をさがしまわる。
人口35万の国にも 訓練のいきとどいた捜査員がいて、
ドローンやヘリコプターで彼女をおいつめる。
赤外線カメラをつんだドローンは、
夜になっても彼女のいばしょを正確につかむ。
鉄塔をたおしたときに、彼女は手のひらにケガをおい、
その血液から警察はDNA検査までとりいれて
一連の妨害工作は彼女の犯行とわりだした。
女の子をひきとりに ウクライナへ旅だとうとしたとき、
とうとうハットラは警察に逮捕される。

(以下、ネタバレあり)
留置場にとらわれているハットラに、
彼女の姉が面会におとずれる。
彼女たちの協力者が停電をおこしたわずかな時間に、
姉はハットラに 服を交換して、いれかわるよう うながす。
姉のはでな帽子と服を、ハットラが身につけると、
もともとそっくりな顔だちだったため、だれも気づかない。
ハットラは、姉がのってきた車にのり、
そのままウクライナへいくため空港へとむかう。

ふつうなら、いくら双子だからといって、
いれかわりを おたがいに 了承するわけがない。
しかし、それまでにえがかれていたハットラのつよい精神力と、
ヨガにより さとりをひらきたいという 姉のねがいは、
このありえない いれかわりを可能にした。
あの姉なら、刑務所ですごす2年間を
(何件もの妨害工作をおこしながら、2年の実刑ですむらしい)
瞑想にひたる貴重な時間として、満足しながらすごすだろう。
ハットラにしても、自分は完全にただしいという自負があるので、
姉の提案を、ためらいなくうけいれられる。

ウクライナについたハットラは、養子となる女の子にあい、
おたがいに なにかひかれるものをかんじた。
この子といっしょに生きていこうと彼女はきめる。
女の子も、ハットラを自然にうけいれる。
町を洪水がおそい、かえりのバスがとちゅうでたち往生するが、
その程度の困難は、ハットラにとってなんでもない。
女の子をだきしめて、水びたしの道路におり、
ヒザまで水につかりながら、ハットラはしずかにあるきだした。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月22日

6月21日は「本能寺の変」の日。でも、やっぱり「ののちゃん」がわからない

きのうの「ののちゃん」(いしいひさいち・朝日新聞に連載)は、
キクチヒサヒコくんによる学級新聞だった。
タイトルは「本能寺の変」。
ものすごくちいさな字が、ぎっしりかきこまれていて、
老眼鏡とルーペにたよらなければ、わたしにはみえない。
そして、よんでみても、わたしには なんのことかわからなかった。
ヤボを承知で、全文をかきだしてみる。
・1コマ目
 見よ弥平次、叡山が焼けおちる。
 これで信長様は天下人じゃ。

 どういうことでしょう 光秀さま。

・2コマ目
 日本最大の圧力団体は『惣村並評 納税一本化一揆』、
 略して惣評だ。
 その惣評が寺社公家などの旧権威による
 重複徴税の解消を要望し、
 信長様が叡山焼き討ちの行動で 満額回答したのだ。

・3コマ目
 惣評の全面支援を受け 天下統一が成った時、
 信長様の目には さしずめわしは漢の功臣 蕭何(ショウカ)
 羽柴秀吉は韓信(カンシン)に見え、必ずや粛清される。

・4コマ目
 よいかっ たとえ10年待とうとも
 信長様がスキを見せたその時は、
 先手を打ってお命をいただく!

 心得ましたッ

なんどかよむうちに、ぜんたいの意味はなんとなくわかったけど、
それをなぜキクチヒサヒコくんが学級新聞にのせたのだろう。
ネットをみると、6月21日は、本能寺の変があった日らしく、
いしいさんは、2016年の6月21日にも
キクチヒサヒコくんによる学級新聞として、
「本能寺の変のなぞ」をとりあげている。
このときも、わたしはなぜいしいさんが
こんなはなしをいれたのか理解できず、
見当ちがいなことをかいている。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/439429578.html
きのうの「ののちゃん」も、歴史にくらいわたしには、
なぞだらけのはなしだ。
でも、これだけおなじ日に「本能寺の変」がとりあげられるのは、
それなりのわけがありそうで、
らいねんの6月21日がたのしみになってきた。
タグ:本能寺の変

posted by カルピス at 09:56 | Comment(0) | いしいひさいち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月21日

伊藤理佐さんと、両家の親たちによる「年が年なもんで」の神対応がすばらしい

朝日新聞に隔週で連載されている
伊藤理佐さんのコラムが いつもすばらしくおもしろい。
ほんとうに、はずれがないので、
伊藤さんの担当する週がまちどおしい。
こころのヒダの、こまかいところまで理解して、
ひととの関係を具体的に言語化する名人だ。
こんかいのタイトルは、「年が年なもんで」。

理佐さんとヨシダさんとの結婚式(ふたりとも再婚)から
はなしがはじまっている。
ただ、すんなり「結婚式」とはよんでない。
親、兄弟だけの顔合わせ食事会を小さく開いたアレは、12年前だ。

この、「アレ」がうまい。
「お互い2回目なんで1」
「年が年なもんで!」

なので、すなおにおいわいできる おめでたい結婚式ではなく、
かといって、なにもひらかないのはなんなので、
あいまいに「アレ」と、ゴニョゴニョっとごまかすのが
再婚をいわう結婚式の ただしい位置づけだ。

親どおしのはなしあいにより、
お中元とお歳暮のやりとりはやめようと きまったそうだ。
理佐さんも、母の日と父の日、それに誕生日には、
「贈り物なし」で、電話するだけを提案し、了承されている。
たしかに、年8回もプレゼントをおくるのは、
かなりめんどくさそうだから、
理佐さんにとって 気がかりな問題だったにちがいない。
当日の朝に電話すると
「忘れずにエライ!」
と、ほめられ、夜だと
「おまちしてました」
と、笑われ、一週間まちがえたりすると
「早い・・・」「遅いネ」
 なんていじけたフリをしてもうらうのだった。12年もやってると「型」っていうんですか?が、決まってきて、
「おとうさん(おかあさん)、元気でいてクダサイ」
「アリガトウ」
 なんて、最近じゃ「ワザと棒読み」がウケるまでに仕上がってきた。

ことしの父の日、理佐さんが電話するのをわすれていたら、
むこうの家から、ヨシダさんを経由して、催促の連絡があった。

ヨシダさんは、
「リサちゃん、電話するの忘れてるってよ」
 桐島、部活やめるってよ、の発音で。催促する、催促がくるまで、我ら一族は成長していた。二人の父に電話をした。父の日を忘れてなかった風で。心臓に毛が。ほら、年が年なもんで。

配偶者の家族とのつきあいは、
あんがいやっかいなものだ。
伊藤家とヨシダ家の親と子どもたちは、
いじけたフリをしたり、
「ワザと棒読み」をして、それがまたうけたりと、
12年のあいだに やわらかい関係をつくりあげている。
うわべだけの よそよそしいやりとりではなく、
なにかあっても いいほうに解釈して、
あたらしい家族の関係をたのしんでいる。
「年が年なもんで」と、いいわけしながら、
テキトーにやってる伊藤理佐さんは、すてきな大人だ。

posted by カルピス at 20:51 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月20日

『スモールハウス』(高村友也)せまい家でのみちたりたくらし

『スモールハウス』(高村友也・ちくま文庫)

高村友也さんは、3坪ほどの家を自分でたてた
(『自作の小屋で暮らそう』)。
これは、そのつづきみたいな本だ。
ちいさな家をたて、みちたりた気もちでくらしているのは、
高村さんだけでなく、世界じゅうに
おなじようなうごきがみられるそうで、
『スモールハウス』では、
それらの家をひとつひとつ紹介している。

この本をよんでいると、そういえば、
なんで家はあるていどひろくなければ、
まともなくらしでないと、
おもいこんでいたのか ふしぎにおもえてくる。
ちいさな家でも みちたりたくらしは実現できる。
お金のことをかんがえると、
たくさんの頭金をつみ、30年ものローンをくむのは、
かなりのリスクをせおうわけだし、
会社に自分の時間を提供すれば、
あとにのこる自由な時間は とうぜんとぼしくなる。
でも、ふつうのおとなだったら、
そうやって、おおきな、というか
ふつうの家を手にいれるのが、
あたりまえだとおもいこんでいた。
おもいこまされたのかもしれない。

わたしはいま、4.5畳と3畳の部屋を
くっつけてつかっており、
3畳のほうにベッドをおいている。
「寝室」なんてよぶのがおこがましいほど、
せまく ささやかで、ひとことでいえば貧乏な部屋だ。
まともなおとながねる部屋とはおもえない。
やっぱりおれは一人前のおとなではないのだろうと、
コンプレックスをかんじていた。
でも、『スモールハウス』をよむと、
家はせまくてあたりまえで、せまいほうが
環境への負担もちいさいのだから
だんぜんおすすめなくらしとなる。

映画のなかでは、登場人物が
おおきな部屋で、さまざまな家具にかこまれてねむっているけど、
それがふつうのくらしだと おもわなくてもいい。
ひとはひと。自分は自分。
ひろい家は、いわばぜいたくなくらしであり、
そのために自分の生活のおおくをささげれば、
かわりに手ばなさなければならないものがでてくる。

夜ねるときに、お酒をもってベッドにあがり、
よみかけの本をひらきながら ねるまでの時間をたのしむ。
部屋がせまいので、フセンやえんぴつは、手のとどく場所にあり、
メモをとるのにストレスがない。
『スモールハウス』をよむと、
自分のくらしも これはこれでわるくないとおもえる。

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2019年06月19日

ひさしぶりにみた旧シリーズの『ルパン三世』

せんじつ亡くなったモンキー=パンチ氏をしのぶ企画として、
テレビ版『ルパン三世』の旧シリーズが
シネフィルwowowで放映された。
なつかしさから、すきだったいくつかの話を 録画してみる。
48年もまえの作品なので、絵はさすがに雑で、
うごきもギクシャクしており、いまとなっては
ふるさをつよくかんじてしまう。
もちろん、ところどころにこまかなうごきもひかっており、
たとえば、「7番目の橋が落ちる時」のラストで、
ルパンがワルサーP38をうつときにはしびれた。
ワルサーを口でくわえてうしろへスライドさせ
弾倉からタマを薬室におくりこむ。
ひきがねをひくと、銃弾が発射されるとともに、
カラの薬莢がよこにはじきだされている。
子どもあいてに、そんなこまかなところまでえがいてくれたから、
のちに絶大な人気をあつめるようになったのだろう。
わたしが「ルパン三世」をみたのは 小学校4年生のときで、
しばらくは、主題歌でうたわれている「ワルサーP38」が
なんのことだかわからなかった。

「ルパン三世」のなにが、小学生だったわたしをとらえたのか。
いまとなっては想像するしかないけど、
ルパンとその仲間たちが、
たのしんで生きているようすそのもの だったのではないか。
もちろんドロボーはわるいことだけど、
ルパンたちがたくみに警察をあざむいて、宝石や名画をぬすむとき、
あそびごころをみたされる爽快感がある。
地道にコツコツ努力しなさい、なんていいたがる
親や先生の価値観とは、まったくちがう生き方をしているルパンたち。
かっこよさとはなにかを、おしえてくれたような気がする。
もっとも、10歳のとき ルパンにであったからといって、
わたしがすすむ道を大胆にかえたわけではなく、
そのあともさえない自分をひきずったまま、
きわめて平凡なおとなになってしまった。

旧シリーズ『ルパン三世』の8年後につくられた
『ルパン三世 カリオストロの城』は、
40年まえの作品とはいえ、
すでに絵やうごきが完成されている。
いまつくられている作品とくらべても、
まったくふるさをかんじないのは、
それだけたかいレベルにたっしていたからだろう。
この8年間は、アニメーションの世界における、
ターニングポイントだったのではないか。

ルパンがのっていたフィアット500のあたらしいモデルが
2007年から発売されている。
ふるいフィアット500の雰囲気をたもっており、
町でみかけると、つい目をうばわれる。
ユーザーのどれだけが、ルパンの車として
フィアット500をえらんでいるのだろう。
クラリスがのっていた、シトロエン2CVも
あたらしいモデルがでたらうれしいけど、
ガソリンエンジンが みとめられなくなる いまのご時世では、
ああしたデザインの復活は もうのぞめそうにない。
もうすぐ電気自動車ばかりの時代となり、
げんきにはしる むかしの車は、
ふるい映画のなかでしかみられなくなりそうだ。
タグ:ルパン三世

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2019年06月18日

トゥーロン国際決勝戦 日本対ブラジル ねばりづよくたたかった日本

トゥーロン国際決勝戦、日本対ブラジルをみる。
ブラジルがおおくの場面でうまさをみせつけるものの、
日本はひいてまもるのではなく、
攻撃をくみたてて せめこんでいた。
ただ、ボールをすぐにとられてしまうのが、
さすがブラジルだ。

「さすがブラジル」。
サッカーを、すこしでもしっていれば、
サッカー王国ブラジルのイメージが強烈すぎ、
あたまから かてるわけがない相手として
必要以上にリスペクトしてしまう。
でも、日本のわかい選手たちは、
ブラジルを相手に ぜんぜん気もちでまけておらず、
1対1でも勝負をいどんでいた。
なによりも ひいてまもってカウンター、ではなく、
ボールをつないでゴールにせまろうとする。
これまでにみた日本対ブラジル戦のなかで、
U-22のこの試合が、もっともブラジルと互角にやりあっていた。

日本の選手たちは、だいじなところでパスミスをしたり、
相手にボールをとられても、ぜんぜんめげない。
あきらめずにボールをおいかけ、もういちど攻撃をくみたてていく。
守備のねばりづよさも驚異的だった。
後半にはいると、ブラジル選手たちは
あきらかに日本のまもりに手をやき、あきれてさえいた。
ボールをうばってせめこんでも、
いつまでもげんきにはしりまわる日本の選手たちが、
さいごのところをしっかりまもってしまう。
自分たちは、いつものようにちゃんとせめこんでいるのに、
どうしてもゴールをわれない。
「なんでだ?」と、つかれはて ぼうぜんとするブラジルの選手たち。

結果としては、1-1で90分をおえ、
PKにうつってから 4-5でやぶれてしまったけど、
選手たちは、とてもすばらしいたたかいをみせてくれた。
とくに後半は、日本がおしている場面もあり、
勝利にあたいする内容だったといってよい。
たのもしい選手たちがそだっているのを まのあたりにして、
これからの日本代表がたのしみになる。

posted by カルピス at 21:54 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月17日

母親の腰のいたみから、介護がリアルにせまってきた

同居している88歳の母が、腰のいたみをうったえてきた。
ヒビがはいってるような気がする、という。
もともと骨粗鬆症を診断されており、
カルシウムの錠剤をのんだり、
ヨーグルトや牛乳をたべたりしていた。
年をとると、カルシウムの吸収がわるくなるそうで、
いくらとりいれても、それにみあうほど
骨が丈夫になるわけではないようだ。

わたしが半年まえに足をいためたとき、
お世話になった病院へ 母をつれていく。
母が自分でみたてたとおり、
骨にヒビがはいっているのだという。
くわしい診断は、もっとおおきな病院で、といわれ、
いたみどめの薬が処方される。
ひとまずこれでしのげたか、と安心していたら、
だされた薬が母にはつよすぎた。
いたみはきえないし、食欲がなくなるしで、
ほんとの病人のようになってしまった。
あるくのもつらそうで、壁に手をついて、
やすみやすみでないとうごけない。

いっきょに母の介護が リアルな現実になってきた。
このままうごけなければ、入院するしかないし、
もしかしたら、そのままねたきりになるかもしれない。
病院での入院だと、ながくみてもらえないので、
そのあとは、介護施設をさがすことになるだろうか。
親の介護をきっかけに、こどもたちが
仕事をやめるはなしをよく耳にするけど、
こんなにはやく、わたしもそのなかまにはいるとは。
仕事にみれんはまったくないけど、
かといって、親の介護のために仕事をやめると、
不満がたまり、母親にむけてひどい対応をしそうだ。
老後にむけた準備だって、じゅうぶんにできてないので
(いま話題になっている2000万円なんて、問題外だ)、
わたしの老後全体が危機をむかえかねない。

さいわい、母がきょう もういちど病院へいくと、
電気をあてる治療をうけ、座薬もだされ、
だいぶらくになったという。
夕ごはんをいつもの半分くらいたべられたし、
お風呂にもひとりではいれた。
なんとか最悪のシナリオはとおざかったようだ。
ただ、いたみがおさえられといっても、
骨のヒビがなおったわけではないので、
これからだんだんと、状況はわるくなっていくだろう。
母がひとりでうごけなくなったとき、
家でどれだけみられるか。
わたしの 気らくな生活は、かなりの部分、
母の状態しだいというのがわかってきた。
88歳まで生きたのだから、
もうじゅんぶんでしょ、ともおもうけど、
だからといって、治療や介護をうけないわけにはいかない。
こんなふうに、だれもがズルズルと
親の介護にひきこまれていくのかと感心した。
予行練習ではなく、これは実質的な介護のスタートと、
自覚したほうがいいのかもしれない。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月16日

サボる理由をさがさない

たのしみにしている日記風のブログをよんでいたら
「一休みしたかったがサボる理由もないので」
ジョギングに出発した、というはなしがのっていた。
わたしもよく「サボる理由」をさがしたものだけど、
いまではなにもかんがえず はしりだすようにしている。
はしりるのが たのしみな日などあまりなく、
ほとんどの日は「めんどくさい」「できればやめたい」
という気もちが頭のなかをしめている。
かんがえはじめると、やめる理由をみつけだしてしまうので、
時間がきたら、自動的にはしりだす。

このひとのように、「サボる理由もないので」
はしれるひとはいいけど、
わたしのこころはもっとよわい。
体調やら天気やら時間やらを理由にしていると、
はしれる日なんかなくなってしまう。
それに気づいてからは、はしるかはしらないかを
からだに相談するのはやめた。
一週間のトレーニング予定をたて、
あとはしゅくしゅくと その予定にそって
はしったり、およいだり。
大雨がふっていたらとりやめるけど、
小雨くらいだったらはしる。
どうしようかなんて かんがえないのがいちばんだ。

水泳も、金曜日の午後はプールへいくときめ、
つかれていたり、プールがこんでいても、
とにかくチケットをかって、水着にきがえる。
プールへいくまえは気がのらないときでも、
きがえてしまえば あとはおよぐしかない。
とくにハードなメニューをこなしているわけではないので、
ゆっくりおよぎだせせば、あとはもうおわったようなものだ。

ほんとうにつかれていて、やすみが必要なときは、
自分のからだが ちゃんとおしえてくれる。
やすもうか、はしろうかを、かんがえるくらいの体調なら
からだをうごかしても大丈夫だ。

仕事でなにか あたらしいとりくみをはじめるときも、
やらない理由をさがしていたら、
いつまでたってもはじめられない。
やるかやらないかは、あらかじめきめておき、
あとは、それをどう「よりよく」実行するかをかんがえる。
情報をあつめ、そのうえで やるかやらないかをきめるのは
いっけんもっともらしいけど、きっとなにもすすまない。
「サボる理由もないので」はしれるひとは、そんなにおおくない。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月15日

女子W杯 日本対スコットランド 2-1で日本

女子W杯グループリーグD組
日本対スコットランド 2-1で日本

2011年の女子W杯ドイツ大会で、
日本が優勝したのはすでに8年まえとなった。
アメリカとの決勝戦で、宮間のコーナーキックを、
居合ぬきのように澤がきめたな場面は、
おもいだすたびに、いまでも胸があつくなる。
今大会に、宮間・澤の姿はなく、川澄もえらばれなかった。
阪口もケガでグループリーグにはまにあいそうにない。
優勝を経験しているメンバーでは、
熊谷がチームキャプテンをつとめるようになり、
鮫島も左のサイドバックとして健在だ。

グループリーグ 1試合目のアルゼンチン戦で、
まさかのスコアレスドローにおわった日本は、
この試合にどうしてもかたなければならなくなった。
日本は試合開始から、積極的にプレスをかけていき、
選手間の連携もよく、ゴールにせまっていく。
長谷川にかわり、スタメンとしておくりだされた岩渕が、
前半23分に、みごとなシュートをきめる。
ずっと得点をあげられなかった日本は、
これで気もちがらくになる。
そのあとも、菅沢がたおされてのPKで、
菅沢がみずからおちついてきめる。2点目。

このまま日本のペースですすむかとおもえたけど、
後半にはいると、スコットランドはべつのチームになった。
とくに20分をこえてからは、日本はずっとおしこまれていた。
サイドからくずしてきて、ぶあつい攻撃で日本のゴールにせまる。
日本は、なんどかゴールまでボールをはこべたものの、
シュートへの意識がひくく、もたついているあいだに
チャンスをつぶされてしまう。
試合終了まぎわ、パスみすから日本は相手にボールをわたしてしまい、
そのままシュートをきめられた。
相手の時間帯になったとき、バタバタしてしまうのは、
わかい選手が中心になった いまのチームの 弱点かもしれない。

つぎは、日本よりランクがうえの、イングランド戦がまっている。
気もちでまけないよう、そして点をいれられてもあわてずに、
日本らしい全力でのプレーを期待したい。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月14日

『夜廻り猫』むつかしいモネにごはんをすすめるお父さん「よし食べた!」がいいかんじ

『夜廻り猫』(深谷かほる)

『夜廻り猫』の第530話で、
なにかとむつかしいことをいうモネに、
お父さんとお母さんが夕ごはんを準備している。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/561/1
「モネ ほーら お母さんがキスさばいて
 ゆでてくれたぞ 食べなさい」
とすすめても、モネはそっぽをむいたままだ。
でも、お父さんは、
「だめか」と かるくながす。
想定ずみだったように ぜんぜんめげない。
すぐにサジをとりだして、キスの身をすくってたべさせる。
「はい あーん よし食べた! いい子だ!」
「モネはたべるのも うまいなあ
 よーし じゃ ブロッコリもちょっと食べよう
 よし食べた!」

この、「よし食べた!」がいいかんじ。
ネコがごはんをたべてくれないと、
からだがどんどんよわってくるので、
食事をすすめるのは、家族にとってたいせつな仕事だ。
はげましながら つきそっていると、
すこしでもたべてくれたら、おもわず声がでる。
こんなふうに、ピピのそばについて
声をかけていたころをおもいだした。
モネは、目をつりあげ、口をへの字にまげ、
いつも めんどくさい注文をつけてばかりいるのに、
お父さんとお母さんは、
できるかぎりモネのいうことをききいれる。
無理難題をもとめるのが、モネの仕事なのだ。

お母さんはテンプラをあげてるうちに
お腹がいっぱいになり、
お父さんは、モネに食べさせているうちに
お腹がいっぱいになる。
食がすすまないふたりをみて、
モネは
「だめでしょ 食べなきゃバテるよ
 ふたりとも ほら たべなさい!!」と
目をつりあげて しかりつける。
モネだって、お父さんとお母さんを
心配する気もちがとてもつよい。
モネにふりまわされながら、
この一家は、これはこれで、うまくまわっている。

窓のそとには、一家をみまもる遠藤さんが ほほえんでいる。
「モネ はたらいておるな」
遠藤さんは、モネの役割をよく理解して、
モネならではのかかわりかたに満足そうだ。
それぞれの家のネコが、それぞれのやり方で、
家族がうまくいくように とりはからっている。

posted by カルピス at 21:18 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月13日

日本人はなぜ年齢に異常な関心をもっているのか

梅棹忠夫さんの『モゴール族探検記』(岩波新書)をよんでいたら、
年齢にたいする日本人の関心のつよさがでていた。
 わたしが、自分の年もしらんとは、なんということかとおどろくと、アーマッド・アリは、そんなことはあたりまえじゃないか、といった。都会の人間で、教育をうけたものなら、自分の年をしっているが、いなかの無教育な農民が年をしらぬのは当然だ。日本でもそうじゃないか、という。わたしはおどろいて、日本では、だれでもしっているというと、
「そもそも、いったいどうして自分の年をしることができるのか?」
と反問するのだ。(中略)
「あなたがたは、年齢というものに、なにか異常な関心をもっているにちがいない」

1955年におこなわれたアフガニスタンでの探検で、
梅棹さんは年齢について かんがえさせられている。
おそらく『モゴール族探検記』がかかれる もっとむかしから、
日本人は年齢につよい関心をむけてきた。
日本文化の ひとつの特徴といってもいいかもしれない。
日本では、しりあって間がないひとにたいしても、
わりとすぐに年齢をきく。
年をきいたから、どうなるものでもないとわかっていいながら、
日本人は関心をもたずにはおれない。
いまにはじまった価値観ではないのだから、
きっと江戸時代や明治時代に生きたひとたちも、
年齢につよい関心をしめしていたのだろう。

ただでさえ年齢がだいじな文化なのに、
寿命がのびて、さらにややこしくなった。
50歳で死んでいた時代と、平均寿命が80の現代では、
年齢に対するこころがまえがまるでちがう。
30年もながく年のことを気にしつつ生きるのだから、
年齢についての関心が どんどん煮つまってくる。
ひとつのいきさきが、アンチエイジングであり、
実年齢よりもわかくみられたいというねがいを
おおくのひとがくちにする。

わたしもまた、自分が中高年としりつつも、
高齢者に分類されるのは、あんまりではないかと
自分のことを棚あげしたがっている。
客観的にみれば、高齢者と、
はっきりひたいにハンコがおされているのに、
意識はまだ30代のころをひきずっている。
ふとした瞬間に 鏡にうつった自分の顔をみて、
こんなに年をとった事実をつきつけられる。
自分の顔をみておどろくのは、
もっとわかいつもりのあらわれだから、
ずうずうしいはなしだ。
それもこれも、日本人特有の文化と
いいわけさせてもらいたい。

なぜ日本人が年齢につよい関心をしめすのか、
そして その起源は、どこまでさかのぼれるのだろう。
わたしがうまれるまえにおこなわれた探検で、
すでに日本人は年齢に対して
つよい関心をしめしていたのが興味ぶかかった。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月12日

『ぼくはレース場の持主だ!』おもいこむ少年を、仲間たちがみまもる

『ぼくはレース場の持主だ!』
(パトリシア=ライトソン・猪熊葉子:訳・評論社)

アンディがいっしょにあそぶ少年たちのあいだで、
町にあるいろいろなもの、
たとえば材木おき場とか公会堂などを、
自分のもちものにする あそびがはやっていた。
もちろんじっさいのもちぬしになれるわけがなく、
ただそうきめて、もちぬしになったつもり、のゴッコあそびだ。
ただ、アンディだけは、このあそびの意味がわからない。
アンディは、かるい知的障害があり、
それらがほんとうはだれものものでもなく、
ただあそびで もちぬしだといっているだけ、という
所有の理屈が理解できない。

ある日、競走馬のレース場にあそびにきていたアンディは、
「ぼくこの場所の持主だったらいいんだがなあ、」

とゴミひろいをしていた老人にはなしかける。
老人は、
「面倒ごとばかりさね、ここはな。ほしけりゃなんなら安く売ってやろうか。」(中略)「三ドルでどうかね?新札でな。こいつは買物だぜ。わしはずっと手ばなすことを考えてたのさ」

とはなしをあわせてきた。もちろん冗談だ。
でもアンディは、すっかり老人のはなしをしんじこむ。
貯金箱にあった2ドルに、おおいそぎでかせいだ1ドルをたし、
3ドルを老人にしはらった。

アンディは、友だちをレース場につれてゆき、
ここを自分がかったと 得意そうにはなす。
「これ、おれのなんだよ、」アンディは説明した。「買ったのさ。」(中略)「ぼくはビーチャム公園をもってるんだ!」アンディは勝ちほこったように叫んだ。

仲間の少年たちは、だれかがアンディをだまして
3ドルまきあげたのをしる。
そして、すっかりその気になったアンディをみて、
事態の深刻さに気づいた。
ここのもちぬしは、ほんとうはアンディではないと、
どうやったらアンディに、わかってもらえるだろう。
アンディの仲間たちは、
アンディがすこし理解のたりない少年であるとしりつつも、
アンディがすきで、これまでじょうずにつきあってきた。
アンディにちょっかいをかけるようなものをゆるさない。
「あいつはいい奴だ。」ジョーはいった。「友だちがたくさんいてもふしぎじゃないよ。」「そうだな。」マイクが賛成した。四人はお互いに本気でうなずきあった。「アンディ・ホデルの気を悪くする奴があったらおれたちが承知しないぞ。」

レース場のもちぬしだとおもいこむアンディにたいし、
少年たちはあたまからアンディを否定せず、
なんとかいい方向へ事態がすすむようにはたらきかける。
アンディのよさをまもろうとする彼らもすばらしいけど、
アンディもまた彼らの気もちを尊重し、
おたがいにいい関係をたもとうとする。

レーズ場の職員たちは、
自分がここのもちぬしだあるというアンディをおもしろがり、
からかって「ボス」「持主」ともちあげる。
アンディは、「持主」としてレース場にではいりできるようになり、
やがて事件がもちあがった・・・。

障害者がでてくるものがたりは、
バカにされたり、仲間はずれだったり、
つらい目にあう子どもたちがおおいけど、
この本は、アンディの気もちのよい性格に
まわりがひきこまれて すっきりした結末をむかえている。
所有にたいする理解は、なかなかむつかしく、
アンディがかんちがいしながら、しあわせな気もちになるようすを、
猪熊葉子さんがじょうずに訳している。
アンディと仲間たちの、おたがいをおもいやる関係がすてきだ。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月11日

「島根は、もう本気出しつくしました」すべての競争からおりた島根県になにがみえるか

仕事がらみで 島根県のおみやげをうっているお店へいったら、
吉田くんのTシャツが2枚おいてあった。
とうぜん自虐ギャグがかかれている。
・島根は、もう本気出しつくしました。
・妖怪が多いのが鳥取で、
 神様が多いのが島根です。

「2400縁」はたかいのでかわなかった。

「島根は、もう本気出しつくしました」
は、みなれた自虐ギャグと すこしちがう。
いつもだと、島根の過疎ぶりを強調するのだけど、
「もう本気出しつくしました」は、
さらに一歩ふみこんで、虚無の空気感にみちている。
これまでさんざんがんばってきたけど、
なにをやってもだめでした。
もうつかれてうごけません。まけました、と
かわいたこころで白旗をあげているのが
「島根は、もう本気出しつくしました」だ。
くやしさやかなしみの段階は ずっとまえにおえ、
いまや仙人の境地にたっしたのが 島根県といえるだろう。

ゆるキャラの人気をきめる投票がおこなわれたり、
都道府県や市町村が地元をPRするのに、
あれやこれやと手をつくしている状況は、
がんばるげんきのない市町村にとって、
負担がおおきく、とてもつかれてしまう。
もうそんなげんきもないと、
たたかいのスタートラインにつくことさえ放棄し、
順位をあらそう競争なんてどうでもいいから、
観光客もそんなにこなくていいから、
うちらはこのままひっそりやっていきます、という
宣言にわたしはうけとめた。

犬だったら おなかをだして
無条件降伏のポーズをとっているのが
「もう本気出しつくし」た島根県であり、
自虐をこえた無為の境地への変化がかんじられる。
儒教から 老子のおしえへの きりかえが
島根ではすすんでいるのではないか。
市町村PRの競争から、島根県は はやばやとおりた。

ところが、ややこしいことに、
逆説的にいうと、それもまた戦術となりえる。
ガイドブックにのらないことが、
いちばんの宣伝になる時代であり、
競争からおりた島根県にこそ、
世界の注目があつまるかもしれない。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする