「見えないところで精進」という記事をよせている。
安来市の足立美術館をおとずれたとき、
入館料をはらわなくてもとおれる場所が、
よく手いれされているのに感心したという。
美術館からはみえないのに、ひとの手がはいっている。
「ここまでやるのかと気持ち良くなった」そうだ。
そして、「稽古が落語家の仕事」という
桂一門のこころがけを 吉弥さんはおもいだしている。
で、高座での本番はなにかというと、「集金」なのだそうだ。
仕事なんだから、稽古をつんであたりまえ。
えらくもなんともなく、ただやるべきことをやっているだけだ。
サラリーマンだったら、勉強するのが仕事、といえるかもしれない。
仕事に関係する分野について、関心をもち、情報をあつめるのは
仕事なんだからあたりまえだ。
このごろのわたしは、やるべきことをせずに、
集金ばかりやってないかと、ドキッとした。
ただ、「見えないところで精進」というのは、
いかにも日本人らしい発想におもえる。
日本人には、ひとのみていないところで、
ひそかに努力するのをよしとする美意識がある。
みられていなければ 手をぬくのでは よくないけど、
そうでなければ、ひとがみていようが みていまいが、
精進をつめば問題ないはずなのに。
糸井重里さんが「ほぼ日」のコラムで
努力と言わずに、「善き習慣」と名付けたら
と提案している。
そして、だいじなのは、それにつづく
これは、たのしくだってできそうですよね。
という点にある。
地味で目だたず、だれからも評価されなくても、
たのしくすれば「善き習慣」をつづけられる。
習慣なんだから、つらさとか、苦労とは関係ない。
「精進」は「努力」よりもさらに精神的な りきみがよみとれる。
あんまりつかわないほうがいいかもしれない。