年齢にたいする日本人の関心のつよさがでていた。
わたしが、自分の年もしらんとは、なんということかとおどろくと、アーマッド・アリは、そんなことはあたりまえじゃないか、といった。都会の人間で、教育をうけたものなら、自分の年をしっているが、いなかの無教育な農民が年をしらぬのは当然だ。日本でもそうじゃないか、という。わたしはおどろいて、日本では、だれでもしっているというと、
「そもそも、いったいどうして自分の年をしることができるのか?」
と反問するのだ。(中略)
「あなたがたは、年齢というものに、なにか異常な関心をもっているにちがいない」
1955年におこなわれたアフガニスタンでの探検で、
梅棹さんは年齢について かんがえさせられている。
おそらく『モゴール族探検記』がかかれる もっとむかしから、
日本人は年齢につよい関心をむけてきた。
日本文化の ひとつの特徴といってもいいかもしれない。
日本では、しりあって間がないひとにたいしても、
わりとすぐに年齢をきく。
年をきいたから、どうなるものでもないとわかっていいながら、
日本人は関心をもたずにはおれない。
いまにはじまった価値観ではないのだから、
きっと江戸時代や明治時代に生きたひとたちも、
年齢につよい関心をしめしていたのだろう。
ただでさえ年齢がだいじな文化なのに、
寿命がのびて、さらにややこしくなった。
50歳で死んでいた時代と、平均寿命が80の現代では、
年齢に対するこころがまえがまるでちがう。
30年もながく年のことを気にしつつ生きるのだから、
年齢についての関心が どんどん煮つまってくる。
ひとつのいきさきが、アンチエイジングであり、
実年齢よりもわかくみられたいというねがいを
おおくのひとがくちにする。
わたしもまた、自分が中高年としりつつも、
高齢者に分類されるのは、あんまりではないかと
自分のことを棚あげしたがっている。
客観的にみれば、高齢者と、
はっきりひたいにハンコがおされているのに、
意識はまだ30代のころをひきずっている。
ふとした瞬間に 鏡にうつった自分の顔をみて、
こんなに年をとった事実をつきつけられる。
自分の顔をみておどろくのは、
もっとわかいつもりのあらわれだから、
ずうずうしいはなしだ。
それもこれも、日本人特有の文化と
いいわけさせてもらいたい。
なぜ日本人が年齢につよい関心をしめすのか、
そして その起源は、どこまでさかのぼれるのだろう。
わたしがうまれるまえにおこなわれた探検で、
すでに日本人は年齢に対して
つよい関心をしめしていたのが興味ぶかかった。