(パトリシア=ライトソン・猪熊葉子:訳・評論社)
アンディがいっしょにあそぶ少年たちのあいだで、
町にあるいろいろなもの、
たとえば材木おき場とか公会堂などを、
自分のもちものにする あそびがはやっていた。
もちろんじっさいのもちぬしになれるわけがなく、
ただそうきめて、もちぬしになったつもり、のゴッコあそびだ。
ただ、アンディだけは、このあそびの意味がわからない。
アンディは、かるい知的障害があり、
それらがほんとうはだれものものでもなく、
ただあそびで もちぬしだといっているだけ、という
所有の理屈が理解できない。
ある日、競走馬のレース場にあそびにきていたアンディは、
「ぼくこの場所の持主だったらいいんだがなあ、」
とゴミひろいをしていた老人にはなしかける。
老人は、
「面倒ごとばかりさね、ここはな。ほしけりゃなんなら安く売ってやろうか。」(中略)「三ドルでどうかね?新札でな。こいつは買物だぜ。わしはずっと手ばなすことを考えてたのさ」
とはなしをあわせてきた。もちろん冗談だ。
でもアンディは、すっかり老人のはなしをしんじこむ。
貯金箱にあった2ドルに、おおいそぎでかせいだ1ドルをたし、
3ドルを老人にしはらった。
アンディは、友だちをレース場につれてゆき、
ここを自分がかったと 得意そうにはなす。
「これ、おれのなんだよ、」アンディは説明した。「買ったのさ。」(中略)「ぼくはビーチャム公園をもってるんだ!」アンディは勝ちほこったように叫んだ。
仲間の少年たちは、だれかがアンディをだまして
3ドルまきあげたのをしる。
そして、すっかりその気になったアンディをみて、
事態の深刻さに気づいた。
ここのもちぬしは、ほんとうはアンディではないと、
どうやったらアンディに、わかってもらえるだろう。
アンディの仲間たちは、
アンディがすこし理解のたりない少年であるとしりつつも、
アンディがすきで、これまでじょうずにつきあってきた。
アンディにちょっかいをかけるようなものをゆるさない。
「あいつはいい奴だ。」ジョーはいった。「友だちがたくさんいてもふしぎじゃないよ。」「そうだな。」マイクが賛成した。四人はお互いに本気でうなずきあった。「アンディ・ホデルの気を悪くする奴があったらおれたちが承知しないぞ。」
レース場のもちぬしだとおもいこむアンディにたいし、
少年たちはあたまからアンディを否定せず、
なんとかいい方向へ事態がすすむようにはたらきかける。
アンディのよさをまもろうとする彼らもすばらしいけど、
アンディもまた彼らの気もちを尊重し、
おたがいにいい関係をたもとうとする。
レーズ場の職員たちは、
自分がここのもちぬしだあるというアンディをおもしろがり、
からかって「ボス」「持主」ともちあげる。
アンディは、「持主」としてレース場にではいりできるようになり、
やがて事件がもちあがった・・・。
障害者がでてくるものがたりは、
バカにされたり、仲間はずれだったり、
つらい目にあう子どもたちがおおいけど、
この本は、アンディの気もちのよい性格に
まわりがひきこまれて すっきりした結末をむかえている。
所有にたいする理解は、なかなかむつかしく、
アンディがかんちがいしながら、しあわせな気もちになるようすを、
猪熊葉子さんがじょうずに訳している。
アンディと仲間たちの、おたがいをおもいやる関係がすてきだ。