浦和レッズの武藤選手がうりだしちゅうのとき、
「じゃないほうの武藤」と名のっていた。
本家の武藤は海外にでていった武藤で、
「じゃないほう」の武藤は、いまも浦和にいる。
「じゃないほう」なのに、本家の武藤をうわまわるほど
いいプレーをするじゃないかと、
「じゃないほう」の武藤の活躍に、おおくのひとが注目した。
うりだしちゅうのころにくらべ、
いまはすこしぱっとしない存在になってしまった。
でもまあともかく、「じゃないほう」という距離感がいい。
本家のようなプレーをめざすのは、なにかとたいへんだけど、
おれは「じゃないほう」だから、
あんまり期待しないでみててね、というかるい印象をうける。
ふつうだったら、名前がおなじだけで、へんにくらべるなと、
すこしごねたくなりそうなのに、
じぶんから「じゃないほう」といえるのは、
かなり気もちの面で余裕があるのだろう。
NHK-FMの「ラジオマンジャック」にメールをよせると、
「クリアじゃないファイル」がもらえるらしい。
どんなファイルかしらないけど、
すくなくとも、なまえはとてもすてきだ。
ほんらいなら「クリアなファイル」であるべきだけど、
もうしわけないことに、クリアじゃないんです、
と、いっぽひいた姿勢に好感がもてる。
それにくらべ「クリアファイル」は、
クリアであることに なにか得意げで、かわいくない。
デイリーポータルZの記事に、
「ニューじゃないほうに注目する」というのがあった。
ニューヨークやニューギニアは、
ヨークやギニアに「ニュー」がついているわけで、
その「ニュー」がついていないほうに注目するわけだ。
ニューヨークじゃないほうの町、ヨークは
イギリスにあるそうで、
ヨークのひとが「じゃないほうのヨークです」
と内心おもっていたとしたらうれしい。
いずれにせよ(強引)、「じゃないほう」となのる余裕は、
われわれがむかいつつある ややこしい時代にこそ、
こころのかたすみに すまわせておきたい精神ではないか。