それまでつきあっていた恋人が、
「僕」のところへ手紙をおくってきた。
手紙には、わかれてほしいとかかれている。
それまで芝かりのアルバイトをしていたけど、
すこしまとまったお金がたまっており、
恋人とわかれると、そのつかい道がないと気づく。
これ以上お金をかせぐ必要がなくなったので、
「僕」は芝かりのアルバイトをやめようときめる。
タイトルにあるように、この小説は、
最後の芝かりとして仕事をした、
すこしかわった家でのできごとがかかれている。
わたしはずっと、家の主人である中年女性にひっぱられて、
彼女のうごきばかりが気になっていた。
ぶっきらぼうで、ちょっとかわったしゃべり方をする女性だ。
彼女は昼まえからウィスキーやら
ジンのソーダわりやらをのんでいる。
「僕」が芝かりをおえると、彼女はていねいな仕事ぶりをほめ、
「中に入んなよ」と女は言った。「外は暑すぎるよ」
と「僕」を家にあげる。
そして、娘がつかっていたとおもわれる部屋に案内し、
洋服ダンスをあけさせ、ひきだしもあけさせ、
「どう思う?」
とたずねてきた。
中年女性がかわっているし、
むすめの洋服ダンスをあけさせるなんて、
はなしのながれもどこかふつうじゃない。
でも、なにかふかい余韻をかんじさせ、
わたしがすきな短編小説だ。
芝かりをおえ、さいごのチェックをしているときに、
「僕」は恋人からとどいた手紙をおもいだす。
「あなたのことは今でもとても好きです」と彼女は最後の手紙に書いていた。「やさしくてとても立派な人だと思っています。これは嘘じゃありません。でもある時、それだけじゃ足りないんじゃないかという気がしたんです。どうしてそんな風におもったのか私にもわかりません。それにひどい言い方だと思います。たぶん何の説明にもならないでしょう。十九というのは、とても嫌な年齢です。あと何年かたったらもっとうまく説明できるかもしれない。でも何年かたったあとでは、たぶん説明する必要もなくなってしまうんでしょうね」
わかれをきりだすときの、お手本みたいな手紙だ。
相手がわるいのではなく、自分のせいでもない。
どうしようもないのがつたわってくる。
でも、内容としてはかなりきびしい。
こんなことを もしわたしがいわれたら、かなりがっくりきそうだ。
中年女性の家をでた「僕」は、かえるとちゅうに
恋人からの手紙のつづきをおもいうかべる。
「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」と恋人は書いていた。「私は自分が何かをもとめられているとはどうしても思えないのです」
さいごの芝かりについてかたりながら、
この小説は わかれた恋人のことがかかれている。
芝かりのすすめ方、中年女性との会話、
家にあがり、洋服ダンスのなかをみても、
おもいだすのは恋人のことだ。
未練がましいといっているのではない。
だれだって 「僕」みたいに日常生活をおくりながら
恋人にいわれたあれこれを おもいだす。
僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う。最初に機械で芝を刈り、くまででかきあつめ、それから芝刈ばさみできちんと揃える--それだけなんだ。
それだけでいいと、わたしもおもう。