2019年08月31日

愛は、「人間同士である必要は本来、ない」におどろく

きのうの朝日新聞に、
「恋し 結ばれる 相手はD(デジタル)」という記事がのった。
結婚しないひとがふえ、コミュニケーションの対象が、
人以外へすすむうごきを紹介している。
 『人工知能に哲学を教えたら』の著書がある玉川大学の岡本裕一朗名誉教授(哲学)は、「現在の恋愛の形式こそ、普遍的でないという。出会い、恋心が生まれ、交際して結ばれるという形態は、西洋でもたかだか200年程度の歴史しかない。(中略)「そもそも恋愛において人間が求めているのは、性愛も含めた陶酔感や精神的安定にすぎない。人間同士である必要は本来、ない」(中略)「今後は、有機物の人間と無機物のデジタルの関係も、『愛』に包含させられるようになる。少子化など社会問題は起こりますが、概念としての愛は、古代に戻るに過ぎません」

ながいスパンでものごとをとらえると、
現在あたりまえだとおもわれている常識は、
そんなにふるい歴史をもっていないのがわかる。
恋愛結婚だって、西洋にたまたまおきた形式であり、
それをもって結婚への普遍的な道とする理由はない。
日本のおみあいがおくれているとはずかしがる必要はなく、
それなりに合理的なしくみだからつづけられてきた。
恋愛感情のない結婚があってもいいし、
むしろそのほうがふるい時代にはあたりまえだった。

ただ、この記事でとりあげられている恋の相手はデジタルであり、
「(恋愛が)人間同士である必要は本来、ない」のなら、
おおむかしはなにをあいてに精神的な安定をえていたのだろう。
無機物への愛というと、映画『キャスト・アウェイ』をおもいだす。
トム=ハンクスがバレーボールにウィルソンと名づけ、
はなしあいてにして、無人島での孤独をしのいでいた。
極限状態では、ただのボールが相手でも
なくてはならない感情をもつのかと、おどろいたものだ。
わたしもネコのココにしたしくはなしかけるけど、
トム=ハンクスとウィルソンとの関係とはちがうような気がする。

わかいころのわたしはプラトニックな愛にひかれ、
情熱的な恋愛をのぞんでいた。
でも、だんだんと理想とする愛の形はかわり、
形式的でもいいではないか、とおもいはじめる。
結婚だって、愛があるからというよりも、
家をつづけることが目的、というむかしの論理に
それなりの理解ができるほど柔軟になった。
なんで愛がなくてはならないのだろう、
とおもうぐらい、いまでは堂々としたおっさん脳だ。
「概念としての愛は、古代に戻るに過ぎません」
ときっぱりいわれると、うれしくなってきた。
愛とはなんなのだ。
愛は、たとえ恋愛にかぎってっても、時代により、ひとにより、
いろいろなとらえかたがある。
これまでひとつだとおもっていた愛が、
概念さえもはっきりしない多様なものだったとは。
つかみどころのない愛のふかさにおどろいている。

posted by カルピス at 20:57 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月30日

ランスマ で柏原竜二さんがアドバイスした「あきらめる」の意味

ランスマをみたら、柏原竜二さんがゲストによばれていた。
坂をはしるのがテーマだったので、
元山の神としてまねかれたのだろう。
坂ばかりのコースでしられる
福島県のハーフマラソンに出場するりさっちは、
あすのレースが不安なので、なにかアドバイスを、と
柏原さんにたずねる。
柏原さんは、「あきらめる」という。
いきなりつきはなしてしまうとは、
すごいアドバイスだなーとおもっていたら、 ちがっていた。
「あきらめて」、やるしかないと腹をくくるのだという。
いくらいやなことがあっても、あしたになれば
けっきょくはやらなければならないのだから、
あきらめてまえむきにとりくむこと、
という意味での「あきらめる」だった。

順位とタイムにいどみつづけてきた
柏原さんならではのアドバイスだ。
マイナスな気もちでレースにのぞんでも、
からだにいい影響をあたえないのだから、
つねに肯定的な発想でのぞむのは 理にかなっている。
しかし、本来の意味をそのままいただいて、
タイムをあきらめて気らくにはしるのも、
ひとつの手だとわたしはおもう。
あるいは、挑戦しない意味での「あきらめる」ではなく、
これまでやってきた練習をしんじ、いまさらジタバタせずに、
リラックスしてレースにのぞむのも「あきらめる」の範疇だろう。
わたしがタイムをめざすのをやめたのは、
くるしい練習からにげているのだけど、
60歳をまえにした わたしの年齢からいっても、
堂々と「あきらめ」てもいいのではないか。
挑戦しつづけることがただしいとする価値観は、
あくまでもこのみの問題でしかない。

「あきらめる」というと、ネガティブにみられがちだけど、
大切な撤退ともとらえられる。
せんじつの記事で紹介した糸井重里さんの
「夢をあきらめて、ほんとに助かったよ」は、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/468735839.html?1567166755
あきらめることを、全面的に肯定している。
「あきらめる」は、けして非難される生きかたではない。

記録にこだわるのをやめた、あるいはあきらめたわたしは、
ゆっくりしたスピードばかりではしったり、およいだり。
きょうは外にある50メートルプールで1500メートルおよぐ。
水温と体調が、ピッタリの日だったようで、
およぐうちにすごく気もちよくなってきた。
テンポよくうでがまわり、からだ全体がピッタリ水をとらえる
(本人のイメージです)。
なんでもうまくいくような気がしてきた。万能感がすごい。
あきらめても、まだまだ水泳のたのしさを味わえる。

posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月29日

「ただ、いる、だけ」が大切にされる居場所を

『居るのはつらいよ』(東畑開人)をよんでから、
自立と依存のかねあいが 気になっている。
障害者介護にたずさわるわたしは、
自立をたすけるのが仕事だと おもっていたけど、
はたしてそうかんたんに いいきれるだろうか。
自立をもとめすぎると、「いる」のがつらくなる。
「ただ、いる、だけ」をみとめ、
そこが自分の居場所だとおもってもらえなければ、
安心してすごせなくて、なにかと問題がでてきやすい。

わたしが所属するクッキー班のメンバーに、
このごろ仕事につけなくなっているひとがいる。
休憩室のイスにすわり、なかなかうごけない。
クッキーをつくる部屋に、ようやくこれたかとおもうと、
手袋がつけられず、また休憩室にかえってしまう。
表情がかたく、仕事にさそっても、首をよこにふる。
はじめはつかれかとおもっていたけど、
どうもそれだけではないようで、
この2週間おなじような状態がつづいている。
クッキー班以外ですごすときには、
これまでとかわりなく 笑顔がでるのだから、
おそらく問題はクッキーの仕事であり、
なにかひっかかり、こまっているのだろう。

クッキー班は、就労継続B型の事業所であり、
はたらくこと、はたらく意欲をひきだすのを大切にする。
クッキー工房にきても、仕事にむかえなければ、
休憩室で気分をかえてから仕事をしましょう、とうながす。
仕事をしなかったひとは、配達にでられず、「おるすばん」となる。
仕事をするひとは立派で、仕事をしないひとは「こまったひと」。
はたらく場なのだから、そうした「きびしさ」は
当然なのだと職員たちはおもっている。

でも、そうやって仕事をもとめられると、
「いる」のがつらくなるひともいる。
いま調子をくずしているメンバーも、
そうしたひとりではないだろうか。
はたらくとほめられるけど、
はたらかないと、居場所がなくなる。
これまでになんどもサインをだしていたのを、
職員たちは気づかずに、仕事ばかりをもとめてしまった。
その結果が、仕事へのプレッシャーというかたちとなり、
仕事につけなくなっているのでは。

わたしたちは、クッキー班のメンバーに、
ここにいるだけでいい、いてくれるだけでうれしいと、
自分たちの気もちをつたえる必要がある。
安心してすごせる場所であると、ふかくかんじてもらうこと。
それは、あいてのいいなりになるとか、あまえをゆるすとかではなく、
そのひとにあった自立と依存を保証する、というかんがえかただ。
もういちどクッキー班で笑顔をみせてもらえるように、
「ただ、いる、だけ」を大切にする場をつくりたい。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

『天気の子』100%の純愛ものがたり

『天気の子』(新海誠:監督・2019年・日本)

まったく予備知識なしにみた。
絵がきれいで(後半は、ときどきあれてくる)、
花火の描写などは、本物の花火よりきれいにみえた。
雨だって、いろんなふりかたをする。
これだけたくさんの雨がでてくる作品はない。
あまりにも雨にうたれる場面をみたので、
あんなかんじで ずぶぬれになるのも わるくない気がしてきた。
たまたまだけど、きょうはいちにちじゅう雨がふっていた。
『天気の子』をみるのに、絶好の日だった。

家出して 東京にでてきた16歳の帆高(ほだか)が、
「100%晴れ女」で、自称18歳の陽菜(ひな)にひかれていく。
100%の純愛ものがたり。
(以下、ネタバレあり)

帆高は陽菜のちからをいかし、
お客さんがのぞむ日をはれにする仕事をはじめる。
陽菜がいのると、どんな雨ふりの日でも、
かならずはれまがあらわれる。
ふたりのサイトは評判をよび、注文が殺到するけど、
そうやって、雨の日をはれにするいのりは、
陽菜のからだを すこしずつむしばんでもいった。
そして、いのるたびに陽菜のからだは透明になってゆき、
ある日 陽菜は空へのぼっていく。

ここまではよくあるはなし。
この作品でよかったのは、帆高がぜったいに陽菜をすくうと、
自分もまた空にあがり、陽菜をつれもどしたところ。
警察の包囲をふりきって、スーパーカブにもがんばってもらい、
帆高は、いぜん陽菜がおしえてくれた神社を懸命にめざす。
この神社が、空と地上とをむすぶポイントだった。
空のうえで陽菜をみつけた帆高は、
いっしょに地上へ もどろうとする。
いちどうしなった相手を
つれかえるのに成功したはなしって、あまり例がないのでは。
「ずっといっしょだ」と、帆高は陽菜をしっかりだきしめる。
こうしたピュアな純愛ものが、わたしはだいすきだ。

この作品では、雨だけでなく、雲の存在感もすばらしい。
発達した積乱雲は、みずうみひとつに匹敵するほど
おおくのの水をふくんでいる、
みたいなことが作品のなかでかたられていた。
はかりしれないちからを 雲はひめている。
ゲリラ豪雨は、透明で、巨大な幕のなかにみちている
水のかたまりとしてえがかれている。
ギリギリのところで空中にとどまっていた幕が
こらえきれなくなってやぶれると、
「バケツをひっくりかえした」では
形容のつかないはげしい水のかたまりが
地上にたたきつけられる。

地上のはるか上空にひろがる雲のかたまりは、
圧倒的なエネルギーをひめた巨大な大陸にみえる。
天気予報が発達し、台風のうごきや
一週間さきの天気まで予測できるようになったとはいえ、
人間は、どれだけ天気についてしっているといえるのだろう。
46億年という地球の歴史では、
雨が何年もふりつづく時期もあったのではないか。
現代をいきる人間が、「異常気象」とよくいうけど、
ながいサイクルでとらえると、誤差の範囲ていどの
わずかな変化かもしれない。
温暖化の原因をすりかえるわけではなく、
天気について、人間はもっと謙虚になったほうがいい、
というはなしだ。

陽菜がもどったのとひきかえに、東京の天気はまたくずれ、
雨が3年もふりつづき、おおくの町が水にしずんでいく。
それでもひとびとのくらしはつづけられている。
道路のあちこちが水につかり、
うごかなくなった自動車がほおっておかれ、
ひとがとおらなくなった道には草がおいしげる。
こんなかたちでさびれていく東京と、
それでもたのしげにくらしている ひとびとのようすが、
ありそうな日本の将来におもえてくる。

posted by カルピス at 22:03 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月27日

右耳がきこえなくなる

いまおもえば、すこしまえから右耳がきこえにくかった。
ただ、左のほうはふつうにきこえるので、
日常生活にまったくさしさわりはない。
2週間まえに、イヤホンをつけてレンタルDVDをみたとき、
右のほうからはほとんど音がはいってこないので、
ようやく耳の異常に気づく。
なんでかなー、とおもいながらも、いたみはないので、
たいして深刻にかんがえずにそのままほっといた。

それが、なんにちかまえに、
右耳がまったくきこえないことに気づく。
症状がさらにすすんだのだろう。
ためしに右耳を手でふさぎ、左耳だけでききとろうとすると、
すこしも音がはいってこない。
もし左耳までおなじ症状になれば、
わたしは音をうしなってしまうのかと、あせってきた。
なにかたちのわるい感染症で、右の症状が、
やがて左にもすすむかもしれない。
わたしは視覚上位の人間で、
目さえみえたら、耳はたいして必要ない、などと
聴覚をひごろ かろんじてきたけど、
もしもほんとうに音をうしなったら、
どれだけたいへんか、すこしかんがえただけで想像できる。
いまの仕事をつづけられるかわからないし、
旅行へいってもコミュニケーションがとれない。
音楽をきけないので、老後のたのしみとおもっていた、
クラシック鑑賞もむりだし、
映画だって音なしではぜんぜんたのしめない。
わたしは、ベートーベンみたいに、
晩年になって音をうしなうのか、と
生粋のヘタレであるわたしは、心配がどんどんふくらんでくる。

それがきのう。
きょうは、仕事をぬけさせてもらい、
近所の耳鼻咽喉科をたずねる。
おそらく外耳炎だろう、でも
なにかおそろしい病名をつげられたらどうしよう。
わたしの右耳をのぞきこんだ先生は、
まずおそうじしましょう、といって
耳あかをとりだした。つづいて右も。
きれいにしてから本格的な診察だろう、とおもっていると、
きょうの治療はそれでおわった。
耳あかを、半分はとれたけど、
のこりはかたくくっついているので、薬をつかいましょう。
つぎにくるときは、まえの夜と当日の朝に薬をいれて、
耳あかがはがれやすくしてください、といわれる。
外耳炎ではなく、耳あかがたまりすぎて つまっていたのだ。

そうじゃないか、というおもいがすこしはあった。
でも、そんなギャグみたいなおちで すまされるほど、
現実はあまくないだろう。
希望的観測は、あくまでもひとりよがりな希望でしかなく、
現実はもっとようしゃなくシビアなはずだ。
でも、ほんとうに、ただの耳あかだった。
ぞくにいう耳くそ。
耳かきは、日本にしかないときいたことがあり、
だったらほかの国のひとは、耳くそをとらないのだろう。
くすぐったいし、いたいしで、わたしは
耳そうじがきらいだったので、
もう何十年も耳くそをとってこなかった。
つもりつもった耳くそが、しっかり耳の穴をふさぐと、
音は完璧にさえぎられてしまうようだ。

ほんのわずかなあいだにせよ、音をうしなう心配をしたことから、
音がきこえるありがたさをリアルにかんじた。
目がみえさえすれば耳なんて、とは、
なんとごうまんな態度だったことだろう。
耳がきこえなければ、どれだけ不自由な生活になるのか、
想像しただけでも、耳がはたしているやくわりはおおきい。
いまあたりまえにすごしている日常が、
どれだけありがたいかを、数十年ぶんの耳くそにおしえられる。

posted by カルピス at 21:33 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月26日

『書評稼業四十年』(北上次郎)本をめぐり、時代のにおいがただよってくる

『書評稼業四十年』(北上次郎・本の雑誌社)

タイトルどおり、書評家として 40年にわたる
北上さんのとりくみをふりかえったもの。
ミステリマガジンでの同名の連載をまとめたうえに、
ほかのところにかいた「中間小説の時代」
「書評家になるまで」もくみいれてある。

北上さんだけが特別に本をよみこんでるのかとおもっていたら、
本書にでてくるひとたちは、みんなそんなかんじだ。
本をとりまくひとたちの、本に関する熱量におどろく。
むかしのはなしがおおく、時代をめぐる うつりかわりがおもしろい。

40年にわたる北上さんの仕事がこまかく章だてしてあるけど、
北上さんはかいているうちにおもいだしたことを
どんどんつぎたしていくので、しょっちゅうはなしがそれる。
それがまたおもしろいからいいのだけど、
タイトルと内容があっているほうがすくないくらいだ。
できるだけ正確にとうじのようすを記録しようとして、
でもなぜかすぐに脱線してしまい、本来かくはずだったことが
ほんのすこしにおわったり、次回にまわされたり。
どうでもよさそうな裏側まで、北上さんが こまかくかたりだすと、
いったいなんのはなしだったか わからなくなるけど、
それでもよませるから、北上さんどくとくの話芸になっている。

五木寛之についてかなりのページがさかれており、
わたしが大学生のなれのはてになりかけていたころ、
古本屋で50円とか100円でかってきた五木さんの本を、
まいばん1冊よんでいたころをおもいだした。
五木さんがかくはなしは、北欧・ラジオ業界・作曲業界・
金沢・自動車など、あんがいかぎられた話題がおおく、
たくさんよんでいると、そのうち
どの本が どんな内容だったか ゴチャゴチャになってくる。
そのせいか、本書でとりあげている『さらばモスクワ愚連隊』と
『蒼ざめた馬を見よ』は、ほとんどおぼえていない。

書評にまつわるはなしでおもしろかったのは、
北上さんが朝日新聞の書評委員をしていたとき、
競馬の本をとりあげたら、月曜日に(日曜日に書評がのるので)
朝日新聞社の電話がなりっぱなしだった、というおもいで。
書評のみだしが「競走馬はいつ激走するか」だったそうで、
競馬ファンにすれば、そんなタイトルをつけられたら、
かわずにおれないだろう。
だれだって、「競走馬はいつ激走するか」をしりたい。
それがわからないから、だれもがこまっている。

北上さんの競馬ずきはずっとむかしからで、
あれだけ本についてかたるのがすきな北上さんなのに、
土曜日は競馬にいく日ときめて、かたくまもっている。

番組ディレクターから電話があり、毎週出演できないかと言ってきた。毎週大阪に行くのは無理だ。すると、毎週土曜日の朝八時ごろに携帯へ電話するので、その週のおすすめ本を電話で紹介してくれないかと言う。しかしそのころは毎週末は早朝に競馬場にかけつけていた。指定席に入るためには朝早くから行列に並ぶ必要があるのだ。そういうときに電話がかかってくるのはイヤなので(頭はすっかり競馬モードになっているので、そういうときに仕事の話はしたくないとの生理的な事情がある)結局断るしかなかった。

本についての仕事ができるのだから、
「断るしかなかった」ことなくて、ひきうければよさそうだけど、
あくまでも土曜日には競馬、とゆずらないのがおもしろい。

北上さんがすきなのは、本をよむよりも、ながめていることらしい。
本を読むのも実は面倒くさい。結構頭を使うから本を読んでいると疲れてくるのだ。いちばんいいのは、本を外から見ていることだろう。(中略)たまに何も予定のない休日、書棚の前に座って何を読もうかと選ぶだけで終わってしまうことがあるが、あれ以上の至福はあり得ない。

本人はまじめにかいているけど、けっこうへんなひとだ。
タグ:北上次郎

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月25日

きのうの最高温度は30.7℃。むかしのあつさはこんなものだったなんて

まいあさ新聞にのる まえの日の気温をいつもチェックしている。
きのうの最高温度は30.7℃。平年との差が「0.0」なので、
30.7℃は この30年間の平均最高気温だ。
きのうは、いつになくすずしくて、
日中はさわやかな風がふいていたし、
夜もエアコンをつけなくてもねむれた。
もしこれが ふつうの夏だというのなら、
夏なんて、ぜんぜんあつさにくるしむ時期ではない。
こんなにさわやかですずしいのが夏だったら、
夏のおとずれをよろこぶひとの気もちがわたしにもわかる。
あつさにへろへろになるつらい時期ではなく、
たのしめるレベルのあつさだ。
海やスイカにビールであそぶべる プレゼントみたいな季節として、
わたしは夏がくるのを まいとし まちのぞむだろう。

きょねんよりもましだったとはいえ、
ことしは7月下旬からじわじわとあつくなり、
お盆にはいるまでは、35℃をこえる日があたりまえにつづいた。
それが、お盆ちゅうに台風10号がさったころから、
むしあついけど、気温はそうたかくなくなり、
最高気温が30℃をしたまわるようになる。
おそらく、35℃以上のあつさには、
もうくるしまないですみそうだ。

温度をみるまでもなく、
雲のかたち、熱風ではない風、夜のスズムシ、
すこし温度がさがって、ネコがげんきになる、など、
夏のおわりをかんじるようになった。
もうすぐ朝おきてすぐの水あびも、必要なくなるだろう。
夏のおわりは、数字でしらされるよりも、
からだじゅうで、ただわかる。
わたしの場合は、これらにくわえて
ジン・トニックがとどめの情報だ。
夏がおわると、からだがジン・トニックをもとめなくなる。
いまはもう、秋をまえにしたウイニングランみたいなものだ。
夏のおわりをみとどけながら、秋のおとずれに耳をすます。
ことしもなんとかへこたれずに、夏をやりすごせた。

posted by カルピス at 20:53 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月24日

実践報告会に参加する キーワードは、居場所づくりと自立

職場が主催した実践報告会に参加する。
市内にある4つの介護事業所が、それぞれ20分ほどで
これまでのとりくみを発表した。

さいきんのわたしが興味をひかれるのは、
せんじつよんだ『居るのはつらいよ』(東畑開人)にでてきた
「ただ、いる、だけ」をみとめる居場所づくりだ。
きょうのはなしをきいていても、
わたしたちの仕事は、けっきょくのところ
居場所づくりなのでは、という気がした。
ひとつの事業所が発表したのは、
1年ほど仕事につけたけど、そのうちかよえなくなり、
いまは契約をむすばなくなった方についてのはなしだった。
どうしたら そのひとが つらいとかんじないでいられるか。
その居場所をととのえるのが、わたしたちの仕事だ。

また、自立とはなにかについても、介護にたずさわるわたしたちは、
もういちどかんがえてみたほうがよさそうだ。
東畑さんと高野さんの対談にでてきた
日本人はつめたいというソマリ人のはなしが衝撃的だった。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/469045010.html?1566649679
わたしがこれまでかんがえていた自立とは、
自分にできることは 自分ですること、だったのに、
そうではない社会が世界にはいくらでもあり、
日本でも、そうしたつめたさに
はじきだされているひとがたくさんいる。
そうしたひとは、居場所をもとめてデイケアにやってくる。
「いる」のがつらいのなら、なにかをやればいいのだけど、
それができないからデイケアにいくわけで、
ただ、いる、だけを保証しながら、
居場所になじんでもらうことになる。

いちばんさいごに、わたしたちの事業所の発表として、
理事長がみずから 17年間のとりくみをふりかえった。
はじめはデイサービスと居宅介護(ヘルパー派遣)だけだった事業が、
必要におうじてその後どんどんふえていき、
いまでは6カ所でいくつもの事業を展開している。
利用者と家族に できるだけよりそおうとする理事長の姿勢が、
おおくのかた、そして職員から支持されて
あまり類をみないタイプの事業所としてそだってきた。
しかし、いつまでも理事長だのみというわけにはいかず、
これからはわかい職員たちが中心となって
こころざしをうけついでいく段階にはいった。
わたしたちの仕事は居場所づくりなのだから、
利用するひとにあった居場所を、いくらでもつくればいい。
事業所をつくるのは意外とかんたんで、
問題はつづけること、とこれまでおもってきた。
でも、あたまとからだをうごかして、
とにかく必要とされる居場所をつくってしまうのが大切だと
このごろかんがえるようになった。
うまくいかなかったら、そのときに対応をかんがえる。
居場所づくりと自立をキーワードに、
これからのとりくみを くみたてていきたい。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月23日

夏バテかとおもうくらいだるかったけど、プールへいったらふつうにおよげた

糸井重里さんが「今日のダーリン」に
体調のわるさは夏バテだった、とおどろいている。
どうも、なんだかとても疲れている感じがある。
短い時間ならなんとかなるのだけれど、
長い時間、しっかりしていられないのである。
目を閉じて、なんにもせずに横になっていたい。
でも、休むというほどのなにかがあるわけじゃない。
というようなことを家人に愚痴っぽく言ったら、
「夏バテじゃない?」とかんたんに答えられてしまった。
「え? 夏バテ?これは夏バテなのか!」
ぼくはびっくりした。

これは数年前のはなしで、それ以来、
糸井さんのところへ、まいとし夏バテがやってくるそうだ。

わたしはこれまでに夏バテを自覚したことがない。
いつもげんきに夏をのりきる、というのではなく、
ずっとだるいのがあたりまえになっており、
夏にだるくても、いまさら夏バテだとおもわない。
それに、どっちかわからないときは、ちがう場合がおおい。
肩がいたいので、五十肩かどうか
いたみの特徴を経験者にきいてみると、
「眠れないぐらい いたいのが五十肩」といわれた。
五十肩かどうかまようぐらいなら、五十肩ではない。

こういう、ただわかる、というはなしが わたしはすきだ。
夏バテもきっとそうにちがいない。
夏バテになれば、うたがいなく夏バテとわかるだけの
決定的な症状をともなうはずだ。
症状というよりも、からだ(頭も)全体でわかる。

きょうはいつになくからだがだるかった。
よくねむれたし、ひるねも1時間とった。
それでもまだだるいのは、夏バテではなく、きっと気もちの問題だ。

トレーニングとして、日常的に
ジョギング・水泳・ウエイトトレーニングにとりくんでおり、
つかれていても、3つのうち、どれかはやる気になるときがおおい。
はしりたくないけど、水泳ならできそう、
とか、およげないけどウエイトなら、というかんじ。
きょうは、水泳ならできそうだったので、
だるいからだをなだめつつ、いつものプールへでかける。
予想どおり、およげだせば、からだはなんとかなった。
タイムはわるいけど、あんがい気もちよく1500メートルをおよぐ。

夏バテにならないのは、つかれきるほど
たいして仕事をしていないのも関係しているとおもう。
気もちがおいこまれるようなノルマやストレスがなく、
仕事からかえるとビール(発泡酒だけど)でひといきつき、
夜ねるときには、ひえた白ワインと、もっとひやしたジン・トニックを
いちにちをおえるにあたっての儀式として おごそかにいただく。
あつさは調味料みたいなもので、それにエアコンもあり
お風呂でいつも汗をながせるのだから、天国みたいなものだ。

わたしのもとへ、あと何年したら
ほんものの夏バテがやってくるのだろう。

posted by カルピス at 20:57 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月22日

デイリーポータルZの「別れの手紙ジェネレーター」は、『知的生産の技術』の提案を実現させた

すこしまえのデイリーポータルZに
「ラブレタージェネレーター」がのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/love-letter-generator
サイトにしめされる
・だれにだす手紙ですか
・どんなスタイルで(ストレートに・遠まわしに、などからえらぶ)
などの質問にこたえていくと、
あっというまにラブレターができあがる。
そのままではあんまりだ、というひとは、
自分なりに ちょこちょこっと つけたせば、
もっとこなれた手紙がかけるだろう。

さらにこんどは、「別れの手紙ジェネレーター」がつくられた。
https://dailyportalz.jp/kiji/wakareno-tegami-generator
これまた、質問にこたえていけば、
あとくされなくわかれをきりだせる。
くっつくより、わかれるほうがややこしいので、
もしかしたらたいへんな発明かもしれない。
つくった林雄司さんによると、
機械まかせの手紙でできた恋人とは、別れるときのお手紙も機械まかせ。ペッ!と書いてペッ!と送れば一件落着(?)

なのだそうだ。

梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』には、
手紙のかきかたの章も もうけてある。
 日本人が手紙をかかなくなったのは、内容第一主義のかんがえかたと、どこかでつながっているにちがいない。内容本位で、形式を否定してしまったから、みんな手紙をかけなくなってしまったのだ。むかしは形式がしっかりときまっていた。形式はややわずらわしく、おぼえるのに手間はかかったが、おぼえてしまえばだれでもが、自分のつたえたいとおもう内容をのべることができた。まったく無内容でも、手紙をだすこと自体に意味があるというような手紙さえも、りっぱにかけたのである。
 ところが、形式が否定されてしまうと、こんどは各々の責任において、いきいきした名文をかかねばならなくなったのだ。

「まったく無内容でも」
「手紙を出すこと自体に意味があるというような手紙」
というのが、ほとんどの手紙の本質をついている。
手紙は、適切なときにだしさえすれば、目的を達成したようなものだ。
ラブレターはさすがにちがうでしょう、
というひともいるかもしれないけど、
もんもんとまよったあげく、行動にうつせないよりずっとましだ。

わたしはさいきん、手紙のやりとりが原因で、
ふるくからの友人と関係があやしくなってしまった。
なんにでも いちいち相手がつっこんでくるので、
めんどくさくなり、もう手紙はやめようと、わたしからきりだした。
これも、形式を否定したことによる弊害ではないか。
たとえ友人であっても、自由に内容を展開するのではなく、
形式をまもって、しゅくしゅくと、やりとりしたほうがいい。
わたしも友人も、おもったことを文章にあらわせるほど、
かく能力にめぐまれていないようだ。
そして、それはほとんどのおとなにいえるのでは。

梅棹さんは、手紙の用事ごとに分類し、
あるていど型をきめて、手紙をかきやすくしている。
 もう一歩すすめると、パラグラフ・システムになる。手紙の文章を、いくつかのパラグラムにばらして、それぞれについての模範的文例をカードにして用意しておくのである。必要あるときには、はじめのあいさつはコード3、要件のきりだしはコード18、要件の中心的部分はコード32、しめくくりはコード57、というふうに、パラグラフをくっつけると、完全な文章ができあがる、というしかけである。

これは、まさに手紙ジェネレーターだ。
梅棹さんの提案は、50年たって、ようやく実用化された。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月21日

『居るのはつらいよ』東畑開人×高野秀行 公開トークイベント 自立とは、依存とは

せんじつよんだ『居るのはつらいよ』について、
著者の東畑さんと、辺境作家の高野秀行さんが対談している。
https://dokushojin.com/article.html?i=5372
というより、その対談を「読書新聞」で目にしたのがきっかけとなり、
わたしは『居るのはつらいよ』をよんだ。

対談では、「イルツラ(いるのがつらい)」を
どうとらえるかがはなしあわれている。
高野さんは、アフリカからきた友達の感想として、
日本人はつめたい、というはなしをだしてきた。
この前難民で来たイエメン人もソマリ人の彼と同じことを言っていました。イエメンという国は内戦で世界最悪の人道危機と言われていて酷い状態なんです。そこから日本になんとか逃げてきた人が日本のことを何と言ったか、「日本は死後の世界だ」と言ったんです。平和だけれどもうすべて死んでいると。それはちょっと衝撃でした。どうやら人間同士のつながりや温かみがないということらしい。ちょうどそういうことを考えていたので、すべての人が自立していて同じようなサービスを受けられる社会というのが、本当にいい社会なのか。すごく根本的な常識だと思っていたことがこの本でちょっと揺らいでしまったんです。

このはなしをするまえに、高野さんは
ソマリア人の友だちが、日本人はつめたい、
といったはなしを紹介している。
郵便局や銀行に行くとかちょっとした買い物とかそういうものに日本人は全然付き合ってくれないと。

そんなの、あたりまえじゃないか、とわたしはおもった。
でも、なんでもひとりでやることを当然とかんがえ、
自立した個人は、なんでも自分でするものだと きめつけていたのは、
はたして だれにたいしても ただしいのか。
外国のひとは、日本人よりも、もっとひとにたよらないで、
つよい個人をたもっているのだろうとおもっていた。
女の子が、学校でトイレにいくときでさえ、
「ツレション」するというのがまったく理解できなかったし、
未熟な内面をさらけだしているみたいでバカにしていた。
当然とおもっていた自立のただしさが、
高野さんのはなしでくずれてきた。
(日本は)一人で行動することが前提になっているからで、誰かといる時に理由が必要なんです。アフリカでは誰かといることがデフォルトの設定になっているからイルツラ≠ェない。(中略)今でも多くのアジアとかアフリカの人、あと沖縄の人もそうだと思うけれど、一人でいるのが寂しくて耐えられないという人がたくさんいます。その人たちにとってはイルツラ≠ヘない代わりにプライバシーがないことも別に辛くないわけです。そういうことをこの本を読んでいる時にずっと考えていました。(高野)

 結局のところ、依存というのはどこにでもあって、完全に自立したら相互にかかわる必要はなくなるわけですが、果たしてそれで人間が幸せに生きていけるのか。(高野)

自立とは、依存とはなんだろうとかんがえさせられる。
いま、日本の障害福祉は、
「自立支援法」のもとにサービスを提供している。
自立をめざし、支援していくのが福祉の目的であり、
事業所は、自立にむけて支援計画をたて、日々の支援をおこなう。
自立をめざすのは、成人した個人において、
あたりまえだとおもっていたのに、
そうではないというかんがえ方があり、
それもまた つよい説得力があるのを みとめないわけにいかない。
日本とアフリカとでは、社会がちがうから、
かんたんに比較はできないにせよ、
障害者にかかわる仕事をしているわたしにとって、
高野さんが紹介したアフリカ人のはなしは、
自立や依存をもういちど といなおすきっかけとなった。
いるのがつらいとすれば、どうすればいいか。
「ただ、いる、だけ」も、またありだと、
みとめていくしかないのでは。
タグ:高野秀行

posted by カルピス at 21:26 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月20日

『辺境メシ』(高野秀行)ネコ用ちゅ〜るさえも体験ずみ

『辺境メシ』(高野秀行・文藝春秋)

辺境作家の高野さんが、これまでに体験した
めずらしいたべものを紹介している。
高野さんファンのわたしは、高野さんの本をほとんどよんでいる。
それでもしらないはなしがおおく、
もともとたべものへの関心がつよいので、たのしくよめた。
アフリカ・南アジアなど、地域ごとに章だてされており、
日本の章では7項目がもうけられている。
おもしろかったのは、ネコ用おやつの「ちゅ〜る」について。
ちゅ〜るはネコに絶大な人気があるおやつで、
しらないネコでも ちゅ〜るをあげると かならずたべてくれる。
そのときの反応は、すこしたべてみて「ん?」となり、
すぐに「はっ!」となって、夢中でたべだす。
あまりにもネコをとりこにしてしまうので、
なにかおかしな成分がふくまれているようにおもってしまうけど、
材料に問題はないようだ。マタタビがはいっているわけではない。

そのちゅ〜るを、高野さんががとりあげたのは、さすがといえる。
ネコだけのたべものにとどめず、
ちゃんと味をたしかめているからすごい。
もっともこのときは、料理研究家の
枝元なほみさんとの対談がきっかけだ。
枝元さんの手により ちゅ〜るはこじゃれた料理になっている。
クラッカーに蕪のスライスを載せ「まぐろ」のちゅ〜るをかけ、ピンク胡椒とイタリアンパセリを散らした見事な一品。パーで頼んだら千円ぐらしそう。(中略)シーチキンをとろとろにしてさらにうま味を加えたような、調味料なのか食べ物なのかよくわからない不思議な食感と味。世界のどこの国でも経験したことがない。

なんだかすごくおいしそう。
「これは人間用にしても受けるのではないか」と、
高野さんはネコと人間が、ちゅ〜るをあらそう日を予言している。

ちゅ〜るのほかでは、タイの東北地方でたべた
「虫パスタ」がおもしろかった。
タイの東北地方は昆虫食の本場として有名で、
このとき高野さんは「虫イタリアン」のお店をたずねている。
高野さんが「何品かたべてみたい」というと、
「まず虫を買ってきて」と店の若者が市場へつれていってくれた。
虫をつかった いくつかの料理をたべたあと、
さいごにでてきたのが「虫パスタ」だ。
食べてみると、トマトソースの深い味わいに感心する。よく熟れたトマトを使って、隠し味にタイの調味料のナンプラーを加えているという。まさに土地の食材と味つけをふんだんに応用した創作イタリアンの好例!なのだが、これも虫が多すぎ。だんだん、げっそりしてくる。
 そして、いったんげっそりしてしまうと、後は食べるのがとても苦痛になってきた。ゲンゴロウがゴキブリに酷似していることもあって、残飯のパスタの上に虫がたかっているようにしか見えなくなるからだ!
「残飯を食べている虫を食べている俺」というイメージが脳内をぐるぐる回ってとまらない。

お皿もられたパスタのうえを たくさんのゴキブリがはいまわり、
そのゴキブリ(によくにたゲンゴロウ)もろとも
残飯のパスタをたべようというのだから、
心理的につよい抵抗があるだろう。
「残飯を食べている虫を食べている俺」は、かなりトホホな場面だ。
昆虫食にわたしは偏見がないけど、ゴキブリだけはたべたくない。

posted by カルピス at 22:25 | Comment(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月19日

『ジョー・ブラックをよろしく』ブラッド=ピットとクレア=フォーラニの魅力が満載

『ジョー・ブラックをよろしく』
(マーティン=プレスト:監督・1998年・アメリカ)

(以下、ネタバレあり)
いまさらながらの作品だけど、みたのはこれがはじめてだ。
ストーリーは、いまさらだからかんたんにいえば、
死神としてこの世にやってきたジョー=ブラックが、
人間の女性にひかれていくはなし。
主役であるブラッド=ピットとクレア=フォーラニの、
ふたりの魅力をひきだすのに成功している。
ハリウッドらしくゴージャスにお金をかけ、
それがいいほうにはたらいて、きれいにしあがった。
まるでギャツビーみたいに豪華なビルの誕生日パーティーは、
それだけで映画が1本つくれそうだ。

わかいころのブラッド=ピットは、
あんなにもチャーミングだったのか。
おとこのわたしもいちころとなる。
カフェでたのしそうにおしゃべりするピットは、
笑顔がこぼれるだけで キラキラとかがやいている。
あいて役をつとめるクレア=フォーラニ(スーザン)の
表情ゆたかな演技もひかる。
どこかアンバランスな顔のつくりで、
まぶしそうに目をいろんな形にうごかし、
一瞬ごとに微妙に表情をかえてたのしませてくれる。
ちょっと顔で演技をしすぎかも、とおもえてくるけど、
非常に魅力的な表情なのはまちがいない。
むすめのスーザンが、情熱的な恋愛をしたことがないと
父親であるビル(アンソニー=ホプキンス)は気にしてたけど、
そんな心配などぜんぜんいらないほど経験豊富そうで、
じゅうぶん積極的にジョーの気をひこうとしていた。

冒頭の場面で、カフェをでたあと
ブラッド=ピットが車にひかれるのも
みるものにショックをあたえる。
これから活躍するとおもっていた主役が、
あっけなく、まちがいなく死んでしまった。
もしかしたらたすかるかもしれない、などという、
かすかなぞみさえ、ぜったいにのこさないハデなぶつかり方だ。
ピンボールみたいに、なんども車がぶつかって はねあげられる。
「映画の『ジョー・ブラック』で、
ブラッド=ピットが車にひかれたときのような事故」と
のちのちまで比喩としていいつたえられるのではないか。

有名な場面では、ジョーがおいしそうに
ピーナツバターをなめるのが印象にのこる。
女性はピーナツバターのついたサジを
ペロペロなめるような男にひかれがちなのだろうか。
そこがブラッド=ピットのうまさで、
わたしがやればただ行儀のわるい動作でも、
彼が自然にふるまうと、まったくちがう効果がうまれてくる。
ジョーは社会性がないため、はずかしさをかんじない。
そんなジョーが、おちついて、堂々とふるまえば、
どんな場所であり、そしてどんなひとがあいてでも通用する。

そんな彼が、はるかに年うえのビルにたいし、
「君」とはなしかけるのもうまい。
死神だから、立場はジョーのほうがまさっているし、
なにしろ高貴な精神のもちぬしなので、
あいてがどんな権力者でも、年齢がうえでも、関係ない。
さいごは、ビルだけを あの世におくりこみ、
ちゃっかり自分だけかえってくるずうずうしさもいい。
ただ、このときは、死神のジョー=ブラックではなく、
なぜかカフェではじめてあったときの青年にもどっていた。
あれだけハデな事故でも、やっぱり主人公は死ななかったのだ。
鉄板のパターンとして、冒頭の死は、伏線である場合がおおい。
そして、その伏線は、じょうずに回収された。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月18日

『夜廻り猫』がすごいことになってる

いま『夜廻り猫』がすごいことになっている。
子ネコの重郎がとつぜんいなくなり、
親がわりの遠藤さんと、アニキ分のニイは、
しんぱいしてさがしまわる。でもみつからない。
ニイは、いてもたってもおられず、なわばりのそとへ足をのばす。
2匹のわらいネコにおそわれ、ちからつきて たおれるニイ。
ニイをたすけたのが、ふしぎなネコ一家で、
子どもたちと、しっぽを2本はやしたおとなのネコが、
人間の青年といっしょにくらしている。
ニイは、重郎という子ネコをさがしていること、
重郎は、お店やさんがすきなことを たすけてくれたネコにはなす。
かれらは、お店やさんをひらけば、
重郎についてのしらせが あつまってくるかもしれないし、
重郎ほんにんがもどってくるかもしれないと、案をだす。
ネコたちは、お店の設計図をかき、必要な資材を人間の青年にたのむ。
遠藤さんのなわばりをゆずってもらい、
重朗が夢みてたようなお店を ネコたちがあつまってつくりはじめる。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/595/1

かいていても、なんのことかわかりにくい。
とにかくすごいことになっているのだ。
26話で完結する予定で、いまが第21話。
きっと重郎はぶじにかえってくるのだろうけど、
どんなお店ができあがるのか とても気になる。

冷静になってかんがえれば、ネコたちが協力しあって
いなくなった重朗をさがしたり、お店をつくったりはしない。
そんなこと、するはずがない。あたりまえだ。
そこを『夜廻り猫』はさらっとクリアーして
リアリティーのある世界をつくりあげているからすごい。
もうすぐ夢のようなお店ができあがる。
あたたかな色づかいで、善意にみちた世界をえがく
深谷かほるさんの仕事に いつもはげまされている。

わがやのココは、生後1年4ヶ月となり、
どうやら子ネコの時期をだっしつつあるようだ。
おもちゃであそばなくなり、よけいなうごきがすくなくなってきた。
網戸をおしたおし、自分で外へでることをおぼえ、
家だけでなく、ひろい世界があるのをたのしんでいる。
ココが老人になるころ、わたしもまたリアルな老人だ。
いっしょに年をとろうね、とはなしかけている。
F4PG-Yag00mgzBCL5_V0hCpAN7zaC9ztSeAE3ChwAElGNM6uP8aR-Z2mIci45C22WFKr2hk6bF06yRa44YREP1csoZVocrpe1DTlfhYCHc9Ypsl3Pj27V2iiUxhtS0vKeuwnOqbp8wdMEZJSE8cB3GZ22kC24Tk611-oL2C4fqWwqPZ4yIunGK0D-p62RUszgo8ipTWkzAP8oCr0qlT6BDMP.jpg

posted by カルピス at 18:31 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

夏やすみのふりかえり

デイリーポータルZをまいにちチェックしている。
すきなライターや、このみの企画がこのごろはっきりしてきた。
そのなかのひとつに、「公開した記事のみどころ」がある。
https://dailyportalz.jp/kiji/digest-20190808-0814
わたしには、おもしろさがわからなかった記事でも、
こうやってみどころをこまかにしめしてくれると
記事の意図するところがようやく理解できる。
たとえば、「山で肉を焼いて喰う技術」は、
https://dailyportalz.jp/kiji/technology-of-grilling-meat-in-the-mountains
わたしがすきな松本圭司さんによる記事で、はじめによんだときは、
いつもとちがうかたりかけなのでなじめなかった。
編集部の石川さんにより、松本さんの記事は、
どれもいくつも「あそび」がかくされているのをしる。
https://dailyportalz.jp/dpq/10036
以前の記事「おむすびとサンドイッチの具を入れ替えてみた」を例に、
ネタ元をあかされると おどろいてしまった。
こんなの、わたしにわかりっこない。

というわけで、「みどころ」ではないけど、
わたしも自分の夏やすみをふりかえってみたい。

きょうで6日間の夏やすみがおわる。
夏やすみにはいるまえ、目標として

・たくさんあそぶ
・たくさん本をよむ
・映画をいちにち1本みる

という、はなはだ具体性にかける3つをあげていた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/468796863.html?1566038885
それぞれについてふりかえってみると、

・たくさんあそぶ
 シュノーケリングを2回・ウォーキングを1回
 ジムでのトレーニング1回・ジョギング2回

・たくさん本をよむ
 よみおえた本は『居るのはつらいよ』(東畑開人)だけだけど、
 『書評家稼業四十年』(北上次郎)
 『辺境メシ』(高野秀行)
 『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(高野秀行・清水克行)
 の3冊を、いま並行してよんでいるところ。

・映画をいちにち1本みる
 『パッチ・アダムス』
 『ブリッジ・オブ・スパイ』
 『50回目のファースト・キス』
 『ソウル・サーファー』
 『ビール・ストリートの恋人たち』
 『ジョー・ブラックをよろしく』
 をみる。

このほかのできごととして、
夏やすみのあいだに、台風10号が島根をとおった。
直撃したはずなのに、たいした暴風雨はなかった。
テレビのニュースがつたえる とおくの県のようすをみると、
島根よりもずっとひどい被害がでていた。
そのくせ、台風がさって2日たつのに、
まだつよい風がふいている。ふしぎな台風だった。
おわってみれば、じゅうじつした夏やすみだった印象がある。
今夜はジントニックで乾杯したい(いつものことだけど)。

posted by カルピス at 20:11 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

『50回目のファースト・キス』最高のハッピーエンド

『50回目のファースト・キス』
(ピーター=シーガル:監督・2004年・アメリカ)

夜ねむると、まえの日の記憶を
すべてわすれてしまう女性(ルーシー)と、
彼女にひとめぼれした男性(ヘンリー)のものがたり。
映画としてはめずらしくない題材なので、
いくらでもかなしく、深刻につくれるところを、
どうやって、じゃないほうへもっていくかがキモとなる。
この作品は、みごとにロマンチックコメディにしあげた。

まえの日の記憶がなくなるのだから、
いくらその日のできごとがたのしくても、
つぎの日にはもうおぼていない。
恋愛は、相手との共通な体験をつみあげながら
ふかい関係をつくっていくものなのに、
ルーシーにとって、すべてがはじめてのできごとだ。
ヘンリーはルーシーにあうたびに
あらためて いちから彼女の気をひかなくてはならない。
バッテリーがあがったふりをしたり、
強盗におそわれた演技をしたり、
いろんな工夫をしながらヘンリーは
ルーシーとはなすきっかけをつくる。
つぎの日になると わすれてしまうのだから、
おなじパターンをくりかえしてもいいはずだけど、
あれやこれやの熱意が みるものをひきこんでいく。
まいにちルーシーとのであいを はじめからやりなおして
彼女の気をひくヘンリーって、かんがえてみたらすごい。
映画のなかでもいっていたけど、
どうせひとばんねたらわすれてしまうのだから、
彼女にあきたら ただあわないだけで、
あとくされなくチャラにできる。
でも、ヘンリーはルーシーとかかわりつづける。
それだけの魅力がルーシーにはある。
あきらめないヘンリーのおもいが、
この作品をせつなく、うつくしくしている。

状況が深刻なだけに、ふたりをとりまくメンバーは、
かるさが大切になってくる。
ヘンリーがつとめる水族館の動物たち。
ヘンリーの同僚であるゲイの男性。
ルーシーの弟である筋肉バカの青年。
ヘンリーのともだちのウーラとその家族。
彼らの存在が、おもくなりがちなテーマを
みごとにあかるくもりあげてくれた。

ルーシーが記憶をうしなう原因となった事故は、
牛をよけようとしておきた。
牛はそのあとどうなったか。
まいにち自分が牛であるのをわすれるそうだ。
こうしたわらいがこの作品の底にずっとながれている。
そしてラストは ありえないほどみごとなハッピーエンド。
みおえたあとのここちよさが最高の作品だ。

posted by カルピス at 09:26 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月15日

『居るのはつらいよ』(東畑開人)「いる」のがつらい理由とは

『居るのはつらいよ』(東畑開人・医学書院)

よくありがちなタイトルをみて、
かるめのエッセイかとおもっていたら
ぜんぜんちがった。

臨床心理学の博士号をとった著者の東畑さんは、
はじめての仕事として就職先をさがす。
条件は、カウンセリングがおもな仕事で、
家族をやしなえる給与がもらえること。
東畑さんは、専門性をいかし、
ケアではなくセラピーがしたかった。
ようやくみつけた職場が 本書の舞台となる沖縄のデイケアだ。
初日にいわれたのは
「とりあえず、あんたはそのへんに座っといてくれ」。

デイケアとは、精神障害のひとがいちにちをすごす場所で、
日中の活動としてラジオ体操や調理など
いくつかのプログラムがあるものの、
おおくの時間はなにもせず、ただ「いる」だけが仕事となる。
専門性をいかしたい東畑さんにとって、
ただ「いる」は とてもたいへんなことだった。
「居るのはつらいよ」って、そういうことね、
とわかったような気になっていたら、
もっといろんな意味がタイトルにはこめられていた。

社会とかかわることがにがてで、
居場所のないメンバーたちにとって、
ただ「いる」ことがどれだけ大切か。
あつまってくるメンバーたちにたいし、
スタッフがお世話をするのが仕事だと、
一般的にはおもわれがちだ。
しかし、スタッフは、ケアをするだけでなく、
ケアをされるのも大切な役割となっている。
そう、教祖様とか、ホストクラブとか、アイドルとか、デイケアスタッフとか、これらはすべてケアされることで心をケアする仕事なのだ。心を使って、心に触れて、心に良きものをもたらす仕事は、ケアしてもらうことでケアをしているというふしぎなことが起きる。

このまえみた『パッチアダムス』でもおなじようなことをいっていた。
医者と患者に上下関係はなく、おたがいにいやしあっていると。

ただ「いる」ことが保証されるデイケアって、すばらしい。
「いる」ことのふかい意味に感心してよみすすめていると、
さいごに大どんでんがえしがまっている。
「いる」ことで、いいおもいをしているのはだれか?

この問題は、医療報酬とかかわってくる。
ただ「いる」だけで、おおくのお金が
デイケアの運営母体である 精神病院にはいってくる。
ブラックデイケアは、メンバーをかこいこみ、
デイケアにかよわなければ生活できないしくみをつくりあげる。
東畑さんがつとめるデイケアは、そこまで悪質ではなかったけれど、
ただ「いる」だけのデイケアは、
このままでほんとうにいいのかと 東畑さんはなやむ。
「いる」の本質的な価値が見失われているのに、ただ「お金になるから」という倒錯した理由で「いる」が求められる。そのとき、「いる」は金銭を得るための手段へと変わる。

「ただ、いる、だけ」に毎日一人当たり一万円近い社会保障財源が投入されており、それを支えることで自分に給料が支払われているという事実に向き合ったときに、僕らは居心地が悪くなる。(中略)
 僕らの国にはいっぱい借金があるし、これから子どもは減り、高齢者が増えていく。税収は減り、社会保障財源はうなぎのぼりだ。そういう限りある予算のなかで、「ただ、いる、だけ」にお金がつぎ込まれる。それでいのか?もっと効率的にならないか?

そこで、ケアよりもセラピーに価値がおかれ、
ケアにも効率的な運用がもとめられるようになる。
しかし、そもそも社会となじみにくいメンバーたちに
「ただ、いる、だけ」を肯定することで
居場所を保証するのがデイケアではないのか。
ケアという親密な「依存」を原理としている営みは、「自立」した個人の集合体である「市場」の外側にあるはずだからだ。
 おかしいのだ。サッカー場の外の公園で一日絵を描いていた人が、「お前、今日、一点もゴール決めてないよな」と言われるようなものだ。サッカーをしていない絵描きが、サッカーの論理で評価されている。

もともとケアではなくセラピーがやりたかった東畑さんは、
ケアがになっているさまざまな役割を職場のデイケアでしる。
デイケアにつとめはじめたころ、
ただ「いる」だけでも 東畑さんにはたいへんだった。
でも、そのうち「いる」の意味ぶかさをしり、
ケアとセラピーは、どちらもたいせつだとわかってくる。
しかし何年かはたらくことで「いる」の構造的な問題がみえてくる。
「このままで、いいのか」と東畑さんはといつづける。

よみおえたあと、プロローグをよみかえしていたら、
そう、この本は「居る」を脅かす声と、「居る」を守ろうとする声をめぐる物語だ。

と、はじめにちゃんとかいてあった。
おわりまでよみとおしたあと、ようやくその意味がわかる。

posted by カルピス at 11:13 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月14日

林雄司さんがかたる「南極探検につれていけるかどうか」の視点

デイリーポータルZの林雄司さんは、
仕事ができる人に会うと「この人は南極探検に行っても
生きて帰ってこれそうだな」と考える癖がある。
そうだ。
http://yaginome.jp/?p=2300
逆の場合、「この人、全滅させるな」とか「この人はチームに入れないでおこう…」とこっそり思っている。

がおもしろい。
林さんはウェブマスターをつとめているので、
複数の人間によるチームをつねに想定するのだろう。
林さんでなくても、たいていの仕事はチームでやるし、
だれかとかかわらずにすすめられる仕事はすくないだろうから、
おおくのひとにとって、南極探検につれていけるかどうかは、
たいせつな視点かもしれない。
林さんはリーダーシップについてふれているのではない。
チームの一員として、適切なふるまいができるかどうか、をみている。
リーダーシップを発揮するタイプではないけど、
自分のもち味をいかしてチームに貢献できるひと。

客観的にみて、わたしは逆境によわく、
ちょっとしんどい場面になると弱音をはいてしまう。
チームにこんなやつがいると、みんなのやる気に影響をあたえるので、
わたしを南極探検隊につれていかないほうがいいとおもう。
南極ではかんたんにボロをだすにちがいないけど、
日常の仕事ではそのボロをかくせているだろうか。
南極ではだめだけど、ハードでない場面なら大丈夫、
というのはありだろうか。

サッカーの試合をみていると、とくにゴールがきまった場面では、
おおくの味方があつまって、めちゃくちゃに祝福する。
ひごろ、いやななつだとおもってるひとだっているだろうに、
なにもかもわすれ、笑顔で得点をたたえる。
ゴールには、それだけひとを浄化させる
絶大なエネルギーがあるのだろうけど、
もともともっていた人間性というのもおおきいにちがいない。
ここでもわたしは、よいメンバーになれそうにない。
きらいなやつがあげたゴールには、
ひきつった笑顔しかできないとおもう。
つまり、僕は会社員を始めてからずっと南極に行くメンバーを探しているのだ。
60ぐらいで南極に行くのかもしれない。

さむさがにがてはわたしは、そもそも南極にむいていない。
よいチームメイトとしての資質もない。
そんなわたしが、どんな形でなら、
南極探検にかかわれるかがわかれば、
このさきの仕事や生き方にいかせそうだ。
得意をいかすのはむりなので、不得意で勝負できないものか。

posted by カルピス at 20:18 | Comment(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月13日

ウォーキングのあとシュノーケリング

きょうの企画は、レース仲間といっしょに、ウォーキングと
そのあとにつづくシュノーケリング。
あるいたあとの海がごちそうなので、
あるいているときはあつくても、
海をおもえば げんきがでてくるだろう。
海ぞいに「チェリーロード」という、
5キロほど桜並木のつづく道があり、
そこを中心に 20キロを目標にあるく(結局16キロにおわった)。
くねくねした道なので、木のかげになる場所がおおく、
すずしい風もふいていて、あつさをほとんどかんじない。
ときどき海をのぞむ みはらしのいい場所もあり、
目をやすませてくれる すてきなコースだ。
チェリーロードがおわり、おおきな道に合流すると、
とたんに熱風がふいてきた。
3℃くらいチェリーロードのほうがすずしい。
AeTK_drKjlyVWSk-vPma6N6oaCC3vpHERVBTdXt1-v9nP3cNvS09RG4ZXAdit0lQiF6jQH5vUb-8EgsiEwZBMaRPUlzTgYGoMfhrllbHCHeFIflx-rXGL_Z5NIPL8WA2C6lwXOwwxbr2u35ONW-ws-IbciU2Qcd2vNWNXQrgx3IEnXWEKOxEce8-M3Or2DHlo2SEFaf-zJkDTarZxmVEdDr6.jpg
ビーチには、テントでとまりこみの海水浴客がたくさんいた。
海でのキャンプなんていうとたのしそうだけど、
あつくてたいへんなのではないか。
ひとがおおいほど水の利用やトイレに不自由しそうだ。
すずしくて、しずかな場所でのキャンプはやりたいけど、
夏の海は、わたしのこのみにあわない。
そんなことをいっているわたしだって、
あついなかを意味もなくあるいているのだから、
キャンプをする側からみたら、へんなひとたちにちがいない。

でも、わたしには、あるきのあとに海がまっている。
台風の影響もなく、きょうも波はしずかでひともすくない。
シュノーケリングでからだをひやし、防波堤にあがると、
地元のひとがこちらにあるいてきて、
花火の準備がしてあるから、たちいり禁止になっている、という。
どうりでひとがすくないわけだ。
わたしたちは、すこしはなれた場所からおよいできたので、
禁止をしらせる看板に気づかなかった。
さいごの海は、へんなおわりかたになったけど、
合計6回も海にこれたのだから、いい夏だったといえるだろう。
お盆があけると、クラゲがでてくるので、もう海には はいれない。
8月13日で夏がおわった、というとへんなかんじだけど、
海にかんしては、ほんとうにきょうがさいごとなる。
もうあつさはいいので、お盆あけからは すずしくならないものか。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月12日

きょうから6日間の夏やすみ

きょうから6日間の夏やすみがはじまる。
おとなになったいま、たった6日でも
つづけてやすめるのはうれしい。
せっかくの夏やすみなのだから

・たくさんあそぶ
・たくさん本をよむ
・映画をいちにち1本みる

と目標をかかげる。
具体性がなく、いかにもやりそうにないかんじ。
そこらへん、小学生のたてる目標みたいで、
やすみまえの興奮がつたわってきそうだ。

いちにちめのきょうは、「たくさんあそぶ」べく
ことし5どめのシュノーケリングへ。
5回も海にいったのは、こどものころをふくめても はじめてだ。
きょうは、30分ただよい さむくなったところで、
防波堤にあがってやすむ。
強烈な日光をあびると、ひやけがひどくなるけど、
ひえたからだにはここちよい。
『異邦人』のムルソーは、海へおよぎにいくと、
おたがいにすこし意識しあっていた かつての同僚にであい、
ちゃっかりなかよくなるのだけど、
わたしが海へいっても もちろん なにもおこらない。
小説のなかで、ムルソーが、あおむけになって波にただよいながら、
くちにふくんだ海水をくじらの潮ふきみたいに
空中へふきだすあそびを紹介している。
それをためしてみたかったけど、シュノーケルをつけていると
背およぎができないのに気づいた。
シュノーケルをはずせばいいのだけど、
こんどプールでつかうゴーグルをもってきてためすことにする。

家にもどると、部屋の温度が32℃もある。
海のあとのひえたからだには、エアコンがなじまないようにおもえ、
ゴザをしき、せんぷう機をかけてひるねをする。
ちょうど30分で目がさめる。そのままよみかけの本をひろげる。
海にひるねに読書。ここは天国ではないか。
『居るのはつらいよ』(東畑開人)がおもしろい。
統合失調症のひとたちがあつまるデイケアが舞台で、
臨床心理士の東畑さんが、「居る」ことの意味、
ケアとは、セラピーとはを、やわらかい表現でつづっている。
障害者介護にたずさわるわたしにも関係するはなしがおおく、
「居る」のができないから
「する」でごまかしている自分に気づかされる。

映画は、いちにちめから、消化できなかった。
音楽遊覧船の「映画音楽ワールドツアー」でとりあげていた
・『ブリッジ・オブ・スパイ』
・『50回目のファーストキス』
・『ニューヨークの恋人』
・『ジョー・ブラックをよろしく』
・『ソウル・サーファー』
・『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』
をみていくつもり。

posted by カルピス at 20:30 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする