2019年06月10日

クールジャパンがとりあげていた「筋肉」

クールジャパンが筋肉をとりあげていた。
内容は、細マッチョと腹筋女子、
それに筋トレをささえるサラダチキンだ。

日本はいま空前の筋肉ブームなのだそうで、
ジムにかようひとが10年まえの1.6倍にふえているという。
なぜ、筋肉をもとめるようになったのか、
番組がとりあげた材料だけではよくわからない。
女性が筋トレをはじめるようになったのは、
自分をみつめなおすうごきの延長にあると
外国人女性のゲストが指摘していた。
われた腹筋を、ひとにみせたいから筋トレにはげむのではなく、
男性からかよわい存在とみられるのをこばみ、
ありのままの自分をたいせつにする
ポジティブムーブメントとしての筋トレだ。

細マッチョということばがつかわれるようになったのは、
せいぜい10年まえくらいからだろう。
筋肉ブームのなかからうまれた、というよりも、
細マッチョな肉体をめざしての筋肉ブームではないか。
それまでは、マッチョか草食系かの2種類しかなかったのが、
このふたつをたして2でわった細マッチョという体型が、
注目されるようになる。
マッチョはやりすぎで はずかしいけど、
ガリガリもさみしいので、
細マッチョくらいがちょうどいい、
というバランス感覚が日本人にはある。

番組では、町をいきかうひとたちに
このみの体型をたずねていた。
マッチョと草食系をくらべたら、
おおくの女性がマッチョをえらんでいる。
ただ、この選択肢に細マッチョをくわえると、
日本人女性はこっちにながれがちだった。
外国人は、女性だけでなく男性も、細マッチョを評価しない。
細マッチョは日本的な概念であり、
外国ではふつうの体型にすぎないと
スタジオのゲストがはなしていた。

日本には、筋肉バカみたいなイメージがあるけど、
外国ではそういう発想は80年代でおわり、
筋肉がストレートに肯定されているそうだ。
たくましいからだにきたえ、維持できるほどの
自己管理ができているひと、という評価だ。
日本でも、筋肉にたいするイメージが
むかしとかなりかわったのかもしれない。
NHKが「みんなで筋肉体操」をやるうごきも、
こうしたながれの一部なのだろう。
以前は、かぎられ数のものずきが 筋トレにはげんでいたけど、
いまはアスリートでもボディビルダーでもないのに
筋トレにとりくむ。
ブームとは、そういうものだ。

わたしのこのみをいうと、
ずっと水泳をしてきたせいか、
スイマーの体型が理想となる。
ほっそりしたからだに、うすく脂肪がついている。
男らしい、というよりも、中性的なうつくしさがすきだ。
これは、女性にたいするこのみにも共通している。
女性らしいしぐさやスタイルより、
中性的なプロポーションがのぞましい。
だからどうした、というわけではないけど。

posted by カルピス at 21:56 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月09日

「午後の最後の芝生」(村上春樹)は、わかれた恋人についてかかれていた

「午後の最後の芝生」(村上春樹)

それまでつきあっていた恋人が、
「僕」のところへ手紙をおくってきた。
手紙には、わかれてほしいとかかれている。
それまで芝かりのアルバイトをしていたけど、
すこしまとまったお金がたまっており、
恋人とわかれると、そのつかい道がないと気づく。
これ以上お金をかせぐ必要がなくなったので、
「僕」は芝かりのアルバイトをやめようときめる。
タイトルにあるように、この小説は、
最後の芝かりとして仕事をした、
すこしかわった家でのできごとがかかれている。

わたしはずっと、家の主人である中年女性にひっぱられて、
彼女のうごきばかりが気になっていた。
ぶっきらぼうで、ちょっとかわったしゃべり方をする女性だ。
彼女は昼まえからウィスキーやら
ジンのソーダわりやらをのんでいる。
「僕」が芝かりをおえると、彼女はていねいな仕事ぶりをほめ、
「中に入んなよ」と女は言った。「外は暑すぎるよ」

と「僕」を家にあげる。
そして、娘がつかっていたとおもわれる部屋に案内し、
洋服ダンスをあけさせ、ひきだしもあけさせ、
「どう思う?」
とたずねてきた。

中年女性がかわっているし、
むすめの洋服ダンスをあけさせるなんて、
はなしのながれもどこかふつうじゃない。
でも、なにかふかい余韻をかんじさせ、
わたしがすきな短編小説だ。

芝かりをおえ、さいごのチェックをしているときに、
「僕」は恋人からとどいた手紙をおもいだす。
「あなたのことは今でもとても好きです」と彼女は最後の手紙に書いていた。「やさしくてとても立派な人だと思っています。これは嘘じゃありません。でもある時、それだけじゃ足りないんじゃないかという気がしたんです。どうしてそんな風におもったのか私にもわかりません。それにひどい言い方だと思います。たぶん何の説明にもならないでしょう。十九というのは、とても嫌な年齢です。あと何年かたったらもっとうまく説明できるかもしれない。でも何年かたったあとでは、たぶん説明する必要もなくなってしまうんでしょうね」

わかれをきりだすときの、お手本みたいな手紙だ。
相手がわるいのではなく、自分のせいでもない。
どうしようもないのがつたわってくる。
でも、内容としてはかなりきびしい。
こんなことを もしわたしがいわれたら、かなりがっくりきそうだ。

中年女性の家をでた「僕」は、かえるとちゅうに
恋人からの手紙のつづきをおもいうかべる。
「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」と恋人は書いていた。「私は自分が何かをもとめられているとはどうしても思えないのです」

さいごの芝かりについてかたりながら、
この小説は わかれた恋人のことがかかれている。
芝かりのすすめ方、中年女性との会話、
家にあがり、洋服ダンスのなかをみても、
おもいだすのは恋人のことだ。
未練がましいといっているのではない。
だれだって 「僕」みたいに日常生活をおくりながら
恋人にいわれたあれこれを おもいだす。
僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う。最初に機械で芝を刈り、くまででかきあつめ、それから芝刈ばさみできちんと揃える--それだけなんだ。

それだけでいいと、わたしもおもう。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月08日

デイリーポータルZの「雑な雑学」がおかしい

デイリーポータルZで連載ちゅうの企画、
「雑な雑学」がおかしい。
https://dailyportalz.jp/kiji/zatsu_na_zatsugaku02
正確なタイトルは、
「雑に発表された雑な雑学まとめ」となっている。
トルーさんがおもいついた企画で、
「真偽のほどに自信がない、大事なところを覚えていない、深く聞かれると困る、そんな雑な雑学はありませんか?」と呼びかけたところ、完全でない愛くるしい情報たちがたくさん集まった。

雑学は、ほんらい「雑」な情報という意味ではないはずで、
そんなことはわかったうえで、あえて「雑」とからめたとこに
この記事のおもしろさがある。
なかにはたしかに雑学っぽい、というのもあるけど、
だんだん論点がボケてきて、
いったいこのひとは「雑学」をどう解釈してるのだろうと
不思議な気がしてくる。
いかにもデイリーポータルZらしい記事かもしれない
(あいまいで雑な表現)。

・「やはり」を「やっぱ」と言うのを広めたのは、
 ピンク・レディー。
・品川駅は港区
これらはまだかわいいほうの「雑学」で、
・喉が乾いた時に飲むビールは
 本当に美味しい
・カステラは、切った方がうまい
 (丸かじりするとおいしくないです)
・鍋をすると春菊を入れるタイミングで揉める
くらいになると、「雑」度がかなりたかくなる。

トルーさんによると、投稿された「雑学」は
いくつかのタイプにわかれるそうで、
いかにも雑な雑学は、ソースがあいまいなものがおおいそうだ。
そういえば、「雑学」ばかりくちにするひとがいる。
「雑な雑学」として ききながせば イラつかないですむ。

posted by カルピス at 20:47 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月07日

「中学の時に好きになった女子が忘れられない」パターンに 岡田斗司夫さんが「『恋』ではなくて『呪い』です」

朝日新聞の土曜日版beに「悩みのるつぼ」という相談コーナーがある。
先週は、中学の同級生がわすれられず、勉強に集中できない、という
男性の浪人生から相談があった。
回答者は岡田斗司夫さんだ。

岡田さんは、
それ、「恋」ではなくて「呪い」です

とこたえている。
「ずっと彼女や彼氏がいない人たち」の特徴というかパターンを見つけました。特に男性に多かったのが「中学の時に好きになった女子が忘れられない」です。
 彼らのほとんど全員が口を揃えて「友達のいなかった自分に話しかけてくれた」と言っていました。

 この仕組みを説明して「だから忘れた方がいいですよ」と説明してあきらめてもらう。(中略)
 しかし「それでもあきらめない」という人は、いまだに「ずっと彼女がいないまま」という状態が続いています。
 この「一途に思い続ける」という人たちを説得するのは事実上、不可能です。彼ら彼女らは普通のひとより純粋で、自分への損得で行動を変えないからです。

わたしは、はなしかけてくれたり、
やさしくしてくれた同級生がいなかったせいか、
さいわいにも、わすれられない存在に
ふかくなやまされたりしなかった。
また、「普通の人より純粋」ではなかったので、
なんとなく結婚し、家庭をもてた。
相談者のように、初恋のしくみを説明され、
「『恋』ではなくて『呪い』」といわれても、
中学の同級生をあきらめられないとは、
なんとかならないものかとおもう。
しかし、なんとかならないから、
40になっても恋愛ができないわけで、
「呪い」のつよさはかくべつだ。

岡田さんからの処方箋は、
わすれらないものは、どうしようもないのだから、
そうした気もちでもうかるように志望校のランクをおとし、
バイトも仕事も「集中できない自分」を前提にえらぶ、
というきわめて現実的な内容だ。
中学のときに声をかけられたばかりに、
わすれられない存在となり、
大学やバイト、仕事えらびにまで影響をおよぼすのだから、
「呪い」にとりつかれたら、かなりあぶない。
彼女のことで頭がいっぱいになるなら、そのままで結構。頭がいっぱいでも出来ることだけ努力して、「呪い」が去るのを待ちましょう。

「呪い」のさる日がくるだろうか。

posted by カルピス at 21:14 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月06日

「納屋を焼く」の「僕」は、キロ4分22秒のペースではしる

村上春樹の短編「納屋を焼く」をよんでいたら、
主人公の「僕」が、7.2キロを31分30秒ではしっている。
なんのことかというと、
家にあそびにきた青年が
「時々納屋を焼くんです」と、脈絡なくきりだした。
33歳の「僕」は、つぎにどの納屋をやくのか、
もうきめているかとたずねる。
青年は、きめてあり、この家の近所だとこたえる。
そこで「僕」は、どの納屋がやけるのかをチェックしようと、
近所にある5つの納屋を 毎日みまわりはじめる、
という不思議なはなしだ。
僕は毎朝どうせ六キロは足っていたから、一キロ距離を増やすのはそれほどの苦痛ではない。
「納屋を焼く」短編集『象の消滅』(2005年)から

そのコースが7.2キロであり、それを31分30秒ではしるという。

7.2キロを31分30秒といえば、1キロが4分22秒で、
ランニングとしては かなりはやいペースだ。
フルマラソンのトップランナーたちは、
1キロ3分ペースで 42キロをはしるのだから、
それにくらべればおそいとはいえ、
市民ランナーとしては かなりのレベルといえる。
もしこのペースでフルマラソンをはしると、3時間をすこしきる。
いわゆるサブスリーで、ここまではしれるのは、
ランナーの3〜5%にすぎない。
もちろん、ランニング愛好家のなかには、
もっとはやくはしるひともいるだろうけど、
ちょっとジョギングに、という
気分転換や健康づくりをこえたスピードの設定だ。
もし町をキロ4分22秒のペースでランニングするひとがいたら、
ひとさわがせなスピードに まわりが迷惑するだろう。

村上さんは、ご自身もランナーとして
毎日はしっているし、レースにも参加されている。
キロ4分22秒がどれだけのペースなのか、
かんがえずにかいているはずがない。
村上さんのフルマラソンのベストタイムは
3時間半ほどなので、キロ5分のペースとなる。
納屋のみまわりは、1周7.2キロとはいえ、
自分よりもはるかにはやく「僕」にはしらせて、
村上さんはなにをつたえようとしたのか。

新潮文庫におさめられている「納屋を焼く」(1987年)をみてみると、
僕は毎日朝と夕方に六キロずつのコースを走っているから、一キロずつ距離を増やすのはそれほどの苦痛ではない。

となっていた。
2005年に出版された「納屋を焼く」は朝だけだったみまわりが、
さらに夕方もはしっているので、
ますます市民愛好家レベルのランナーではなさそうだ。
一ヶ月間、そんな風に僕は毎朝同じコースを走りつづけた。しかし、納屋は焼けなかった。

おなじ新潮文庫版なのに、すこしあとでは
「朝と夕方」が「毎朝」にかわっているし、
ものがたりのおわりにも
僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。

とある。
朝と夕方はしっていた習慣が、
いつなくなったのかは ふれられていない。
ここらへんのばらつきは、なにかわけがあるのだろうか。

週に4日ほど、キロ7分のペースで7.5キロはしっているわたしは、
「納屋を焼く」の「僕」が、
なぜこんなにはやくはしれるのか、納得できない。
わたしには縁のないスピードで、
のろまなランナーは ひがむしかない。

posted by カルピス at 23:07 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月05日

トリニダード=トバゴあいてにスコアレス=ドロー

国際親善試合、日本対トリニダード=トバゴ 0-0

きいたことはあるけど、どこにあるのか正確にはしらない国、
トリニダード=トバゴ。
地図をみると、南米ベネズエラ沖にうかぶちいさな島だ。
トリニダード島とトバゴ島からなる共和国という。人口は134万人。
そのちいさな国を相手に、
日本はまさかのスコアレス=ドローをえんじてしまった。

日本のスタメンに、中島と大迫、長友が名をつらねる。
右サイドバックは酒井宏樹だ。
もう実力がわかった選手たちを、
森保監督はなぜつかったのだろう。
大迫と中島の相性をみたかったせいかもしれない。
システムは、森保監督になってはじめて 3バックがとりいれられた。
日本がせめあぐねたのは、システムにふなれなだったせいだ。
いろいろためせる試合なのだから、3バックでもおかしくないし、
まだ代表経験のあさい選手たちに 機会があたえられたのは評価したい。

試合開始から、日本は圧倒的にボールを支配する。
相手の選手たちは、からだがつよく、背もたかいけど、
さほどテクニックがあるようにはみえない。
ゴールまえにひいて、カウンターをねらっている。
日本は、中島がたてつづけにシュートをはなつけど、
相手ゴールキーパーがさえていたせいもあり、得点をうばえない。
後半にはいっても、ながれはかわらなかった。
サイドからクロスをあげても、
背のたかいトリニダード=トバゴの選手たちに
ぜんぶはねかえされてしまう。
後半に、南野と原口がはいってからは、
攻撃が活発になったけど、シュートがことごとく
相手キーパーにふせがれる。
ひいてまもる相手をくずせないのは、
日本代表によくある試合だ。
そのうえ、相手のキーパーがさえていた。
つよいシュートがキーパーの正面だったり、
スーパーセーブもいくつかあった。
日本は、運がなかったともいえる。
ことごとくゴールにきらわれてしまった。

からだがつよく、背のたかい選手たち。
そんな相手が極端にひいてまもると、
わかっていても、なかなかくずせない。
W杯予選にむけた準備としては、いい相手だったのではないか。
それにしても、スコアレス=ドローとは。
後半の終盤にはいると、相手の選手たちは足がとまっていた。
それでもさいごのところでゴールをうばえない。
あぶない場面をつくられていたので、
日本は、まけなくてさいわいだったかもしれない。
もうひとつ、トリニダード=トバゴが
どこにあるのかを しれたのも、数すくない収穫だった。

posted by カルピス at 22:23 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月04日

朝日新聞の「声」欄にのった「新聞大好き」氏がすごい

朝日新聞の「声」欄(読者からの投稿欄)に、
新聞にすべてをささげている男性が おもいをよせている。

「新聞が大好きです」ではじまるその投稿は、
新聞への愛にみちており、胸があつくなった。
なにしろ、新聞をよむのがすき、ではなく、
「新聞が大好きです」なのだから、
新聞という存在そのものに対する愛の告白だ。
これは、あげ足をとっているわけではなく、
あとにつづく文章をよむと、
一般的な新聞愛好者の「すき」とはちがい、
かなり屈折した感情がうずまいているのがわかる。

かきだしのあとを つづけて引用する。
とにかく睡眠中と仕事中以外は「どこでも新聞」状態で、この40年ほど食事中はもちろんトイレや入浴中も新聞、風呂場は蛍光灯を増設して明るく。親の介護があり、疲れ気味の年代でもあり、夕食後の睡魔には勝てず床にごろん。そのため、2日ほど遅れて紙面を読んでいます。(中略)
 疲れるぐらい新聞を読む私に元気をくれるのが休刊日。会社が休みの日に喜ぶのは普通ですが、休刊日に喜ぶのは新聞販売所の人と私ぐらいでは?

わたしも新聞をよむのがすきなほうだとおもうけど、
このひととはレベルがぜんぜんちがう。
わたしは、朝ごはんをたべながら、30分くらい、
おもしろそうなページをひろいよみするくらいで、
野球や経済など、ほとんど目をとおさないページもある。
投稿氏は、いったい新聞のどの紙面をよんでいるのだろう。
もしかしたら、新聞にのっている活字のすべてをよまないと
気がすまないひとなのかもしれない。
それに、お風呂での新聞は、ぬれやすくて相性がわるそうだけど、
氏は水分よりもあかるさを気にされている。
蛍光灯を増設してまでよむ、というのだから筋金いりだ。

新聞以外にも、よんでたのしいもの、
たとえば本や雑誌はいくらでもありそうだけど、
この方は、40年間ひたすら新聞にすべての時間をささげている。
土曜日版のbeや、特別紙面のグローブだって、
興味ぶかい記事がのっているのに、朝刊と夕刊を優先させ、
そちらはつんどく状態というのもかわっている。
疲れるぐらい新聞を読む私に元気をくれるのが休刊日

がすごい。
「疲れるぐらい新聞を読む」。
そして、そのつかれにたいし、休刊日が「元気をくれる」なんて、
完全に逆転の発想だ。
すきでたまらない新聞なのに、
とどかない日がうれしい、というのだから、
これはもはや「すき」という域をこえ、
新聞にのろわれている、といっていいのではないか。
愛のかたちはさまざまだ。
そして、この投稿をよむと
人間がいかに矛盾した存在であるかをしる。

posted by カルピス at 21:55 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月03日

ココがいてくれてこそのしあわせを おもいしる

なんにちかまえに、ココが家からにげだした。
母が洗濯物をとりこむときに、
スキをねらっていたココが庭にでてしまった。
外にでるのはよくあることで、
たいていは1時間ほどたつと、自分からもどってくる。
でも、このときは、夜になってもかえらなかった。
家のなかが 気もちのわるい しずけさにつつまれ、
あちこちにちらばったココのおもちゃが
よけいにさみしさをかんじさせる。
ココのかえりをまつうちに、
わたしの心配はだんだんエスカレートして、
車にはねられ、頭を地面につけてよこたわっている
ココのすがたを想像してしまう。
あるいは、なにかの音におどろいて、無意識にはしりまわり、
家へのかえり道がわからなくなったのではないか。
不注意だった母にきついことばをなげつけ、
世界をのろい、自己憐憫のかたまりになる。
日ごろはまわりのことを気にとめないで、
ずぶとく生きているつもりだったのに、
ココが数時間いなくなっただけで、
こんなにもあやうい精神状態になるのかと おもいしる。

けっきょくココは、夜の1時にかえってきた。
かなりタフな時間をすごしたようで、
自分からだっこをもとめて わたしのひざにのってくる。
つぎの日も、ぐったりと いちにちじゅう ねてすごした。
あの体験のあと、あまり本気で
外へでるチャンスを ねらわなくなった。
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わたしはこのところ、平凡な日々に安心しきっていた。
朝おきると、テキトーにルーチンをこなしていれば、
あっという間に夕方となる。
ブログをかいたあと、寝酒をたのしんで、いちにちがおわる。
そのくりかえしを、当然のながれとして うけとめていた。
それでわたしはじゅうぶんしあわせであり、
生きてるだけで丸もうけ、とは、
わたしの心境そのままだとおもっていた。
でも、それらはすべて、ココがいてくれてこその日常だった。
ココが10時間もどらなかっただけで、
わたしのこころはおおきくゆれて、ろくなことをかんがえない。
自分のよわさにヘトヘトになった。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月02日

J1リーグ第14節、フロンターレがさいごのプレーでレッズにおいつかれる

J1リーグ第14節、川崎フロンターレ対浦和レッズをみる。
レッズは火曜日にオリベイラ監督が解任され、
昨年につづき、大槻氏が監督についている。
たてなおしをはかり、必死でいどんでくるレッズを、
王者のフロンターレがどういなすだろう。

予想どおり、レッズはからだをはったプレッシャーを徹底し、
フロンターレはなかなかまえをむいた攻撃ができない。
しかし、後半にはいると フロンターレがうらをとれるようになる。
6分にレアンドロ=ダミアンが、先制となるゴールをすんなりきめる。
そのあとも、フロンターレは連動して
たかい位置からプレッシャーをかけつづけ、
レッズはなかなかボールをとれない。
こりゃ、フロンターレがつよすぎわ、と
ファンのわたしは、当然のながれにほくそえむ。

しかし、サッカーの神さまは、そのままでおわらせてくれなかった。
後半のアディショナルタイム4分がすぎ、
もうすぐ試合終了というときに、
ボールをもっていたフロンターレの選手が不用意にラインをわり、
レッズにボールがわたってしまう。
レッズにとって おそらく最後のチャンスだ。
レッズはロングスローをいれ、それがコーナーキックへとむすびつく。
レッズはキーパーの西川もあがってきて、全員体制だ。
最後のプレーとして、コーナーキックがけられると、
団子状態となったゴールまえで、
ピンボールみたいにボールがあちこちはげしくうごく。
森脇(レッズ)のシュートがフロンターレのディフェンダーにあたり、
コースのかわったボールがゴールにすいこまれる。
さいごのさいごで、レッズにおいつかれてしまい、
フロンターレはかち点3をとりそこねた。

ボールがラインをわったときに、わるい予感がしたのだ。
最悪のシナリオがあのプレーによりスタートし、
そのあとは一直線にレッズの得点へとなだれこんだ。
悪夢みたい、とはまさしくこういう場面をいうのだろう。
90分以上、ゼロにおさえていたフロンターレが、
さいごのプレーで失点してしまった。
アディショナルタイムの4分をすぎていたのだから、
とてもすんなり失点をみとめる気になれない。
このいかりを なににぶつけたらいいのか。
わたしはとくに熱心なフロンターレサポーターではなく、
ささやかなファンにすぎない。
それでも こんなにくやしいなんて。
きのうの記事に、サポーターとクラブの関係をかいたけど、
わたしは とてもよいサポーターには なれそうもない。
ただはげしく腹をたてるだけだ。
もっとも、こんなおわり方をすれば、
どこのサポーターだっていらついてしまうだろう。

ドローにもちこんだレッズは、
まるでかったかのようにおおさわぎしている。
大槻監督での新体制がうまく機能し、
5連敗をまぬがれたのだから、よろこびは当然だろう。
いっぽうのフロンターレは、
気もちをきりかえるのがたいへんかもしれない。
なんどもかくけど、あと数秒で、かっていた試合なのだ。
さいごのプレーでおいつかれるなんて。
これもサッカーとはいえ、あまりにも残念なひきわけだった。
フロンターレのつよさによいしれ、
はなうたまででそうだった いい気分が、いっしゅんでくずれさった。
すぐそこにたぐりよせていた勝利が、
しんじられない結果にかわったのを、まだうけいれられない。

posted by カルピス at 20:14 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月01日

北海道コンサドーレ札幌の野々村芳和さんが、あたらしい景色をみせてくれる

朝日新聞の土曜日版beに、
北海道コンサドーレ札幌の社長をつとめる
野々村芳和さんがとりあげられている。
野々村さんは、守備的だったコンサドーレをたてなおし、
昨シーズンはクラブ史上最高の4位という結果につなげた。
コンサドーレ札幌は、攻撃的サッカーをつらぬく
ペトロビッチ監督のもと、サポーターからよろこばれる
みていてたのしいサッカーをくりひろげ、
現在リーグで8位と健闘ちゅうだ。
Jリーグが欧州トップの水準に追いつくことを考えた時、力がないからと守備的に出て、駆け引きを駆使して勝つことを今の段階から繰り返して、どこまでたどりつけるだろうか、と思うんです。

勝敗と別に、いつもスタジアムに来るサポーターがクラブの財産。その人たちの空気を感じたくて、新しい人たちが来る。

クラブを自分の子のようにみられるサポーターはクラブから本当の幸せを受け取る。逆に、クラブは勝利を目指す以外にも地域のためにならないといけない。その関係がなくなったら、ただのエンターテインメント会社

(小野伸二選手の存在について)
二十歳前後の選手が伸二を見ると、「うまいってこういうことなのか」と現実を知ります。生き残るには、伸二よりうまくなるか、伸二にないもので勝負するか、どちらか。でも、伸二よりもうまくなるのは相当に高いハードルです。そこで、伸二にはない泥臭さで勝負しようと思う選手が出てきました。

強ければいいという伝え方しかされなければ、結局は、強いか弱いかだけがスポーツの価値基準になってしまいます。それと違うスポーツの価値を、どう多くの人に伝えていくか。それが、Jリーグ成功のカギだと思っています。


野々村さんのはなしはとてもわかりやすい。
やりたいこと、いいたいことがよく整理されている。
クラブとサポーターとの位置づけを、
野々村さんのようにおさえていけば、
おたがいにしあわせな関係がつづくだろう。
サポーターはクラブのために。
クラブは地域のために。
記事のタイトルにある
「さあ、見たことがない景色へ」
コンサドーレ札幌がつれていってくれそうだ。

posted by カルピス at 10:00 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする