新聞にすべてをささげている男性が おもいをよせている。
「新聞が大好きです」ではじまるその投稿は、
新聞への愛にみちており、胸があつくなった。
なにしろ、新聞をよむのがすき、ではなく、
「新聞が大好きです」なのだから、
新聞という存在そのものに対する愛の告白だ。
これは、あげ足をとっているわけではなく、
あとにつづく文章をよむと、
一般的な新聞愛好者の「すき」とはちがい、
かなり屈折した感情がうずまいているのがわかる。
かきだしのあとを つづけて引用する。
とにかく睡眠中と仕事中以外は「どこでも新聞」状態で、この40年ほど食事中はもちろんトイレや入浴中も新聞、風呂場は蛍光灯を増設して明るく。親の介護があり、疲れ気味の年代でもあり、夕食後の睡魔には勝てず床にごろん。そのため、2日ほど遅れて紙面を読んでいます。(中略)
疲れるぐらい新聞を読む私に元気をくれるのが休刊日。会社が休みの日に喜ぶのは普通ですが、休刊日に喜ぶのは新聞販売所の人と私ぐらいでは?
わたしも新聞をよむのがすきなほうだとおもうけど、
このひととはレベルがぜんぜんちがう。
わたしは、朝ごはんをたべながら、30分くらい、
おもしろそうなページをひろいよみするくらいで、
野球や経済など、ほとんど目をとおさないページもある。
投稿氏は、いったい新聞のどの紙面をよんでいるのだろう。
もしかしたら、新聞にのっている活字のすべてをよまないと
気がすまないひとなのかもしれない。
それに、お風呂での新聞は、ぬれやすくて相性がわるそうだけど、
氏は水分よりもあかるさを気にされている。
蛍光灯を増設してまでよむ、というのだから筋金いりだ。
新聞以外にも、よんでたのしいもの、
たとえば本や雑誌はいくらでもありそうだけど、
この方は、40年間ひたすら新聞にすべての時間をささげている。
土曜日版のbeや、特別紙面のグローブだって、
興味ぶかい記事がのっているのに、朝刊と夕刊を優先させ、
そちらはつんどく状態というのもかわっている。
疲れるぐらい新聞を読む私に元気をくれるのが休刊日
がすごい。
「疲れるぐらい新聞を読む」。
そして、そのつかれにたいし、休刊日が「元気をくれる」なんて、
完全に逆転の発想だ。
すきでたまらない新聞なのに、
とどかない日がうれしい、というのだから、
これはもはや「すき」という域をこえ、
新聞にのろわれている、といっていいのではないか。
愛のかたちはさまざまだ。
そして、この投稿をよむと
人間がいかに矛盾した存在であるかをしる。