2019年10月07日

高校放送部が発表した「先生、水がのみたいです」って、なんだかいやなかんじ

8月にきいたラジオ番組で、
高校の放送部の、全国大会をとりあげていた。
スポーツだけでなく、文化部でも全国大会がひらかれるようだ。
札幌南高校は「先生、水がのみたいです」を発表していた。
なんのことかというと、
授業中に生徒が水をのみたくなったとき、
どうしたらいいかについて、いろいろな意見をあつめている。
がまんできないほどノドがかわくのなら、
水ぐらい、いくらでものみにいけばいいじゃないかと、
わたしは単純におもったけど、
高校では そうはかんたんに いかないみたいだ。
授業のとちゅうで水をのみにいく是非について、
放送部員の生徒が なんにんかの先生にたずねている。
先生のおおくは、自分は真剣に授業をしているのだから、
とちゅうで席をはずされるのは このましくない、
というかんがえをのべている。
なかには、授業に集中してほしいので、
ずっとノドのかわきのことをかんがえて気がちるよりも、
はやく水をのんですっきりさせてほしい、という
ものわかりのいい先生もいたけど、少数派にすぎない。

「先生、水がのみたいです」を、
わざわざ題材にとりあげなければならいほど、
高校というところは、きゅうくつな場所なのだろうか。
授業のとちゅうで水をのみにいくのが
いつものことになれば問題だろうけど、
ときどき授業をぬけだすくらい、なんだというのだ。
おたがいに信頼関係があれば、
すこしのあいだ席をはずすなんてあたりまえだ。
先生という立場で権威をふりかざし、
生徒にいじわるしているだけにおもえた。
先生らしい うえから目線の反応がすごくいやらしい。
トイレにいきたかったら、
むりに我慢しないで、授業のとちゅうでもいけばいい。
水だって、生理的なものだから、のめばいいのだ。

ただ、ちょっとかんがえてみると、1時間ていどの授業で、
のどのかわきをがまんできないのは すこしおかしい。
きゅうけい時間に水をのんでおけばよかったのだし、
あとすこししたら つぎのきゅうけい時間だ。
「先生、水がのみたいです」という発表の本質は、
たとえささいな要求であっても、
生徒が先生におうかがいをたて、
先生がエラソーに いいわるいを判断するという
硬直した関係を象徴している点にある。
こうした上下関係は、水の問題にとどまらず、
すべからく生徒の自由をうばうのではないか。
「先生」は、水をのみにいくことさえ、自分の権利をふりかざす。
先生って、いつでもどこでも先生としての発想しかできない。
学校って、特殊な常識がはばをきかせる へんなところだ。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする