2019年10月31日

カッターナイフにジョウロの口と、エスカレートするココのおもちかえり

すこしまえの記事に、ネコのココが、
プレゼントをもってかえってくるはなしをかいた。
きれいな木の葉だったので、秋のおとずれをしらせる、
粋なこころづかいにおもえた、という内容だ。
その後もココのプレゼントはつづき、
ボールペンやプラスチックの小物、
せんたくバサミ、なんだかわからない紙のかたまり、
はてはジョウロのさきっぽ(2つも!)やカッターナイフという、
どうやって口にくわえてはこべたんだろう、
と不思議におもえるものがとどいている。
チップスターの容器も もってかえってきた。
「ヒマワリノタネ」とかかれている。
ひまわりの種をとっておいた いれものなのだろう。
なかにはなにもはいってなかったけど、
ココがはこぶうちにこぼれたのかもしれない。
ひまわりの種がなくなってこまっているひとがいやしないか。
ジョウロのさきっぽだって、
なくなれば、ジョウロのやくをはたさない。
とられたひとは、さぞかしこまっているのではないか。

ココはまえからボールペンにつよい興味をしめしていた。
コロコロころがるし、かみごたえも適度にあり、
あそぶのにちょうどいいおもちゃなのだろう。
わたしの部屋のペンたては、ココにねらわれないよう、
本棚にかくしてあり、机のよこには うっかりボールペンをおけない。
だから、ベッドのしたにみなれないボールペンがおちていても、
わたしのものではないのだから、
きっと、配偶者の部屋からはこんできたのだろう、
ぐらいにおもっていた。
そのあと、ジョウロの口、カッターナイフ、とつづくうちに、
これはどうやら わがやの品物ではない、
というのが わたしにもようやくわかってきた。
ココはボールペンだけでなく、
プラスチックのこもの全般がすきなようだ。
ジョウロの口はそとにあるものだけど、
ボールペンやカッターナイフということになると、
ココがよその家にしのびこんだ可能性がたかい。
秋のおとずれをしらせるプレゼント、なんて、
のんきなことをいっている場合ではない。
犯行現場を目撃され、問題ネコとして、
町内じゅうからきらわれたらたいへんだ。
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【ココの獲物】
夏にはいるまでは、ココは人間のスキをうかがって、
外にでるチャンスをねらっていたけど、
いちど網戸をやぶってからは、ちからずくで
外にでるやり方をおぼえてしまった。
いまでは、気軽に外へでて、すきなようにあそんでいる。
いまさら厳重に戸をしめて、外へでられないようにしても、
ココはおそらくいらついて、ちからで解決しようとする。
なんとなく、首輪をつけそびれてしまったので、
しらないひとがココをみたら、
ふとった野良ネコとしかおもわないだろう。
わたしにとったら 愛すべきかわいいココでも、
ジョウロの口をとられたひとからすれば、
にくたらしいめいわくネコでしかない。

ジョウロの口やカッターナイフなど、
獲物を家にもってかえれば、それでもう ココの気はすむようで、
あとはまったく関心をしめさない。
狩猟ができないわたしにたいするプレゼント、というよりも、
自分のすきなものをあつめたコレクションなのかもしれない。
ジョウロの口がなくなったおうちはありませんか?
なんて、それとなくきくわけにもいかないし、
こまったこまったといいながら、解決策をおもいつけずにいる。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

秋がみじかくなったかを、ジン・トニックにおしえてもらう

きのうの朝日新聞に、秋がみじかくなった?
を話題にした記事がのっていた。
わたしもおなじように、このごろは秋がみじかいとかんじている。
秋はわたしがいちばんすきな季節なのに、
まいとしのように夏がながびき、そのかわり冬は はやくやってきて、
結果的に、秋らしい時期は 2週間ぐらいしかないような気がする。

「ジン・トニックがおしえてくれる夏のおわり」
という記事を以前かいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/375296812.html
わたしにとって、夏はからだがジン・トニックをもとめる時期であり、
ジン・トニックがほしくなくなったときが、秋のおとずれた。

わたしは、「ほぼ日手帳」に、まいにちの気温を記録している。
また、寝酒について、どんな酒を
どれだけのんだかも かきこんでいる。
こんかいは、気温の記録からではなく、
ジン・トニックをいつからのまなくなったかで、
年ごとの秋のおとずれをわりだしてみたい。

寝酒を記録しはじめたのは2015年からで、
この年、さいごにジン・トニックをのんだのは、
つまり、夏のおわりは、9月9日。
そのあと、ジンではなくウォッカ・トニックをのんでいるけど、
からだがジン・トニックをさいごにもとめたのは9月9日だ。
おなじように、それ以降の年についてもみてみると、

2015年 9月9日
2016年 10月15日
2017年 9月30日
2018年 10月14日(猛暑だった年)
2019年 10月25日

ことしの特徴は、ひやした白ワインにたよったことで、
1杯目に白ワインをのみ、いいかんじによいがまわったところで
2杯目としてジン・トニックをつくった。
夏のほとんどをこのコンビにたより、
すずしくなるにつれ、ときどき顔をだす程度となり、
さいごに白ワインとジン・トニックの両方をのんだのは10月6日で、
ひどいあつさは、この日をもっておわったのかもしれない。
ただ、あつさのピークはすぎても、まだまだ夏はつづいており、
さいごにジン・トニックをのんだ10月25日こそが、
ことしの夏がおわりをつげた日だ。

夏のおわりをジン・トニックだけで判断するのは、
常識的にかんがえると すこし無理があるかもしれない。
でも、ことしの夏がこの5年でいちばんながかったのは
わたしの実感とあっている。
きょねんは、猛暑だったわりには、
9月にはいるときゅうに気温がさがった。
そもそも、気温の変化から、夏のおわりをわりだしても、
あたりまえすぎて、おもしろくない。
気温がさがったときが、秋にきまっている。
詩心がない。
ジン・トニックとのわかれこそが、
夏のおわりをよみとる いちばんの指針なのだと
無理をしょうちでいいきりたい。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月29日

『サイレンズ・イン・ザ・ストリート』北アイルランド紛争を背景にしたグダグダ感が魅力

『サイレンズ・イン・ザ・ストリート』
(エイドリアンン=マッキンティ・武藤陽生:訳・ハヤカワ文庫)

北アイルランド紛争を背景に、
刑事ショーン=ダフィが活躍するシリーズの2作目。
北アイルランドでは、いくつもの団体が
テロなどの過激な活動をくりひろげており、
土地でおこる事件のおおくは そうした武装団体のうごきがうらにある。
ややこしい情勢ぬきにはかたれないのが北アイルランドであり、
それなのに、北アイルランド問題にうといわたしは、
ダフィがカソリックかプロテスタントかさえ、すぐわすれてしまう。

本書をよみはじめたのが9月28日で、
その1ヶ月後のきのう、ようやくよみおえている。
夜ねるまえに、寝酒をのみながら、1章か2章ずつよみすすめる。
いいわけをさせてもらえば、そうしたよみ方が、
この本にはあんがいむいており、ダラダラした読書ながら
なげださずにおわりまでよみとおせた。
ストーリーの展開にわくわくするというよりも、
作中にただよう おもくてけだるい 独特の雰囲気をたのしむのが、
いちばん、とはいえないまでも、本書のひとつのよみ方であり、
それには ながい日数をかけて すこしずつ、もわるくない。

ダフィをふくめ、同僚の警官たちは、
北アイルランドがかかえる複雑な状況にうんざりしている。
それでも彼らはどこかへにげだすわけにいかず、
自分たちがやらなければならない仕事をつづけるしかない。
家庭がこわれかけたり、酒でボロボロになる警官もおおい。
ダフィの恋人も、先のみえない北アイルランドにいるよりもと、
イギリスへひっこしてしまう。
ダフィは彼女がでかけるのをとめられない。
ダフィは、警察の人間であるという義務感から、
目のまえにある仕事をほおりださず、愚直にとりくみつづける。
うまくいかない仕事をおえ、いらつきながら家にもどると、
ふるい音楽をきき、ウォッカのラムジュースわりで気をまぎらす。
北アイルランドにいるかぎり、なにかがすっきりと
根本的に解決するなどありえない。
そうしたグダグダ感が、このシリーズの魅力となっている。

一冊をよみおえたあとも、いったいなにがおきたか把握しきれない。
わたしの頭のなかはぐちゃぐちゃなまま
ものがたりがおわってしまった。
それでもおもしろくよめるのだから、
ミステリーにはいろんなタイプがあるものだ。
北アイルランド紛争を背景に、おさきまっくらな雰囲気が魅力、
というふしぎなこのシリーズを、わたしは案外気にいっている。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月28日

『シンプル・シモン』アスペルガーの枠をこえ、シモンがこころをひらけそうな予感

『シンプル・シモン』
(アンドレアス=エーマン:監督・2010年・スウェーデン)

(以下、ネタバレあり)
アスペルガー症候群のシモンは、つよいこだわりがあるため、
両親といっしょにくらすのがむつかしくなった。
シモンの気もちをいちばん理解しているのは兄のサムで、
彼は恋人とアパードでくらしはじめたところだ。
サムは、恋人の了解をえて、シモンをむかえいれようとする。
シモンは、自分なりのスケジュールをきめ、
それにそって、いちにち・一週間をすごしている。
曜日ごとにメニューがきまっており、
食事の分担も、料理・お皿の準備・かたづけなど、
ゆるぎない正確さできまっている。
夜みるビデオも、バスケをする時間も、
ぜんぶスケジュールできめられている。
シモンにとって、兄の恋人は、食事のかたづけをするひとだから
必要なのであり、兄の恋人として尊重しているのではない。
あまりにも人間性がなく、ゆうずうがきかないシモンとの生活に、
サムの恋人はあいそをつかして でていってしまう。
サムは、それでもシモンをせめることなく
いっしょにくらそうとする。
シモンは、兄のために、あたらしい恋人をさがすことにした。

発達障害というと、自閉症をあつかった『レインマン』が有名だ。
あの作品では、ダスティン=ホフマンが
自閉症のレイモンドをえんじていた。
レイモンドも、シモンとおなじように、
一週間のメニューをきめていた。
また、なみはずれた記憶力をもち、一冊の電話帳を、
ひとばんで暗記したし、記憶力をいかしてポーカーでかせいだ。
ただ、どんなに天才的な能力をしめしたとしても、
彼はまわりのひとと、こころをかよわせるのはにが手だ。
そんなレイモンドが、映画のラストでは、
おとうとのチャーリーにこころをひらいたから、
『レインマン』は、つよく印象にのこる作品となった。

アスペルガー症候群は、知的な障害をもたない発達障害で、
シモンも、物理や数学にはつよくても、
ほかのひとがどうかんがえるかという、社会性にかけている。
すこしからだがあたっただけでも、
「さわるな!」と、つよい拒否反応をしめす。
映画のなかでシモンは、「ぼくはバカじゃない」という。
バカではないけど、アスペルガーについての
相当な理解がなければ いっしょにいるのはたいへんだ。
とはいえ、シモンは彼なりに、アスペルガー症候群と
おりあいをつけてくらしている。
週のメニューがきまっているのも、
役割分担がうごかせないのも、
おなじ時間におなじルーティンをこなすのも、
シモンがおちついてくらすためにかんがえたルールであり、
そのスケジュールにそってうごいているかぎり、
シモンは混乱せず、いちにち いちにちを、つつがなくすごせる。

兄に恋人をさがす、といっても、
シモンは相手がどうおもうかをさっしできない。
いくつかの質問を恋人候補の女性にぶつけ、
兄との相性があったひとをみつけようとする。
質問に、いやがらずにこたえてくれたイェニファーを、
シモンは兄の恋人候補にきめ、彼女の家をたずねる。
そのあいだサムは、いつまでもシモンがかえってこないので、
心配してあちこちをさがしまわっていた。
ようやく家にもどったシモンが、
自分のために恋人をさがしていた、とはなす。
イェニファーとあうよう、シモンが一方的にもとめると、
サムはついにきれてシモンをどなりつける。

イェニファーがすごくすてきだった。
シモンがアスペルガーとしっても、態度をかえることなく、
いつもひとりの人間としてシモンとむきあう。
自分に正直で、ゆたかな感情をもち、
あいての気もちも尊重できる女性だ。
なによりも、はじけそうな笑顔がよかった。
サムにおこられながらも、シモンは自分で問題を解決しようときめる。
兄とイェニファーを、なんとか恋人にしようと、
これまで自分がにが手だったロマンスものの映画を研究する。
仲間にも手つだってもらい、すてきな演出による
ゴージャスな夜を ふたりにプレゼントする。

自分のためにではなく、兄のためにとかんがえた感情が、
シモンをあらたなステージへとみちびいていく。
とはいえ、いくらシモンがきめたからといって、
そうかんたんにサムとイェニファーが恋人になれるものではない。
せっかくシモンが用意した一夜も、兄にはつうじなかった。
シモンは、自分の計画がうまくいかなかったとおちこんでしまう。
ロケット(ドラム缶)にたてこもっていたシモンを、
イェニファーがたずねてきた。
兄の恋人になりにきたのではなく、
すてきな夜への感謝をつたえるために。
ロケットからからだをのぞかせたシモンに、
イェニファーがだきしめてもいいかとたずねる。
からだをさわられるのはすきじゃない、とシモンがいうと、
手おくれね、もうすでに(指が)ふれあっていると、
イェニファーが指摘する。
あたらしい関係がはじまりそうな予感をただよわせ、
たのしそうなエンディングの音楽がはじまる。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月27日

盲ランナーの伴走として 一畑薬師マラソンに参加する

盲ランナーの伴走として 一畑薬師マラソンに参加する。
距離は10キロとみじかいけど、
さいごに1138段の階段があるのが特徴のコースだ。
お寺へとつづく階段なので、不規則な石畳がくまれている。
5キロ・10キロのコースをあわせ、1300人が出場すると
開会式のときはなしがあった。

わたしがいっしょにはしったのは、
盲とろう、両方の障害をもつ57歳の男性で、
一畑薬師マラソンに参加するのは、これがはじめてだ。
これまでに、わたしは3回ほどいっしょに練習している。
そのときには、かなりゆっくりなはしりだったので、
9キロプラス、1138の階段というコースを、
さいごまではしれるだろうかと すこし心配していた。
階段はあぶないから、伴走が2人必要という規則で、
わたしと、もうひとり男性のボランティアがいっしょにはしる。
そのひとは、ウルトラマラソンやトライアスロンに、
なんども参加したことのあるベテランで、
わたしとしてもこころづよかった。
10キロのコースなので、5キロずつ伴走をうけもつ。
スタートしてからの5キロは、わたしがはしった。

このレースは、階段にさしかかる
9キロ地点にチェックポイントがあり、
1時間15分をこえたら、係員の支持をあおいでくださいと、
あらかじめ説明がある。
年齢やコースべつに、いくつかのグループにわかれてスタートする。
スタート直後に2キロほどのくだり坂があり、距離をかせげた。
そのあとも順調に足がまえにでて、5キロを35分ではしる。
5キロ地点に給水所があり、水をのみ、伴走を交代する。
制限時間は問題なくクリアーできそうだ、と安心していたら、
後半ペースがおちてしまい、いかにもくるしそうな足どりとなる。
10キロをはしるのは、これがはじめてのせいか、
距離へのこころがまえができていなかったようすだ。
うしなわれたペースはもとにもどらず、
あるくよりすこしはやいくらいのスピードとなる。
くるしさに、いまにも足がとまりそうだ。
伴走者がつねにはげましの声をかけ、
あきらめかけているランナーをもりたてる。
わたしたちのうしろに、大会運営の車と、
パトカーが2台、ゆっくりはしりながらついてくる。
それでもなんとかチェックポイントをクリアーする。
1時間15分の制限時間を1時間10分。かなりあぶなかった。

階段は、盲のランナーにとってあぶないし、
そもそもはしるげんきがもうのこされていなかったので、
1138の階段をあるいてのぼる。
最後に階段があるのは たしかにくるしいけど、
あるけばまあ、なんとかなる。
不規則にならぶ石段は、目がみえないランナーにとって、
かなりの難関だとおもうけど、われわれがあるくのと
あまりかわらないスピードでのぼっていく。
けっきょくタイムは1時間31分。
いちばんさいごのランナーとしてゴールする。
とにかく完走できたし(さいごはあるいたわけだけど)、
トラブルもなかった。
足がいたいといいながらも、
やりきった感に、ランナーはうれしそうだ。
はじめての伴走をなんとか無事におえ、わたしもホッとした。
シャトルバスにのりこみ、すこしはなれた駐車場までおくってもらう。

posted by カルピス at 20:29 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月26日

『ダウン・バイ・ロー』のゆるいであいを いまだに夢みているのかも

「負け犬」関連の本をよんでいると、
結婚したいとおもいながらも、
てきとうな相手がいないから結婚できないらしい。
妥協できる であいをまっていたら、
いつのまにか負け犬になっていた、みたいな。
40歳をこえると、まわりがなにもいわなくなるそうで、
自分の容姿もおとろえていくし、そうなれば、
自分につりあう相手の容姿だってとうぜんおちる。
でもまあ、いいじゃないかとおもう。
40をこえても、であいの可能性がまったくなくなるわけではない。

わたしが理想とするであいは、
映画『ダウン・バイ・ロー』のラストに象徴される。
逃亡ちゅうの男たち3人が、いなか道で一軒家をみつける。
まず、ひとりがようすをうかがいにいくけど、
いつまでたっても もどってこない。
のこされた2人が家のなかをそっとのぞいてみると、
家の主人であるイタリヤ系の女性(ニコレッタ=ブラスキ)と、
はじめにおとずれた仲間(ロベルト=ベニーニ)が
いいかんじにできあがっていた。
ふたりも家のなかにはいり、女性がつくってくれた料理をたべる。
ロベルトは、この家にのこって彼女とくらす、とふたりにつげる。

このシーンにわたしはつよくひかれ、恋愛観に影響をうけたようだ。
まったく予期してなかったであいでも、
気があうものどうしは、あいてとの相性のよさがわかる。
恋愛だ、結婚だと、一般的なコースをたどらなくても、
いちどのであいだけで、すぐに いそうろうをきめてもいい。
ニコレッタも、すっかりロベルトが気にいって、
ふたりはいとおしそうに いつまでもだきあっている。
こまかい条件を計算ずくでくっつくのではなく、
ただいっしょにいたいという いちずさがよかった。
このふたりなら、いつまでもなかよくやっていくだろう。
しばらくくらしてみて、だめなら荷物をまとめ、
でていけばいいだけのはなしだ。

「負け犬」たちにも、いつか一発逆転がおきて、
『ダウン・バイ・ロー』みたいなであいが おとずれるかもしれない。
そんなときに、いっしょになる決断がすぐにできるよう
かるいフットワークをたもっておいたほうがいい。
わたしがトレーニングをかかさないのも、
いつの日か最高のであいが、なんて、
いまだにこころのどこかで期待しているのかもしれない。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月25日

『先達の御意見』(酒井順子)『負け犬の遠吠え』をめぐる対談集

『先達の御意見』(酒井順子・文藝春秋)

『負け犬の遠吠え』で話題となった酒井順子さんが、
9人の「先達」との対談にのぞみ、一冊にまとめてある。
10本目は香山リカさんが相手で、総括として位置づけられている。
ライス国務長官は「負け犬か」など、個別事例の検討がたのしい。
「負け犬」とは、いったいなんであるかが、
こうした対談により、しだいに整理されていくだろう。

・阿川佐和子
・内田春菊
・小倉千加子
・鹿島茂
・上坂冬子
・瀬戸内寂聴
・田辺聖子
・林真理子
・坂東眞砂子
・香山リカ(総括)

いまさらだけど、かんたんにおさえておくと、
酒井さんは『負け犬の遠吠え』で、
30歳以上・未婚・子なしの女性を「負け犬」と定義している。
それなりにたのしくくらしているけど、
結婚してないという一点で 人生における「負け」をみとめ、
お腹をさらした本として、2002年に出版された。
目ざわりかもしれないけど、あまりいじめないでね、
という下手にでたスタンスなのに、
過激なタイトルがよむひとを刺激するのか、
結婚してないけど、わたしは負けてない、とか、
勝ち犬だけど、負けてる、とか
勝ち組との混同がおこるやらで、いろいろと話題になった
(オスの負け犬も、もちろんいるけど、
本がおもにとりあげるのはメスの負け犬について)。

林真理子さんとの対談では、
「負け犬」現象の初心者として、林さんが酒井さんにたずねている。
林さんだと、お説教じみた発言になるのでは、とおもっていたので、
きき手にてっする林さんに好感をもった。
林 水野真紀子さんは?負け犬のエース格でしたけど(笑)。
酒井 「ザ・勝ち犬」みたいな風情なのに、三十歳過ぎまで結婚しなかったところで負け犬たちの共感も呼んでたと思うんです。でも、元の道にちゃんと帰っていかれましたね(笑)。

いっけん「負け犬」にみえるひとでも、
本質は「勝ち犬」である場合、酒井さんはごまかされない。
「元の道にちゃんと帰っていかれましたね」
と、冷静な観察がさすがだ。
林 残りものの男性にはそれなりの理由がある?
酒井 まさに。同年代の負け犬の人も言ってました。「お見合いしてると、ほんとにむなしい」って。この年になってお見合いするって、魂をすり減らすような体験らしいですね。「いまお見合いが終わった。お願いだから愚痴を聞いてほしい」って電話がかかってきたりするんですよ。お見合いでまとまったというのは、ここ十年くらい聞かないです。いまさらお見合いで会う人と結婚できるんだったら、もうとっくに結婚してるということなんでしょうけど。

酒井さんのもとに、女性たちの赤裸々な声がとどいている。
女性の発言には 男にわからない記号が いくつもちりばめられている。
酒井さんというよき通訳をえて、わたしたちは女性の心理をしる。
負け犬は、あの本を出して、「人生は勝ち負けじゃないです」とか、「負け犬だなんてひどい」みたいに言われると、違うんです、と反論したくはなるんですけどね。世間から負け犬と見られているということをわかったほうがいいのではないですか、というメッセージなのに、私が「あなたは負け犬だ」って言ってる、という感じに思われがちなんですよ。ま、言っているんですけど。

「ま、言っているんですけど」
がすごくおかしい。

posted by カルピス at 22:52 | Comment(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

金さんが全力でこたえる ランスマの「教えて!金さん!」

前回の「ランスマ 」は、「教えて!金さん!」だった。
ランナーからの相談に、金さんがこたえていく企画だ。
まずはじめは、12歳のむすこが、箱根駅伝にでたいというので、
相談にのってほしいと、少年のお母さんがもちこんでいた。
むすこ本人ならまだしも、親がさきにうごくのはどうなんだろう。
まあそれはおいといて、
12歳の少年へ、金さんが全力でこたえていたのがいいかんじだった。
少年のフォームをみて、肩甲骨がうごいてないとアドバイスし、
修正するプログラムにとりくんだあと、じっさいにはしってみる。
そのあと少年の家をたずね、本人と両親をまじえ、
大学1年生で箱根駅伝へ出場するまでの8年間について、
1年ごとに目標をしぼり、長期計画をたてていった。

・小6 ごはんをもりもりたべる
・中1 陸上部にはいる
   山であそぶ
・中2 スピードをみがく
・中3 福島駅伝いわき市代表にはいる
・高1 3000メートル 8分台
・高2 5000メートル 14分台
・高3 大学へはいるつよい気もちをもつ
・大1 箱根駅伝に出場

小6では、ごはんをもりもりたべる。
いいランナーになるためには、さかんな食欲が必要となる。
たべなければ練習ができないし、からだがつくれない。
中1での「山であそぶ」は、からだの機能をたかめるには、
いろんなうごきを体験すれば のびしろがひろがるから。
高3での「大学にはいるつよい気もちをもつ」は、
箱根駅伝の常連校に陸上で招待されないとき、
一般入試で大学へはいるためだ。
勉強をつづけるには、かならず大学へはいるんだという、
つよい気もちが必要になる。
大学入試におちたり、記録がのびなかったり、などの
つらいことや、うまくいかないことがあっても、
かならず将来の糧になる、というのもいいアドバイスだった。
すべての体験が財産になるので、
けしてなげださずに、まえをむいてつづけること。

こまかすぎず、おおざっぱすぎず、いい計画だとおもう。
小学校6年生のころから箱根駅伝をめざすのは、
長期計画すぎてわたしのこのみではないけど、
そんな相談をもちかけられたときにも、
金さんが具体的で実現可能なアドバイスをほどこすのはさすがだ。
わたしだったら、箱根駅伝だけが人生じゃない、
もっと気らくにかまえたら、なんて、
どうしても横にそらしてしまうだろう。

つぎの相談は、41歳の男性からのもので、
69歳の父親にレースでかてない、という内容だった。
ずいぶんたっしゃなお父さんがいるものだ。
父親にかちたいなら、それなりに練習すればいいとおもうけど、
ひとそれぞれいろんな事情があるのだろう。
このひとの場合は、体幹をつかってないので、
ひざだけで着地の衝撃をうけとめており、
ひざがいたくなりそうなフォームなのだという。

わたしも、はしっていてひざがときどきいたくなる。
からだの真下で着地しておらず、
ひざに負担がかかっているのかもしれない。
左うでも全体がかたく、いたみをかんじてリラックスしてふれない。
ランニングは、うごきのスピードがはやいため、
自分がどんなはしりをしているのかよくわからないものだ。
うでをふっているつもりでも、肩甲骨がうごいてないといわれるし、
骨盤をつかってない、といわれても、本人には自覚がない。
「ランスマ 」をみていると、なにかといえば
肩甲骨と体幹、それに骨盤をつかってない、
という3点がよくアドバイスされる。
改善のための体操やマッサージをおしえてくれるけど、
わたしのひだりうではあいかわらずうまくうごかない。
うでをスムーズにふれたら、どんなにらくにはしれるだろう、
というのがわたしのささやかなねがいだ。
箱根駅伝に出場するより、ずっとハードルがひくい。
目標をおさえ、現実的になるのが、年よりと12歳とのちがいだ。

posted by カルピス at 22:47 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

いわれてみればそのとおり、「『何度も同じ質問をするな』という人たちの謎の自信について」

しんざきさんの
「『何度も同じ質問をするな』という人たちの謎の自信について」
http://mubou.seesaa.net/article/471018185.html
をよんだ。
・仮に相手が真剣に聞いていたとして、自分が理解するに十分な説明を出来ている、という保証は一体どこにあるのか。
・理解力は人それぞれなのに、「何度も聞くな」というプレッシャーをかけることで理解力が上がる要素が一体どこにあるのか。

いわれてみればそのとおりだ。
それなのに、わたしはまさしく
「同じ質問をするな」をいいがち人間で、
「さっきもいったとおり」なんかもよく口にする。
そういったところで、状況がプラスになる要素はひとつもない。
わたしがだれかに質問して、
「おなじことをなんどもきくな」とか
「まえにもいったでしょ」なんていわれたら、
気もちがちぢんでしまい、すごく質問しにくい心理になるだろう。
質問しにくくなると、いうほうも、いわれるほうも、
おたがいにいい点はすこしもない。

ラグビーW杯がもりあがり、日本じゅうににわかファンがふえている。
にわかはしょせんにわかなので、基本的なルールがわからず、
しっているひとからみると、しょうもない質問をしがちだ。
そんなにわかにたいし、ラグビー関係者がいやな顔をすることなく
じつに根気よくルールを説明してくれたと、W杯関連の記事にあった。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17692
 今大会で米国代表を率いたギャリー・ゴールド・ヘッドコーチ(HC)に以前、こちらの陳腐な質問にも面倒臭そうにせず、とても紳士的で丁寧な振る舞いを見せながら取材に応対してもらい、感動したことがあった。その思いをすぐ本人にぶつけてみると、こんな答えが返ってきたのを覚えている。
「別に驚くことではない。私だけじゃなく多くのラガーマンは皆、同じ振る舞いを見せると思う。私が常に憤っていたとしたらラグビーに携わる資格はない。ラグビーは相手との戦いだが、憎しみ合う戦争じゃない。お互いがリスペクトし合うからこそ成り立つスポーツだ」

おなじことをいわせるな、なんていってしまうのは、
あいてへのリスペックトがかけているからだろう。
うえの立場にあぐらをかいた パワハラといってもよい。
ラグビーの試合をみたひとたちが、にわかファンになるのは、
あいてへのリスペクトがここちよいからかもしれない。

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2019年10月22日

『アバウト・タイム』人生はけっきょくいっしょ

『アバウト・タイム』
(リチャード=カーティス:監督・2013年・イギリス)

主人公のティムは、21歳の誕生日に父親によばれ、
一族の男性にだけ、タイムスリップの能力が代々つたわっている、
とうちあけられる。
タイムスリップする映画はいくつもあるけど、
この作品くらいお手がるに過去へもどれる設定のものはない。
くらい場所で目をつむり、両手のひらをかるくにぎるだけで、
あたまにおもいうかべた過去へもどれる。ただし、未来へはいけない。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、デロリアンが、
時速140キロのスピードにたっしないと
タイムトラベルができなかったのにくらべ、
ものすごくかんたんだ。
かんたんなので、主人公のティムは、現実がうまくいかないと、
気がるに過去へもどって、つごうのいいように修正する。
女の子とであうためだったり、ひとだすけだったり、
はじめての一夜を成功させるためだったり。
過去へいくのはいいけど、もどるときは未来へいくわけで、
どの時点にかえるか ややこしくないのだろうか。

かんたんに過去へもどれるので、
タイムスリップ自体が作品のテーマとはならない。
コメディっぽいけど、家族について、
人生について、いちどみなおしてみたくなる作品だ。
気がるに過去を修正してきたティムの父親が、
人生は結局いっしょだ。年をとり、おなじことをくりかえす。だからわかいひとたちには、だれかと結婚してほしい。

と、彼はむすこの披露宴にあつまったお客にかたりかける。
結婚は、しあわせを意味しないかもしれないけど、
それでも結婚はわるくないとわたしもおもう。
家族をえて、子どもをそだてるのに損得は関係ない。
ただ家族を愛する。
非婚や晩婚があたりまえとなっている
いまの日本のわかものに、このセリフをつたえたくなる。

ティムの結婚式は、あいにく嵐もようのあれた天気だった。
雨がはげしくふり、風もつよい。
でも、正装したお客たちは、いくら雨にぬれても、
ただキャーキャーさわぐだけで、雨をちっとも災難だとは
とらえていないのがおもしろかった。
用意したケーキがぬれ、テントが雨でひきさかれても、
男も女もわらっておおさわぎするだけ。
雨で結婚式がめちゃくちゃになった、とはとらえずに、
なんだかすごくたのしそうだ。

披露宴でのスピーチで、ティムの父親がむすこをほめる。
わたしは、人生においてほこれるものはおおくないが、こころからほこれるのは、彼の父親であることだ。むすこはやさしい男だ。こころがあたたかい。

自分のむすこを、これだけ手ばなしでたたえるのはすばらしい。
わたしは、自分のむすこの結婚式をおもいえがいた。
わたしのむすこもまた、こころのあたたかい男だ。
むすこの父親であることぐらいしか、
わたしのほこれるものはないかもしれない。

タイムスリップものの映画をみて、
印象にのこったのが、嵐のなかの結婚式と、
披露宴でのスピーチだなんて、なんだかずれている。
でも、この作品における世界観をあらわしているのは、
雨ふりを災難だとおもわない楽観した生き方と、
こころのあたたかい人間であることの大切さだ。
過去をいくら修正しようと、人生はけっきょくいっしょなのだ。

posted by カルピス at 16:29 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

「現代の音楽」(NHK-FM)の西村朗さんがたのしい

日曜日、朝8時10分からの「現代の音楽」(NHK-FM)を
毎週たのしみにきいている。
担当は、作曲の西村朗さんで、どんなひとをあいてにはなしても、
リラックスしたおしゃべりがいつもここちよい。
対象となる作曲家や曲について わかりやすくはなされるので、
現代音楽についてなにもしらないわたしなのに、
ついきき耳をたててしまう。
日本をふくめ、世界じゅうの作曲家の動向にくわしく、
だれとはなしても、ふるくからのしりあいみたいだ。
そのどこがよくて、なにがすごいのかを
きれいなことばえらびで説明される。
きっと、文章もすてきなのだろうと想像している。

といっても、わたしがおもしろくきくのは、
あくまでも西村さんのおしゃべりについてであり、
いざ「現代音楽」がかかると、そのよさがちっともわからない。
クラシックとはまるでちがう音楽であり、
わたしには難解すぎて、いくらきいても興味をひかれない。
西村さんのおしゃべりだけがすき、というよくないファンだ。

たとえば、きのうの放送では、ゲストの藤倉大さんを、
「いま世界でいちばんおおく演奏されている日本の作曲家です」
みたいに紹介したすぐそのあとで、
「で、もうかりますか?」
なんて、西村さんはぬけぬけときいている。
チャッチボールかとおもってはなしていたら、
ずばっと直球がきた、みたいなかんじだ。
「もうかりますか?」ときかれて
「ぼちぼちです」
とはまさかいえないだろう。
たずねられた藤倉さんは、自分は音楽をおしえる場がなく、
定期収入がはいらないので、とかなんとか
「もうかってない」ことの説明にやっきになっていた。
いきなりの直球なので、ゲストのかたがたは
いいかっこばかりではすまなくなる。
「すごい作曲家」なはずの藤倉さんも
西村さんとのおしゃべりでは、はなしずきなふつうのおっさんだ。

大活躍ちゅうの有名人とはなしていて、
なにげなく「で、もうかりますか?」ときけるのは、
好奇心のひとつがあらわれただけで、
いつもそこに西村さんの関心があるわけではない。
ただ、活躍ちゅう、といわれたら、
「もうかっているのだろうか」と、
おおくのひとのあたまに うかんでくるのではないか。
西村さんは、それをためらわずに、話題としてしまう。
ちからがぬけているからこそできる、達人の話術だ。
音楽の専門的な話題にうつり、ややこしいはなしになると、
視聴者にもわかるように適切な説明をくわえるので、
おしゃべりをきいているだけでたのしいし、
ゲストたちももはなしやすそうだ。

正確な知識と、ゆたかな教養が背景にあるので、
西村さんは、だれとはなしても自然体でいられるのだろう。
ゲストたちは、するするとお腹のなかをあかしてしまう。
いい気分で番組をきいていて、
それでは音楽をかけましょう、と「現代音楽」がながれると、
わたしにはちっともわけがわからなくなる。
西村さんのおしゃべりだけをきいていたいという、
よくない視聴者へとかわる。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

ラグビーW杯 決勝トーナメント準々決勝 日本対南アフリカ 3-26で日本敗退

ラグビーW杯2019日本大会
決勝トーナメント準々決勝
日本対南アフリカ 3-26で日本敗退

ラグビーとはおもえない3-5のスコアーで前半をおえる。
南アフリカは、試合開始早々の3分にトライをきめたものの、
その後はせめあぐね、うまくいかないなー、
というムードがつたわってくる。
ハーフタイムに紹介されたデーターでは、
タックル数が日本の30に対して、南アフリカは90と、
3倍も日本がせめたてている。
ボールポゼッションも、日本の3割にたいし、
南アフリカは7割でしかない。
前半がまんしたぶん、後半もりかえせそうな雰囲気だ。

ハーフタイムをおえ、選手たちがピッチにもどってくる。
トンプソンがリーチ=マイケルに笑顔でなにかはなしかけている。
これだけリラックスしてるのだから、なにかやってくれそうだ。
と、楽観してたのに、
後半にはいると南アフリカはトライをねらうより
ペナルティーキックをえらび、
3回のキックをきめ、こきざみに得点をかさねていく。
そのあとに、モールでおしこんでからのトライをきめ、
さらには日本がせめこみながらもラインアウトでうばい、
南アフリカのカウンターによるトライがきまる。
日本は、後半のほとんどの時間を自陣からぬけだせなかった。
せめこんだかとおもうと、つぶされてボールをうばわれる。
ラインアウトでも、ぜんぶ南アフリカの成功をゆるし、
日本のボールまでなんどもとられている。
南アフリカが、日本のいいところをださせないよう、
うまく試合をコントロールした印象がつよい。
じわじわと差をひろげられての完敗だった。

ノーサイドの瞬間、日本の選手たちは、
これでW杯がおわったのかと、呆然となる。
ただ、くやしいのはもちろんとして、
やりきった感のある、すがすがしさをかんじた。
グループリーグでは4勝し、そのなかで
アイルランドとスコットランドという強豪もたおしている。
はじめてベスト8にすすんだ日本代表の健闘に
こころから拍手をおくりたい。
チームがつよくなっていく過程で、
彼らはつねにまえをめざしてたたかいつづけた。
その姿は、ラグビーだけにとどまらず、社会現象となり、
おおくのひとたちのこころをとらえている。
このチームの活躍が財産となり、日本のラグビーは、
これからあたらしい時代をきずいていくのだろう。
ニワカファンでしかないわたしは、
彼らのあついプレーに、なんども胸をあつくした。
いい夢をみせてもらえた日本代表の活躍に感謝したい。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月19日

『ハイジが生まれた日』(ちばかおり)

『ハイジが生まれた日』(ちばかおり・岩波書店)

「ハイジ」といえば、
高畑勲さん・宮崎駿さん・小田部洋一さんがつくったアニメ、
ぐらいにおもっていたけど、もちろんそんなわけはない。
この本は、日本のアニメ史をおさえながら、
「ハイジ」がつくられた道すじをふりかえっている。
アニメとしては異例の スイスとドイツへのロケや、
たかい品質をたもつための過酷な仕事風景など、
アニメファンのあいだではよくしられたはなしだけでなく、
具体的にどのような経緯をへて「ハイジ」がつくられたか。
「ハイジ」を企画した高橋茂人さんの幼年期からはじまり、
作画の部分にたどりつくまでに、本書の2/3もついやしている。
はじめにあげた3人がいなければ「ハイジ」はありえなかったけど、
すこしでも作品の質をたかめようとねばりつづけた
おおくのスタッフによる、献身的なはたらきがなければ、
「ハイジ」はうまれなかった。
プロデューサーの中島順三氏、音楽の渡辺岳夫氏、
そのほかにも背景・撮影・しあげなど、さまざまな部署の担当者たち。
ほんものをつくろうという、彼らの熱意がチームとしてたかまり、
「ハイジ」をすぐれた作品へとおしあげていった。
カット袋を配るために一晩で二百キロも運転したという制作進行も、セルの裏紙に埋もれて何日も徹夜で色を修正し続ける仕上げ検査も、疲れ果てて床に転がって仮眠をとる作画も、そして家に帰るのは着替えを取りに戻る時だけだったという高畑自身さえも、だれもが良いものを作っているという誇りと熱に浮かされ、ただひたすら自分の担当する仕事を少しでも良いものにしようとだけ考えていたのだ。

 第一話を見終わった制作の佐藤昭司は、衝撃のあまり言葉を失っていた。おじいさんのいる山へ行くというただそれだけのことが、これだけ見応えのあるドラマに仕上がるとは!

わたしは「ハイジ」のオープニングをおもいだす。
ホルンとヨーデルによるたからかな歌声と、
うつしだされる雪をかぶったアルムの山々。
たのしそうにスキップするハイジとゆきちゃん。
おおきなブランコから雲にとびうつるハイジ。
それまでのアニメとは、まったくことなった風景が
みるもののこころをとらえてはなさない。

「ハイジは本当に幸せな作品でした」と
演出の高畑勲さんはかたっている。
きびしい条件のなか、ひととときにめぐまれ、
奇跡のようにつくられた作品が「ハイジ」であり、
「ハイジ」とであえたわたしもまた しあわせだった。

posted by カルピス at 13:10 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月18日

横断歩道での車停止率、島根が全国4位

けさの朝日新聞・島根版に
「横断歩道 車停止率全国4位」の記事がのっていた。
日本自動車連盟(JAF)の調査なのだという。
1位が長野県で68.6%、島根は41.2%だ。
きょねんの島根は26.5%なので、
これでもずいぶんよくなったといえる。
最低は三重県の3.4%で、ほとんどの車がとまらないのだから、
文字どおりサイテーの県だ。
それにしても、県によって数字にひどいバラつきがある。
きょねんの調査では、全国平均は8.6%だったのが、
ことしはきゅうに17.1%へとのびている。
数字がおおきくかわりすぎており、なんだか信用できない。
1年で2倍以上とまるようになったなんて、ほんとうだろうか。
わたしが島根の道路を運転していると、
4割もの車が横断歩道でとまっているとはおもえない。

信号が赤のときに、無視してすすむ車はみかけないけど、
信号がない横断歩道では、おおくの車がとまらない。
どちらも法律違反なのに、横断歩道で車がとまるのは、
歩行者にたいする親切、みたいにあつかわれている。

アンケートによると、なぜ横断歩道でとまらないかについて、
・自車が停止しても対向車が停止せず危ない
・自車が通り過ぎれば歩行者は渡れる
の回答が上位にあがっているという。
横断歩道にひとがいたら、車はとまるよう
道路交通法で義務づけられているのを、
わすれているひとがおおいのかもしれない。

横断歩道での停止率をあげるには、
いまさらながらのこころがけだけど、
いそがない、がいちばん有効なのではないか。
法律や道徳をもちだしてもとまれないのは、
きまりをしらないからではなく、
スピードがですぎているからで、
スピードをだしすぎるのは、
あたりまえながら、いそいでいるからだ。

わたしは、歩行者に気づいたら、
かならずとまるようにしているけど、
そんなわたしでも、いそいでいると
とまらずに、そのままいってしまうことがある。
すぐにとまれるスピードではないからで、
そんなことをしたらもちろんあぶない。
まったく、いそぐとろくなことがない。
まわりの車にイライラしてしまい
精神状態がよろしくないし、横断歩道でもとまりにくい。
いそがなくてもいいように、
はやめに出発し、むりな予定をくまない。
いそがなければ、だれでもかんたんに横断歩道でとまれる。

posted by カルピス at 20:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月17日

『グラン・トリノ』おもいがけないラストにおどろく

『グラン・トリノ』
(クリント=イーストウッド:監督・2008年・アメリカ)

朝鮮戦争の帰還兵で、50年フォードの自動車工場につとめた老人が、
妻をなくし、教会での葬儀にのぞんでいる。
がんこな性格から、むすこたちの家族とおりあいがわるく、
となりの家にすむモン族とも なかよくやるつもりはない、
という状況が、映画のはじめでしめされる。
もちろん、そのままでは映画にならないわけで、
がんこな老人(コワルスキー)が、となりにすむモン族の一家と
しだいにかかわりをもつようになり、
血のかよったむすこたちの家族よりも、
モン族たちといるほうがあたたかい、なんていいだす。
(以下、ネタバレあり)

コワルスキーのこころをひらいていくのが、
モン族のむすめスーと、彼女のおとうとタオだ。
タオは、モン族の不良たちにそそのかされ、
コワルスキーの愛車、グラン・トリノをぬすもうと車庫にしのびこむ。
気づいたコワルスキーにおいはらわれるけど、
この事件をきっかけに、コワルスキーとモン族との交流がはじまる。

グラン・トリノをぬすもうとしたおわびに、
タオはコワルスキーに仕事の手つだいをもうしでる。
タオは、くちかずがすくなく、
コワルスキーからみるとぐずでうすのろにみえたけど、
家まわりの大工仕事ぶりをみているうちに、
かしこくて、つかえる男なのがわかってくる。
スーは、アメリカとモン族のあいだをとりもつ存在で、
一族の老人たちをたいせつにするし、
アメリカ社会のよいところ、わるいところをよく理解している。

モン族の不良たちは、しつこくタオにちょっかいをかけてくる。
コワルスキーがタオにかした大工道具をこわしたり、
タオのほほにタバコでやけどをおわせたり。
腹をたてたコワルスキーが不良のひとりをいためつけ、
こんどタオに手をだしたらゆるさないとおどす。
でも、それでひっこむような不良たちではなかった。
ある夜、スーたちの家に銃を乱射し、
スーをひどくレイプして しかえしするのだった。

いかりにもえるタオは、不良たちへ復讐しようと
コワルスキーの協力をもとめる。
コワルスキーは、こういう場合 しっかりした作戦が必要だと、
タオにまず冷静になるようもとめ、
夕方4時にもういちどこい、といいわたす。
映画をみているわたしだってその気になった。
あのダーティーハリーが(コワルスキーだけど)
どんなに壮絶な暴力を不良たちにあびせるのかとたのしみにする。
あのダーティーハリー(コワルスキーだけど)をおこらせるなんて、
運のわるい アホな不良たちだ。

さいごにしめされたのは、おどろくべき意外な結末だった。
『スティング』は、さいごのさいごまで
はなしのおちどころがわからないように、
この作品もまた、ラストを予想できるひとは そうおおくないのでは。
コワルスキーは、不良たちの家にひとりでのりこみ、彼らを挑発する。
タバコを手にして、「火をつけるぞ」と 胸ポケットに右手をいれる。
恐怖にかられた不良たちは、コワルスキーをいくつもの銃で乱射する。
あおむけにたおれるコワルスキー。
このときもまだ、わたしは彼が防弾チョッキをきていて、
これからはでなドンパチがはじまるのだとおもっていた。
でも、そうはならなかった。
コワルスキーは ほんとうに死んでしまった。
自分の命をなげだして、不良たちに罪をおわせ、
モン族の兄弟へ 永遠にちょっかいをだせないようにするのが、
コワルスキーがたどりついた作戦だった。
目撃者がおおくいるまえで、
丸腰のコワルスキーを乱射した不良たちは、
長期刑になるだろうと、現場にいた警官がタオにおしえてくれる。
警官がそんなことをくちにするとはおもえないけど、
みているわたしたちを納得させるのに必要な情報だ。

セキをするときに、たびたび血をはくコワルスキーは、
自分の命が もうさほどながくないのをしっていた。
不良たちの家にでかけるまえ、
床屋で髪をととのえ、ヒゲもそり、スーツをあたらしくしたてる。
教会で懺悔をし、愛犬もモン族のおばさんにまかせ、
自分がかかわったことのケリを、自分ひとりでつけた。
こんな命のつかい方があるとは、まったくおもってもみなかった。
ダーティーハリーのイメージを、どうしてもコワルスキーにもとめる。
それだけに効果的で、だれも予想できないラストとなる。

映画のおわりは、はじまりとおなじように
教会での葬儀に場面をうつす。
棺桶にはいっているのは、コワルスキーの奥さんではなく、
コワルスキー本人だ。
弁護士事務所では、弁護士が遺産のふりわけをよみあげる。
コワルスキーは、愛にあふれるメッセージとともに、
グラン・トレノをタオにのこしていた。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月16日

ココがくれた秋をしらせるプレゼント

朝おきると、ベッドのしたにみなれない葉っぱがおちている。
いっしょにくらしているネコのココが、
おみやげとして とどけてくれたのだろう。
ネコはよくネズミやトカゲを「おもちかえり」してくれる。
一説によると、自分で獲物をとることができない人間に、
たべものをわけてくれているのだという。
目をさましたとき、部屋にぐったりとなったトカゲがいたら、
けっこう「ゲゲッ!」とのけぞるけど、
そこは気をとりなおし、ネコの好意をうけとめて、
しっかりお礼をいわなければならないプレゼントだ。
木の葉はいいかんじにかわき、ぽってりとボリュームがあり、
それでいて紅葉のうつくしさをたもっている。
つまりは、秋らしい パーフェクトなプレゼントだった。

ココはこれまでに、バッタはとってきてくれたけど、
木の葉のおもちかえりは はじめてだ。
きびしい夏がおわり、朝・夕がすずしくなったきょうこのごろ、
秋のおとずれをおしえてくれるすてきなプレゼントとなった。
ココもなかなかやる。

しばらくのち、ココがこんどはせんたくバサミを
ベッドのよこにのこしていた。
そのつぎは、5センチぐらいのみじかい木の枝。
木の葉のときは、気のきいたプレゼントだとよろこんでいたのに、
こうなってくると、ココがいったいなにをかんがえて
これらの品をわたしによこすのかわからなくなってきた。

春までは、ココが家のそとにでないよう、
厳重に戸をしめていたけど、
夏にはいってからは、ココが網戸をやぶり、
かんたんにではいりするようになってしまった。
まだそとでの活動に じゅうぶんなれていないココは、
目につくものならなんでもプレゼントにしてしまうのかもしれない。
あるいは、カラスが人間にとってはガラクタにうつる
缶やガラスなどを宝物としてだいじにするように、
せんたくバサミや木の枝は、ココにとっての宝物かもしれない。
ココの真意をはかりかねながら、なんだかんだいいながらも、
プレゼントをよろこんでうけとっている。
ココがすることは、なんでもかわいくてすてきだから。

posted by カルピス at 21:04 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月15日

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』
(カビール=カーン:監督・2015年・インド)

パキスタンのちいさな村にすむシャヒーダーは、
6歳になってもことばを口にしない。
心配する母親は、インドのニューデリーにある
なんでもねがいがかなうという廟(びょう)へ
むすめをつれておまいりしようときめた。
おいのりしたかえり、インドとパキスタンの国境付近で
シャヒーダーがそとにでているあいだに列車がうごきだす。
口をきけない女の子が、ひとりインドにのこされてしまった。
(以下、ネタバレあり)

のどがかわいたシャヒーダーは、
インド人の青年パワンが注文したジュースをのみほし、
そのあとずっとパワンのあとをついてはなれなくなる。
パワンは警察にシャヒーダーをあずけようとするがことわられ、
しかたなく、ニューデリーの家へシャヒーダーをつれてかえる。
なにかことばをくちにだせれば、どこからきた子なのか、
まわりのひともあたりをつけやすい。
でも、シャヒーダーになにかたずねても、
こまったように首をかしげるだけだ。
あるとき、みんなでインド対パキスタンのクリケットをみていたら、
シャヒーダーがパキスタンチームを応援しだした。
パワンたちは、ようやくシャヒーダーが
パキスタンからきた子なのだと理解する。

シャヒーダーはパスポートもビザももってない。
パキスタンのどこからきたのかもわからない。
パワンは旅行会社に金をはらい、不合法な手段で
シャヒーダーをパキスタンへかえそうとする。
でも、旅行会社の男は、金だけうけとって、
シャヒーダーを売春宿にうろうとするのだった。
パワンは、もう自分がシャヒーダーを
パキスタンへおくりとどけるしかないと腹をきめる。
パスポートもビザももたないふたりの旅がはじまった。

ここまではなしがすすむのに、すでに1時間かかっている。
とうぜんおどりがなんどもはいり、
さすがにインド映画だけあって長期戦のかまえだ。
でも、旅がはじまると、ものがたりがうごきだし、
ぐっとおもしろさがましてくる。
ぜんぶで2時間40分の作品なのに、さいごまでたのしめた。

パスポートとビザをもたずにパキスタンへはいろうとするのだから、
パワンは知恵と勇気をかねそなえた好青年かとおおもっていたら、
ぜんぜんそうではなかった。
ハヌマーン教をしんじ、ハヌマーン様がついているかぎり、
なにをおそれることがあるだろうと、
まがったことができないおひとよしだ。
なんども落第をくりかえして ようやく大学を卒業するくらい
頭のできがいまひとつで、仕事もできない。
まあ、バリバリの青年実業家が、
女の子をふるさとの町におくりとどけたりしても、
まわりはなんだかしらけてしまうだろう。
いかれてるとしかおもえないパワンが、
愚直にシャヒーダーをおくりとどけようとするから
旅のとちゅうで であうひとたちは ふたりに協力したくなる。

なんとかパキスタン国境をこえたふたりは、
パスポートとビザをもっていないことから
スパイとしてうたがわれ、警察におわれる身となる。
ふたりをたすけたのが、フリーライターのナワーブで、
彼はふたりの旅の目的をしると、SNSに記事をアップして、
インド・パキスタン両国民へ協力をよびかける。
伝統的になかのわるいインドとパキスタンは、
おたがいにきらいあっているひとたちがいるいっぽう、
なかよくやっていきたいとねがうひとも たくさんいる。
おおくのひとの善意にささえられ、
シャヒーダーはようやくふるさとの村にたどりつく。
ラストは圧巻の大団円だ。
パキスタンのひとたちは、
インド人である パワンの勇気ある行動をたたえ、
国境警備隊に圧力をかけ、パワンの出国を実現させる。
インドへはいろうとするパワンに
シャヒーダーは はじめて声をあげ「おじさん」とさけぶ。

となりの国なのになかがわるいといえば、
いまの日本と韓国があたまにうかぶ。
国のおえらがたは、おたがいに不信感をもっていても、
民衆レベルまで にくしみをひきずらなくてもいい。
「バジュランギおじさん」は、実話ではないそうだけど、
おなじようなはなしが
日本と韓国のあいだにもうまれないだろうか。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月14日

「私たちが応援している日本代表とは、こういう人たちなのである」(宇都宮徹壱)になける。

またまたラグビーW杯、日本対スコットランド戦について。
勝利の余韻にひたりたくてネットをみていると、
いくつかのすばらしい記事にであえた。
ひとつは、フモフモさんのこまかい分析と、
あついメッセージにあふれた記事。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/archives/53334838.html
もうひとつは、サッカーライターの宇都宮徹壱さんが、
日本代表のすばらしいメンタリティを紹介した記事。
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201910140002-spnavi?p=2
試合後の会見もまた、素晴らしいものであった。スコットランドのグレゴー・タウンゼント、日本のジェイミー・ジョセフ、両HCとも会見の冒頭で台風の犠牲者への哀悼の意を示した。さらに印象に残ったのが、日本のリーチ・マイケル主将のコメント。いわく「試合前に、ジェイミーが『これはわれわれだけの試合ではない』と語っていた。この試合を実現させるために、多くの人たちがたくさんの努力をしてくれたことも知っている。この試合が、日本の皆さんにとって必要であることを(自分たちは)理解していた」──。
 自国のラグビーの歴史を塗り替えた直後に、こうした配慮のある発言はなかなか出てくるものではない。私たちが応援している日本代表とは、こういう人たちなのである。(宇都宮徹壱)

「私たちが応援している日本代表とは、こういう人たちなのである」
になける。
宿敵といわれるスコットランドに快勝し、
よろこびをかみしめようかという瞬間にもなお、
台風による被害にあわれた方、
台風のなか、きびしい状況のなかで、
運営をささえたひとたちへの配慮をわすれない。

サッカーを専門とする宇都宮さんは、
「サッカー脳で愉しむラグビーW杯」と題して、
日本代表を中心にラグビーの魅力をつたえている。
もちろんサッカーもすばらしいスポーツだけど、
いまや膨大な金がゆきかうビジネスとしての面がつよくでて、
競技として純粋にたのしみにくくなっている。
ラグビーは、ニワカファンでしかないわたしでも、
じゅうぶんにあつい気もちをくみあげられる。
28-21で勝利した日本は、予選プールを4戦全勝として、1位通過で初のベスト8進出を果たす。それはまさに、日本ラグビーの歴史が変わる瞬間であった。  
 試合後、記者席のある5階から会見場のある3階まで、夢心地で駆け下りていった。この感覚もまた、17年前の(サッカーW杯日・韓大会)ロシア戦に勝利した時とまったく同じ。あの時のW杯初勝利は、確かにうれしかったし、とても誇らしかった。けれどもラグビーの日本代表は、もっと素晴らしい偉業を成し遂げた。何しろティア1(伝統国)2チームを破っての予選プール全勝、しかもアジア勢初のベスト8進出である。残念ながらサッカーの日本代表は、まだそこまでの高みは経験していない。

ラグビー代表チームは、ことしにはいってすでに240日も
合宿をはっているという。サッカー代表ではとてもかんがえられない。
前回のW杯から、今大会をむかえるまでの4年間、
どれだけのエネルギーをベスト8へ、
さらにはそのさきにある決勝トーナメントにむけて
彼らがそそいできたのかに胸をあつくする。
歴史をぬりかえたラグビーの日本代表が、
このさきどんな景色をみせてくれるのか。
20日の南アフリカ戦がますますたのしみとなる。

posted by カルピス at 20:44 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月13日

おめでとう日本代表! スコットランドにかちきって決勝トーナメントへ

ラグビーW杯グループ(プールというらしいけど)A
日本対スコットランド 28-21で日本。

しびれる試合だった。
サモア戦であげたボーナスポイントにより、
数字のうえでは日本が優位だとわかっているし、
スコットランドは4日前にロシアとたたかい つかれてもいる。
台風で試合が中止なら、法的措置にでる、なんて
あいての監督が圧力をかけたのにもカチンときた。
なんだかんだと上から目線のスコットランド。
前大会のぶんまで、なんとか雪辱をはたしたい。
決勝トーナメントにのこるのが どんな意味をもつのか、
正直なところニワカのわたしにはわからないけど、
80分、まったく気のぬけない すばらしい試合だった。

前半7分にあいてのトライをゆるし、7点を先制される。
さすがにスコットランドはつよいし、
この試合にかける意気ごみがあらわれている。
それでも、すぐに松島が、そのあと稲垣が
たてつづけにトライし、田村もゴールをきめて14-7と逆転。
前半終了間際に福岡が、後半そうそうにも福岡の2トライ目がきまり、
いきおいにのる日本が 28-7と差をひろげる。

やはりあいてはつかれているのだろう、
こりゃあんがいかんたんにかてるのかな、
とおもってたら、スコットランドはしぶとかった。
とくに後半9分の2トライ目は、
のこり5メートルとなったところで、
よこにボールをまわすのではなく、
ちからずくで中央におしこんでしまった。
あのトライがとれるチームは そうないのではないか。
そのあと3トライ目もゆるし、ゴールはすべてきめられ21点。
28-21までせまられた時点でまだ後半16分になったばかりだ。
日本はこのままにげきれるだろうか。
ひきわけでも決勝トーナメントにすすめるので、
あと1トライ1ゴールまではあたえてもいいけど、
そんなことをいってると、このままずるずるやられそうだ。

しかし、そのあとの日本は冷静に、ちからづよくねばりつづけ、
けっきょく得点はそのままうごかず試合がおわる。
のこりの2分がほんとうにながかった。
自陣にせめこまれたところを、日本がボールをうぼうと、
とにかくあいてにボールをわたさないように
2人がかりによるこまかいタックルをくりかえす。
ぜんいんが、もっているちからのすべてをだしきり、
気もちでたたかっているのがわかる。
ひきわけでもいいところを、日本がちからでかちきった。
あいての監督も、きょうの日本に文句はいえないだろう
(日程には苦情をいいそうだけど)。
ぜんかいのサモア戦につづき、
終了まぎわに ちからがはいる試合だった。
みるものに、おおきなよろこびをあたえてくれた
選手たちぜんいんの健闘をたたえたい。

グループを1位で通過した日本は、
決勝トーナメントで南アフリカとあたることになった。
前大会では、日本が奇跡的といわれた勝利をおさめたあいて。
この試合にもかち、日本の実力はほんものだと しめしてくれるだろう。

posted by カルピス at 22:53 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

セキをくりかえすと、逆プラシーボ効果でカゼをひくみたい

ひるねをしていたら、
ノドもとにはげしい いたみをかんじて目がさめた。
逆流性食道炎の症状で、つよい胃酸があがってくると
ノドの奥がものすごくくるしい。
しばらくセキとはなみずがとまらず、のたうちまわる。
アイスクリームをたべたらすこし楽になった。

そのうち、からだがカゼっぽいのに気づく。
頭がぼーっとするし、関節もなんだかいたい。
ひるねをするまで カゼの症状はなかったのだから、
きっとはげしくセキをするうちに、
からだがカゼをひいたとおもいこんだのでは、と推測する。
薬の成分をとりいれなくても、
プラシーボ効果で症状がよくなるように、
カゼをひいてなくても、セキやくしゃみをくりかえすうちに、
カゼをひいたと脳が判断をするのではないか。
やまいは気から、とおなじようなものだけど、
気もちだけでなく、身体的にもセキという刺激をあたえれば、
やまいはおのずとからだにはいりこんでくる。
セキによる逆プラシーボ効果だ。
仕事をやすみたかったら、はげしいセキをつづければ、
そのうちほんとうにカゼをひけるので ためしてほしい。

台風19号の影響で、外はつよい風がふいている。
台風の中心からずいぶんはなれているのに、
島根にも台風の風と雨をもたらすのだから、
ニュースがつたえるとおり、おおきな台風なのだろう。
NHKは、テレビもラジオも番組を台風関係のニュースにかえ、
台風のおそろしさをくりかえしつたえている。
こうやって、おなじことをいいつづければ、
台風がまだこないうちから、ニュースをきくひとの
からだと頭が 台風むけにシフトをととのえる。
その効果をねらって、おなじようなはなしを
えんえんとくりかえし報道しているのだろう。
台風の被害が最小にととまるようねがっている。

posted by カルピス at 16:18 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする