「恋し 結ばれる 相手はD(デジタル)」という記事がのった。
結婚しないひとがふえ、コミュニケーションの対象が、
人以外へすすむうごきを紹介している。
『人工知能に哲学を教えたら』の著書がある玉川大学の岡本裕一朗名誉教授(哲学)は、「現在の恋愛の形式こそ、普遍的でないという。出会い、恋心が生まれ、交際して結ばれるという形態は、西洋でもたかだか200年程度の歴史しかない。(中略)「そもそも恋愛において人間が求めているのは、性愛も含めた陶酔感や精神的安定にすぎない。人間同士である必要は本来、ない」(中略)「今後は、有機物の人間と無機物のデジタルの関係も、『愛』に包含させられるようになる。少子化など社会問題は起こりますが、概念としての愛は、古代に戻るに過ぎません」
ながいスパンでものごとをとらえると、
現在あたりまえだとおもわれている常識は、
そんなにふるい歴史をもっていないのがわかる。
恋愛結婚だって、西洋にたまたまおきた形式であり、
それをもって結婚への普遍的な道とする理由はない。
日本のおみあいがおくれているとはずかしがる必要はなく、
それなりに合理的なしくみだからつづけられてきた。
恋愛感情のない結婚があってもいいし、
むしろそのほうがふるい時代にはあたりまえだった。
ただ、この記事でとりあげられている恋の相手はデジタルであり、
「(恋愛が)人間同士である必要は本来、ない」のなら、
おおむかしはなにをあいてに精神的な安定をえていたのだろう。
無機物への愛というと、映画『キャスト・アウェイ』をおもいだす。
トム=ハンクスがバレーボールにウィルソンと名づけ、
はなしあいてにして、無人島での孤独をしのいでいた。
極限状態では、ただのボールが相手でも
なくてはならない感情をもつのかと、おどろいたものだ。
わたしもネコのココにしたしくはなしかけるけど、
トム=ハンクスとウィルソンとの関係とはちがうような気がする。
わかいころのわたしはプラトニックな愛にひかれ、
情熱的な恋愛をのぞんでいた。
でも、だんだんと理想とする愛の形はかわり、
形式的でもいいではないか、とおもいはじめる。
結婚だって、愛があるからというよりも、
家をつづけることが目的、というむかしの論理に
それなりの理解ができるほど柔軟になった。
なんで愛がなくてはならないのだろう、
とおもうぐらい、いまでは堂々としたおっさん脳だ。
「概念としての愛は、古代に戻るに過ぎません」
ときっぱりいわれると、うれしくなってきた。
愛とはなんなのだ。
愛は、たとえ恋愛にかぎってっても、時代により、ひとにより、
いろいろなとらえかたがある。
これまでひとつだとおもっていた愛が、
概念さえもはっきりしない多様なものだったとは。
つかみどころのない愛のふかさにおどろいている。