2019年08月11日

ネガティブといいながらも、じょうずにマラソンとつきあう角田光代さん

せんじつとりあげた角田光代さんの
『なんでわざわざ中年体育』で
かきわすれていたことがあった。
角田さんは、練習がすきでないばかりでなく、
レース本番でもときめかないひとだ。
いやだいやだとかきながら、
初心者のレベルをこえた体験をつんでいるけど、
基本的に練習や本番がすきでないという点で、
わたしとよくにている。
よく、レースになるとアドレナリンがかけめぐって、
なんていうけど、
わたしはつねに冷静、というか、
もりあがらないまま スタートの合図をまっている。
どちらかというと、やだな〜という気分にちかい。
頭では、レースにでられるしあわせ、とか、
この場にたてたことをありがたくおもう、とか
もっともらしいフレーズをつぶやくけど、
エントリーしたのだから、しかたなく、
という超ネガティブな参加だ。

ここまでは角田さんとにてるけど、
ベスト記録を更新したときに角田さんがおもったのは、
今度はこのタイムと戦い続けねばならぬのか、という、またしてもネガティブなことである。

「今度はこのタイムと戦い続けねばならぬのか」
というぐらいだから、さらにタイムをちぢめようと
「戦う」つもりがある。
気もちはネガティブかもしれないけど、
さらにうえをめざすのがしんどい、といっているのであり、
記録の更新をあきらめてはいない。

わたしの場合は、4時間51分から、13分ちぢめて
4時間38分ではしった。
練習とおなじ1キロ6分30秒のペースで
42キロをはしりとおしたことになる。
エイドでは、足をとめて水やエネルギーを補給したので、
はしるスピードは1キロ6分そこそこだったはずだ。
あきらかにできすぎで、そんなタイムを、
わたしはもう 2どとだせる気がしない。
ものすごく くるしい練習をつめば、
もしかしたら すこしはちぢまるかもしれないけど、
もうそんなガッツはのこされていない。
角田さんとちがい、「戦う」つもりがない。
2年まえのレースをおえてから、
フルマラソンをはしる気にならないのは、
もともとはしるのがすきではないことにくわえ、
記録をちぢめるのが無理だとあきらめているからだ。

角田さんは、ベスト記録をだしたあとも、
いくつものレースに参加して、いいときも、わるいときも
なんだかんだとたのしんでいる。
レースは記録だけをめざすものではない。
ネガティブといいながらも、
角田さんはじょうずにマラソンとつきあっている。
レースはくるしいのがあたりまえで、
参加しない理由はいくらでもあげられる。
「参加しない」という選択は角田さんのなかになく、
ネガティブでも とにかくレースにでつづけているのがすばらしい。

posted by カルピス at 22:08 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月10日

糸井重里さんの「夢をあきらめ、ほんとに助かったよ」に共感する

すこしまえの「今日のダーリン」に
夢をあきらめて、ほんとに助かったよ、と
糸井重里さんがかいている。
どういうことかというと、
糸井さんがむかしなりたかったマンガ家に、
もしかなりの努力をはらい なっていたとしたら、
水木しげるさんや吉田戦車さんの
「しょうばいがたき」になっていたということで、
危なかったぜ! ほんとうのじぶんより40倍くらい
才能があったり努力ができたりしていたら、
もっとずっとキビシイ人生を送っていたにちがいない。 (中略)
夢をあきらめ、努力もせずに生きてきてどうでしょうか。
結論的に言えば、ほんとに助かったよ、でした。

というはなし。
糸井さんだったら、かなりの人気マンガ家として
わたしたちをたのしませていたとおもうけど、
まあ、ご本人がそういわれるのだから、
そういうことにしておくとして、
夢をあぎらめるな、あきらめないかぎり夢はかなう、
みたいなことをよく耳にするけど、
あきらめといて「ほんとに助かったよ」は
あまりきかれない発想なのでおもしろかった。

わたしは、小学生のときにプロ野球選手、
そのあとは『野生のエルザ』の影響で、
アフリカの自然公園につとめる狩猟監視官を
ばくぜんと夢みていた。
とはいえ、そのために具体的な努力をはらったわけではなく、
なにもしないまま、まったくの夢でおわっている。
おとなになってからも、とくになにかをめざしたことはなく、
夢にむかってあきらめずに努力するよりも、
はやばやと、なにかをめざしてがんばるのをやめた気がする。
そんな消極的な生き方を、いまになって後悔しているわけではなく、
糸井さんとはちがう理由から
「夢をあきらめ、努力もせずに生きてきてほんとに助かったよ」
とおもう。
もし夢にむかって生きていたら、
くるしさにたえきれず、もうすこしのところでやめてしまい、
ふかい挫折感をあじわっていたのではないか。
そのキズをひきずって、ずっと後悔するよりも、
わたしみたいなヘタレは、はやめのリタイアがちょうどいい。
それはそれで ひとつの人生としてなりたちそうだ。

posted by カルピス at 21:32 | Comment(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月09日

配偶者の実家へ草かりに

配偶者の実家へ草かりに。
義理の父が、「サービス付き高齢者向け住宅」でくらすようになり、
配偶者が家の管理すべてをになっている。
家まわりだけでなく、畑やお墓もあるので、
草がのびる時期には毎週のように草かりにでかけている。
わたしは、年にいちど、お盆まえに草かりを手つだって
アリバイづくりというか、お茶をにごすというか、
すこしはかかわった実績をのこそうとしている。

いまは女性むけに電動式の草かり機があり、
配偶者をおもにそれをつかって家まわりをきれいにたもっている。
わたしはつかったことがないけど、
刃はチップソーで、ガソリン式の草かり機といっしょだ。
やわらかい草なら、電動式でもじゅうぶん役にたつ。

わたしは、ガソリン式の草かり機をつかう。
刃がふるかったので、あたらしものにとりかえた。
新品の刃は、バリカンで髪の毛をかっていくみたいに草がよくきれる。
夏のあつい日に、草をかるといえば、
村上春樹さんの「午後の最後の芝生」にとどめをさす。
わたしはこの作品を頭におもいうかべながら草をかった。
「僕」は、ざっと機械で芝をかってから、
あとはハサミでこまかなしあげにはいる。
家まわりの草かりは、まさかハサミでしあげをするほど
ていねいな仕事はしない。
草刈機だけで、できるだけ効率よく草をとりのぞくだけだ。
そういえば、「午後の最後の芝生」は、
めちゃくちゃあつい夏のいちにちという設定だけど、
よくよむと、7月14日のできごとなのがわかる。
梅雨がまだあけない7月14日なのに、
太陽はじりじりと肌を焼いた。僕の背中の皮はきれいに三回むけ、もう真黒になっていた。

7月14日までに、皮が3回むけるって、ほんとうなのか。
なかなか油断できない小説だ。

午前と午後にかけ、3時間ほどで草かりをおえる。
ふだんひとがすまない家でも、
こうやって草かりだけはつづけないと、
草はすぐにのびて家や畑をのみこんでいく。
田舎に家があるというと、
牧歌的で ゆったりしたくらしをイメージするけど、
草かりだけをとっても やらなければならない仕事がたっぷりある。
高齢化がすすみ、わかいひとがすくない地方では、
家をおなじ状態にたもつだけでも そうかんたんではない。
配偶者は、このさきどうやって、家をたもっていくつもりだろう。
そしてわたしは、いつまで草かりを手つだっていくだろう。
いまはまだからだがうごいても、
われわれはじきに老夫婦となり、草かりができなくなる。
とりあえずきょうの草かりはおえたけど、
ちかい将来をすこしかんがえるだけでも、
わりと気のおもくなる夏のいちにちだった。

posted by カルピス at 18:18 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月08日

盲・ろうランナーの伴走を体験する

わたしがつとめる介護事業所から、
盲とろう障害をもつランナーの、伴走をしてほしいと
はなしをもちかけられた。
障害者サービスとしてではなく、まったくのボランティアだ。
9月に茨城でひらかれる 障害者の全国大会に出場するため、
練習をつんでおきたいという。
これまで自分のためだけにはしってきたわたしは、
なんらかのかたちで ひとのやくにたちたいとおもっていた。
わたしのレベルで はたしてやくにたてるだろうか。
その方は、「あるくよりすこしはやい程度」のはしりというで、
だったら、わたしでも大丈夫だろう。
でも、盲・ろう障害のひとと、
どうやってコミュニケーションをとればいいのか。
すこし視力があるので、普段は、手話によるやりとりらしいけど、
わたしは手話がまったくできない。
わたしにはなしをもってきた 職場のひとにきくと、
手のひらに 指で字をかけば、たいていのことはわかるそうだ。

きょうが伴走の1回目。
なんどか依頼主とコミュニケーションをとったことのある同僚と、
ふたりで自宅へむかう。
同僚にわたしを紹介してもらい、
これから車でちかくの運動公園へいきましょうとつたえる。

盲・ろう障害のひと、というと、
ヘレンケラーみたいな聖人をおもいうかべるけど、
今回いっしょにはしることになった方は、
わたしと同年代で、かるいのりのおじさんだった。
ろう障害でも、あるていどはなせるので、
わたしとは、手のひらに字をかきながら、
かたことのことばをやりとりして コミュニケーションをとる。

運動公園は、外周が1キロだとつたえると、
2周して、休憩をとり、そのあとまた2周する、といわれる。
ながめのてぬぐいでつながり、ゆっくりはしりだす。
きいていたとおり、あるくより、すこしはやい程度のスピードで、
わたしのレベルでもなんとかつきそえた。
夕方5時とはいえ、まだあつさがきびしく、
はしりなれておられないのでつらそうだ。
2周はしったところで、あついから、
きょうはこれでやめる、といわれる。
脈拍をとってみると、160まであがっており、
2周でやめて正解だったかもしれない。
しばらくしてもういちど脈をはかると
130までさがっていたので安心した。

ベンチにすわって やすみながらおしゃべりした。
わかいころは、陸上の選手だったそうで、
はしりはばとびでは、5メートルもとんだという。
9月の大会では1500メートルのほかに、
やりなげと砲丸なべにも参加する予定らしい。
これからやりなげをならう、といわれる。
全国大会では、おおきなメダルがもらえるので、
たくさんもらってかじりたいそうだ。
島根の大会は、メダルがちいさくてしけていると、
わらいながらはなす。

このかたは、はじめは「ろう」だけの障害だったのに、
おとなになってから盲の障害もひきおこしている。
わたしなら、とてもたちあがれないダメージにちがいない。
でも、このかたは、あかるく、なんでもわらいとばす。
脈をとっていると、大丈夫か?もうだめだろう、
救急車をよんでくれ、とわらいながらいわれる。
くらい影をすこしもかんじない。
わたしとは、まったくちがう世界に身をおきながら、
こんなにも まえむきに生きられるのだとおどろかされる。
盲とろうの重複障害など、すこしもかんじさせないかるさがある。
家までまた車でおくると、ありがとうございましたと手話でつたえ、
すぐに玄関の鍵をあけてなかにはいられた。
サバサバしたおわかれがここちよかった。

posted by カルピス at 21:19 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月07日

池澤夏樹さんが紹介する「祖先の道たどる 海図なき実験」

きょうの朝日新聞に、池澤夏樹さんが
「祖先の道たどる 海図なき実験」として、
日本列島人の起源について記事をよせている。
「日本という国ができる前の話だから、日本人ではなく
日本列島人」なのだそうだ。
ホモ=サピエンスは、海をわたって日本列島にやってきた。
では、どこから、どうやって?
池澤さんは、国立科学博物館の海部陽介さんによる
船をつかった実験に興味をひかれた。
海部さんは、台湾から与那国島へ古代航法でわたり、
そのルートでの日本列島への移動が、
不可能ではなかったことをしめそうとしている。

わたしは、7万年にアフリカをでたホモ=サピエンスが、
ユーラシア大陸ぜんたいにひろがって、
ついには南米のさきっぽまでたどりつき、
やがて大陸だけでなく、世界じゅうの島へわたっていった
フロンティア精神に いつもおどろかされる。
ネコについているノミが、べつのネコにひっこすのとわけがちがう。
いまの場所にとどまっていれば、それなりのくらしができるのに、
この海のさきに、なにがあるのか、
はっきりした情報はなにもないのに、
おおくのホモ=サピエンスが海へとこぎだしていった。
どれだけの距離をすすめば、島につくのかはわからない。
それでもなお、彼らは海をこえずにはおれなかった。

移動しつづけることは、彼らにとってそれほど大胆な判断ではなく、
自然なふるまいだったのかもしれない。
そうやってホモ=サピエンスがユーラシア大陸全土に
ひろがっていったわけで、
そのながれとして、海をわたるのにも、
さほどの抵抗がなかったともかんがえられる。
おなじ土地にとどまるうちに、食料がとぼしくなれば、
あたらしい場所へうつりすむのはあたりまえともいえる。

池澤さんが紹介している海部さんの実験は、
台湾から船をこぎだして、45時間後に与那国島へたどりついた。
それはそれでたいへんな成功だとおもうけど、
しかし、島についたからといって、
そこにじゅうぶんな水があるかどうか、
また、食料となる動物がすんでいるかはまだわからない。
3万年まえに海をわたったホモ=サピエンスは、
どんな状況にでも対応できるだけの、
そうとうすすんだ技術と能力を身につけていたにちがいない。
あたらしい土地で、ゼロからくらしをつくりあげる自信があるから、
リスクをおかして海へこぎだせる。
たくましい生活力を身につけた彼らが、
日本列島にたどりついたとき、
とうぜんながら、そこはひとがまだだれもすんでいない。
目のまえにひろがる広大なフロンティアは、
彼らにとって、おおくの獲物にめぐまれた、
楽園のような土地にみえたのだろう。
タグ:池澤夏樹

posted by カルピス at 20:39 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月06日

『なんでわざわざ中年体育』(角田光代)

『なんでわざわざ中年体育』(角田光代・文藝春秋)

角田さんがいろんなスポーツ
(フルマラソンやトレイルラン、ヨガに登山など)
に挑戦し、その体験を記事にまとめたもの。
文藝春秋が季刊発行している雑誌「Number Do」に連載されたという。
角田さんはわかいころ運動にまったく興味がなく、
しりあいが代表をつとめるランニングクラブの
のみ会に参加したくて週末のランニングをはじめている。

ひとがスポーツにとりくむはなしがだいすきなので、
この本はわたしにとって「おもしろいにきまっている」本であり、
じっさいどの記事もたのしくよんだ。
角田さんのフルマラソンのベストタイムは、
ながいこと4時間40分ちょっとで、
なんかいはしっても、40分をきれなかった。
4時間38分がベストタイムのわたしは、
それをしってほくそえんだのだけど、
角田さんは、ロッテルダムマラソンで、
みごとにベスト記録を更新し、4時間26分をマークしている。
20キロを5分30秒のはやさですすみ、
用心のため6分30秒までペースをおとしたというから、
スピードも、持久力もわたしよりうえだ。
週末しかはしってないそうだけど、
あんがいすくない練習量が いい影響をあたえているのかもしれない。
気もちが新鮮なままだし、からだにつかれがたまらないし。

スポーツをはじめるというと、
健康のためや、体型のためかとおもうけど、
角田さんは、どのスポーツも健康維持とは関係がないそうで、
いちばん興味を引かれるのは「体力作りに有効かどうか」ではなく、「自分にできるかどうか」なのだ。(中略)どうも私は、「何かいいことがある」ということが、運動を続ける動機にはならないらしい。「筋肉がつく」「痩せる」「ボケ防止になる」等々、何かしら、肉体的に得をすることがあるらしい、と思っても、やる気にはならない。

なぜ運動をするのか、理由がきれいに整理されているひとは
あんがいすくないのではないか。
みんなそれぞれ矛盾をかかえたまま、
なんだかんだと あたまをごまかして運動をつづけている。
はっきりとした目標があればつづくかというと
それがまた そうではない。
スポーツクラブにはいっても、だんだんいく回数がへり、
やがて退会するするひとがどれだけおおいことか。
目にみえた効果をあげようとおもえば、
週に1どや2どのトレーニングではたらない。
毎日、もしくは1日おきに、自宅でも腹筋運動のできる意思の強さがあれば、何もスポーツクラブに通わなくともよいのではないか。みんな、それができないとわかっているから、「それならせめてスポーツクラブで」と思い、入会するのではないか。(中略)なんたる皮肉だろう。自分で毎日できないからスポーツクラブにいくのに、毎日がんばるくらいスポーツクラブでかんばらないと理想体型にはならない。

おもしろかったのは、メドックマラソンでの体験だ。
フルマラソンをはしりながら、
オードブルにはじまりデザートまでをたのしみ、
そのあいだ、数キロごとに上等なワインをのめる有名なレース。
必須ではないものの仮装を奨励されており、
角田さんはまつりのハッピとちょんまげのカツラを身につける。
いつもネガティブな気もちでランニングをしている角田さんは、
「一度でいいから、たのしいたのしいと思いながら走ってみよう」と
この日の課題を、「たのしむ」とし、レースにのぞむ。
わたしもメドックマラソンにあこがれてはいるものの、
酒によわいので、ワインをのみながらはしる自信はない。
角田さんはまいばんワイン1本をのむほどなので、
メドックマラソンにエントリーする資格がある。
すごく飲みたいか、と言われれば、そうでもない気もするのだが、飲めるときに飲まなくてどうする、という飲み意地根性になっている。26q地点、28q地点、29q地点、31q地点、にっこり差し出されるグラスやプラスチックカップをもらって飲み続けた。

体力的にはつらいレースだったそうだけど、
あまりにもとんでもない大会なので、
終わってみれば自然と口をついて出てくるのは、「たのしかった」である。

ますますメドックマラソンをはしりたくなったけど、
レースちゅうはたべるだけにして、
ワインはゴールをしてからのほうがよさそうだ。
タグ:角田光代

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月05日

花火大会にはチェアリングがぴったりだった

配偶者とふたりで花火大会へ。
配偶者とのわずかな接点が、この花火大会なので、
快適な見物のために、ことしはレジャー用のイスも用意した。
チェアリングの効果をたしかめる、はじめての機会でもある。

会場へいってみると、自分たちがイス持参のためか、
ほかのひとたちのイスに目がいく。
いつもより、イスがおおいような気がする。
花火がはじまる10分まえに会場へつく。
いい場所はすでにびっしりひとがすわっており、
あとからきたわたしたちがイスをそなえると、
そんなところにイスをおいたらじゃまでしょう、と
注意されてしまった。
すごすごと場所をうつすと、
そこでもまた じゃまだといわれる。
傍若無人で社会のルールをまもらない、
なさけない中年になってしまい、はずかしくなる。
イスをつかうときは、うしろにいるひとたちへの配慮がかかせない。

なんとかいい場所をみつけてイスをそなえつける。
もってきたイスは、コールマンのもの。
1.4キロとかるく、値段は1500円。
やすいものは500円からあったけど、すわりごこちがよくない。
いくつかのイスにこしかけてみて、コールマンのにきめた。
もっとゴージャスなイスは、きっとそれなりに快適なのだろう。
でも、場所をとるし、かさばるし、おもい。
車でいくキャンブなら そんなイスもありかもしれないけど、
場所のかぎられた花火大会には、このイスでじゅうぶんだ。
じっさいにすわってみると、
コールマン製のイスが いかにすぐれものかわかる。
おかげで1時間の花火を快適に見物でき、すっかり気にいった。
いつもはスリーピングマットをひろげ、
そのうえにすわるので、どうしてもきゅうくつな姿勢となり、
腰をもぞもぞうごかしながらの見物となる。
イスにたよりたくなったのは、
われわれが それだけ年をとったのかもしれない。
こんなふうに、なにかのたすけをかりて、
老化していくからだをいたわりながら、
年中行事をたのしみつづけたい。
ことしの花火大会は、コールマンのイスが大正解だった。
PafLvfqjeSLUN-S7gyyi7Rnc6CU3a66wr_nMzcPuvBYmR1I5OceHgUnjI4nLsjmZrewQeKXRCvs9WdIIx7TE20F6pOPR8n6SK6mY030PwWy6WV8_tDnqiEk6m1dAqukTC5LgOvrJtlI6-dTPyvYiFKDDBlqVbmXiDfSzPj9KMsQOciLZ174NvyklZF-hBiF0TjAv_Rxka511AX_NI635GDVr.jpg
イスにすわり、うちわをつかいながら缶チューハイをのむ。
2本のみおわるころには、よいこころもちとなり、
花火もちょうどクライマックスをむかえた。
ことしは1時間で7000発と、きょねんの1万発よりすくなかったけど、
いわれなければ わたしは気づかなかった。
ラスト10分を、じゅうぶんにもりあげてくれたので、
みたされた気もちとなる。
配偶者も、あたらしいこころみとしてのイスに満足していた。

花火だけに1500円のイスはもったいない。
イスの機動性をいかし、これからは
本格的なチェアリングとしてもつかってみたい。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月04日

林雄司さんの「ゴールパフォーマンスだけやってみたい」に共感する

デイリーポータルZに、林雄司さんの
「ゴールパフォーマンスだけやってみたい」がのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/goal-performance
サッカーの試合で、ゴールがきまったときに、
きめた選手と、まわりの選手がおおさわぎしてよろこぶアレだ。
わたしも、このゴールパフォーマンスをやってみたかった。
林さんがわたしの分まで パフォーマンスをきめてくれるだろうか。

ボールがただゴールラインをわっただけなのに、
あの爆発的なよろこびは いったいなぜおこるのか。
なにかとてつもない物質が、しかも大量に分泌されるにちがいない。
正座のスタイルで、芝生にひざからすべりこんだり、
野球のすべりこみみたいに、手からとびこんだり
(まるでスケートみたいにピッチの芝生はよくすべる)。
あらかじめうちあわせしてあった ゆりかごダンスやら
弓をいるポーズのパフォーマンスもあるけど、
エネルギーの爆発がつよく印象にのこるのは、
とうぜんながら、きびいしい場面で、
奇跡のようなゴールがきまったときがおおい。
きめた選手も、まわりの選手も、われをわすれて
ここぞとばかりに おたけびをあげる。
おなじような興奮がサポーターにもおよぶのだから、
プレーしていた当事者だけに よろこび物質が発生するのではない。
サッカーのもつ強力な感染力は はかりしれない。

林雄司さんは、その再現をめざした。
ポルトガルをおもわせるユニフォームをきて、
髪にほそいゴムバンドをまき、
汗のかわりにきりふきで水滴をつくり、
芝生のうえをはしりまわる。
ひとりでこれをやっても、あまりもりあがらないので、
フォトショップでチームメイトをふやした。
みんながよろこび、おどりだしても、
どことなく ウソくさい。
なんだこれは。なにかの儀式か。なぜこんなに躍動感がないのか。嬉しさも伝わってこない。原因は主にゴールしてないからだと思うが、疲れのせいもあるだろう。撮影も後半にきて運動量が減っているようだ。

「原因は主にゴールしてないからだと思う」がおかしい。
あのよろこびようは、やはりゴールならではだろう。
でも、ゴールしたらなぜあんなによろこべるのかは
本気でサッカーをしたことのないわたしには 不思議だ。
なぜそんなにゴールがうれしいのか、
そして、なぜサッカーの勝利は格別なのかは、
だれにも説明できないのではないか。

posted by カルピス at 20:20 | Comment(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月03日

『私のことならほっといて』(田中兆子)

『私のことならほっといて』(田中兆子・新潮社)

前作の『甘いお菓子は食べません』にいい印象をもった。
このひとの作品なら はずれはないだろうと手にとる。
7編からなる短編集で、どれも女性が主人公だ。
異星人にわかい女性がさらわれる「あなたの惑星」がおもしろかった。
以下、ネタバレあり。

外見は地球にいるイグアナみたいなのに(直立してうごくけど)、
高度な文明をきずきあげている惑星から異星人はやってきた。
さらわれてどうなるかというと、
彼らの星につれていかれ、動物園みたいなところで飼育される。
そこは、宇宙じゅうの星からあつめられた宇宙人を展示するところだ。
彼女はちいさなビキニをきせられ、
おとずれてくるイグアナたちに見物される。
彼女がさらわれた直後に、
「アメリカとキタチョウセンという国が戦争を始め、全面的なカクセンソウになってしまったそうです。地球は壊滅的な被害を受け、今現在、地球上の人類は絶滅したと考えられています」

という状況なので、彼女はもう、
もとの生活にもどれる可能性はまったくない。
アメリカとキタチョウセン、なんていわれると、
じっさいにそうなってもおかしくないので、ちょっとおそろしい。

こうした設定がじわじわあかされたのち、
彼女は地球人が絶滅しないために、
繁殖するよう期待されているのがわかってくる。
「今この惑星で生殖能力がある地球人は、あなたと、推定七十代の男性しかいないのです」(中略)
「だから、あなたが、一刻も早くその推定七十代の男性と・・・いわゆるその・・・まぐわって子供をつくらないと、人類が滅びるんです」

かきだしていると、
なんだかくらくて すくいのないいはなしにおもえるけど、
基本はドタバタで、かるいのりのSFだ。
だいいち、たとえ高度な知性をもっていても、
外観がイグアナでは、深刻なはなしになりようがない。
彼女は飼育員の「モモさん」に好意をよせるようになり、
彼といっしょにいられるのなら、推定七十代の男性と
「まぐわって」もいいとおもうようになる。
ここからは一気にラストまですすむ。
モモさんに自分の好意をつたえようと、
彼女はモモさんのまえで自分のからだをまさぐった。
あたしのなかで、なまめいた気分が盛り上がっていく。

そして、とうとう飼育員たちにみまもられながら
推定七十代の男性との交尾へ。
あそこにいる飼育員全員も、この交尾が成功するようにあたしたちを見守っている。同じ宇宙に生きるものとして、命をつないでいく手助けをしてくれている飼育員たちの思いが、伝わってくる。

なにが「同じ宇宙に生きるものとして」なのか
ぜんぜんわからないけど、不思議な一体感がおかしい。
ほかの6編も、どれもよませる。
おすすめの一冊だ。
タグ:田中兆子

posted by カルピス at 08:02 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月02日

シュノーケリングで小魚のむれといっしょにおよぐ

ことし3どめのシュノーケリング。浜にはだれもいない。
岩場につくと、おじさんがひとりで貝とりをしていた。
すこしまえの記事にもかいたけど、
自動車で30分はしれば海につくのだからありがたい。
このまえよりも水温があがっており、
ただプカプカただよっているだけでここちよい。
プールとはちがう自由を、シュノーケリングではかんじる。
あちこちで、魚がおよいでいるのをみかける。
魚はあんがい にげださずに、わたしのすぐ下をおよいでいる。
そんなにのんびりしてたら、わるい人間にモリでつかれちゃうよ、と
おしえてあげたくなるくらい、無防備だ。
わたしがもぐって、彼らのちかくによろうとすると
さすがに にげるけど、あわてふためくというより、
ちょっと距離をとっておくか、ぐらいで、本気の脱出ではない。

きょうは、10センチくらいの小魚が
むれておよいでいる場所にでくわした。
水族館でよくみかけるような景色で、
それが目のまえにあるのだからドキドキする。
小魚は、わたしの存在におどろかず、
ホタルみたいにそこらじゅうをおよぎまわっている。
ターンするたびにからだがキラキラひかる。
はじめての体験だった。

1時間ほどおよぐとさむくなってきた。
駐車場にもどり、ポリタンクにもってきた水をかぶり、
そのまま駐車場できがえる。
かえりは、エアコンなしで車をはしらせる。
5時半くらいに町をとおると、仕事をおえたひとが
あつそうにあるいて家路についている。
道路わきにある温度計は32℃をしめしている。
夕方でもこの気温なのだから、たしかにあつい日なのだろう。
でも、海でおよいだからだには、32℃でもなんてことはない。
およいでいるときも気もちいいし、
およいだあともしばらくはからだがスベスベしてここちよい。
最高のシュノーケリングをビールでしめくくる。

posted by カルピス at 21:14 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月01日

糸井さんの「どんなに眠い日だって、なんとかなるのさ」に気がらくになる

ほぼ日に糸井重里さんがかいている
「今日のダーリン」をよんで気がらくになった。
すごくねむくて、なにをかこうかもおもいつかなくて、
そういいながら、なんだかんだと文章をつなげていき、
けっきょくなんとかなった、という内容だ。
ほらね。どんなに眠い日だって、なんとかなるのさ。

「今日のダーリン」は、3日に2回のたかいわりあいで、
すばらしい内容の日があり、エバーノートにとっている。
きょうみたいに、ちからがぬけた回もまた、それはそれで参考になる。
そうか。そんなんでいいのかと、すくわれるおもいだ。

ほぼ日の、過去の人気コンテンツに、
「書く」ってなんだ?
というのがあったのでひらいてみる。
みうらじゅんさんの回には、
みうらさんがいまでも手がきだというはなしがのっていた。
https://www.1101.com/store/techo/ja/magazine/2019/kaku/2019-01-12.html
ローマ字入力がにがてなので、パソコンにうてないのだそうだ。
なんでローマ字入力につまずいたのかというと、
京都の小学校では、エスペラント語の授業があり、
エスペラント語でつかうアルファベットが、
ローマ字表記とすこしちがうので、こんがらがったらしい。
小学校でエスペラント語をおしえる、というのがさすがに京都だ。
でも、むりしてつまずかなくても、
すんなりローマ字が身につきそうなものなのに。
さすがにみうらじゅんさんだ。

梅棹忠夫さんの影響で、ずいぶんまえに、
わたしもエスペラント語の入門書にとりくんだことがある。
エスペラント語は、ラテン系のことばをベースにつくられたようで、
日本人がエスペラント語を勉強するより、
フランス人やイタリア人が有利なのはたしだ。
でも、たとえば過去形や未来形をつくるとき、
例外がなく、ひとつのやり方をおぼえるだけなのでかんたんだ。
英語よりもずっとらくにつかえるようになるだろう。
英語が世界共通語みたいな存在になるよりも、
第1外国語として、だれもがエスペラント語をまなべば、
英語一辺倒の状況よりも、世界の言語はずっと平等になる。

みうらさんは、吉田拓郎さんの字にあこがれ、
まねするようになったそうだ。
拓郎さんのつぎには、和田誠さんの字をまねている。
みうらさんのかいた原稿が、サイトにあがっているけど、
わたしがちょっとむりして ていねいにかいた字とあんがいにている。
わたしは字がへたくそなのがコンプレックスなのだけど、
もしかして、味のある字なのだろうか、なんてついおもってしまった。
とかいいながら、なんとかこんかいの記事をかきおえる。
ほらね。どんなに眠い日だって、なんとかなるのさ。

って、ほんとうだ。

posted by カルピス at 21:54 | Comment(0) | エスペラント語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする